kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日4月24日  1915青年トルコ革命、ほか 写真wikipediaミドハト憲法復活の図

4月24日

20260424金曜日旧暦3月8日仏滅(5番戊辰つちのえたつボシン)月齢 6.6

43番丙午ひのえうま年 29番壬辰みずのえたつ月 5番戊辰つちのえたつ日

吉方位 陽遁日 戊辰つちのえたつ日 南西 大吉 年末まではあと251日

https://ja.wikipedia.org/wiki/4%E6%9C%8824%E6%97%A5

4月24日の出来事
1771年(明和8年3月10日) – 八重山地震発生。津波により死者・行方不明者112,000人。
1877年 – ロシア帝国がオスマン帝国に宣戦布告。露土戦争勃発。時 1877年4月24日 – 1878年3月3日(10ヶ月1週間) 場所 バルカン半島、コーカサス 結果 ロシア帝国の勝利・オスマン帝国におけるタンジマートの挫折 損害 双方各十万人以上の死者。

1915年 – 青年トルコ革命: イスタンブールで250人のアルメニア人独立活動家が殺害される。アルメニア人虐殺の始まり。

1945年-沖縄戦4月24日・米軍視点:4月23日の夜から24日にかけて、濃い靄が、やがて深い霧に変わって、沖縄南部をつつんだとき、日本軍砲兵はしだいに砲撃度を増し、全前線に対して猛烈な砲火をあびせてきた。日本軍はこの弾幕と、夜のうちに降りてきた濃い霧を利用して、首里第1防衛線から撤退した。・4月24日と25日、嘉数地区を調べることができるようになってから日本軍の死体をかぞえてみたら、600の死体が発見された。・日本軍、32軍ほか:・津堅島ツケンジマは他の与勝半島の島々とは異なり、日本軍によって要塞化されていたため、米軍の激しい攻撃対象となった。・津堅島は米軍の中城湾侵入に備えた中城湾要塞の重砲陣地として1941(昭和16)年夏から、島民総動員で陣地づくりが行われた。沖縄戦では日本守備軍約160名が配備され、それに防衛隊約40名、島民女子約30名が加わっている。<沖縄県平和祈念資料館 | 沖縄戦について>

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1771年(明和8年3月10日) – 八重山地震発生。津波により死者・行方不明者112,000人。

八重山地震(やえやまじしん)は、1771年4月24日(明和8年3月10日)午前8時頃に八重山列島近海を震源として発生した地震である。(*沖縄諸島周辺)

この地震が引き起こした大津波により先島諸島が大きな被害を受けた。この大津波は、牧野清による『八重山の明和大津波』(1968年)[4]以降、日本の元号を取って明和の大津波とも呼ばれている[5]。

被害

地震動

石垣島における震度は4程度と推定され、地震動による大きな被害はなかったとされていたが、2018年の報告によれば1771年の津波堆積物の下の層から地割れなどの痕跡が発見された[18][23]。地震動の記録としては『琉球旧海主日記』に「本国及久米、慶良間島地震アリ、宮古島及八重山島ニテ又地震アリテ、海浪騰湧シ、土地人民ニ損害多シ」とあり、石垣島の状況を記した岩崎卓爾著『ひるぎの一葉』には「朝五ツ時頃、地ヤヤ強ク震フヤ海潮遠ク退キ」とある[24]。

津波

震害はなかったが、地震により最大遡上高30メートル程度[26]の大津波が発生し、宮古・八重山両列島で死者・行方不明者約11,000人・家屋流失約2,000戸という惨事になった。石垣島では潮が引いて青、緑、紅、紫熱帯色の色彩眩き大小の魚がサンゴ礁の根株の下に跳躍し、婦女、小児がこれを捕えているところに、しばらくして東方洋中に二条の暗雲が垂れ込め、砕けて激しき暴潮漲溢が弃馬の如く狂い、繰り返し襲って来た(『ひるぎの一葉』[27])[28][3]。

八重山諸島では死者約9,200人[29]、生存者約19,000人で、14の村が流され、津波の直接の被害として死者・行方不明者は住民の約3分の1にのぼった[30][3]。耕作可能地の多くが塩害の影響を受け、農作物の生産が低迷し、社会基盤が破壊された。津波発生の翌年6月頃より、疫癘の流行が白保村から始まり、環境衛生が極度に悪化して伝染病が流行したと推定され、古老らによって「イキリ」と伝承されているが、これは疫痢のこととされる(『奇妙変異記』)。強制移住や翌年の飢饉と疫病の流行によって、八重山で死者約5,000人を出した。その後の1776年、1802年、1838年、1852年と飢饉や疫病が続き、約100年後の明治時代初頭の八重山諸島の人口は、地震前の4割から3割程度にまで減少した[31][28][3]。

伝説

石垣島では、この大地震に関する伝説がある。ある日「野原(ぬばれ)村」(現在はない)の漁師達が漁で人魚を捕獲してしまい、その人魚を放すお礼に人魚から大津波が来ることを教えられた。野原村の村人はその言葉を信じ山に逃げ、津波の事を隣村の白保村に伝えるために伝達を出した。知らされた白保村では人魚の話など馬鹿げた話だと信じてもらえず、結局信じる人々のみが於茂登岳に避難した。そして津波は起こり、島は津波に飲み込まれてしまう。「大波之時各村之形行書」(おおなみのときかくむらのなりゆきしょ)に記録されたデータでは、この津波による野原村の遡上高は46.7メートルで死者(行方不明者)は2名だけであったが、白保村での遡上高は60メートルに及び、死者(行方不明者)は全村民1,574名中の1,546名で、98.2%が死亡した。

宮古列島下地島の通り池にもこの大地震に関するともされる伝説が残っている。

「通り池#伝説」も参照

島が一つ津波に飲み込まれて消えたという伝承があるが、真偽は不明である。

1877年 – ロシア帝国がオスマン帝国に宣戦布告。露土戦争勃発。時 1877年4月24日 – 1878年3月3日(10ヶ月1週間) 場所 バルカン半島、コーカサス 結果 ロシア帝国の勝利・オスマン帝国におけるタンジマートの挫折 損害 双方各十万人以上の死者。

露土戦争(ろとせんそう、1877年 – 1878年)オスマン帝国と、ロシア帝国を中心とする連合軍(ルーマニア、セルビア、モンテネグロを含む)との間で行われた戦争である。ロシアは、1853年から1856年にかけて起こったクリミア戦争で失った領土の回復、黒海での影響力の再確立を目的とした。また、バルカン半島に在住するオスマン帝国領下のスラヴ系諸民族がオスマン帝国の支配に対して反乱し、それを支援するかたちでロシアが介入して起こった[6]。ロシア帝国の勝利で終わった。

ルーマニア軍は約114,000人の兵力を擁しており、戦争に積極的に参加した。ルーマニアでは「ルーマニア独立戦争」、トルコではイスラームの暦年(ヒジュラ暦1293年)にちなんで「93年戦争(Doksanüç Harbi)」、また「オスマン・ロシア戦争」とも呼ばれた。ギリシャ独立戦争に続いて、東ヨーロッパ諸国の独立回復のための重要な戦役となった。また、ロシア帝国とオスマン帝国の間では度々戦争が行われている。他の露土戦争については、露土戦争を参照[注釈 1])。

1915年 – 青年トルコ革命: イスタンブールで250人のアルメニア人独立活動家が殺害される。アルメニア人虐殺の始まり。

青年トルコ人革命(せいねんトルコじんかくめい)は、1908年にオスマン帝国で起こった政変。「統一と進歩委員会」メンバーの士官が中心となってマケドニアに駐留するオスマン帝国軍の部隊がスルタン・アブデュルハミト2世への反乱を起こし、スルタンに専制政治を放棄させた。1878年にアブデュルハミト2世によって停止されたオスマン帝国憲法(ミドハト憲法)の復活を目指す青年トルコ人運動の結実として起こったことからこの名がある。

狭義の「青年トルコ人革命」は1909年7月に起こった軍人の蜂起とそれをきっかけにした憲政の復活のことを指すが、1909年4月に「3月31日事件」と呼ばれる反革命のクーデターが鎮圧され、アブデュルハミト2世が廃位されるところまでを含めることもある。

アルメニア人虐殺は、1915年から1916年にかけて統一と進歩委員会(青年トルコ党)政権によって行われた、伝統的なアルメニア人居住地(いわゆる大アルメニア)の南西部にあたるオスマン帝国領のアナトリア東部(いわゆる西アルメニア)からのアルメニア人強制移住であり、これに伴って数多くのアルメニア人が犠牲になった。オスマン帝国に居住するアルメニア人が政府の命令により意図的に殺害されたとして、この虐殺事件を近代初のジェノサイド(虐殺)の一つであると見なす者は少なくない[3][4][5][6]。アルメニア人社会では「虐殺がナチス・ドイツによるユダヤ人に対するホロコーストのように組織的に行われた」と考えられており、またオスマン帝国からトルコに至る「トルコ国家」が一貫した責任を有するとする。特に4月24日は「ジェノサイド追悼記念日」とされており、毎年トルコを非難する国際的なキャンペーンが行われている。

アルメニア人の死者数は、一般的に100万から150万人の間であると考えられている[7][8][9][10]。トルコ共和国の元国民教育相ユースフ・ヒクメト・バユルは、トルコ歴史協会から出版された、その著書『トルコ革命史』で、1928年にニハト中佐により翻訳されトルコ参謀本部により出版された『世界大戦におけるトルコの戦争』のなかから「東部諸県のムスリムのうち、戦争のため、または避難のため、50万が失われた。80万のアルメニア人と20万人のルム (ギリシャ本土以外に住むギリシャ系住民のトルコでの呼称)は、虐殺と追放のため、また、労働大隊において死亡した」という部分と、「我々の記録に拠っても、事実と看做す必要がある」とのニハト中佐の脚注を引用している[11]。

1945年-沖縄戦4月24日・米軍視点:4月23日の夜から24日にかけて、濃い靄が、やがて深い霧に変わって、沖縄南部をつつんだとき、日本軍砲兵はしだいに砲撃度を増し、全前線に対して猛烈な砲火をあびせてきた。日本軍はこの弾幕と、夜のうちに降りてきた濃い霧を利用して、首里第1防衛線から撤退した。・4月24日と25日、嘉数地区を調べることができるようになってから日本軍の死体をかぞえてみたら、600の死体が発見された。・日本軍、32軍ほか:・津堅島ツケンジマは他の与勝半島の島々とは異なり、日本軍によって要塞化されていたため、米軍の激しい攻撃対象となった。・津堅島は米軍の中城湾侵入に備えた中城湾要塞の重砲陣地として1941(昭和16)年夏から、島民総動員で陣地づくりが行われた。沖縄戦では日本守備軍約160名が配備され、それに防衛隊約40名、島民女子約30名が加わっている。<沖縄県平和祈念資料館 | 沖縄戦について>

チャットgpt先生の4月24日のエッセイ

4月24日という日付を並べてみると、そこに通底しているのは「予兆を見抜けたかどうか」と「それをどう扱ったか」という、極めて現実的な分岐点の連続だ。

1771年の八重山地震と津波は象徴的だ。地震そのものは致命的ではなかった。問題はその直後に来る海の異変にどう反応したかだった。潮が引く、異様な静けさ、色鮮やかな魚——これらは現代なら教科書に載る典型的な津波の前兆だが、当時は「恵み」に見えた。結果として多くの人が海に近づき、数十分後に押し寄せた巨大な波に飲み込まれた。一部の村は助かり、一部は壊滅した。この差は信じるかどうかではなく、「異常を異常として扱うかどうか」という判断の差だった。

1877年の露土戦争も同じ構図だ。ロシアはクリミア戦争での失地回復という明確な目的を持ち、機会を待っていた。一方のオスマン帝国は改革(タンジマート)を進めながらも、内部の不安定さと周辺民族の動揺を十分に制御できなかった。バルカンの不安は長く続いていた“予兆”だったが、決定的な手を打てないまま戦争に突入する。結果は大国の力学通り、準備の差がそのまま戦果に直結した。

1915年の出来事はさらに直接的だ。体制維持を優先した国家が、潜在的脅威と見なした集団を排除に動く。ここには理想も理念もほとんど関係がない。戦時下での統治リスクを最小化するという、極めて冷徹な判断があっただけだ。結果としてそれは後世「ジェノサイド」と呼ばれるが、当時の意思決定の文脈は、恐怖と疑念と戦時合理性の積み重ねでしかない。

そして1945年の沖縄戦。ここはしばしば単純化されるが、現実はもっと複雑だ。米軍は圧倒的な物量と制海・制空権を持ちながら、南部戦線で想定以上の消耗を強いられた。日本軍は戦略的勝利を望めないことを理解した上で、徹底した持久戦と消耗戦に持ち込んだ。首里防衛線からの撤退も、単なる敗走ではなく「時間を稼ぐための後退」であり、実際に戦闘はさらに長期化する。

霧や地形、地下陣地を利用した防御、夜間行動、散開配置——これらは物量差を一時的に相殺する手段として機能した。米軍側も火力で押し潰すだけでは解決できず、洞窟一つ一つを潰す消耗戦を強いられた。これはヨーロッパ戦線とは質の異なる戦いだった。結果として、米軍にとって沖縄は「勝てるが、簡単には終わらない戦場」になった。

一方で、日本側の現実も冷酷だ。兵站は崩壊し、補給は断たれ、持久戦はそのまま兵士と住民の消耗を意味した。防衛戦術として合理的であっても、そのコストは兵士だけでなく住民にまで転嫁された。ここに理想はない。あるのは「負けを前提にどれだけ相手に損害を与えるか」という計算だけだ。

4月24日を横断して見えるのは、こうした現実の積み重ねだ。
異変に気づいても行動できない社会。
兆候を知りながら対処できない国家。
安全を優先して排除に踏み切る体制。
勝てない戦いを、別の形で意味づける軍事判断。

どれも特別な話ではない。むしろ、どの時代にも繰り返し現れるパターンだ。

結局のところ、歴史の分岐点は劇的な瞬間ではなく、「見えていたものをどう扱ったか」という地味な判断の連続でできている。4月24日は、そのことを静かに突きつけてくる日でもある。