6月3日
20260603水曜日旧暦4月18日先負(45番戊申つちのえさるボシン)月齢 17.2
43番丙午ひのえうま年 30番癸巳みずのとみ月 45番戊申つちのえさる日
吉方位 陽遁日 戊申つちのえさる日 東 大吉 年末まであと211日
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6月3日の出来事
1140年 – フランスの神学者ピエール・アベラールがセンズで開かれた評議会で異端と宣告される。
1570年(元亀元年4月30日) – 越前の朝倉義景討伐中の織田信長が、近江の浅井長政の離叛のため越前から撤退。
1615年(慶長20年5月7日) – 大坂夏の陣: 大坂城天守閣が炎上。
1781年 – イタリア、カーリで地震。マグニチュード6.5、死者300人。
1818年 – 第三次マラーター戦争: マラーター同盟がイギリス東インド会社軍に降伏。
1839年(道光19年4月22日) – 清の官僚・林則徐が、英国から密輸されたアヘンを虎門へ集め、海洋投棄を開始する。阿片の処分は6月25日まで。アヘン戦争の引き金になった[3]。
1940年 – 第二次世界大戦: ドイツ空軍のパリ空襲。市民254人が死亡[5]。
1945年沖縄戦6月3日:米軍:・【訳】沖縄戦線は今や重要な段階に達しつつあったため、バックナー将軍は、… 伊平屋・粟国上陸作戦を実行するため、増援部隊「第8海兵隊」を沖縄に戻すよう要請した*1。… 第8海兵隊が沖縄に到着した5月30日までには、完全な艦砲射撃と航空支援のスケジュールがすでに確立されていた。<USMC Operations in WWII: Vol V–Victory and Occupation [Chapter II-10]>・【訳】米艦艇が特攻機による攻撃により大きな被害を出し続けていることから、特攻機の飛来を察知できる長距離レーダーと戦闘機指揮所が設置できる適切な場所を調査し、その結果、鳥島、粟国、伊平屋、久米島の占領が可能であると決定された。<USMC Operations in WWII: Vol V–Victory and Occupation [Chapter II-10]>・わずか人口2~3000人の離島を第8海兵隊が全力攻撃。実際には「敵の砲座」などは何もなかった。・6月3日、米軍は沖縄本島北西海上の伊平屋島へ上陸した。上陸に先立ち百数十隻の船団が同島を包囲し約2時間にわたって空と海から猛烈な砲爆撃をくわえた。とくに上陸地点の前泊部落は数時間におよぶ砲爆撃を浴び、数十名の犠牲者をだした。《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 178頁より》・人口2000人~3000人余りの島に 6000人以上の部隊で上陸*2。:日本軍:・八原高級参謀の回想:
首里戦線より喜屋武半島に後退した際、いくばくの兵力を集結掌握し得るかは、作戦上最も重大な問題であった。各部隊からは日々死傷者数の報告はあるが、部隊の移動、転属頻繁、しかも小部隊に分散して、無数の地下陣地に拠り、激闘を続けている関係上、その報告はすこぶる不正確である。第62師団に例をとれば、作戦主任は総員3千と言い、後方主任参謀は6千と報告する。万事がこの調子なので、軍として自信ある数字を掌握するのは至難である。
私は首里退却時、陸軍兵力4万、退却中における消耗約1万、喜屋武陣地に集結し得た兵力約3万と判定した。(376頁)
軍の主力であった第24、第62の両師団および混成旅団の戦闘員の85パーセントは消耗した。連隊、大隊、中隊といっても、今ではこれを形成する人員の大部は、未訓練で素質不良な臨時転属された後方部隊や沖縄防衛隊の要員に過ぎぬのである。
… 中隊長以下の下級幹部は、前述戦闘員とほぼ同率の損害を受けている。大隊長以上の損害は…極めて少ない。軍が現在なお比較的良好な指揮組織を維持し、秩序ある作戦指導を為し得るのはこれがためである。(377頁)
歩兵自動火器は概ね5分の1に減少した。歩兵重火器は概ね10分の1に減少した。砲兵は損害比較的少なく約2分の1である。軍砲兵隊が新陣地に集結した砲は15サンチ加農砲2門、15榴弾砲16門、高射砲10門である。(378頁)《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 頁より》
1991年 – 雲仙普賢岳で小・中規模な火砕流発生。報道関係者なども巻き込まれ43人が死亡。
1998年 – エシェデ鉄道事故: ドイツの高速鉄道ICEが脱線し、一部の車両が橋脚に激突する。101人死亡。
2019年 – スーダンの首都ハルツームで、民政移管を求める民主化デモに対し、治安部隊が攻撃を加えて強制排除。デモ参加者に100人を超える死者が発生した[16]。
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1140年 – フランスの神学者ピエール・アベラールがセンズで開かれた評議会で異端と宣告される。
1117年頃、アベラールはノートルダム大聖堂参事会員フュルベールの姪エロイーズ(1101-64)を知った。エロイーズは容貌もよく、学問に優れていたため国内でも有名であった。アベラールはエロイーズに魅力を感じ、フュルベールに住み込みの家庭教師となることを申し出た。20歳以上年の離れていた2人は熱烈な恋に陥り、やがてエロイーズは妊娠した。アベラールはエロイーズをひそかにブルターニュの妹のところに送り、そこで男の子アストロラーベ(船乗りが航海で使う天文観測器の意)が生まれた[2]。このスキャンダルに叔父フュルベールは激怒したが、アベラールは和解を申し出て、エロイーズと秘密の結婚をした。しかし叔父が和解の条件を守らないことやエロイーズを虐待することなどから、エロイーズをアルジャントゥイユ修道院に移した。これにフュルベールは激怒し、縁者らにアベラールを襲撃させ、睾丸を切断させた。アベラールは後にこれを「罪を犯したところに罰を受けた」といっている(後出の第一書簡)。実行犯2人は捕らえられ、眼をえぐられ、陰部を切除された。この事件の後、アベラールはパリを離れてサン・ドニ修道院に移り、修道士となり、エロイーズはアルジャントゥイユ修道院の修道女になった。
1570年(元亀元年4月30日) – 越前の朝倉義景討伐中の織田信長が、近江の浅井長政の離叛のため越前から撤退。
1615年(慶長20年5月7日) – 大坂夏の陣: 大坂城天守閣が炎上。
1781年 – イタリア、カーリで地震。マグニチュード6.5、死者300人。
1818年 – 第三次マラーター戦争: マラーター同盟がイギリス東インド会社軍に降伏。
1839年(道光19年4月22日) – 清の官僚・林則徐が、英国から密輸されたアヘンを虎門へ集め、海洋投棄を開始する。阿片の処分は6月25日まで。アヘン戦争の引き金になった[3]。
林則徐は1838年(道光18年)に欽差大臣(特命全権大臣のこと)に任命され、広東に赴任し、アヘン密輸の取り締まりに当たった[25][26]。
林則徐はアヘンを扱う商人からの贈賄にも応じず、現地の総督・巡撫や軍幹部らと協力してアヘン密輸に対する非常に厳しい取り締まりを行った。1839年(道光19年)には、広州の外国商人たちに、「今後、一切アヘンを清国国内に持ち込まない。」という旨の誓約書を同年3月21日までに提出した上保有するアヘンも供出するよう要求し、「今後アヘンを持ち込んだ場合は死刑に処する」と通告した[27][28]。これをイギリス商人や貿易監督官チャールズ・エリオットが無視し期限を経過したため、林則徐は彼等の滞在するイギリス商館に官兵を差し向けて包囲し、保有するアヘンの供出を約させた[29][30]。
「虎門銷煙(中国語版)」も参照
大量のアヘンの没収・収容には同年4月11日から5月18日までを要し、林則徐らはこれを6月3日から6月25日までかかって現地で処分した[31][32]。焼却処分では燃え残りが出るため、専用の処分池を建設し、アヘン塊を切断して水に浸した上で、塩と石灰を投入して化学反応によって無害化させ、海に放出した[33][32][注釈 1]。この時に処分したアヘンの総量は1,400トンを超えた[34]。
この林則徐の処置にエリオットは反発し、全てのイギリス商人に誓約書提出を禁じた上、全員を率いて広州からマカオに退去した[35][36]。抗議の意思表示であったが、清国側には何らダメージとはならなかった[37][38]。
林則徐は、外国商人の来航・交易自体を禁止することは非現実的で不可能であることを理解しており、目的は外国商人の追放ではなく、アヘン禁絶を誓約させ、合法的な商業活動に専念させることにあった[39][40]。アメリカ商人をはじめとするイギリス以外の商人の多くは、もともとアヘンとの関わりが少なく、清国当局に誓約書を提出して商業活動を続けた[41][42]。
1940年 – 第二次世界大戦: ドイツ空軍のパリ空襲。市民254人が死亡[5]。
1945年沖縄戦6月3日:米軍:・【訳】沖縄戦線は今や重要な段階に達しつつあったため、バックナー将軍は、… 伊平屋・粟国上陸作戦を実行するため、増援部隊「第8海兵隊」を沖縄に戻すよう要請した*1。… 第8海兵隊が沖縄に到着した5月30日までには、完全な艦砲射撃と航空支援のスケジュールがすでに確立されていた。<USMC Operations in WWII: Vol V–Victory and Occupation [Chapter II-10]>・【訳】米艦艇が特攻機による攻撃により大きな被害を出し続けていることから、特攻機の飛来を察知できる長距離レーダーと戦闘機指揮所が設置できる適切な場所を調査し、その結果、鳥島、粟国、伊平屋、久米島の占領が可能であると決定された。<USMC Operations in WWII: Vol V–Victory and Occupation [Chapter II-10]>・わずか人口2~3000人の離島を第8海兵隊が全力攻撃。実際には「敵の砲座」などは何もなかった。・6月3日、米軍は沖縄本島北西海上の伊平屋島へ上陸した。上陸に先立ち百数十隻の船団が同島を包囲し約2時間にわたって空と海から猛烈な砲爆撃をくわえた。とくに上陸地点の前泊部落は数時間におよぶ砲爆撃を浴び、数十名の犠牲者をだした。《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 178頁より》・人口2000人~3000人余りの島に 6000人以上の部隊で上陸*2。:日本軍:・八原高級参謀の回想:
首里戦線より喜屋武半島に後退した際、いくばくの兵力を集結掌握し得るかは、作戦上最も重大な問題であった。各部隊からは日々死傷者数の報告はあるが、部隊の移動、転属頻繁、しかも小部隊に分散して、無数の地下陣地に拠り、激闘を続けている関係上、その報告はすこぶる不正確である。第62師団に例をとれば、作戦主任は総員3千と言い、後方主任参謀は6千と報告する。万事がこの調子なので、軍として自信ある数字を掌握するのは至難である。
私は首里退却時、陸軍兵力4万、退却中における消耗約1万、喜屋武陣地に集結し得た兵力約3万と判定した。(376頁)
軍の主力であった第24、第62の両師団および混成旅団の戦闘員の85パーセントは消耗した。連隊、大隊、中隊といっても、今ではこれを形成する人員の大部は、未訓練で素質不良な臨時転属された後方部隊や沖縄防衛隊の要員に過ぎぬのである。
… 中隊長以下の下級幹部は、前述戦闘員とほぼ同率の損害を受けている。大隊長以上の損害は…極めて少ない。軍が現在なお比較的良好な指揮組織を維持し、秩序ある作戦指導を為し得るのはこれがためである。(377頁)
歩兵自動火器は概ね5分の1に減少した。歩兵重火器は概ね10分の1に減少した。砲兵は損害比較的少なく約2分の1である。軍砲兵隊が新陣地に集結した砲は15サンチ加農砲2門、15榴弾砲16門、高射砲10門である。(378頁)《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 頁より》
1991年 – 雲仙普賢岳で小・中規模な火砕流発生。報道関係者なども巻き込まれ43人が死亡。
1998年 – エシェデ鉄道事故: ドイツの高速鉄道ICEが脱線し、一部の車両が橋脚に激突する。101人死亡。
2019年 – スーダンの首都ハルツームで、民政移管を求める民主化デモに対し、治安部隊が攻撃を加えて強制排除。デモ参加者に100人を超える死者が発生した[16]。
チャットgpt先生の6月3日のエッセイ
6月3日 ― 「制度」と「物量」が人間を磨り潰す日
6月3日という日付を眺めると、そこには一貫して「巨大な制度が、人間の感情や倫理を呑み込む瞬間」が並んでいる。
異端審問、国家戦争、植民地支配、空襲、火砕流、鉄道事故、民主化弾圧。
表面上は別々の事件だが、実際にはどれも「組織が自らの論理を優先した結果」である。
中でも象徴的なのは、1140年の神学者 ピエール・アベラール の異端宣告だろう。
彼の人生は、後世では「悲恋」で語られる。だが現実には、中世知識人が制度権力に潰される過程そのものだった。
学問とは真理探究ではなく、教会秩序の内部で許容される範囲の技術に過ぎない。そこから逸脱すれば、天才であろうと排除される。恋愛スキャンダルもまた、個人感情ではなく「共同体秩序を乱す危険物」として処理された。
つまり中世社会は、人間を人格ではなく「秩序維持の部品」として見ていた。
だが、近代になっても本質はあまり変わらない。
1839年、清朝官僚 林則徐 はアヘンを大規模処分した。後世中国では民族的英雄として扱われるが、リアリスト的に見れば、これは「国家主権防衛」と「自由貿易帝国」の衝突だった。
イギリス側にとってアヘンは道徳問題ではなく、対中貿易赤字を埋める決済手段だった。
清側にとっては国家財政と社会秩序を破壊する毒物だった。
双方とも善悪では動いていない。
国家システムの自己保存本能で動いている。
その結果として起きたのがアヘン戦争であり、19世紀世界秩序の現実だった。
そして6月3日を最も重くしているのは、やはり1945年の沖縄戦である。
沖縄戦 は、日本側では「悲劇」、米側では「勝利」、戦後リベラル史観では「住民被害」の文脈で語られやすい。だが軍事史として見ると、実態はもっと冷酷だ。
沖縄戦は、米軍が太平洋戦争で経験した中でも、最も「割に合わない戦闘」の一つだった。
アメリカは圧倒的物量を持っていた。
制海権、制空権、補給能力、砲兵、航空戦力、工業力、兵站。すべてで日本軍を凌駕していた。
それでも苦戦した。
理由は単純で、日本軍が「勝利」を捨て、「消耗強制」に戦略を切り替えたからである。
首里地下陣地群は、通常の攻略理論が通用しない。艦砲射撃を何日浴びせても地下壕は残る。制圧したと思えば別坑道から反撃が来る。前進速度は異常に遅くなる。雨季と泥濘が機械化を殺し、歩兵戦に引きずり込まれる。
しかも日本軍は、既に正規軍として半壊していた。
八原博通の回想にあるように、師団は名目だけで、実態は寄せ集めだった。武器は激減し、兵員は補充兵・後方要員・防衛隊混成。だが地下陣地戦だけは成立した。
つまり沖縄戦後半の日本軍は、「軍隊」でありながら、同時に巨大な持久ゲリラ装置でもあった。
これは米軍にとって最悪だった。
アメリカ軍は本来、機動と火力で敵を粉砕する軍隊である。
だが沖縄では、日本軍が「撃滅されること自体」を戦略に組み込んだ。
その結果、米軍は圧倒的優勢にもかかわらず、精神的疲弊を深めていく。
特攻被害も大きい。
水上艦隊は常時死の圧力に晒され、レーダーピケット艦は半ば囮だった。だから伊平屋・粟国・久米島の占領が行われた。軍事的には「住民数千の離島」に対し、「艦隊防空システム維持」のため海兵隊数千を投入するという、巨大帝国特有の合理性である。
ここで重要なのは、米軍が必ずしも“余裕のある征服者”ではなかった点だ。
沖縄戦終盤では、米兵の心理もかなり荒廃していた。
捕虜となった沖縄住民への報復虐殺や射殺事例も、単なる「兵士の残虐性」だけでは説明できない。
構造的には、
- 日本軍が住民・軍属・防衛隊を混在運用した
- 民間人が情報提供・運搬・戦闘補助を行うケースが存在した
- 投降偽装や夜襲への恐怖が極度に高まっていた
- 米軍側が「民間人」と「潜在的脅威」を分離不能になっていた
という条件がある。
もちろん殺害そのものは事実として暴力であり悲劇だ。
しかし現場レベルでは、「誰が非戦闘員か」を識別できない戦場になっていた。
近代戦争ではここが重要である。
戦争は倫理崩壊によって残虐化するのではない。
識別不能状態によって残虐化する。
沖縄戦はまさにそれだった。
そして米軍は、この戦いを見て本土上陸の損害予測を修正した。
結果的に、それは原爆投下・ソ連参戦・無条件降伏への流れにも繋がっていく。
つまり沖縄戦は、日本本土決戦の予告編だった。
1991年の 雲仙普賢岳火砕流災害 もまた、「人間が危険を理解しながら近づいてしまう構造」を示している。
報道、観測、記録、使命感。
それらは崇高にも見える。だが現実には、人間は危険地帯への接近に強い誘惑を持つ。
戦場記者も火山報道も本質的には同じだ。
「現場を見なければならない」という衝動は、しばしば生存本能より強い。
1998年の エシェデ鉄道事故 は、逆に高度工業社会の脆弱性を示した。
ICEはドイツ技術の象徴だった。
しかし高速化・効率化・軽量化の積み重ねは、一箇所の金属疲労で大量死に変わる。
近代文明は、安全によって成り立つのではない。
「壊れる確率を管理しているだけ」である。
6月3日は、理想よりも「構造」が前面に出る日だ。
宗教も、帝国も、民主化運動も、軍隊も、報道も、技術文明も、人間を救うために存在するとは限らない。
むしろ巨大化した制度は、しばしば個人を素材として消費する。
だが歴史をリアルに見るなら、そこから目を逸らすべきではない。
人間社会は、善意だけでは動かない。
恐怖、補給、面子、疲労、組織維持、損耗計算、情報不足、誤認、惰性――そうした鈍く重い力で動いている。
6月3日は、その現実が露出した日々の集積なのである。

