kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日5月25日 1979アメリカン航空191便機墜落、ほか写真wikipedia墜落現場

5月25日

20260525月曜日旧暦4月9日赤口(36番己亥つちのといキガイ)月齢 8.2

43番丙午ひのえうま年 30番癸巳みずのとみ月 36番己亥つちのとい日

吉方位 陽遁日 己亥つちのとい日 東 大吉 年末まで220日

https://ja.wikipedia.org/wiki/5%E6%9C%8825%E6%97%A5

5月25日の出来事

1615年(慶長20年4月28日) – 大坂夏の陣が開戦。

1910年 – 幸徳事件(大逆事件)の検挙が開始される。

1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: B29爆撃機470機が東京に空襲し、山手の都区部の大部分を焼失。死者3651人。また、この空襲で天下三名槍の一つ、御手杵が焼失してしまった。

1945年沖縄戦5月25日米軍那覇進軍日本軍兵力八割喪失:米軍:・25日には、「捕獲した書類やPOW(捕虜)の供述、また空中写真からして、敵は最後まで、首里を防衛するものと推察される」と述べてあった。しかし、実際には日本軍は、かなり長いあいだ首里脱出を準備していたのだ。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 421-422頁より》・5月24日に偵察分隊がなんらの抵抗をうけずに那覇にはいっていったことから、第6海兵師団の偵察中隊は、25日に安里川下流から同じように那覇にはいり、市を南北に二分する流れの西側奥深く進入した。

日本軍は見当たらず、時たまそれらしい姿が見かけられただけで、狙撃兵もまったくいなかった。破壊された町のなかに、まだ逃げかくれしている沖縄の人が2、3人いたが、彼らに聞いてみても、先週5、6人の日本軍の斥候を見たにすぎないといっていた。廃墟と化した那覇は放棄されていたのだ。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 403頁より》・5月末の数日間、われわれはハーフムーン左手の背斜面の洞窟に立てこもる日本軍から、小規模ながら痛烈な反撃を何度も食らった。そんなある朝、多数の敵兵が丘の向こうに集結しつつあるとの情報がもたらされた。集中砲撃に備えて…60ミリ迫撃砲3門の発射態勢をととのえ、左の稜線の背後に狙いを定めた。… 迫撃砲3門で一帯に大量の砲火を浴びせ、逃げ場を失った敵を殲滅しようというのだ。… われわれは撃ちに撃った。停止命令が出るまでに何百発撃ったことだろう。ひどい耳鳴りがした。疲れ果て、激しい頭痛に襲われた。三つの砲壕のわきには、砲撃の激しさを示す榴弾の空容器と弾薬箱が、うずたかく積まれていた。… 下士官の話では、われわれの砲撃網にひっかかったらしい敵兵の死体が累々と横たわり、その数は200を超えていたという。…そのあと、尾根の周囲では日本軍の戦闘行動がやんだ。《「ペリリュー・沖縄戦記」(ユージン・B・スレッジ: 伊藤真/曽田和子 訳 /講談社学術文庫) 412-413頁より》:日本軍:・アメリカ軍が沖縄戦の状況を記録した1フィートフィルムでアメリカ軍は本島上陸から5月下旬迄におよそ1万人の死者と4万人の負傷者が出たと説明。一方の日本軍は兵士のおよそ8割にあたる6万4000人をすでに失っていました。

南部へと進撃する兵士を激励するため沖縄を訪れた太平洋艦隊司令官のニミッツ提督。これに対し物量で完全に劣る日本軍は板で造ったダミーの戦車を前線に配置。島田叡県知事や荒井警察部長は第32軍が首里の司令部壕を放棄する2日前にすでに南部へと撤退していました。日本軍が放棄した洞窟や塹壕にダイナマイトを仕掛け爆破する。アメリカ軍首里を取り巻く形で何重にも造られた日本軍の防御陣地は完全に破られ、凄惨な戦いはさらに激しさを増してゆきます。<65年前のきょうは1945年5月25日 – QAB NEWS Headline>

1954年 – 写真家ロバート・キャパがインドシナ戦争取材中に地雷に触れて爆死。

1979年 – アメリカン航空191便墜落事故が発生。乗客数258乗員数13死者数    271(全員)

2002年 – 台湾海峡の上空でチャイナエアライン611便空中分解事故が起こる。

乗客数206乗員数19死者数225(全員)

2009年 – 板橋資産家夫婦放火殺人事件が起こる。

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1615年(慶長20年4月28日) – 大坂夏の陣が開戦。

1910年 – 幸徳事件(大逆事件)の検挙が開始される。

堺利彦や片山潜らが「平民新聞」などで、労働者中心の政治を呼びかけ、民衆の間でもそのような気風が流行りつつあった[要出典]中の1910年(明治43年)5月25日、信州の社会主義者宮下太吉ら4名による明治天皇暗殺計画が発覚し逮捕された「信州明科爆裂弾事件」が起こる。この事件を口実として、政府がフレームアップ(政治的でっち上げ)により、幸徳秋水をはじめとする全ての社会主義者、アナキスト(無政府主義者)を根絶しようと取り調べや家宅捜索を行なって弾圧した事件が幸徳事件である。戦後はもっぱら政府のでっち上げ部分を批判する視点で言及される事がほとんどで、「暗殺計画に関与していたのは宮下太吉、管野スガ、新村忠雄、古河力作の4名だけであった」など実際の暗殺計画に対しては軽く扱われる事がほとんどである。1960年代より「大逆事件の真実をあきらかにする会」を中心に、再審請求などの運動が推進された。これに関して最高裁判所は1967年に、「戦前の特殊な事例によって発生した事件であり、現在の法制度に照らし合わせることはできない」「大逆罪が既に廃止されている」との理由から、免訴の判決を下し、再審請求が事実上できないことを示している。(但し、刑事補償法では免訴でも無罪と推定されるときは補償を受けることができるとされている。)

信州明科爆裂弾事件後、数百人の社会主義者・無政府主義者の逮捕・検挙が始まり、検察は26人を明治天皇暗殺計画容疑として起訴した[6]。松室致検事総長、平沼騏一郎大審院次席検事、小山松吉神戸地裁検事局検事正らによって事件のフレームアップ化がはかられ、異例の速さで公判、刑執行がはかられた。平沼は論告求刑で「動機は信念なり」とした[7]。検挙されたひとりである大石誠之助の友人であった与謝野鉄幹が、文学者で弁護士の平出修に弁護を頼んだ。

1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: B29爆撃機470機が東京に空襲し、山手の都区部の大部分を焼失。死者3651人。また、この空襲で天下三名槍の一つ、御手杵が焼失してしまった。

1945年沖縄戦5月25日米軍那覇進軍日本軍兵力八割喪失:米軍:・25日には、「捕獲した書類やPOW(捕虜)の供述、また空中写真からして、敵は最後まで、首里を防衛するものと推察される」と述べてあった。しかし、実際には日本軍は、かなり長いあいだ首里脱出を準備していたのだ。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 421-422頁より》・5月24日に偵察分隊がなんらの抵抗をうけずに那覇にはいっていったことから、第6海兵師団の偵察中隊は、25日に安里川下流から同じように那覇にはいり、市を南北に二分する流れの西側奥深く進入した。

日本軍は見当たらず、時たまそれらしい姿が見かけられただけで、狙撃兵もまったくいなかった。破壊された町のなかに、まだ逃げかくれしている沖縄の人が2、3人いたが、彼らに聞いてみても、先週5、6人の日本軍の斥候を見たにすぎないといっていた。廃墟と化した那覇は放棄されていたのだ。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 403頁より》・5月末の数日間、われわれはハーフムーン左手の背斜面の洞窟に立てこもる日本軍から、小規模ながら痛烈な反撃を何度も食らった。そんなある朝、多数の敵兵が丘の向こうに集結しつつあるとの情報がもたらされた。集中砲撃に備えて…60ミリ迫撃砲3門の発射態勢をととのえ、左の稜線の背後に狙いを定めた。… 迫撃砲3門で一帯に大量の砲火を浴びせ、逃げ場を失った敵を殲滅しようというのだ。… われわれは撃ちに撃った。停止命令が出るまでに何百発撃ったことだろう。ひどい耳鳴りがした。疲れ果て、激しい頭痛に襲われた。三つの砲壕のわきには、砲撃の激しさを示す榴弾の空容器と弾薬箱が、うずたかく積まれていた。… 下士官の話では、われわれの砲撃網にひっかかったらしい敵兵の死体が累々と横たわり、その数は200を超えていたという。…そのあと、尾根の周囲では日本軍の戦闘行動がやんだ。《「ペリリュー・沖縄戦記」(ユージン・B・スレッジ: 伊藤真/曽田和子 訳 /講談社学術文庫) 412-413頁より》:日本軍:・アメリカ軍が沖縄戦の状況を記録した1フィートフィルムでアメリカ軍は本島上陸から5月下旬迄におよそ1万人の死者と4万人の負傷者が出たと説明。一方の日本軍は兵士のおよそ8割にあたる6万4000人をすでに失っていました。

南部へと進撃する兵士を激励するため沖縄を訪れた太平洋艦隊司令官のニミッツ提督。これに対し物量で完全に劣る日本軍は板で造ったダミーの戦車を前線に配置。島田叡県知事や荒井警察部長は第32軍が首里の司令部壕を放棄する2日前にすでに南部へと撤退していました。日本軍が放棄した洞窟や塹壕にダイナマイトを仕掛け爆破する。アメリカ軍首里を取り巻く形で何重にも造られた日本軍の防御陣地は完全に破られ、凄惨な戦いはさらに激しさを増してゆきます。<65年前のきょうは1945年5月25日 – QAB NEWS Headline>

1954年 – 写真家ロバート・キャパがインドシナ戦争取材中に地雷に触れて爆死。

1979年 – アメリカン航空191便墜落事故が発生。乗客数258乗員数13死者数    271(全員)

アメリカン航空191便墜落事故(アメリカンこうくう191びんついらくじこ、英語: American Airlines Flight 191)は、1979年5月25日にアメリカン航空の定期旅客便だったDC-10型機が、シカゴ・オヘア空港を離陸した直後に墜落した航空事故。

離陸時の機首上げの際に、左主翼下のエンジンとパイロンが機体から分離した。同時に油圧系統が損傷して左翼外側のスラットが引き込まれてしまい、左翼だけがより高速で失速しやすい状態になった。緊急時の手順どおりに飛行速度を落とした結果、左翼だけが失速状態になった。しかし、一部の警報装置が機能を停止していたので、パイロットは状況が把握できなかった。そのまま機体は急激に左に横転し、離陸から30秒で墜落した。搭乗者271人全員と地上で巻き込まれた2人が死亡した。この死者数は2023年現在、テロ事件を除くアメリカの航空事故において最大である。

2002年 – 台湾海峡の上空でチャイナエアライン611便空中分解事故が起こる。

乗客数206乗員数19死者数225(全員)

チャイナエアライン611便空中分解事故(チャイナエアライン611びんくうちゅうぶんかいじこ)は、2002年5月25日に台湾・澎湖諸島付近で発生した航空事故。

中正国際空港(現:桃園)から香港国際空港へ向かっていたチャイナエアライン611便(ボーイング747-200B)が澎湖諸島付近上空を巡航中に空中分解し海上に墜落、乗客乗員225人全員が死亡する惨事となった。事故原因は機体スキン(外皮)の不完全な修理のために起きた金属疲労により、飛行中に機体の破壊が生じたというものであった。

2009年 – 板橋資産家夫婦放火殺人事件が起こる。

概要

2009年(平成21年)5月25日午前0時半ごろ、東京都板橋区弥生町の民家から出火し全焼。現場からこの家に住む74歳男性と69歳女性の夫婦2人の殺害された遺体が発見された[1]。

殺害された男性は地元では特に有名な資産家として知られており、個人でアパートや土地など約80件にも上る物件を所有し、不動産関連の収入で生活していた。普段は毎晩のように夜の街にくり出し、一晩で100万を使うこともあったという。昼間はほとんど自宅におり電話にも出ないこともあり、近所の住人との付き合いはあまりなかった。

犯人は被害者夫婦の頭を鈍器のようなもので執拗に殴ったうえ刃物で胸や腹を刺して殺害した。この際被害者夫婦は何らかの理由で犯人に抵抗できない状態にあったとみられ、2人の遺体には防御創がほとんどなかった。また被害者の男性が普段外出のときに着用するネクタイやワイシャツ姿でなかったことから、室内で襲われた可能性がある。

用心深い性格だったという被害者の男性は、常に敷地にある4カ所すべての出入り口を施錠し、他人を敷地内に入れることは滅多になかった[2]。この出入り口には人の動きを感知する赤外線センサーが設置され、人の出入りを感知すれば室内にいる人間に音で知らせる仕組みになっていた。また男性は自宅に高額の現金や所有する不動産に関係する重要な書類を保管していたとも言われ、実際に遺体が発見された部屋には2000万円以上の札束が残されていた[1][3]。こうした事からこの事件は被害者の家の事情に詳しい犯人による計画的な犯行も疑われている。

チャットgpt先生の5月25日のエッセイ

5月25日――「消耗戦の現実」が剥き出しになる日

5月25日を並べてみると、英雄譚よりも「制度・物量・慢心・消耗」が人間を押し潰していく日として見えてくる。

1615年の大坂夏の陣開戦は、豊臣家滅亡の最終局面だった。理想や忠義の物語として語られやすいが、実態は徳川側の圧倒的な兵站と政治力による“包囲完了”である。戦国時代は「強い武将」が終わらせたのではなく、「継続的に兵糧と動員を維持できる体制」が終わらせた。近代戦と本質は変わらない。

1910年の幸徳事件も同じだ。国家は「実際の脅威」だけを潰すのではない。「将来脅威になりうる思想空間」を先回りして潰す。幸徳秋水らの事件は、戦後的価値観では「でっち上げ弾圧」として整理されがちだが、現実には一部に爆裂弾計画が存在していたのも事実だった。国家権力はそこを最大限利用した。つまり、
「火種はあった」
「だが鎮火ではなく山ごと焼いた」
という構図である。

ここには近代国家の本質がある。体制は“公平”より“安定”を優先する。

そして1945年5月25日。

この日は日本近代史の中でも、もっとも「敗戦の物理量」が露出した日の一つだ。

東京大空襲ではB29が470機規模で東京を焼いた。木造都市に焼夷弾を落とすのは、倫理以前に「最も効率的な都市破壊手段」だった。当時の米軍は既に、日本本土を“攻略対象”ではなく“工業システム”として見ている。市民と軍需生産を切り分ける発想は、総力戦の段階では消える。

その一方で、同日に進行していた沖縄戦は、しばしば単純化されすぎる。

戦後日本ではGHQプレスコードの影響もあり、「日本軍の無謀さ」と「米軍の圧倒的優位」が強調される傾向が長く続いた。もちろんそれ自体は事実の一面ではある。だが、軍事史として冷静に見るなら、沖縄戦は米軍にとっても異常な消耗戦だった。

アメリカ軍は制海権・制空権・補給・砲兵・工兵・医療・通信のすべてで優位にありながら、なお恐ろしい速度で兵を失っている。5月下旬時点で戦死約1万人、負傷約4万人規模。これは米軍基準では「大勝利の数字」ではない。太平洋戦線でも最大級の流血だった。

なぜか。

日本軍第32軍は、もはや勝利を目的にしていなかったからだ。

首里防衛線は“勝つ陣地”ではなく、“時間を買う陣地”だった。洞窟・地下壕・逆斜面・迫撃砲・夜襲・狙撃・浸透戦術によって、米軍の火力優位を意図的に減殺していた。米軍側記録でも「敵はまだ首里を守ると判断していた」のに、実際には日本軍は南部撤退を進めていた。このズレは、日本軍が完全に殲滅されながらも統制を失っていなかった証拠でもある。

つまり沖縄戦後半の日本軍は、
「機動戦では敗北」
「制空権も皆無」
「補給も壊滅」
という状態でも、“陣地戦だけは成立させた”。

これは旧日本軍への感情論を抜きにしても、軍事史上かなり特異だ。

米軍海兵隊員ユージン・スレッジの回想にあるように、米軍側も精神的摩耗が激しかった。砲撃で敵兵200人以上を殺しても戦闘が終わらない。洞窟を制圧しても別の尾根からまた撃たれる。しかも相手は補給も退路もない。合理的降伏が成立しない戦場だった。

米軍が苦戦した最大理由は、日本軍が“生存”ではなく“遅滞”を目的化したことにある。

普通の軍隊は包囲されれば崩れる。しかし沖縄戦の日本軍は、崩壊後も局地抵抗を続けた。これは近代軍としては異様であり、米軍が後の本土決戦を本気で恐れた背景でもある。実際、沖縄の損耗を見た米側は、「九州上陸ではさらに数倍の被害」と試算し始める。

沖縄戦を単純に
「日本軍愚か論」
だけで終えると、この現実を見落とす。

あれは、
「物量が絶対優位でも、地下陣地化した防御側を短期粉砕するのは極めて難しい」
という現代戦の原型でもあった。

だからこそ、沖縄戦は現在でも各国軍に研究される。

1954年のロバート・キャパの死も象徴的だ。キャパは「戦場に近づけ」と言った人物だが、結局は地雷で死んだ。戦争報道の現実は、文学ではなく確率である。

1979年のアメリカン航空191便墜落事故も、2002年のチャイナエアライン611便空中分解事故も同じ構図を持つ。

巨大システムは、普段は圧倒的効率を誇る。
だが一箇所の整備ミス、一つの判断、一つの構造疲労で、一瞬にして全員死ぬ。

文明は強大になるほど、“局所破綻”に弱くなる。

5月25日は、その現実が並ぶ日だ。

国家も、軍も、都市も、航空機も、巨大化したシステムほど、
最後は精神論ではなく、
補給・整備・物量・統制・疲労・摩耗で壊れていく。

そして歴史はたいてい、
壊れる瞬間になって初めて、
その構造を人間に見せる。