kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日4月25日 2005Jr福知山線脱線事故、ほか写真wikipedia事故現場

4月25日

20260425土曜日旧暦3月9日大安(6番己巳つちのとみキシ)月齢 7.6

43番丙午ひのえうま年 29番壬辰みずのえたつ月 6番己巳つちのとみ日

吉方位 陽遁日 己巳つちのとみ日 南 大吉 年末まではあと250日

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4月25日の出来事
1185年(元暦2年3月24日) – 壇ノ浦の戦い。平氏一門が滅亡。死亡5000から10000人程度と考えられる。
1644年(崇禎17年/永昌元年3月19日) – 李自成が率いる叛乱軍が北京を占領。崇禎帝が自害して明が滅亡。損害 北京陥落時点では10から20万人死亡 その後明残党狩りにて数百万規模の人命喪失と考えられる。

1945年-沖縄戦4月25日・米軍報告:・前田耕地4月25日第381連隊作戦区域だけで、36門の大砲が1616発の砲弾をうちこみ、空からは、ナパーム弾を投下して、丘陵一帯を焼きつくした。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 287頁より》・日本軍32軍:津堅島ツケンジマ: 球師団4152部隊、独立混成第15連隊部隊守備 大混乱(軍の住民スパイ認定の処刑) 米兵馬乗り攻撃(火炎放射器にて日本軍住民隠れる豪を焼尽)。
2005年 – 兵庫県尼崎市の福知山線(JR宝塚線)で脱線事故が発生(JR福知山線脱線事故)。死者107名(運転士1名含む)、負傷者562名の大惨事に。

2015年 – ネパール地震。ネパールの首都カトマンズにてマグニチュード7.8を記録する大地震が発生[4]。死者8964人。

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1185年(元暦2年3月24日) – 壇ノ浦の戦い。平氏一門が滅亡。死亡5000から10000人程度と考えられる。

壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)は、平安時代の末期の元暦2年/寿永4年3月24日(1185年4月25日)に長門国赤間関壇ノ浦(現在の山口県下関市)で行われた戦闘。栄華を誇った平家が滅亡に至った治承・寿永の乱の最後の戦いである。

源氏の反攻と平氏滅亡

やがて潮の流れが反転し、義経軍は乗じて猛攻撃を仕掛けた。平氏の船隊は壊乱状態になり、やがて勝敗は決した。『平家物語』は、敗北を悟った平氏一門の武将たち、女性たちや幼い安徳天皇が次々に自殺してゆく、壮絶な平家一門滅亡の光景を描写する。

知盛は建礼門院や二位尼らの乗る女船に乗り移ると「見苦しいものを取り清め給え」とみずから掃除をしてまわる。口々に形勢を聞く女官達には「これから珍しい東男をごろうじられますぞ」と笑った[注 3]。これを聞いた二位尼は死を決意して、幼い安徳天皇を抱き寄せ、宝剣を腰にさし、神璽を抱えた。安徳天皇が「どこへ連れてゆくの」と仰ぎ見れば、二位尼は「弥陀の浄土へ参りましょう。波の下にも都がございますよ」と答えて、ともに海に身を投じた。『吾妻鏡』によると、二位尼が宝剣と神璽を持って入水、按察の局が安徳天皇を抱いて入水したとある。続いて建礼門院ら平氏一門の女たちも次々と海に身を投げる。

武将たちも覚悟を定め、教盛は入水、経盛は一旦陸地に上がって出家してから還り海に没した。資盛、有盛、行盛も入水している。総帥宗盛も嫡男の清宗と入水するが、命を惜しんで浮かび上がり水練が達者なために泳ぎ回っていたところを義経軍に捕らえられた。

剛の者である教経は、鬼神の如く戦い坂東武者を多数討つが、知盛が既に勝敗は決したから罪作りなことはするなと伝えた。教経は、ならば敵の大将の義経を道連れにせんと欲し、義経の船を見つけてこれに乗り移った。教経は小長刀を持って組みかからんと挑むが、義経はゆらりと飛び上がると船から船へと飛び移り八艘彼方へ飛び去ってしまった。義経の「八艘飛び」である。義経を取り逃がした教経に大力で知られる安芸太郎が討ち取って手柄にしようと同じく大力の者二人と組みかかった。教経は一人を海に蹴り落とすと、二人を組み抱えたまま海に飛び込んだ。『平家物語』に描かれた平氏随一の猛将として知られ屋島の戦い、壇ノ浦の戦いで義経を苦しめた教経の最期だが、『吾妻鏡』には教経はこれ以前の一ノ谷の戦いで討ち死にしているという記述がある。しかし、『醍醐雑事記』には壇ノ浦で没した人物の一人として教経の名が挙げられている。

知盛は「見届けねばならぬ事は見届けた」とつぶやくと、鎧二領を着て乳兄弟の平家長と共に入水した。申の刻(16時ごろ)(『玉葉』による。『吾妻鏡』では午の刻(12時ごろ))には平氏一門の多くが死ぬか捕らえられ、戦いは終結した。

1644年(崇禎17年/永昌元年3月19日) – 李自成が率いる叛乱軍が北京を占領。崇禎帝が自害して明が滅亡。損害 北京陥落時点では10から20万人死亡 その後明残党狩りにて数百万規模の人命喪失と考えられる。

逸話

現在でも北京市民の間に伝わる、李自成にまつわる逸話がある。

李自成は北京入城後に皇帝に即位したが、餃子を毎日のように食べたという。「餃」の文字は「交」に通じ、「末永く」という意味を持っていた。そのため歴代皇帝たちは社稷が「細く長く」続くよう、春節にしか餃子を食べなかった。しかし李自成はそのしきたりを破り、毎日餃子を食べ続けたため、順朝はすぐに滅んでしまった。

1945年-沖縄戦4月25日・米軍報告:・前田耕地4月25日第381連隊作戦区域だけで、36門の大砲が1616発の砲弾をうちこみ、空からは、ナパーム弾を投下して、丘陵一帯を焼きつくした。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 287頁より》・日本軍32軍:津堅島ツケンジマ: 球師団4152部隊、独立混成第15連隊部隊守備 大混乱(軍の住民数名のスパイ認定の処刑あり) 米兵馬乗り攻撃(火炎放射器にて日本軍住民隠れる豪を焼尽)。
2005年 – 兵庫県尼崎市の福知山線(JR宝塚線)で脱線事故が発生(JR福知山線脱線事故)。死者107名(運転士1名含む)、負傷者562名の大惨事に。

被害

近隣住民および下り列車に対しての二次的被害は免れたものの、直接的な事故の犠牲者は死者107名(当該列車の運転士含む)、負傷者562名を出す[1]、交通機関の事故としては歴史に残る大惨事になった。犠牲者の多くは1両目か2両目の乗客で、受傷理由として脱線衝突の衝撃で車体が圧壊し内装部材や車体に押し潰されたことによる損傷などを負ったとするものもあるが、最も多かった死因は、車内で飛ばされるなどして打撲受傷した、頭蓋底骨折、陥没骨折などによる脳挫傷、急性硬膜外血腫、硬膜下血腫などの脳と頭部の損傷であり、死者のうち42名、全体の40%を占めていた。そのほかに胸腹腔内損傷、胸腹部圧迫による窒息死(圧死)、頚椎損傷、骨盤骨折による失血死やクラッシュ症候群(クラッシュシンドローム)などであった。同じ車両から救出された生存者であってもクラッシュ症候群により手足切断など後遺障害を伴う重傷者が複数人確認されている。

JR発足後の死者数としては、1991年(平成3年)の信楽高原鐵道列車衝突事故(死者42名)を上回る史上最悪となる死傷者を出した。戦後(国鉄時代含む)では、八高線の列車脱線転覆事故(184名)、鶴見事故(161名)、三河島事故(160名)に続いて4番目、戦前・戦中にさかのぼっても7番目となる甚大な被害を出した。

また、犠牲者の遺族や友人、負傷しなかった乗客、事故列車が激突したマンションの住人、救助作業に参加した周辺住民や消防隊員・警察官など、広範囲でPTSDを発症するなど大きな影響を及ぼした。

なお、マンションには47世帯が居住していたが、倒壊の恐れに備えてJR西日本が用意したホテルなどへ避難した。事故後も2世帯が残っていたが、8月上旬までに順次マンションを離れたため空家状態になった。その後、マンションは4階より上層階が取り除かれ、遺構の一部を取り込んだ慰霊施設「祈りの杜 福知山線列車事故現場」として整備され、2018年9月21日から一般公開されている[12]。

物的損害の全貌は明らかではないが、駐車場にあって巻き込まれた多数の自動車が破壊された[13]。

2015年 – ネパール地震。ネパールの首都カトマンズにてマグニチュード7.8を記録する大地震が発生[3]。死者8964人。

2015年 – ネパール地震。ネパールの首都カトマンズにてマグニチュード7.8を記録する大地震が発生[4]。死者8964人。

チャットgpt先生の4月25日のエッセイ

4月25日という日付を並べてみると、時代も地域も違う出来事が、不思議なほど似た輪郭を持っていることに気づく。勝敗や体制の交代は一瞬で決まるように見えて、その裏側では「崩れ方」に共通したパターンがある。

まず、壇ノ浦の戦い。ここでは単純な軍事力の差というより、潮流と情報、そして指揮系統の崩壊が勝敗を分けた。平氏は海戦に長けていたが、潮の反転という自然条件と寝返りによって優位が一気に反転する。最終局面では「戦う」というより「終わり方の選択」に移行している。組織が敗北を認識した瞬間、戦闘能力とは別のロジックが支配し始める典型例だ。

一方で、明の滅亡は、より構造的だ。外敵より先に内部が崩れている。財政破綻、統治の疲弊、士気の低下。その結果として李自成の軍が北京に入るが、これは「決定打」ではあっても「原因」ではない。興味深いのは、政権交代後の秩序維持ができなかった点で、結局は新体制も短命に終わる。権力の奪取と統治能力は別物であることを示している。

そして20世紀に入ると、同じ4月25日でも様相は変わる。沖縄戦では、「勝敗がほぼ決まっている側」がどこまで抵抗できるかという問題になる。一般に語られる「物量差で圧倒」という理解は半分正しいが、現場レベルでは単純ではない。米軍は圧倒的な火力と補給を持ちながらも、地形(壕・丘陵)と徹底抗戦、そして住民を巻き込んだ複雑な状況により、進撃速度は大きく制限された。特に前田高地のような地点では、砲撃・空爆を重ねても制圧に時間を要している。

ここで重要なのは、「苦戦」の意味だ。戦略的には米軍の勝利は動かないが、戦術的には局地ごとにコストが非常に高い。つまり、勝つ側でも“安くは勝てない”。この構図は現代戦にも通じる。物量優位は結果を保証するが、過程の損耗までは消せない。

さらに現代に近づくと、暴力の形は変わる。JR福知山線脱線事故では、敵も戦場も存在しない。それでも100人以上が死亡する。ここでの「崩壊」は、軍や国家ではなく、システムの余裕のなさだ。過密ダイヤ、組織文化、判断の遅れ。これらが連鎖すると、戦争に匹敵する規模の被害が平時に発生する。

同様に、ネパール地震では自然が相手になる。だが被害の大きさは、単に地震の規模だけで決まらない。建築基準、都市構造、救助体制といった「準備されていたかどうか」で決定的な差が出る。ここでもやはり、事前の構造が結果を左右する。

こうして並べると、4月25日は「決壊の日」とでも言える。戦争、革命、事故、災害——どれも異なる顔をしているが、本質的には「耐えていた構造が限界を超えた瞬間」だ。

リアリスト的に見るなら、歴史は劇的な事件よりも、その前段の蓄積に支配されている。壇ノ浦の敗北は一日の戦闘で決まったわけではないし、明の滅亡も一夜の裏切りではない。沖縄戦にしても、あれほどの消耗戦になったのは、地形・戦術・心理の積み重ねの結果だ。

そして現代では、その「蓄積」は見えにくい形で進む。ダイヤの数分、建物の耐震性、組織の空気。そうした微細な要素が、ある日まとめて破綻する。

4月25日は、出来事そのものよりも、「なぜそこまで崩れるまで放置されたか」を考える日に近い。そこに共通するのは、崩壊は突然起きるが、原因は常に長く静かに進行している、という事実だ。