6月22日
20260622月曜日旧暦5月8日赤口(2番丁卯ひのとうテイボウ)月齢 7
43番丙午ひのえうま年 31番甲午きのえうま月 2番丁卯ひのとう日
吉方位 隠遁日 丁卯ひのとう日 北 北東 東 大吉 年末まであと192日
https://ja.wikipedia.org/wiki/6%E6%9C%8822%E6%97%A5
6月22日の出来事
1360年(延文5年/正平15年5月9日) – 北朝方の畠山国清により楠木正儀の赤坂城が落城。
1633年 – ローマ教皇庁の検邪聖省の裁判でガリレオ・ガリレイに有罪判決が下り、自説の地動説を撤回する異端誓絶文を読み上げさせられる。
1636年(寛永13年5月19日) – 江戸幕府が第四次鎖国令を布告。通商に無関係なポルトガル人の追放など。
1815年 – ワーテルローの戦いで敗れたナポレオン1世がセントヘレナに流されフランス皇帝を退位。百日天下が終了。
1868年(慶応4年5月3日) – 戊辰戦争: 奥羽列藩同盟が成立。
1893年 – レバノンのトリポリ沖でイギリス海軍の戦艦キャンパーダウンとヴィクトリアが衝突事故を起こしヴィクトリアが沈没、358名の死者を出す。
1907年 – 東北帝国大学が創設される。
1940年 – 第二次世界大戦・ナチス・ドイツのフランス侵攻: フランス首相のフィリップ・ペタンがドイツと独仏休戦協定に調印。フランスがドイツに降伏。
1941年 – 第二次世界大戦・独ソ戦: ドイツ軍のソビエト連邦への侵攻作戦・バルバロッサ作戦が開始。
戦争:第二次世界大戦(独ソ戦)
年月日:1941年6月22日 – 12月5日
場所:ロシア西部 ウクライナ ベラルーシ リトアニア ラトビア エストニア
結果:枢軸軍の戦術的勝利・戦略的敗北
損害:ドイツ軍 4百万人中 戦死200000以上 戦傷655000人
ソ連軍 2680000人中 戦死800000人以上 捕虜行方不明3000000人。
1944年 – 第二次世界大戦・独ソ戦: ソ連赤軍のドイツ軍に対する反撃作戦・バグラチオン作戦が開始。
戦争:第二次世界大戦(独ソ戦)
年月日:1944年6月22日 – 8月19日
場所:ベラルーシ、ソ連
結果:ソ連軍の勝利、ソ連領全域の解放
損害:ドイツ軍 85万人中 戦死行方不明290000人 戦傷190000人 捕虜150000人
ソ連軍 125万人中 戦死行方不明170000人以上 戦傷590000人以上。
1945年-沖縄戦6月22日:米軍:・合衆国がこの作戦に傾注された意志力、献身および物量により、また敵の死闘と相俟って … この戦いは戦史の上でもっとも激烈かつ有名な戦いとなりました … われわれは戦いに参加された貴国の全部隊ならびに各級指揮官に対して敬意を表します。—1945年6月22日、ウィンストン・チャーチル首相からハリー・トルーマン大統領へ《「天王山 沖縄戦と原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 345頁》・A flag raising ceremony on 22 June 1945 announced officially that Okinawa, Ryukyu Retto, was under U.S. control.【訳】1945年6月22日星条旗掲揚式で、琉球列島沖縄は米軍管理下にあることが公式発表された。沖縄。<写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館>・【投稿者注】第32軍司令官牛島満中将と参謀長の長勇中将の最期に関しては諸説あり、両将軍の「自決」に関しては、米軍側が22日未明とし、日本軍側は23日未明となっているため、両日に双方の記録、証言等を掲載する。米軍側の牛島司令官と長参謀長の自死の記録は、米軍の摩文仁壕の垂直坑の爆破記録と捕虜からの証言をもとにしている*1。・米陸軍: Bodies of Lt Gen Mitsuru Ushijima, commander of Japanese troops on Okinawa, and his chief of staff, Lt Gen Isamu Cho, lie on a bench in a cave where they were found by doughboys of the 32nd Inf Regt 7th Div., as the yanks captured Hill 89. Both generals committed Hari-Kari. 【訳】米軍が89高地を占領したとき、第7師団第32歩兵連隊兵士によって発見された、洞窟内のベンチに横たわる沖縄駐留日本軍司令官の牛島満中将と参謀長の長勇中将の遺体。2人ともハラキリ自決した。1945年6月22日<写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館>:日本軍:・私は参謀長に、残念ながら山頂の攻略は断念のほかなき旨を報告した。将軍はすでに酒の酔いが回っているらしく、なかなかの上機嫌だ。私の報告など歯牙にもかけず、「まあ一杯飲め」と酒を勧められる。「…お前も俺も横紙破りのわがまま者だったので、苦労を重ねたあげく、今日の運命を甘受するに至った。俺は着任の当初から、決してお前をこの島では殺さぬと言っていたが、今その約束を果たし得てまんぞくだ。お前の敵線突破は必ず成功する。…」と言って、…先だつものは金だからと、百円札5枚を渡された。… 夜半過ぎて、山頂奪回は断念し、両将軍は23日未明、副官出口で自決されるに決し、今両将軍ともお休み中との知らせがあった。《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 431-434頁より》・兵の半分はめくら滅法に闘い、いまや生きのびている期間も、残りすくないことがわかると、強姦事件もあちこちで発生した。こういう状態は、国吉丘陵や第153高地が米軍の手におちる前にすでにあったのだが、これら両高地が陥落してからというものは、彼らは日本の作戦は、たとえどんなことがあっても、一時的にせよ成功する見込みはない、ということを認識しつつあった。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 503-504頁より》・その時見た死体。わたしは、沖縄に人間がこんなにいたかな、というぐらいの死体でした。一体沖縄に人間が何名残ったかなと思った。ほんとに屍屍累累とはあれでしょうね。それで屍体が何日かしたら、こんなに膨張れるでしょう。水ぶくれや、土左エ門というけれども、もう (そこでは声が非常に感情を昂らせて言われた) 陸の屍体は、紫色になって、膨れてね、すごく大きくなるんです。腐敗寸前は。悪臭が鼻をつく。<嘉手納崇徳 証言『沖縄県史』 9-10巻 戦争証言 旧那覇市 – Battle of Okinawa>
2004年 – 集団強姦事件スーパーフリー事件の舞台となった早稲田大学のイベントサークルスーパーフリーが解散。輪姦された女性の数は詳細不明だが数百名以上。
2009年 – ワシントンメトロ列車衝突事故。9人死亡。
2022年 – アフガニスタン東部地震が発生[4]。死者1,006人負傷者3,018人
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1360年(延文5年/正平15年5月9日) – 北朝方の畠山国清により楠木正儀の赤坂城が落城。
1633年 – ローマ教皇庁の検邪聖省の裁判でガリレオ・ガリレイに有罪判決が下り、自説の地動説を撤回する異端誓絶文を読み上げさせられる。
1636年(寛永13年5月19日) – 江戸幕府が第四次鎖国令を布告。通商に無関係なポルトガル人の追放など。
1815年 – ワーテルローの戦いで敗れたナポレオン1世がセントヘレナに流されフランス皇帝を退位。百日天下が終了。
1868年(慶応4年5月3日) – 戊辰戦争: 奥羽列藩同盟が成立。
奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)は、戊辰戦争中の1868年(慶応4年/明治元年)5月6日に成立した同盟で、陸奥国(奥州)・出羽国(羽州)および越後国(越州)の諸藩が、輪王寺宮公現入道親王[1] を盟主とした、反維新政府的攻守同盟、または地方政権[2]。
奥羽諸藩は新政府が仙台藩に派遣した奥羽鎮撫総督に従っていたが、奥羽諸藩は会津藩・庄内藩の「朝敵」赦免嘆願を行い、その目的を達成するための同志的結合が形成されていた。しかし、この赦免嘆願が拒絶された後は、列藩同盟は新政府軍に対抗する諸藩の軍事同盟へと変貌した。一説には公現入道親王を天皇として擁立した東北朝廷であったともされるが[2]、同盟自体がそのような表現を公式に行ったことはなく、「幼君(明治天皇)の君側の奸である薩賊(薩摩藩)を除く」ことが目的であると主張している[3]。
1893年 – レバノンのトリポリ沖でイギリス海軍の戦艦キャンパーダウンとヴィクトリアが衝突事故を起こしヴィクトリアが沈没、358名の死者を出す。
1907年 – 東北帝国大学が創設される。
1940年 – 第二次世界大戦・ナチス・ドイツのフランス侵攻: フランス首相のフィリップ・ペタンがドイツと独仏休戦協定に調印。フランスがドイツに降伏。
1941年 – 第二次世界大戦・独ソ戦: ドイツ軍のソビエト連邦への侵攻作戦・バルバロッサ作戦が開始。
戦争:第二次世界大戦(独ソ戦)
年月日:1941年6月22日 – 12月5日
場所:ロシア西部 ウクライナ ベラルーシ リトアニア ラトビア エストニア
結果:枢軸軍の戦術的勝利・戦略的敗北
損害:ドイツ軍 4百万人中 戦死200000以上 戦傷655000人
ソ連軍 2680000人中 戦死800000人以上 捕虜行方不明3000000人。
バルバロッサ作戦(バルバロッサさくせん、ドイツ語: Unternehmen Barbarossa ウンターネーメン・バルバロッサ、英語: Operation Barbarossa)は、第二次世界大戦中の1941年6月22日に開始された、ナチス・ドイツとその同盟国の一部によるソビエト連邦への侵攻作戦のコードネームである。作戦名は、12世紀の神聖ローマ皇帝でドイツ国王でもあったフリードリヒ・バルバロッサ(赤髭王)にちなんで付けられた。
この作戦は、ソ連西部を征服してドイツ人を再増加させるというナチス・ドイツの思想的目標(国家戦略)を実行に移すものであった。ドイツ軍の東部総合計画(Generalplan Ost)は、征服した人々の一部を枢軸国の戦力として強制労働させ、コーカサスの石油資源とソ連領の様々な農業資源を獲得することを目指した。彼らの最終的な目標は、最終的にスラブ民族の絶滅、奴隷化、ゲルマン化、シベリアへの大量追放を含み、ドイツのためのより多くのレーベンスラウム(生存圏)を作り出すことであった[3][4]。
侵攻までの2年間、ドイツとソ連は、戦略的な目的のために政治的、経済的な協定を締結した。ソ連によるベッサラビアと北ブコビナの占領後、ドイツ国防軍最高司令部は 1940年7月にソ連への侵攻を計画し始め(コードネームはオットー作戦)、アドルフ・ヒトラーは 同年12月18 日にこれを認可した。
作戦期間中、枢軸国の人員380万人以上は、戦史上最大の侵攻部隊として、2,900キロメートルの前線に沿ってソ連西部に侵攻し、60万台の自動車と60万頭以上の馬が非戦闘任務に従事した。この攻勢は、地理的にも、ソ連を含む連合国側の連合体形成においても、第二次世界大戦の大規模な拡大を示すものであった。
この作戦によって東部戦線が開かれ、歴史上のどの戦域よりも多くの戦力が投入された。この地域では、世界最大規模の戦闘、最も悲惨な残虐行為、(ソ連軍、枢軸軍を問わず)最も多くの死傷者が発生し、そのすべてが第二次世界大戦とその後の20世紀の歴史に影響を及ぼしたのである。
ドイツ軍は最終的に約500万人のソビエト赤軍の兵士を捕らえた[5]。ナチスはドイツの食糧不足を解消し、飢餓によってスラブ系住民を絶滅させるための「飢餓計画」として、330万人のソ連人捕虜と膨大な数の民間人を意図的に餓死させたり殺害した[6]。ナチスや協力者によって行われた大量銃殺やガス処刑は、ホロコーストの一環として100万人を超えるソ連のユダヤ人を殺した[7]。
バルバロッサ作戦の失敗はナチス・ドイツの運命を逆転させた。作戦上、ドイツ軍は大きな勝利を収め、ソ連の最も重要な経済地域の一部(主にウクライナ)を占領し、大きな犠牲を出し、またそれを維持することができた。これらの初期の成功にもかかわらず、ドイツの攻撃は1941年末にモスクワの戦いで失速し、その後のソ連の冬の反攻はドイツ軍を約 250 km 後退させた。
ドイツ軍はポーランドのようにソ連の抵抗がすぐに崩壊すると確信していたが、赤軍はドイツ国防軍の強打を吸収し、ドイツ軍が準備不足だった消耗戦の中で泥沼化させた。ドイツ国防軍の戦力が低下し、東部戦線全体を攻撃することができなくなり、その後、1942年のブラウ作戦、1943年のシタデル作戦など、ソ連領内に深く入り込んで主導権を奪回する作戦は結局失敗し、ドイツ国防軍は後退・崩壊した。
1944年 – 第二次世界大戦・独ソ戦: ソ連赤軍のドイツ軍に対する反撃作戦・バグラチオン作戦が開始。
戦争:第二次世界大戦(独ソ戦)
年月日:1944年6月22日 – 8月19日
場所:ベラルーシ、ソ連
結果:ソ連軍の勝利、ソ連領全域の解放
損害:ドイツ軍 85万人中 戦死行方不明290000人 戦傷190000人 捕虜150000人
ソ連軍 125万人中 戦死行方不明170000人以上 戦傷590000人以上。
バグラチオン作戦(バグラチオンさくせん、ロシア語: Белорусская операция、英語: Operation Bagration)は、独ソ戦開始から、ちょうど3年目にあたる1944年6月22日にベラルーシの首都ミンスク奪還を当初の目的とした、ドイツ中央軍集団に対する赤軍の4つの戦線の攻撃で始まり、さらに赤軍の包括的な作戦成功へと発展し、1944年8月末にヴィスワ川、東プロイセンの国境、リガ近郊で一時的に停止された攻勢作戦の名称である。
この作戦の結果、ドイツ中央軍集団は28個師団を喪失という回復不可能な大打撃を受け、戦線は大きく西に押し戻される事になり、ほぼポーランドまで移動した。作戦名はロシア帝国時代におけるナポレオン・ボナパルトとの祖国戦争で活躍したピョートル・バグラチオン将軍に由来する[5]。軍事史において、この作戦は縦深攻撃の成功例とみなされている[6]。
また、政治的には、ナチスドイツのソ連との講和の可能性が絶望的になり、ヒトラー暗殺計画が現出する状況となった。
1945年-沖縄戦6月22日:米軍:・合衆国がこの作戦に傾注された意志力、献身および物量により、また敵の死闘と相俟って … この戦いは戦史の上でもっとも激烈かつ有名な戦いとなりました … われわれは戦いに参加された貴国の全部隊ならびに各級指揮官に対して敬意を表します。—1945年6月22日、ウィンストン・チャーチル首相からハリー・トルーマン大統領へ《「天王山 沖縄戦と原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 345頁》・A flag raising ceremony on 22 June 1945 announced officially that Okinawa, Ryukyu Retto, was under U.S. control.【訳】1945年6月22日星条旗掲揚式で、琉球列島沖縄は米軍管理下にあることが公式発表された。沖縄。<写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館>・【投稿者注】第32軍司令官牛島満中将と参謀長の長勇中将の最期に関しては諸説あり、両将軍の「自決」に関しては、米軍側が22日未明とし、日本軍側は23日未明となっているため、両日に双方の記録、証言等を掲載する。米軍側の牛島司令官と長参謀長の自死の記録は、米軍の摩文仁壕の垂直坑の爆破記録と捕虜からの証言をもとにしている*1。・米陸軍: Bodies of Lt Gen Mitsuru Ushijima, commander of Japanese troops on Okinawa, and his chief of staff, Lt Gen Isamu Cho, lie on a bench in a cave where they were found by doughboys of the 32nd Inf Regt 7th Div., as the yanks captured Hill 89. Both generals committed Hari-Kari. 【訳】米軍が89高地を占領したとき、第7師団第32歩兵連隊兵士によって発見された、洞窟内のベンチに横たわる沖縄駐留日本軍司令官の牛島満中将と参謀長の長勇中将の遺体。2人ともハラキリ自決した。1945年6月22日<写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館>:日本軍:・私は参謀長に、残念ながら山頂の攻略は断念のほかなき旨を報告した。将軍はすでに酒の酔いが回っているらしく、なかなかの上機嫌だ。私の報告など歯牙にもかけず、「まあ一杯飲め」と酒を勧められる。「…お前も俺も横紙破りのわがまま者だったので、苦労を重ねたあげく、今日の運命を甘受するに至った。俺は着任の当初から、決してお前をこの島では殺さぬと言っていたが、今その約束を果たし得てまんぞくだ。お前の敵線突破は必ず成功する。…」と言って、…先だつものは金だからと、百円札5枚を渡された。… 夜半過ぎて、山頂奪回は断念し、両将軍は23日未明、副官出口で自決されるに決し、今両将軍ともお休み中との知らせがあった。《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 431-434頁より》・兵の半分はめくら滅法に闘い、いまや生きのびている期間も、残りすくないことがわかると、強姦事件もあちこちで発生した。こういう状態は、国吉丘陵や第153高地が米軍の手におちる前にすでにあったのだが、これら両高地が陥落してからというものは、彼らは日本の作戦は、たとえどんなことがあっても、一時的にせよ成功する見込みはない、ということを認識しつつあった。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 503-504頁より》・その時見た死体。わたしは、沖縄に人間がこんなにいたかな、というぐらいの死体でした。一体沖縄に人間が何名残ったかなと思った。ほんとに屍屍累累とはあれでしょうね。それで屍体が何日かしたら、こんなに膨張れるでしょう。水ぶくれや、土左エ門というけれども、もう (そこでは声が非常に感情を昂らせて言われた) 陸の屍体は、紫色になって、膨れてね、すごく大きくなるんです。腐敗寸前は。悪臭が鼻をつく。<嘉手納崇徳 証言『沖縄県史』 9-10巻 戦争証言 旧那覇市 – Battle of Okinawa>
2004年 – 集団強姦事件スーパーフリー事件の舞台となった早稲田大学のイベントサークルスーパーフリーが解散。輪姦された女性の数は詳細不明だが数百名以上。
スーパーフリー事件(スーパーフリーじけん)は、早稲田大学のイベントサークルを舞台にして行われた大規模な組織的輪姦事件[1]。
早稲田大学のインカレサークル「スーパーフリー」のメンバーは、女子大生らへの輪姦を1998年4月頃[注釈 1]から常習的に行っていた。輪姦された女性の数は数百人以上に上る。2003年5月18日に警察に被害届が出されたことで発覚した。早稲田大学の他にも東京大学、慶應義塾大学、明治大学、法政大学、学習院大学、日本大学といった首都圏の名門大学出身[6]の学生ら合わせて14人[5]が準強姦罪で実刑判決を受けた。この事件は重大な社会的波紋を呼び、2004年の集団強姦罪・集団強姦致死傷罪の創設につながった[7]。起訴されたのは3件の輪姦のみであり[8]、関与した多くの者が未逮捕のままとなった。輪姦を幇助した女性も多数存在したが[9]、女性は1人も逮捕されなかった。スーパーフリーはスーフリと略称されることもある。
事件の概要
スーパーフリーの代表者(逮捕時28歳)はディスコや音楽業界にコネがあり[9]、六本木のヴェルファーレ等で1000人~3000人規模のイベントを開いていた。代表者とメンバーらは、そのようなイベントの二次会等で女性を酒に酔わせ、輪姦する犯行を繰り返していた。取調べにより多数の事件が判明したが、起訴されたのは以下の3つの事件であった。
2001年12月19日、東京都豊島区高田のスーパーフリー代表者の自宅兼事務所における鍋パーティで、当時19歳の女性を泥酔させ、3人で輪姦した事件
2003年4月27日、東京都港区六本木のロアビル12階の居酒屋における二次会で、当時18歳の女子大生を泥酔させ、人通りのない11階のクリニック入口の玄関マットに寝かせ、1時間半にわたり13人で輪姦した事件
2003年5月18日、東京都港区六本木のロアビル12階の居酒屋における二次会で、当時20歳の女子大生を泥酔させ、人通りのない11階のクリニック入口の玄関マットに寝かせ、5人で輪姦した事件
スーパーフリーのメンバーらが逮捕・留置された麻布警察署
捜査のきっかけになったのは、3番目の事件の被害者が被害当日に警視庁麻布警察署に被害届を提出したことである。2003年6月19日、3番目の事件で輪姦を行ったスーパーフリーの代表者及び男子大学生メンバー4人の計5人が強姦容疑で麻布署に逮捕されたことが報道され、本件は世間に知られるところとなった。当初容疑者らは「合意の上」と容疑を否認したが、非常階段踊場付近の玄関マットの上で初対面の男たちに輪姦されることが合意だったという主張には無理があった[10]。6月22日にはスーパーフリーが解散し、6月30日には東京地検が容疑者のうち2名を準強姦罪で起訴した。その後、1番目の事件について2003年7月31日に元男子大学生1人が新たに逮捕された。さらに、2番目の事件について2003年11月14日までに男子大学生ら9人(未成年を2人含む)が新たに逮捕された。
2004年11月2日、代表者に対し懲役14年の実刑判決が下った[8]。被告人側は判決を不服として同年11月17日に控訴。2005年6月2日に東京高裁(仙波厚裁判長)は控訴を棄却[11]。2005年6月16日には最高裁第2小法廷(古田佑紀裁判長)に上告したが2005年11月1日付で棄却され、代表者を懲役14年の実刑とした1、2審判決が確定した。代表者を除く13人には懲役10年〜2年4ヶ月の実刑判決が確定した。
2009年 – ワシントンメトロ列車衝突事故。9人死亡。
2022年 – アフガニスタン東部地震が発生[4]。死者1,006人負傷者3,018人
チャットgpt先生6月22日の歴史
以下は、道徳的講評を極力排し、「何が起き、なぜ起きたか」を重視したリアリスト視点の6月22日エッセイです。
6月22日 ― 勝者も敗者も血を流した日
6月22日という日付を眺めると、不思議なほど「歴史の転換点」が集中している。
1633年のガリレオ裁判は、真理と権力の対立として語られることが多い。しかし当時のローマ教会から見れば、それは宇宙論の問題というより統治の問題だった。思想が国家や宗教秩序を揺るがす時代において、地動説は単なる学説ではなく権威への挑戦だった。
1815年のナポレオン失脚も同じである。軍事的天才が敗れたのではない。ヨーロッパ諸国の総力が、単独国家の軍事的才能を上回ったのである。戦争とはしばしば英雄の能力ではなく、動員力と持久力によって決着する。
そして6月22日を最も特徴づけるのは、1941年と1944年の独ソ戦である。
1941年6月22日、バルバロッサ作戦が始まった。
ドイツ軍は史上最大規模の侵攻軍を投入した。約380万人が2900キロの戦線を突破したこの作戦は、開戦当初だけを見れば驚異的成功だった。数百万のソ連兵が戦死・捕虜となり、ウクライナやベラルーシの広大な地域が占領された。
しかしドイツ軍は根本的な誤算を抱えていた。
ソ連という国家を軍隊としてしか見ていなかったのである。
実際にはソ連は軍隊だけではなく、工業力、人口、鉄道網、そして強制力を伴う国家機構そのものだった。前線の軍が壊滅しても後方から新たな軍が現れ続けた。
さらにナチスは征服地を解放者としてではなく支配者として扱った。反スターリン感情を持つ住民を味方につける機会を、自ら潰していった。
戦術的勝利の積み重ねが戦略的敗北に変わる典型例である。
そしてちょうど3年後の1944年6月22日。
バグラチオン作戦が開始される。
1941年にドイツ軍が進撃したベラルーシで、今度は赤軍がドイツ中央軍集団を粉砕した。
興味深いのは、ドイツ軍が1941年にソ連へ与えた衝撃を、1944年にはソ連がドイツへ返していることだ。
戦争はしばしば技術や兵器の競争として語られる。しかし独ソ戦を見ると、最終的に勝敗を決めるのは兵器より国家の耐久力であることがわかる。
そして同じ6月22日には沖縄戦の終局がある。
今日の日本では沖縄戦は住民被害の文脈で語られることが多い。
もちろんそれは事実である。
しかし軍事史の観点から見るなら、沖縄戦はまず「米軍が経験した最大級の消耗戦」の一つだった。
米軍は太平洋戦争を通じて圧倒的な物量を持っていた。
航空優勢。
海上優勢。
補給優勢。
普通に考えれば勝敗は決まっていた。
それにもかかわらず、沖縄では約8万人を超える死傷者を出した。
これは米軍が太平洋戦争で経験した地上戦の中でも最大級の損害である。
日本軍第32軍は勝利を目指していたわけではない。
本土決戦準備のために米軍をできるだけ消耗させることを目的としていた。
その意味では作戦目的の一部は達成された。
洞窟陣地、地下壕、防御縦深、夜襲。
従来の玉砕戦とは異なる持久戦だった。
米軍側から見れば、敵がいつまでも死なず、どこから撃ってくるかわからない地獄だった。
チャーチルがトルーマンへ送った評価に見られるように、連合国首脳部ですらこの戦いを特異な消耗戦として認識していた。
さらにリアリストとして見逃せないのは、戦場の秩序崩壊である。
沖縄戦末期になると日本軍内部でも統制は急速に弱まった。
兵士は補給を失い、組織は分断され、生存可能性はほぼ消滅していた。
この状況では略奪、住民への暴力、軍規の崩壊が発生する。
これは日本軍に限らない。
人類史のほぼすべての戦争で確認できる現象である。
また、一部地域では米軍に投降した住民や捕虜に対する報復殺害も発生した。
これも善悪の問題としてだけでなく、組織論として理解できる。
絶望的状況に置かれた部隊は「敵への協力」を存在論的脅威と見なす。
国家が崩壊しつつある局面では法より生存本能が優位となる。
もちろん結果としては悲劇だが、歴史研究においては感情より構造を先に見なければならない。
1945年6月22日、米軍は沖縄支配を公式に宣言した。
だが軍事的勝利は得られても、その代償は大きかった。
米軍は「もし本土上陸すれば沖縄以上になる」と理解した。
日本側も「沖縄一県でここまで戦える」と理解した。
双方が同じ結論に達したのである。
それが結果として原爆投下、ソ連参戦、そして終戦への意思決定に影響した。
沖縄戦は単なる地方戦ではない。
太平洋戦争の終わり方を決めた戦いだった。
6月22日は、ガリレオの屈服、ナポレオンの退場、独ソ戦の開幕と逆転、そして沖縄戦の終局が並ぶ日である。
そこに共通しているのは、理想や英雄ではなく「構造の力」だ。
個人の才能。
兵士の勇敢さ。
将軍の名声。
それらは歴史を動かす。
しかし最終的に勝敗を決めるのは、国家の動員力であり、産業力であり、補給力であり、組織の持久力である。
6月22日は、その冷徹な現実を何度も歴史が示した日なのである。

