kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日6月5日 1942ミッドウェー海戦連合艦隊壊滅、ほか写真wikipedia炎上する空母飛龍

6月5日

20260605金曜日旧暦4月20日大安(47番庚戌かのえいぬコウジュツ)月齢 19.2

43番丙午ひのえうま年 30番癸巳みずのとみ月 47番庚戌かのえいぬ日

吉方位 陽遁日 庚戌かのえいぬ日 南 大吉 年末まであと209日

https://ja.wikipedia.org/wiki/6%E6%9C%885%E6%97%A5

6月5日の出来事

1864年 – 南北戦争: ピードモントの戦い。

時             1864年6月5日

場所        バージニア州オーガスタ郡

結果        北軍の勝利

損害  北軍 8500名中875人戦死 南軍 5500名中1500名(捕虜1000人+500人戦死)

1942年 – 第二次世界大戦・ミッドウェー海戦:主力空母「加賀」「蒼龍」が沈没し日本海軍機動艦隊が壊滅状態に陥る。

ミッドウェー海戦

年月日:1942年6月5日 - 6月7日(6月3日から5日とする見解もある)[1]

場所:中部太平洋、ハワイ諸島北西のミッドウェー島とその周辺海域[1]。

結果:アメリカ軍の勝利。日本軍は制空・制海権を失い、戦局の主導権がアメリカ側に移行[1]。

損害 日本軍 戦死3057人 米軍307人。

1943年 – 日比谷公園で山本五十六の国葬。

1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 神戸大空襲。6月5日の空襲により、西部の須磨区垂水町から東は西宮市までの広範囲が爆撃され、それまで被害の少なかった神戸市東部や武庫郡が焦土と化し、3度の大空襲でほぼ神戸市全土が壊滅した[1]。

1945年沖縄戦6月5日:米軍:・米軍(小禄半島)上陸2日目、作戦は遅々として進まなかった。そしてついに、小禄半島中央近くの筆架山まできたとき、第29連隊は、そこで突然、行き詰まってしまった。一方、米軍は右翼(南)のほうでは、たいした苦労もなく進撃し、シェファード海兵隊少将は、第4海兵連隊をして日本軍陣地を一気に壊滅させようとこれを差し向けた。海兵隊の前線は、いまや4キロものび、その南端は、小禄の具志村落にまで達していた。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 461-462頁より》・沖縄の雨期も6月5日にはあがった。陸軍第24軍団は、雨を吸った粘土質の土地に約6キロの戦線を確立した。補給はあいかわらずうまくいかず、場合によっては、ほとんど危険な状態にまで追い込まれ、物資を空中投下に頼らなければならない部隊も出てきた。… 6キロもあるこの山脈の壁で、いちばん高いところは八重瀬岳、そばの低地帯からはかると約90メートルもあった。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 465-467頁より》:日本軍:・一方、摩文仁に後退した牛島軍司令官は、第32軍主力の撤退が完了したので、ここでやっと海軍部隊の島尻南部への撤退を命令した。これに対し、大田司令官は5日、忙しい戦況報告の合間をぬって、… 次のように返電している。《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三 / 光人社NF文庫) 421頁より》・「海軍部隊は最精鋭の陸戦隊4個大隊を陸軍の指揮に入れ、首里戦線において遺憾なく敢闘したことはご承知の通りである。また今次軍主力の喜屋武半島への退却作戦も、長堂以西国場川南岸高地帯に拠るわが海軍の奮闘により、すでに成功したものと認める。予は、課せられた主任務を完遂した今日、思い残すことなく、残存部隊を率いて、小禄地区を頑守し、武人の最後を全うせんとする考えである。ここに懇篤なる指導恩顧を受けた軍司令閣下に、厚くお礼を申し上げるとともに、ご武運の長久を祈る。

   身はたとえ沖縄野辺に果つるとも   護り続けむ   大和島根を」

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 396-397頁より》・海軍部隊が孤立、まさに被包囲の態勢に落ちんとする6月5日、大田海軍少将より、…電報が到達した。… 海軍部隊を、喜屋武半島陣地に収容する準備を進めていた軍首脳部は、深く覚悟を決めた大田将軍の決意を知って驚愕した。小禄地区の死守は作戦上十分に価値あることであり、かつ従来の行きがかりからしても、海軍側の心事は諒としなければならぬ。だが武運尽きて殪れるときは、陸海軍もろともの我々の心が承知しない。陸軍としては、孤立無援の海軍部隊を、指呼の間に眺めながら、その全滅を黙視するに忍びない。軍司令官は、直ちに次の電報を発せられた。大田少将の電報が、大本営その他関係各方面文取り扱いになっていたので、陸軍側も同一形式をとった。

「海軍部隊が、人格高潔な大田将軍統率の下、陸軍部隊と渾然一体となり勇戦敢闘せられ、沖縄作戦に偉大なる貢献を為されたことは、予の感激に堪えざるところである。海軍部隊が、その任務を完遂した今日、なお孤立無援、小禄陣地を死守せんとする壮烈な決意には、満腔の敬意を表するが、陸軍に先だち、海軍の全滅するは到底予の忍び得ないところである。海軍部隊の後退は、状況上なお可能である。貴部隊が速やかに、陸軍部隊に合一され、最期を同じくされんこと切望に堪えず」

… 電報に引き続き、統師の形式を整えるために、海軍部隊に、退却の軍命令が発せられた。しかし大田将軍の決意は堅く、なかなか後退し来る模様は見えない。そこで軍司令官から大田将軍宛てに後退を勧める親書を送達するなど、百方努力したが、その牢固たる決心はついに翻すことができなかった。《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 396-397頁より》

1960年 – フィンランドのボドム湖でボドム湖殺人事件が起こる。

1963年 – 黒四ダム竣工。総工費513億円、延べ1千万人の人手と171名の尊い犠牲により7年がかりの難工事を経て完成[5]。

1968年 – 米大統領選候補のロバート・ケネディ上院議員が銃撃される。翌日死亡。(ロバート・ケネディ暗殺事件)

1983年 – 客船アレクサンドル・スヴォーロフ号がウリヤノフスク鉄道橋に衝突、177名の死者を出す。

2003年 – パキスタンを最高気温51℃の熱波が襲う。死者26人。

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1864年 – 南北戦争: ピードモントの戦い

時             1864年6月5日

場所        バージニア州オーガスタ郡

結果        北軍の勝利

損害  北軍 8500名中875人戦死 南軍 5500名中1500名(捕虜1000人+500人戦死)

ピードモントの戦い(ピードモントのたたかい、英: Battle of Piedmont)は、南北戦争中の1864年6月5日、バージニア州オーガスタ郡ピードモント村で、デイビッド・ハンター少将の指揮する北軍と、ウィリアム・E・”グランブル”・ジョーンズ准将の南軍が対戦した戦闘である。激戦が行われた後で、ジョーンズが戦死し、南軍が潰走した。ハンターは6月6日にスタントンを占領し、間もなくリンチバーグへの進軍を始め、その途中で軍事物資や公共資産を破壊した。

1942年 – 第二次世界大戦・ミッドウェー海戦:主力空母「加賀」「蒼龍」が沈没し日本海軍機動艦隊が壊滅状態に陥る。

ミッドウェー海戦

年月日:1942年6月5日 - 6月7日(6月3日から5日とする見解もある)[1]

場所:中部太平洋、ハワイ諸島北西のミッドウェー島とその周辺海域[1]。

結果:アメリカ軍の勝利。日本軍は制空・制海権を失い、戦局の主導権がアメリカ側に移行[1]。

損害 日本軍 戦死3057人 米軍307人。

ミッドウェー海戦(ミッドウェーかいせん、英語: Battle of Midway)は、1942年6月5日から6月7日にかけて中部太平洋ミッドウェー島周辺で行われた日本海軍とアメリカ海軍による海戦である。太平洋戦争の転換点と言われ、この戦闘における敗北によって日本側は制空権と制海権を失い、以後は戦争の主導権がアメリカ側に移ったことで知られている[1]。

1942年4月、山本五十六司令長官率いる連合艦隊が中心となり、アメリカ軍の基地となっていたハワイ諸島北西のミッドウェー島を攻略し、アメリカ艦隊の早期壊滅を目指す作戦が立案される。それに対し、日本側の暗号を解読することによって作戦を察知したアメリカ軍のチェスター・ニミッツ司令官はハワイから空母部隊を出撃させて迎撃した。それぞれの主力は、日本側が南雲忠一司令官率いる第一航空艦隊の空母4隻(艦載機248機)、アメリカ側はフランク・J・フレッチャーとレイモンド・スプルーアンスの両司令官率いる機動部隊の空母3隻(艦載機233機)とミッドウェー島基地の航空部隊(126機)であった(航空機総数359機)。

航空兵力で100機以上劣勢の日本空母部隊は、索敵の失敗もあって攻撃準備中にアメリカ軍急降下爆撃機の急襲を受けることとなり、壊滅的な損害を被った。日本軍は空母全4隻と重巡洋艦1隻を失い、艦載機248機も全て喪失し、3,000人を超える兵士が戦死した。勝利したアメリカ軍も、空母1隻と駆逐艦1隻を撃沈され、航空機約150機を失った[1]が、戦死は307人だった[3]。ただし、日本の航空機搭乗員は多くが脱出に成功したので戦死者は121名にとどまり、200名を超える搭乗員が戦死したアメリカ軍を下回った[5]。

この戦い以後、太平洋戦争の主戦場はソロモン諸島とその周辺に移り、再編された日本機動部隊とアメリカ軍の間で激戦が繰り広げられることになる。

1943年 – 日比谷公園で山本五十六の国葬。

1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 神戸大空襲。6月5日の空襲により、西部の須磨区垂水町から東は西宮市までの広範囲が爆撃され、それまで被害の少なかった神戸市東部や武庫郡が焦土と化し、3度の大空襲でほぼ神戸市全土が壊滅した[1]。

1945年-沖縄戦6月5日:米軍:・米軍(小禄半島)上陸2日目、作戦は遅々として進まなかった。そしてついに、小禄半島中央近くの筆架山まできたとき、第29連隊は、そこで突然、行き詰まってしまった。一方、米軍は右翼(南)のほうでは、たいした苦労もなく進撃し、シェファード海兵隊少将は、第4海兵連隊をして日本軍陣地を一気に壊滅させようとこれを差し向けた。海兵隊の前線は、いまや4キロものび、その南端は、小禄の具志村落にまで達していた。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 461-462頁より》・沖縄の雨期も6月5日にはあがった。陸軍第24軍団は、雨を吸った粘土質の土地に約6キロの戦線を確立した。補給はあいかわらずうまくいかず、場合によっては、ほとんど危険な状態にまで追い込まれ、物資を空中投下に頼らなければならない部隊も出てきた。… 6キロもあるこの山脈の壁で、いちばん高いところは八重瀬岳、そばの低地帯からはかると約90メートルもあった。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 465-467頁より》:日本軍:・一方、摩文仁に後退した牛島軍司令官は、第32軍主力の撤退が完了したので、ここでやっと海軍部隊の島尻南部への撤退を命令した。これに対し、大田司令官は5日、忙しい戦況報告の合間をぬって、… 次のように返電している。《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三 / 光人社NF文庫) 421頁より》・「海軍部隊は最精鋭の陸戦隊4個大隊を陸軍の指揮に入れ、首里戦線において遺憾なく敢闘したことはご承知の通りである。また今次軍主力の喜屋武半島への退却作戦も、長堂以西国場川南岸高地帯に拠るわが海軍の奮闘により、すでに成功したものと認める。予は、課せられた主任務を完遂した今日、思い残すことなく、残存部隊を率いて、小禄地区を頑守し、武人の最後を全うせんとする考えである。ここに懇篤なる指導恩顧を受けた軍司令閣下に、厚くお礼を申し上げるとともに、ご武運の長久を祈る。

   身はたとえ沖縄野辺に果つるとも   護り続けむ   大和島根を」

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 396-397頁より》・海軍部隊が孤立、まさに被包囲の態勢に落ちんとする6月5日、大田海軍少将より、…電報が到達した。… 海軍部隊を、喜屋武半島陣地に収容する準備を進めていた軍首脳部は、深く覚悟を決めた大田将軍の決意を知って驚愕した。小禄地区の死守は作戦上十分に価値あることであり、かつ従来の行きがかりからしても、海軍側の心事は諒としなければならぬ。だが武運尽きて殪れるときは、陸海軍もろともの我々の心が承知しない。陸軍としては、孤立無援の海軍部隊を、指呼の間に眺めながら、その全滅を黙視するに忍びない。軍司令官は、直ちに次の電報を発せられた。大田少将の電報が、大本営その他関係各方面文取り扱いになっていたので、陸軍側も同一形式をとった。

「海軍部隊が、人格高潔な大田将軍統率の下、陸軍部隊と渾然一体となり勇戦敢闘せられ、沖縄作戦に偉大なる貢献を為されたことは、予の感激に堪えざるところである。海軍部隊が、その任務を完遂した今日、なお孤立無援、小禄陣地を死守せんとする壮烈な決意には、満腔の敬意を表するが、陸軍に先だち、海軍の全滅するは到底予の忍び得ないところである。海軍部隊の後退は、状況上なお可能である。貴部隊が速やかに、陸軍部隊に合一され、最期を同じくされんこと切望に堪えず」

… 電報に引き続き、統師の形式を整えるために、海軍部隊に、退却の軍命令が発せられた。しかし大田将軍の決意は堅く、なかなか後退し来る模様は見えない。そこで軍司令官から大田将軍宛てに後退を勧める親書を送達するなど、百方努力したが、その牢固たる決心はついに翻すことができなかった。《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 396-397頁より》

1960年 – フィンランドのボドム湖でボドム湖殺人事件が起こる。

事件の概要

首都ヘルシンキから西に約22キロメートル離れたエスポー近くにあるボドム湖[1]で起こった。1960年6月5日早朝(午前4時から午前6時にかけて)、湖畔にキャンプしにきていた4人の若者達が何者かにナイフと鈍器で襲われ、3名が死亡、1名が重傷を負った。

1963年 – 黒四ダム竣工。総工費513億円、延べ1千万人の人手と171名の尊い犠牲により7年がかりの難工事を経て完成[5]。

黒部ダム(くろべダム)は、富山県東部の中新川郡立山町を流れる黒部川水系の黒部川に建設された水力発電専用のダムである。1956年(昭和31年)着工、太田垣士郎指揮の下、171人の殉職者を出し7年の歳月をかけて、1961年1月に送電を開始[2] し、1963年(昭和38年)6月5日に完成した[3][4]。貯水量2億トン。

総工費は建設当時の費用で513億円[8]。これは当時の関西電力資本金の5倍という金額である。作業員延べ人数は1,000万人[8]、工事期間中の転落やトラック、トロッコなど労働災害による殉職者は171人にも及んだ[4](ちなみに黒部第三ダム建設時には、建設現場以外で宿舎(飯場)が2度の泡雪崩の被害を受け108名、ダイナマイト自然発火事故で8名が死亡した)。

1956年(昭和31年)着工当時、「電力開発は1万kW生むごとに死者が1人出る」と言われていた[7]。完成時、25万kWを生み出した黒部ダムの建設工事で171人の殉職者を出したことは、人が行くこと自体が当時命がけだった秘境の黒部峡谷でのダム建設の困難さを示している。また当時、黒部峡谷のダム建設現場では「黒部にケガはない」と言われていた。しかしその言葉の意味は、工事での労働災害が無いという意味ではなく、「落ちたらケガでは済まない」という意味であり、工事のミスは即死を意味した[7]。

1968年 – 米大統領選候補のロバート・ケネディ上院議員が銃撃される。翌日死亡。(ロバート・ケネディ暗殺事件)

1983年 – 客船アレクサンドル・スヴォーロフ号がウリヤノフスク鉄道橋に衝突、177名の死者を出す。

2003年 – パキスタンを最高気温51℃の熱波が襲う。死者26人。

チャットgpt先生の6月5日のエッセイ

6月5日――「決定的優勢でも、戦争は簡単に終わらない」

6月5日という日は、歴史を並べてみると奇妙な共通点が見えてくる。
それは「圧倒的優勢側ですら、現実には消耗し、迷い、予想外の苦戦を強いられる」という事実だ。

人間は後世になるほど、「勝った側は最初から勝つべくして勝った」と整理したがる。だが実際の戦場はもっと泥臭い。情報は欠け、補給は乱れ、指揮官は誤判断し、兵士は疲労し、地形と天候が戦略を壊す。

6月5日に起きた戦争や事件を見ていくと、「近代国家の力」と「現場の現実」のズレがよく見える。


ミッドウェー――日本海軍が「主導権」を失った日

1942年6月5日のミッドウェー海戦は、日本側にとって単なる空母喪失ではなかった。

よく「運命の5分」とか「索敵失敗」で説明されるが、現実にはもっと構造的だった。

日本海軍は開戦以来、ほぼ連戦連勝だった。真珠湾、マレー沖、インド洋。
その成功体験が、「敵は混乱している」「短期決戦で崩れる」という前提を固定化していた。

一方、アメリカ側は暗号解読で作戦意図をかなり把握していた。
つまり日本は「奇襲する側」のつもりで、「待ち伏せされる側」になっていた。

さらに重要なのは工業力だ。

日本は空母4隻喪失で機動部隊の中核を失った。
しかしアメリカは、敗北してもなお新造艦を次々投入できた。

ここで失われたのは艦艇だけではない。熟練搭乗員、整備体系、攻撃運用思想、そして「主導権」だった。

ただし現実には、ミッドウェー後も日本軍は即崩壊したわけではない。
ガダルカナル以降、むしろ局地戦では恐ろしい粘りを見せる。

ここが歴史の面白いところで、「戦略的敗北」と「戦術的戦闘力」は別問題なのだ。


沖縄戦――米軍が「勝ちながら消耗した」戦場

1945年6月5日の沖縄戦は、近代戦史の中でも異様な戦いだった。

後年、日本側では「玉砕」「悲劇」、米側では「勝利した上陸戦」と整理されることが多い。だが実際の沖縄戦は、そのどちらだけでもない。

リアリスト目線で見るなら、これは「圧倒的物量を持つ米軍が、それでも想定以上に止められた戦場」だった。

米軍は海空制圧を完全に握っていた。補給量、火力、航空優勢、艦砲射撃能力、工兵能力、医療能力――すべて日本軍を凌駕していた。普通なら戦線はもっと早く崩れる。

しかし沖縄では違った。

首里防衛線、日本軍地下陣地、逆斜面陣地、持久戦術。
日本軍は「機動戦で勝てない」ことを理解した上で、「米軍の前進速度を極限まで落とす」方向へ戦術を切り替えていた。

特に米軍にとって厄介だったのは、砲撃しても地下壕から再出現する陣地だった。

太平洋戦争前半の島嶼戦では、艦砲射撃後に上陸して制圧、という形がある程度成立していた。だが沖縄では、日本軍は火力をやり過ごしてから反撃する。

つまり米軍は「撃てば終わる戦争」を期待していたのに、「歩兵が泥の中で一つずつ潰す戦争」を強制された。

しかも沖縄の地形と気候は最悪だった。

雨季、粘土質、崩壊する道路、車両行動制限、補給停滞。
大量の物資を持つ軍隊ほど、補給が詰まると逆に苦しくなる。

米軍の記録を見ると、「補給が危険域に近づいた」「前進速度が異常に遅い」という記述が繰り返される。

これは単なる精神論ではない。
戦術的に、日本軍防御が機能していたということだ。


大田実と海軍沖縄部隊――「撤退拒否」は感情論だけではない

大田実の電文は、戦後しばしば「悲壮な玉砕精神」の象徴として扱われた。

しかし実際には、彼の判断には軍事合理性も含まれていた。

小禄方面の海軍部隊が残存して抵抗を続ければ、米軍兵力を拘束できる。
その間に陸軍主力が南部再編を行える。

つまり「時間を買う」戦いだった。

もちろん結果的には戦局を変えられない。
しかし1945年時点の日本軍上層部は、「勝利」より「どれだけ出血を強いるか」に戦略目的が変化していた。

これは本土決戦構想にも直結する。

そして米軍側は、この沖縄戦の損害を見て本土上陸時の死傷者予測を大幅に引き上げる。

沖縄戦を単なる「敗北」とだけ見ると、この現実が抜け落ちる。

実際には、米軍は勝利したが、「日本本土侵攻コスト」の恐ろしさを痛感した。
それは原爆投下、ソ連参戦、終戦判断にまで連鎖していく。


黒部ダム――戦争ではない「総力戦」

1963年完成の黒部ダムもまた、別の意味で総力戦だった。

171人死亡。
現代感覚では異常だが、当時の日本は「電力不足を放置すると国家成長が止まる」という危機感を持っていた。

高度経済成長は、精神論ではなく電力で動く。

そのために秘境へトンネルを掘り、雪崩地帯に飯場を置き、ダイナマイトを扱い、膨大な人命を投入した。

戦後日本は平和国家と言われるが、経済建設の現場には戦時動員に近い空気が残っていた。

「国家のため」というより、「止まると終わる」という切迫感だった。


6月5日の歴史が示すもの

6月5日の歴史を並べると、理屈通りに進まない現実ばかりが見える。

  • 圧倒的優勢でも苦戦する
  • 勝者も消耗する
  • 技術優位だけでは決着しない
  • 補給と地形が戦局を変える
  • 「精神主義」だけではなく、合理的持久戦も存在する
  • 敗北側にも局地的戦術成功はある

特に沖縄戦は、戦後日本では長く「悲惨さ」のみが強調され、逆に一部では「精神力神話」に偏った。

だが現実には、そのどちらでもない。

日本軍は戦略的には敗北していた。
しかし戦術的には、米軍を極めて深刻に消耗させた。

そして米軍も、物量で押し潰しただけではない。
泥濘、洞窟、夜襲、狙撃、補給停滞の中で、歩兵が一歩ずつ前進していた。

「勝ったから楽だった」わけではない。

そこを直視すると、6月5日は単なる年表ではなく、「近代国家同士が本気で衝突した時の現実」が凝縮された日として見えてくる。