6月4日
20260604木曜日旧暦4月19日仏滅(46番己酉つちのととりキユウ)月齢 18.2
43番丙午ひのえうま年 30番癸巳みずのとみ月 46番己酉つちのととり日
吉方位 陽遁日 己酉つちのととり日 南東 大吉 年末まであと210日
https://ja.wikipedia.org/wiki/6%E6%9C%884%E6%97%A5
6月4日の出来事
1615年(元和元年5月8日) – 大坂夏の陣: 徳川家康が豊臣秀頼と淀殿を切腹に追い込み、豊臣氏が滅亡[1]。40000人以上が死亡。
1745年 – オーストリア継承戦争: ホーエンフリートベルクの戦い
戦争:オーストリア継承戦争
年月日:1745年6月4日
場所:シュレージエン、シュトリーガウ西方ホーエンフリートベルク
結果:プロイセンの勝利
損害:プロイセン軍とオーストリア軍双方5万強で激突 戦死傷 プロイセン軍4800人 オーストリア軍 13000人強。
1928年 – 満州にて関東軍の河本大作が軍閥の張作霖を爆殺。(張作霖爆殺事件)
1942年 – 第二次世界大戦: ミッドウェー海戦が始まる。(日本時間では6月5日)
1945年沖縄戦6月4日:米軍:・6月3日に知念半島を分断した米軍は、4日、ついに小禄半島に上陸する。海軍は5月29日には槍部隊同然で小禄に差し戻されていた。米軍は小禄半島の北端から上陸する。:日本軍:・1、具志頭、八重瀬岳、与座岳、国吉、真栄里の線をもって、軍の新主陣地帯の前線とする。
2、混成旅団(ブログ註・第44旅団)は、具志頭付近より八重瀬岳に亘る間に陣地を占領する。
3、第24師団は、右は混成旅団に連繋し、与座岳を経て、真栄里に亘る間に陣地を占領する。
4、第62師団は、軍の背面海岸正面の守備に任じつつ、兵力の整頓、休養を行い、随時陸正面随処に、応援し得る態勢を整う。
5、軍砲兵隊は、主力をもって真栄平付近以東の地区に陣地を占領し、随時随処に、主火力を集中し得る如く準備する。戦闘準備の重点は、第24師団正面とする。
6、海軍陸戦隊は、軍主陣地内中央部に位置し、軍の総予備隊となる。』(338頁)
《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 338頁より》・6月4日午前5時、米第6海兵師団は遂に小禄飛行場北部に上陸してきた。小禄の沖縄方面根拠地隊はここに米軍の攻撃を直接うけることになった。米軍が嘉手納海岸に上陸して以来2ヵ月目のことである。… 小禄には、老人らを抱えているため他地区へ疎開できなかった人も大勢隠れていたが、それらの住民の多くも海軍部隊と運命を共にせざるを得なくなった。当初、海軍部隊は陸軍の喜屋武一帯への後退を掩護した後、南部に撤退する予定であったが、米軍の進攻が急速であったため後退することもできず、結局、小禄地区を死守することになった。
《「沖縄 旧海軍司令部壕の軌跡」(宮里一夫著/ニライ社) 101頁より》・米軍は海と陸から砲弾の雨を注ぎこみ、その後から戦車を先頭にして歩兵部隊が突撃してきた。まず、火焔戦車と爆雷等をもって日本軍のひそむ壕に攻撃をかけ、次に黄りん弾やガソリンなどを投げ入れ、日本軍の壕を一つずつつぶした。これに対し日本軍は夜間の斬り込みと、急造爆雷を抱いて戦車に体当たりすることが主なる戦法であった。
戦闘概報:
午前5時水陸両用戦車約100、兵員約600名小禄(鏡水)付近に上陸を開始する。機銃、迫撃砲、噴進砲等をもって、これに猛撃を与え、さらに北明治橋を修理中の敵に対しても猛射を加える等、撃退に努めたが、敵は逐次滲透し午後6時の戦線は当間、安次嶺、気象台前、糸満街道以西に及んでいる。夜間、各隊は全力をあげて挺身切込を決行した。なお、鏡水海岸砲台員は前10メートルにおいて、敵兵約40名と交戦し20名を殺傷した。
《「沖縄 旧海軍司令部壕の軌跡」(宮里一夫著/ニライ社) 101、101-102頁より》・「いいや」とこちらに向かって歩きながら、男は答えた。「薄汚いばあさんはいた。苦しいので殺してほしいというから、思いどおりにしてやったよ!」衛生兵と私は顔を見合わせ、ついで近づいてくる男を見つめた。おとなしく物腰のやわらかな若者で、民間人を冷酷に殺害できる柄ではなかった。あばら家の戸口に崩折れている色あせたキモノ姿の人影を見たとたん、私は逆上した。
「なんということをするんだ。おれだって撃ってくれと頼まれた。だが、衛生兵を呼んで助けにいくところだったんだ!」老婆を撃ち殺した男は、困惑の表情で私を見た。「この人でなし野郎!」と私は叫んだ。…「おれたちが殺さなきゃいけないのはニップなんだ。こんなばあさんじゃないんだ!」…下士官がやってきて何事だと尋ねた。衛生兵と私が事情を話すと、上官も烈火のごとく怒って、「この馬鹿ものめが」とどやしつけた。
《「ペリリュー・沖縄戦記」(ユージン・B・スレッジ: 伊藤真/曽田和子 訳 /講談社学術文庫) 432-435頁より》
1989年 – 天安門事件: 民主化要求運動で最大100万人が集結していた天安門広場に、デモ鎮圧のため中国人民解放軍が出動。6月3日夜から4日未明にかけて無差別に発砲してデモを鎮圧した[4]。中国当局の発表では死者は319人とされているが、英外交文書では死者「1万人以上」と推計されるなど、真相は明らかになっていない[5]。
1989年 – ソ連・ウラル地方で天然ガスのパイプラインから漏れたガスが大爆発し、通りかかった列車2本が吹き飛ばされて607人が死亡する。 (ウファ鉄道事故)
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1615年(元和元年5月8日) – 大坂夏の陣: 徳川家康が豊臣秀頼と淀殿を切腹に追い込み、豊臣氏が滅亡[1]。40000人以上が死亡。
1745年 – オーストリア継承戦争: ホーエンフリートベルクの戦い
戦争:オーストリア継承戦争
年月日:1745年6月4日
場所:シュレージエン、シュトリーガウ西方ホーエンフリートベルク
結果:プロイセンの勝利
損害:プロイセン軍とオーストリア軍双方5万強で激突 戦死傷 プロイセン軍4800人 オーストリア軍 13000人強。
ホーエンフリートベルクの戦い(ドイツ語: Schlacht bei Hohenfriedberg)は、1745年6月4日に行われたオーストリア継承戦争における会戦である。プロイセン軍と、オーストリア(ハプスブルク君主国)軍とザクセン軍の連合軍が戦い、プロイセン軍が勝利した。
1928年 – 満州にて関東軍の河本大作が軍閥の張作霖を爆殺。(張作霖爆殺事件)
張作霖爆殺事件(ちょうさくりんばくさつじけん)は、1928年(昭和3年・民国17年)6月4日、中華民国奉天市(現・中華人民共和国遼寧省瀋陽市)近郊で、日本の関東軍が奉天軍閥の指導者張作霖を暗殺した事件。 関東軍はこの事件を国民革命軍の仕業に見せかけ、それを口実に南満洲に進行し占領しようとしていた。この事実は戦後まで秘匿されていた[1]。戦後、東京裁判で元陸軍田中隆吉および社会党左派で衆議院議員だった森島守人による証言が出るまでは犯人は不明とされていた[2]。
別名「奉天事件」[3]。中華民国では事件現場の地名を採って「皇姑屯事件」(こうことんじけん)とも言う。第二次世界大戦終戦まで事件の犯人が公表されず、日本政府内では「満洲某重大事件」(まんしゅうぼうじゅうだいじけん)と呼ばれていた[4]。
1942年 – 第二次世界大戦: ミッドウェー海戦が始まる。(日本時間では6月5日)
1942年4月、山本五十六司令官率いる連合艦隊が中心となり、アメリカ軍の基地となっていたハワイ諸島北西のミッドウェー島を攻略し、アメリカ艦隊の早期壊滅を目指す作戦が立案される。それに対し、日本側の暗号を解読することにより作戦を察知したアメリカ軍のチェスター・ニミッツ司令官はハワイから空母部隊を出撃させ迎撃を行った。それぞれの主力は日本側が南雲忠一司令官率いる第一航空艦隊の空母4隻(艦載機248機)、アメリカ側はフランク・J・フレッチャーとレイモンド・スプルーアンスの両司令官率いる機動部隊の空母3隻(艦載機233機)とミッドウェー島基地の航空部隊(126機)であった。航空兵力で100機以上の劣勢を強いられた日本の空母部隊は索敵の失敗もあって攻撃準備中にアメリカ軍急降下爆撃機の急襲を受けることとなり、壊滅的な損害を被った。結果として日本側は空母4隻と重巡洋艦1隻を撃沈され、3,000人を超える兵士が戦死し、艦載機を全て失った。勝利したアメリカ軍も空母1隻と駆逐艦1隻を撃沈され航空機約150機を失った[1]。ただし、日本の航空機搭乗員は多くが脱出に成功した結果、戦死者は121名にとどまり、200名を超える搭乗員が戦死したアメリカ軍を下回った[6]。この戦い以後、太平洋戦争の主戦場はソロモン諸島とその周辺に移り、再編された日本機動部隊とアメリカ軍の間で激戦が繰り広げられることになる。
1945年沖縄戦6月4日:米軍:・6月3日に知念半島を分断した米軍は、4日、ついに小禄半島に上陸する。海軍は5月29日には槍部隊同然で小禄に差し戻されていた。米軍は小禄半島の北端から上陸する。:日本軍:・1、具志頭、八重瀬岳、与座岳、国吉、真栄里の線をもって、軍の新主陣地帯の前線とする。
2、混成旅団(ブログ註・第44旅団)は、具志頭付近より八重瀬岳に亘る間に陣地を占領する。
3、第24師団は、右は混成旅団に連繋し、与座岳を経て、真栄里に亘る間に陣地を占領する。
4、第62師団は、軍の背面海岸正面の守備に任じつつ、兵力の整頓、休養を行い、随時陸正面随処に、応援し得る態勢を整う。
5、軍砲兵隊は、主力をもって真栄平付近以東の地区に陣地を占領し、随時随処に、主火力を集中し得る如く準備する。戦闘準備の重点は、第24師団正面とする。
6、海軍陸戦隊は、軍主陣地内中央部に位置し、軍の総予備隊となる。』(338頁)
《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 338頁より》・6月4日午前5時、米第6海兵師団は遂に小禄飛行場北部に上陸してきた。小禄の沖縄方面根拠地隊はここに米軍の攻撃を直接うけることになった。米軍が嘉手納海岸に上陸して以来2ヵ月目のことである。… 小禄には、老人らを抱えているため他地区へ疎開できなかった人も大勢隠れていたが、それらの住民の多くも海軍部隊と運命を共にせざるを得なくなった。当初、海軍部隊は陸軍の喜屋武一帯への後退を掩護した後、南部に撤退する予定であったが、米軍の進攻が急速であったため後退することもできず、結局、小禄地区を死守することになった。
《「沖縄 旧海軍司令部壕の軌跡」(宮里一夫著/ニライ社) 101頁より》・米軍は海と陸から砲弾の雨を注ぎこみ、その後から戦車を先頭にして歩兵部隊が突撃してきた。まず、火焔戦車と爆雷等をもって日本軍のひそむ壕に攻撃をかけ、次に黄りん弾やガソリンなどを投げ入れ、日本軍の壕を一つずつつぶした。これに対し日本軍は夜間の斬り込みと、急造爆雷を抱いて戦車に体当たりすることが主なる戦法であった。
戦闘概報:
午前5時水陸両用戦車約100、兵員約600名小禄(鏡水)付近に上陸を開始する。機銃、迫撃砲、噴進砲等をもって、これに猛撃を与え、さらに北明治橋を修理中の敵に対しても猛射を加える等、撃退に努めたが、敵は逐次滲透し午後6時の戦線は当間、安次嶺、気象台前、糸満街道以西に及んでいる。夜間、各隊は全力をあげて挺身切込を決行した。なお、鏡水海岸砲台員は前10メートルにおいて、敵兵約40名と交戦し20名を殺傷した。
《「沖縄 旧海軍司令部壕の軌跡」(宮里一夫著/ニライ社) 101、101-102頁より》・「いいや」とこちらに向かって歩きながら、男は答えた。「薄汚いばあさんはいた。苦しいので殺してほしいというから、思いどおりにしてやったよ!」衛生兵と私は顔を見合わせ、ついで近づいてくる男を見つめた。おとなしく物腰のやわらかな若者で、民間人を冷酷に殺害できる柄ではなかった。あばら家の戸口に崩折れている色あせたキモノ姿の人影を見たとたん、私は逆上した。
「なんということをするんだ。おれだって撃ってくれと頼まれた。だが、衛生兵を呼んで助けにいくところだったんだ!」老婆を撃ち殺した男は、困惑の表情で私を見た。「この人でなし野郎!」と私は叫んだ。…「おれたちが殺さなきゃいけないのはニップなんだ。こんなばあさんじゃないんだ!」…下士官がやってきて何事だと尋ねた。衛生兵と私が事情を話すと、上官も烈火のごとく怒って、「この馬鹿ものめが」とどやしつけた。
《「ペリリュー・沖縄戦記」(ユージン・B・スレッジ: 伊藤真/曽田和子 訳 /講談社学術文庫) 432-435頁より》
1989年 – 天安門事件: 民主化要求運動で最大100万人が集結していた天安門広場に、デモ鎮圧のため中国人民解放軍が出動。6月3日夜から4日未明にかけて無差別に発砲してデモを鎮圧した[4]。中国当局の発表では死者は319人とされているが、英外交文書では死者「1万人以上」と推計されるなど、真相は明らかになっていない[5]。
1989年 – ソ連・ウラル地方で天然ガスのパイプラインから漏れたガスが大爆発し、通りかかった列車2本が吹き飛ばされて607人が死亡する。 (ウファ鉄道事故)
チャットgpt先生の6月4日のエッセイ
6月4日――「終わらせる側」の論理がむき出しになる日
6月4日という日付を並べると、そこには妙な共通性がある。
それは「相手を完全に終わらせる」という意思が、戦略・政治・軍事の全領域で露骨に現れる日だ。
まず1615年、。
ここで徳川方は、単に豊臣軍を破ったのではない。豊臣家という「再結集の核」を物理的に消滅させた。豊臣秀頼と淀殿を生かしておけば、西国大名・浪人・反徳川勢力の象徴として機能し続ける。だから徹底的に終わらせた。近世国家形成とは、理想ではなく「潜在的内戦要因の除去」である。
1745年のも同じだ。
フリードリヒ大王のプロイセンは、兵数では決して絶対優勢ではなかった。しかし軍制・機動・指揮統制の密度が違った。近代戦とは「兵の数」だけではなく、「統制を維持した側」が勝つゲームへ変わり始めていた。ここでプロイセン軍は、後のドイツ式戦争技術の原型を示した。
1928年のでは、その論理がさらに冷酷になる。
関東軍は張作霖を殺せば満洲が混乱し、日本に有利な秩序が作れると考えた。しかし実際には逆だった。張学良は国民政府側へ接近し、日本はより大規模な介入へ進まざるを得なくなる。
ここで重要なのは、「現地軍が中央政府の統制を超えて独自行動する構造」が完成していたことだ。つまり日本はこの段階で、国家としての意思決定系統が半ば壊れていた。後の戦争拡大は精神論だけでなく、統治機構の機能不全でもある。
そして1942年、。
日本側は戦術的熟練では依然として優秀だった。しかし「索敵」「情報」「損耗前提の工業力」という総力戦の基盤でアメリカに負けていた。
ミッドウェーを境に、太平洋戦争は「勝てる可能性のある戦争」から、「どう負けるかの戦争」へ変質する。
だが、1945年6月4日のになると、話はさらに重くなる。
沖縄戦は、日本側の敗北が確定していた戦いだった。
にもかかわらず、米軍は異常な苦戦を強いられた。
これは日本側美化ではなく、純軍事的事実である。
硫黄島も凄惨だったが、沖縄は規模が違う。兵力、地形、民間人密集度、地下陣地、持久戦能力、補給距離、その全てが巨大だった。米軍は制海権・制空権・火力・物量を完全支配していたにもかかわらず、想定以上の損耗を出した。
特に小禄・首里・八重瀬周辺では、「制圧した」と思った地点から再び攻撃が出る。壕を潰しても別坑道から兵が出る。夜襲で接近される。火焔放射・爆雷・黄燐弾を投入してもなお抵抗が止まらない。
米軍はこの戦闘で、「火力優勢だけでは地下陣地化した防御戦を短期制圧できない」という現実を学んだ。
だからこそ、後の本土上陸想定は急速に悲観化する。
広島・長崎への原爆投下やソ連参戦だけでなく、「沖縄型消耗戦を本土でやる悪夢」が、終戦判断に巨大な影響を与えたのは否定し難い。
一方、日本軍側も末期状態だった。
補給は崩壊し、重火器も乏しく、戦術は肉薄特攻へ収束していく。急造爆雷で戦車へ突撃する戦法は、勇敢というより「他に方法が残っていない」状態を意味する。
ここで沖縄戦を単純な被害者物語に還元すると、逆に実態を見失う。
日本軍は住民を巻き込み、軍民混在構造を作った。
だが米軍もまた、「敵味方不明環境」によって極度に神経を摩耗させていた。
捕虜になった住民への報復、誤射、虐殺、暴行は現実に起きている。
これは個々の兵士の人格だけでは説明できない。
沖縄では、住民・ゲリラ・敗残兵・学徒隊・防衛隊が物理的に混在した。米軍側から見れば、「民間人に偽装した敵」が実際に存在する戦場だった。しかも数か月続く高強度戦闘で心理疲弊が蓄積していた。
すると占領軍は、「潜在的脅威を先に潰す」という行動原理へ傾く。
歴史上ほぼ全ての対反乱戦・市街戦で発生する現象だ。
もちろんそれは正当化ではない。
だが、構造として理解しないと、戦争の実態から遠ざかる。
戦争とは、「正常な倫理」が徐々に剥離し、「生存確率を上げる判断」が優先される空間である。
そして1989年のでは、その論理が国家統治へ戻ってくる。
中国共産党は、「民主化要求」そのものより、「政権崩壊の連鎖」を恐れた。
ソ連・東欧の不安定化が進む中で、北京中心部を100万人規模に占拠される状況は、政権側には“革命前夜”に見えた。
だから軍を投入した。
重要なのは、中国政府がその後の歴史で「事件の評価」より「統制成功」を優先した点だ。
経済成長と引き換えに政治統制を維持する現在の中国モデルは、ある意味で1989年6月4日に完成したとも言える。
同日のも象徴的だ。
老朽化した巨大システム、情報隠蔽、管理不全。ソ連末期の国家構造そのものが、爆発事故の形で噴き出している。
6月4日を通して見えるのは、人類史の理想ではない。
むしろ逆だ。
国家も軍隊も、追い詰められるほど「秩序維持」と「敵性除去」を優先する。
そこでは英雄譚より、補給、統制、恐怖、疲労、誤認、報復、工業力、情報優位が結果を決める。
そして最終的に生き残るのは、道徳的に最も正しい国家ではなく、
「崩壊を管理できた側」である。

