kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日8月5日 天明3年7月8日 (1783年8月5日)天明大噴火、ほか写真wikipedia夜分大焼之図

8月5日

20260805水曜日旧暦6月23日仏滅(辛亥かのといシンガイ)月齢 21.7

43番丙午ひのえうま年 32番乙未きのとひつじ月 48番辛亥かのとい日

吉方位 隠遁日 辛亥かのとい日 北 大吉 

https://ja.wikipedia.org/wiki/8%E6%9C%885%E6%97%A5

8月5日の出来事

1716年 – ペーターヴァルダインの戦い オーストリアトルコ戦争 

戦争:墺土戦争

年月日:1716年8月5日

場所:セルビア・ヴォイヴォディナ、ペーターヴァルダイン

結果:オーストリアの勝利

損害  死者 オーストリア 3000  オスマントルコ 70000

1763年 – ポンティアック戦争: ブッシーランの戦い (en:Battle of Bushy Run)

インディアン対英国軍 死者 双方合わせて100名以上。

1783年(天明3年7月8日) – 浅間山の天明大噴火が発生[1]。

火山        浅間山

年月日    天明3年7月7日 (1783年8月4日)[2]

天明3年7月8日 (1783年8月5日)

噴火様式                 プリニー式噴火[3][4][5]

火山爆発指数        4

影響        死者1,624人

流失家屋1,151戸

焼失家屋51戸

倒壊家屋130戸余り

1862年 – 南北戦争: バトンルージュの戦い

時             1862年8月5日

場所        ルイジアナ州バトンルージュ

結果        北軍の勝利

損害 北軍 南軍 双方で800名以上死傷。

1864年 – 南北戦争: モービル湾の海戦

時             1864年8月2日-23日[1]

場所        アラバマ州海岸沖モービル湾口

結果        北軍の勝利

損害 死者 北軍 151名 南軍 13名

1929年 – 北海道歌志内市の住友坂炭鉱でガス爆発事故。70人死亡[2]。

1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 前橋空襲[6]。

1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 湯の花トンネル列車銃撃事件。

死者50名以上、負傷者130名以上

1945年-沖縄戦8月5日・… 食糧は米軍から無償で配給されますが、毎日、日照りの中を配給所の行列にならぶのが大変な日課でした。もっと困ったのは水不足でした。何百人という人が同じ井戸から水を汲んでいくので、ぼやぼやしていると底まで干上がってしまいます。空き缶のツルベで13尋もたぐって汲み上げても、赤土のまじった水が底の方に少ししかたまっていませんでした。飲み水を確保するのがせいいっぱいで、とても水浴びするだけの水はありません。そういえば、戦争がはじまってから風呂に入った覚えもありません。

…テント小屋には床もありません。地べたに適当な敷物をしいて横になるだけです。かぶる物もありません。中はむし暑く、外から熱風が吹き込んできて、便所のいやな臭いを運んできます。便所は、畑の真ん中に穴を掘って、板を渡して前だけテント布で隠したアメリカ式の簡易便所がつくられていました。蝿と蚊がぶんぶんする不衛生な環境の中、体力が衰弱して、食事が合わないので、ほとんどの人が下痢をしていました。悪性の下痢がまんえんして、毎日のように死人が出ました。葬式班というのがあって、毎日、死人を担架にのせて、畑に穴を掘って、着のみ着のままの姿の死体を担架から穴にほうりこんで土をかぶせるだけ、犬猫のような扱いでした。<《「沖縄戦 ある母の記録 戦争は親も子も夫も奪ってしまった・・・」(安里要江・大城将保/高文研) 158-159頁》>・古知屋はヤンバルの宜野座村の集落で、戦前は開墾地のあったところです。開墾地の跡に米軍が建てたカヤブキ長屋がいっぱい並んでいて、首里、那覇あたりの避難民の収容地区になっていました。先に来た人たちはいい場所を取って住んでいましたが、後から移動してきた私たちには山の奥の不便な場所しか与えられませんでした。佳子ねえさんの家族は隣の長屋を割り当てられました。屋内は床も敷物もありません。でも、久しぶりに親子3人そろっただけでも希望がわいてきました。

「こうして生きているんだから、那覇へ帰ったら、また生活を建てなおそうね」と夫と励まし合いました。

まず、食べることです。地面を掘って竃をこしらえて、6斤缶づめの空き缶を鍋の代用にして配給でもらった米に野草や調味料をごっちゃに雑炊をたいて、それが主食でした。古知屋に来てからようやく水浴びができました。考えてみると、艦砲射撃がはじまった3月23日以来、お風呂に入ったという覚えがないのです。小川の流れに浸かって戦場の泥と垢を落としていくと、ようやく平和がよみがえったんだなあという実感がわいてきました。

《「沖縄戦 ある母の記録 戦争は親も子も夫も奪ってしまった・・・」(安里要江・大城将保/高文研) 161-162頁より》

1986年 – 8.5水害: 宮城県鹿島台町(現・大崎市)で、吉田川の氾濫のため約1200世帯が浸水するなど、各地で台風10号およびその台風から変わった低気圧によって、死者・行方不明者20人、浸水・損壊家屋は100,000棟を超える大きな被害になった[7]。

2018年 – インドネシア、ロンボク島でマグニチュード6.9の地震が発生。400人以上が死亡[10]。

2020年 – レバノンの首都ベイルートで爆発事故が発生[11]。硝酸アンモニウムの管理瑕疵が爆発の原因とみられている。30万人以上が避難し、100人超死亡、4000人超が負傷。

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1716年 – ペーターヴァルダインの戦い オーストリアトルコ戦争 

戦争:墺土戦争

年月日:1716年8月5日

場所:セルビア・ヴォイヴォディナ、ペーターヴァルダイン

結果:オーストリアの勝利

損害  死者 オーストリア 3000  オスマントルコ 70000

ペーターヴァルダインの戦い(独: Schlacht von Peterwardein)は、墺土戦争における戦闘の一つで、1716年8月5日に現在のセルビア・ヴォイヴォディナ自治州南バチュカ郡の都市ペトロヴァラディン(ペーターヴァルダイン)でハプスブルク帝国(オーストリア)とオスマン帝国が衝突した。

1763年 – ポンティアック戦争: ブッシーランの戦い (en:Battle of Bushy Run)

インディアン対英国軍 死者 双方合わせて100名以上。

ポンティアック戦争(ポンティアックせんそう、英: Pontiac’s Rebellion)は、フレンチ・インディアン戦争/七年戦争 (1754-1763)の終結後、イギリスの五大湖地方支配に不満を抱いたインディアンが侵略者であるイギリス白人に対して1763年に戦いを挑んだ「インディアン戦争」である。

1862年 – 南北戦争: バトンルージュの戦い

時             1862年8月5日

場所        ルイジアナ州バトンルージュ

結果        北軍の勝利

損害 北軍 南軍 双方で800名以上死傷。

バトンルージュの戦い(英: Battle of Baton Rouge)は、南北戦争の1862年8月5日に、ルイジアナ州イーストバトンルージュ郡で起きた海陸の戦闘である。この戦闘に北軍が勝利することで、南軍がルイジアナ州を取り戻そうとする動きを止めた[2]。

1783年(天明3年7月8日) – 浅間山の天明大噴火が発生[1]。

火山        浅間山

年月日    天明3年7月7日 (1783年8月4日)[2]

天明3年7月8日 (1783年8月5日)

噴火様式                 プリニー式噴火[3][4][5]

火山爆発指数        4

影響        死者1,624人

流失家屋1,151戸

焼失家屋51戸

倒壊家屋130戸余り

1783年に発生した天明の浅間山噴火は、歴史に残る他のどの浅間山噴火よりも激甚な災害をもたらしたため、詳細な記録が古文書や絵図などで豊富かつ多様に残されている[19]。比較的新しい時代に起きた大噴火であったため噴出物の保存もよい[20]。

天明大噴火は、天明3年4月9日(1783年5月9日[21][22])から始まり[23]、7月7日(8月4日)夜〜翌朝頃に最盛期を迎え[24]、結果的に約90日間続いた[25][26]。大規模なマグマ噴火であり、山体崩壊や二次爆発などが発生した[27][28]。噴出物総量は4.5×108m3[27]、マグマ噴出量は0.51 DRE km3[27]、火山爆発指数はVEI4[29]、噴火マグニチュードは5.1であった[30]。

この噴火は前掛山山頂火口(釜山火口)から発生し、主として北側の山麓(現在の群馬県嬬恋村や長野原町など[31])を中心に大被害を出した[32]。特に鎌原村(現・嬬恋村大字鎌原地域)は[33]、この時の火砕流や土石なだれでほぼ壊滅したことで知られ[34][35]、村の人口の約8割にあたる477人が死亡した[36]。現在浅間山の北側にある溶岩地形・鬼押出しは、この時に形成されたものである[37]。

天明浅間山噴火を描いた絵図は、オランダ商館長のイサーク・ティチングによって『将軍列伝』(1820) の挿絵としてヨーロッパにも紹介された。

この時の噴煙は成層圏にまで達し、関東一円に大量の軽石や火山灰が降り注いだ[6][38][注 1]。関東平野一帯は、この噴火による火砕流や岩屑なだれ、大泥流や洪水などにより、極めて甚大な被害を受けた[2][40]。特に、吾妻川や利根川を流下して太平洋や江戸湾にまで到達するほどの大規模火山泥流の発生は、災害を極めて激甚なものとした[41]。また、火山灰が直射日光の照射を妨げて既に始まっていた天候不順を加速させたことから、天明の大飢饉の原因の1つになったとされる(後述)[42][43]。

この年はアイスランドのラキ火山などでも巨大噴火が起こり[44][45]、浅間山噴火とあいまって大量の火山灰が北半球を覆ったため[7][40]、世界的な低温・凶作が起こり[6][7]、天明飢饉だけでなくフランス革命の遠因にもなったと考えられている[46][47][48][49]。

1864年 – 南北戦争: モービル湾の海戦

時             1864年8月2日-23日[1]

場所        アラバマ州海岸沖モービル湾口

結果        北軍の勝利

損害 死者 北軍 151名 南軍 13名

モービル湾の海戦(モービルわんのかいせん、英:Battle of Mobile Bay)は、南北戦争中1864年8月5日に行われた海戦である。デヴィッド・ファラガット海軍少将が指揮する北軍艦隊が、陸軍の支援も受けて、フランクリン・ブキャナン提督の指揮する小さな南軍艦隊と、モービル湾入口を守っていた3つの砦を攻撃した。

1929年 – 北海道歌志内市の住友坂炭鉱でガス爆発事故。70人死亡[2]。

1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 前橋空襲[6]。

1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 湯の花トンネル列車銃撃事件

死者50名以上、負傷者130名以上

湯の花トンネル列車銃撃事件(いのはなトンネルれっしゃじゅうげきじけん)は、第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)8月5日正午過ぎに東京都南多摩郡浅川町(現・八王子市裏高尾町)内の運輸省鉄道総局(国鉄。現・東日本旅客鉄道:JR東日本)中央本線、湯の花トンネル[1]でアメリカ軍のP-51戦闘機複数機が満員状態の列車に対して執拗な機銃掃射を加え、多数の死傷者が発生した事件である。列車襲撃事件としては国内最大規模であり、死者50名以上、負傷者130名以上を数えた[2]。

1945年-沖縄戦8月5日・… 食糧は米軍から無償で配給されますが、毎日、日照りの中を配給所の行列にならぶのが大変な日課でした。もっと困ったのは水不足でした。何百人という人が同じ井戸から水を汲んでいくので、ぼやぼやしていると底まで干上がってしまいます。空き缶のツルベで13尋もたぐって汲み上げても、赤土のまじった水が底の方に少ししかたまっていませんでした。飲み水を確保するのがせいいっぱいで、とても水浴びするだけの水はありません。そういえば、戦争がはじまってから風呂に入った覚えもありません。

…テント小屋には床もありません。地べたに適当な敷物をしいて横になるだけです。かぶる物もありません。中はむし暑く、外から熱風が吹き込んできて、便所のいやな臭いを運んできます。便所は、畑の真ん中に穴を掘って、板を渡して前だけテント布で隠したアメリカ式の簡易便所がつくられていました。蝿と蚊がぶんぶんする不衛生な環境の中、体力が衰弱して、食事が合わないので、ほとんどの人が下痢をしていました。悪性の下痢がまんえんして、毎日のように死人が出ました。葬式班というのがあって、毎日、死人を担架にのせて、畑に穴を掘って、着のみ着のままの姿の死体を担架から穴にほうりこんで土をかぶせるだけ、犬猫のような扱いでした。<《「沖縄戦 ある母の記録 戦争は親も子も夫も奪ってしまった・・・」(安里要江・大城将保/高文研) 158-159頁》>・古知屋はヤンバルの宜野座村の集落で、戦前は開墾地のあったところです。開墾地の跡に米軍が建てたカヤブキ長屋がいっぱい並んでいて、首里、那覇あたりの避難民の収容地区になっていました。先に来た人たちはいい場所を取って住んでいましたが、後から移動してきた私たちには山の奥の不便な場所しか与えられませんでした。佳子ねえさんの家族は隣の長屋を割り当てられました。屋内は床も敷物もありません。でも、久しぶりに親子3人そろっただけでも希望がわいてきました。

「こうして生きているんだから、那覇へ帰ったら、また生活を建てなおそうね」と夫と励まし合いました。

まず、食べることです。地面を掘って竃をこしらえて、6斤缶づめの空き缶を鍋の代用にして配給でもらった米に野草や調味料をごっちゃに雑炊をたいて、それが主食でした。古知屋に来てからようやく水浴びができました。考えてみると、艦砲射撃がはじまった3月23日以来、お風呂に入ったという覚えがないのです。小川の流れに浸かって戦場の泥と垢を落としていくと、ようやく平和がよみがえったんだなあという実感がわいてきました。

《「沖縄戦 ある母の記録 戦争は親も子も夫も奪ってしまった・・・」(安里要江・大城将保/高文研) 161-162頁より》

1986年 – 8.5水害: 宮城県鹿島台町(現・大崎市)で、吉田川の氾濫のため約1200世帯が浸水するなど、各地で台風10号およびその台風から変わった低気圧によって、死者・行方不明者20人、浸水・損壊家屋は100,000棟を超える大きな被害になった[7]。

2018年 – インドネシア、ロンボク島でマグニチュード6.9の地震が発生。400人以上が死亡[10]。

2020年 – レバノンの首都ベイルートで爆発事故が発生[11]。硝酸アンモニウムの管理瑕疵が爆発の原因とみられている。30万人以上が避難し、100人超死亡、4000人超が負傷。

チャットgpt先生の8月5日のエッセイ

8月5日――「勝利」と「災害」が同じ暦に並ぶ日

8月5日という日付を眺めると、ある特徴が浮かび上がる。英雄譚でも記念日でもない。むしろ「大きな出来事は、軍事・自然・産業という巨大システムが限界に達したときに起こる」という現実である。

1716年のペーターヴァルダインの戦いでは、数万規模の兵力が正面から衝突し、オスマン軍は甚大な損害を受けた。1763年のブッシーランの戦いは、七年戦争後の権力空白が新たな戦争を生んだことを示している。1862年のバトンルージュ、1864年のモービル湾でも同じ構図が続く。戦場は違っても、本質は補給路、地形、指揮系統、兵站をめぐる競争であり、戦争は精神論ではなく巨大な物流システム同士の衝突である。

一方で1783年の浅間山天明大噴火は、人間社会が自然現象の前では局地的存在に過ぎないことを示した。火砕流、泥流、降灰は村を消し、農業を破壊し、飢饉へ連鎖した。さらに当時はアイスランド・ラキ火山の噴火とも時期が重なり、局地災害は広域の気候変動へ接続された。つまり、一つの噴火は火山学だけの出来事ではなく、農業、流通、人口、政治にまで影響する「システム障害」であった。

20世紀に入ると、災害の性格はさらに複雑になる。1929年の住友坂炭鉱ガス爆発は地下エネルギー開発のリスクであり、1986年の8.5水害は河川管理と都市化の問題、2018年ロンボク島地震はプレート運動、2020年ベイルート爆発は危険物管理という行政・物流システムの破綻だった。原因は異なるが、共通するのは「巨大なエネルギーが制御を失った」という一点である。

1945年8月5日の記録は、さらに別の側面を見せる。前橋空襲、湯の花トンネル列車銃撃事件、そして沖縄収容所での生活記録。ここには勝敗の物語はほとんど存在しない。残るのは、水、食料、排泄、衛生、寝床という生活基盤だけである。

沖縄の証言を読むと、水を得るために深い井戸を何度も汲み、食事は配給米と野草の雑炊、風呂には数か月入れず、下痢が蔓延し、死者は毎日のように埋葬される。戦争末期になると、人間社会は国家や思想よりも先に、インフラの維持能力によって生活水準が決まることが分かる。都市でも農村でも、最後まで機能するのは理念ではなく、水源と食料供給である。

興味深いのは、これらが全く異なる時代・地域で起きながら、共通した構造を持っていることである。

戦争は補給が切れることで崩壊し、噴火は農業と物流を断ち、洪水は交通網を遮断し、爆発事故は管理体制を破壊する。入口は異なっていても、出口は社会システムの停止へ収束する。

歴史はしばしば戦いの勝者や英雄を語る。しかし8月5日の出来事を並べると、むしろ見えてくるのは「システムの耐久限界」である。軍隊も都市も鉱山も港湾も、平時には巨大な効率を誇るが、一度限界を超えれば、その規模の大きさが被害の大きさへ反転する。

8月5日は、歴史が進歩だけで積み重なってきた日ではない。巨大化した社会ほど、一度の破綻が広範囲へ波及するという現実を繰り返し記録してきた日である。個々の事件は偶然でも、その背後にある構造は驚くほど共通している。人間は時代ごとに技術も制度も変えてきたが、「エネルギーを集め、物流を集中させ、巨大なシステムを築く」という社会の基本構造は変わらない。そして歴史に残る大事件の多くは、その構造が限界に達した瞬間に姿を現すのである。