kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日4月26日 1938 最速レシプロ機メッサーシュミット209記録更新、ほか写真wikipediaメッサーシュミット209機体

4月26日

20260426日曜日旧暦3月10日赤口(7番庚午かのえうまコウゴ)月齢 8.6

43番丙午ひのえうま年 29番壬辰みずのえたつ月 7番庚午かのえうま日

吉方位 陽遁日 庚午かのえうま日 東 大吉 年末まではあと249日

https://ja.wikipedia.org/wiki/4%E6%9C%8826%E6%97%A5

4月26日の出来事
1937年 – スペイン内戦: ドイツ空軍遠征隊「コンドル軍団」がスペインの町ゲルニカを無差別攻撃、非戦闘員2,000人以上が死亡。
1938年 – Me 209が755.13km/hを記録し、レシプロ陸上機の速度記録を更新。
1942年 – 満州国・本渓湖炭鉱で粉塵爆発。坑夫1,549人が死亡。

1945年-沖縄戦4月26日前田高地の戦闘始まる(5月6日まで)当時浦添の人口は約9,200人でしたが、そのうち戦争で亡くなった人は4,112人で実に44.6%の住民が犠牲。・

・前田高地をめぐる攻防は「ありったけの地獄を一つにまとめた」といわれるほど激しい戦闘になり・前田高地ニードルロック 米軍は嘉数高地を陥落させ、25日に 前田高地への攻撃を開始します。米軍はまず高地頂上を奪おうと試みますが、頂上に立っ た所で日本軍の攻撃を受け、数分のうちに18名が犠牲となりました。それから高地頂上の 争奪戦が繰り広げられ、米軍は多くの死傷者を出しました。 一方、日本軍は洞窟に陣地を置き、白兵戦や夜間攻撃などを行いますが、米軍の猛攻に より多大な損害が出ました。《沖縄県立埋蔵文化財センター・浦添市教育委員会『沖縄県の戦争遺跡ー前田高地から首里まで』》・日本軍32軍の前田高地 前田は首里の玄関口となるため、第32軍の攻防は決死のものとなる。・首里高等女学校 61人動員33人が死亡。

1974年 – 山形県大蔵村で大規模な地すべりが発生。死者負傷者30名、被害家屋等20戸[3][4]。
1982年 – 大韓民国・慶尚南道で警官・禹範坤が無差別殺人。夜から翌日朝にかけて57人を殺害し、手榴弾で自殺。
1986年 – ソ連・ウクライナ共和国のチェルノブイリ原子力発電所で大規模事故。(チェルノブイリ原子力発電所事故)
1994年 – 中華航空140便墜落事故。台北発名古屋行きのエアバスA300が着陸に失敗し、264人が死亡。

2002年 – エアフルト事件。ドイツ・テューリンゲン州のエアフルトで少年が17人を殺害した後自殺。

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4月26日の出来事
1937年 – スペイン内戦: ドイツ空軍遠征隊「コンドル軍団」がスペインの町ゲルニカを無差別攻撃、非戦闘員2,000人以上が死亡。
1938年 – Me 209が755.13km/hを記録し、レシプロ陸上機の速度記録を更新。

メッサーシュミットMe 209 は第二次世界大戦時にドイツで試作された、単発プロペラの高速記録機/戦闘機である。高速記録機とそれを戦闘機化したV1からV4までのMe209と、Bf109の後継機として全く異なった設計で開発されたV5からV7までのMe209 II が試作されたが、結局どちらのタイプも実用化されずに開発は中止になった。

1942年 – 満州国・本渓湖炭鉱で粉塵爆発。坑夫1,549人が死亡。

1945年-沖縄戦4月26日前田高地の戦闘始まる(5月6日まで)当時浦添の人口は約9,200人でしたが、そのうち戦争で亡くなった人は4,112人で実に44.6%の住民が犠牲。・

・前田高地をめぐる攻防は「ありったけの地獄を一つにまとめた」といわれるほど激しい戦闘になり・前田高地ニードルロック 米軍は嘉数高地を陥落させ、25日に 前田高地への攻撃を開始します。米軍はまず高地頂上を奪おうと試みますが、頂上に立っ た所で日本軍の攻撃を受け、数分のうちに18名が犠牲となりました。それから高地頂上の 争奪戦が繰り広げられ、米軍は多くの死傷者を出しました。 一方、日本軍は洞窟に陣地を置き、白兵戦や夜間攻撃などを行いますが、米軍の猛攻に より多大な損害が出ました。《沖縄県立埋蔵文化財センター・浦添市教育委員会『沖縄県の戦争遺跡ー前田高地から首里まで』》・日本軍32軍の前田高地 前田は首里の玄関口となるため、第32軍の攻防は決死のものとなる。・首里高等女学校 61人動員33人が死亡。
1974年 – 山形県大蔵村で大規模な地すべりが発生。死者負傷者30名、被害家屋等20戸[3][4]。
1982年 – 大韓民国・慶尚南道で警官・禹範坤が無差別殺人。夜から翌日朝にかけて57人を殺害し、手榴弾で自殺。

禹 範坤(ウ・ボムゴン、우범곤, 1955年2月24日 – 1982年4月27日)は、1982年4月26日から翌日にかけて、韓国南部の慶尚南道宜寧郡宮柳面で57人(56人、59人、62人などの説もある)を殺害、35人に重軽傷を負わせた事件を起こした警察官である。

背景

禹は慶尚南道釜山市東区草梁洞(現:釜山市南区望美洞)出身で四人兄弟の三男。父親も警察官で幼少期の頃は特に何も悩みなく過ごしたという。

1963年3月29日、8歳の時に釜山東区草梁洞小学校に入学し、釜山佐川洞釜山中学校から錦城金星高校に進学。この間1973年6月に父親は警察官を退職し、1972年には大腸癌と診断され6ヶ月入院。このため翌年には父親の治療費と禹自身の学費を賄うために自宅を売却したが、既に父親の余命が半年と宣告をされ1974年1月30日に死去。父の死後禹は家のガラスを割り手首を切る自傷行為を行ったりしたが未遂に終わる。また高校での成績も振るわないまま1975年2月に卒業した。

卒業後禹は釜山実業専門学校(現・慶南情報大学校(朝鮮語版))に入学するも学校のガラスを割って処分された後に1976年2月に中退、韓国海兵隊に志願入隊したが1978年に兵長で除隊され1979年5月25日警察学校に入学。1980年6月卒業後12月20日に2度目の受験で警察官採用試験に合格。釜山南の交番の警察官として配属される。1981年4月11日にソウル市青瓦台の101警備隊に栄転したが、12月13日に暴力沙汰を起こした事で12月26日に停職。30日に慶尚南道宜寧に左遷され、1982年3月3日には鴨谷里に定住した。

その後、2歳年下の女性と付き合い始め、3月初めから同棲を開始。また、同棲を機に犬とひよこを19匹飼った事もあった。

事件

1982年4月26日16時、禹は酒に酔って帰宅したところ、同棲していた女性が禹の胸に止まったハエをはらおうと叩いた事がきっかけで口論となり激高。自宅を出てそのまま宜寧警察署宮柳支署(現在の宮柳治安センター)の武器庫に入り込み、そこで多量のウイスキーを飲んで泥酔状態となった。19時30分、自宅へ戻って家具を破壊したり、女性を殴打して負傷させた(女性はこれ以上の危害を加えられておらず命に別状はなかった)。そして21時25分、武器庫に戻りM2カービン銃2丁と実弾144~180発(172発乱射)、手榴弾8発を持ち出した。

禹は支署を出ると近くの路上を歩いていた26歳の男性を射殺し、そのまま市場で手榴弾を投げ通行人3人を爆殺した。21時45分、郵便局に押し入って電話交換手と郵便配達員の合計3人を射殺。このため外部への連絡手段が絶たれてしまうものの、局内に潜んでいた交換手の1人が禹の退出から1時間ほど経過した22時40分にようやく郡警察署に通報した。一方禹は内妻が住む鴨谷里に行き22時頃に2人を殺害した後で内妻の実家に押し入り一家5人を射殺、更に雲渓里に向かいカービン銃を乱射し合計7人の住民を射殺した。この時点で19人を殺害しているが、付近の集落で電気が点いている家を見付けては手当たり次第に家人に対してカービン銃を乱射し更に18人を射殺。また、閉店前の市場など人の集まる場所に手榴弾を投げ込み、爆発で驚いて表へ飛び出してきた人達にもカービン銃を乱射して次々と射殺した。22時半頃、偶然近くにいた18歳の高校2年生にソフトドリンクを買って来る様に命じた後に殺害。その後現場近くで商店を営む鄭一家宅に上がり込み、13歳と10歳の子供を含む家族4人を殺害した。

最初の射殺事件発生から2時間以上・通報から1時間経過した23時50分頃に郡警察署から出動した武装警官が宮柳面に到着したが、既に禹は4集落で住民47人を殺害しているばかりか、翌4月27日の午前2時頃まで付近一帯でカービン銃を乱射。5つの集落で57人を殺害、35人を負傷させた。武装警官は辺り一帯をしらみ潰しに探索し追い込まれた禹は山奥の民家に立て籠って一家3人を人質に取ったが、警官に包囲されて午前3時45分頃に禹は手榴弾で自爆。人質も巻き込まれて犠牲となり最後の村では24人が犠牲となった。

1986年 – ソ連・ウクライナ共和国のチェルノブイリ原子力発電所で大規模事故。(チェルノブイリ原子力発電所事故)
1994年 – 中華航空140便墜落事故。台北発名古屋行きのエアバスA300が着陸に失敗し、264人が死亡。
2002年 – エアフルト事件。ドイツ・テューリンゲン州のエアフルトで少年が17人を殺害した後自殺。

エアフルト事件(独: Amoklauf von Erfurt)は、ドイツ・テューリンゲン州の州都エアフルトで2002年4月26日に発生した大量殺人事件である。

死者17人、負傷者6人を出し、ドイツでは第二次世界大戦以降最大の民間人殺戮となった。

犯人の少年は裕福で問題のない家庭に育ったが、コンピュータゲームに耽溺し通っていた高校では問題行動のために退学になっていた。このことから教師を恨み、2002年4月26日の午前11時ごろに散弾銃と自動拳銃で武装し目出し帽をつけてかつての母校へ向かった。そこで教室を移動しながら教師13人、生徒2人、駆けつけた警官1人を射殺した。

その後、鉢合わせした教師の前で目出し帽を脱いで素顔を見せている。少年を知っていた教師は「自分を撃て」と言ったが、少年は「先生、今日はもう充分です」と答えた[3]。

教師は少年を空き部屋に閉じ込めて鍵をかけ、直後に少年は自殺した。

死体解剖では薬物もアルコールも検出されなかったが、彼の部屋からはアメリカ合衆国の大量殺人事件に関する資料が見つかった。

チャットgpt先生の4月26日のエッセイ

4月26日という日付を俯瞰すると、そこに並ぶのは「技術の到達点」と「人間の破壊衝動」がほぼ同じ比重で刻まれているという、極めて現実的なコントラストだ。

まず象徴的なのは、1937年のゲルニカ爆撃だろう。これは単なる都市爆撃ではなく、「無差別空爆」という戦術が近代戦で制度化されていく過程の一断面だ。翌年にはメッサーシュミット Me 209が速度記録を更新する。つまり、同じ技術体系が「空を速く飛ぶ」ことと「効率的に都市を破壊する」ことを同時に推し進めていた。ここに善悪の分岐はない。単に用途の問題でしかない。

その延長線上にあるのが1945年の沖縄戦、とりわけ前田高地の戦闘だ。この戦いを「悲劇」や「美談」で処理すると実態を見誤る。現実には、米軍は圧倒的な物量と火力を持ちながら、地形・陣地構築・近接戦闘に適応した日本軍に対して想定以上に消耗した。前田高地のような拠点は、単なる丘ではなく、洞窟陣地・視界制御・火点分散によって“面”ではなく“層”として防御されていた。

米軍側の問題は、制圧のために「前進して接触する」以外に決定打が乏しかった点にある。砲爆撃で地形は削れても、地下構造までは完全に無力化できない。結果として、歩兵が露出した状態で突入し、短時間で損害を出す。これはノルマンディーとも硫黄島とも異なる、より閉鎖的で立体的な戦場だった。

一方、日本側は戦術的には粘り強いが、戦略的には出口がない。補給も増援も途絶した中で「遅滞と消耗」を最大化するしかない。つまり、ここでの戦闘は勝敗ではなく“時間の引き延ばし”が目的化している。だからこそ「ありったけの地獄」という表現は誇張ではなく、合理的な帰結に近い。

この構造は、同日に並ぶ他の出来事ともどこかで通底している。例えばチェルノブイリ原子力発電所事故。これは戦争ではないが、「制御可能だと信じたシステムが臨界を超える」という意味では同じだ。設計・運用・判断のいずれかが限界を超えたとき、結果は一気に不可逆になる。

さらに1982年の禹範坤銃乱射事件や2002年のエアフルト事件になると、規模は小さくとも構造は似ている。個人レベルであれ国家レベルであれ、「抑制が外れた状態」が短時間で大量の被害を生む点は変わらない。違うのは装置の規模だけだ。

こうして見ると、4月26日は特別な日というより、「人間が到達した能力の上限」と「それを制御できない現実」が同時に露出した日だと言える。速度記録も、要塞陣地も、原子炉も、本質的には同じ系列にある。すなわち「可能にしてしまった技術」と「それに追いつかない統制」のギャップだ。

そして沖縄戦が示すのは、そのギャップが極限まで広がったとき、どれほど非効率で消耗的な戦いになるかという具体例だ。物量優位であっても、戦場の条件次第では決着は遅れ、損害は膨らむ。逆に言えば、戦争における“圧倒的優位”は常に条件付きでしか成立しない。

4月26日は、そのことを静かに並べて見せている日だ。