5月23日
20260523土曜日旧暦4月7日仏滅(34番丁酉ひのととりテイユウ)月齢 6.2
43番丙午ひのえうま年 30番癸巳みずのとみ月 34番丁酉ひのととり日
吉方位 陽遁日 丁酉ひのととり日 南 大吉 年末まではあと222日
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5月23日の出来事
1213年(建暦3年5月2日) – 和田合戦。和田義盛と北条義時が鎌倉で合戦。三浦義村が北条方に味方したため、勝負は2日で決し、和田氏が滅亡した。
年月日:建暦3年5月2日 – 3日(1213年5月23日 – 24日)
場所:鎌倉市街
結果:和田氏一族の滅亡、執権北条氏の勝利
損害:和田一族237人死亡。
1430年 – 百年戦争: ジャンヌ・ダルクがコンピエーニュ包囲戦でブルゴーニュ軍に捕えられる。
1498年 – フィレンツェ共和国で神権政治を行ったジロラモ・サヴォナローラが教皇アレクサンデル6世の命により処刑。
1701年 – 海賊船の船長ウィリアム・キッド(キャプテン・キッド)がロンドンで絞首刑に処せられる。
1706年 – スペイン継承戦争: ラミイの戦い
年月日:1706年5月23日
場所:ベルギー・ブラバン・ワロン州ラミイ
結果:イングランド・オランダ同盟軍の勝利
損害:イングランドオランダ同盟軍 6万人中戦死1000人 スペイン軍6万人中戦死捕虜20000人。
1901年 – ブランシュ・モニエ事件が発覚。フランスにて当時絶世美女とされた本人が母親に監禁され変わり果てた姿で正気を失った状態で発見された事件。
1925年 – 円山川河口を震源に北但馬地震(北但大震災)が発生。死者428人。
1934年 – アメリカで銀行強盗・殺人を繰返していたクライド・バーローとボニー・パーカーが、警官隊の待ち伏せに遭い射殺される。
1945年 – イギリス軍に拘束中の元ナチス親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーが自殺。
1945年沖縄戦5月23日雨季12日~23日:米軍:・5月12日から18日まで続いたシュガーローフの戦いで米軍死傷者は2662人に。・ついに第6海兵師団は、シュガーローフの占拠を確たるものにした。しかし、祝賀ムードはほとんどなかった。埋葬しなければならない海兵隊員の死体があまりに多かったからである。
死体収容作業をした海兵隊員たちの証言:
「軍曹が、…〝多くの死体は、もう5日間も放置されており、このままだと溶解して、地面にとけて染み込んでしまう…〟と言ったんだ、まったくその通りだったよ」(374頁)
… ある死体は、負傷して治療中に死んでおり、包帯をまいたままだった。その中に、自分で腹部の傷に包帯をまいた状態で死んでいった者もあったが、腐敗して膨張していた。(375頁)… 雨は土砂ぶりで、くるぶしまで泥に埋まりながらだった。作業していると、時折ジャップの狙撃兵が発砲してきたし、狂ったように迫撃砲弾が落下してくることがあった (376頁)《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 》・荒れ果てたシュガーローフ一帯には、数百、数千もの日本兵の死体が散乱していた。その大半は、独立混成第15連隊の兵士たちだった。… 死体はあらゆる場所に散らばっており、突き出た手や足が「まるで子供のボーリングゲームのピンのようだった」
… それ以外の日本兵もシュガーローフの地下トンネルや、洞窟で腐って横たわっていた。勇気をふりしぼってシュガーローフの裏側斜面の入り口から洞窟の1つに入った海兵隊員は、3人の日本兵が機関銃のかたわらに横たわっているのを見つけた。軍服の内側はドロドロしており、溶解した皮膚が辛うじて骨に張りついている状態だった。
…「可能なかぎり日本兵の上に土をかぶせたよ」「そしたら、あろうことか雨がふり出して、洗われた死体が地面からふたたび出てきてしまった。頭部が見えたので歩み寄ってみたら、足から全身、蛆虫が張りついており、耐えられない悪臭がただよっていたんだ」日本兵の死体は死んだ場所で土をかけられるか、あるいは、そのまま放置されて腐っていった。《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 377-378頁》・… たちこめる屍臭は圧倒的だった。そのとてつもない恐怖に耐える方法は一つしかなかった。自分を取り巻く生々しい現実から目をそむけ、空を見上げること。そして頭上を過ぎる鉛色の雲を見つめながら、これは現実じゃない、ただの悪い夢だ、もうすぐ目が覚めてどこか別の場所にいることに気づくはずだ、と何度も何度も自分に言い聞かせることだった。だが、絶えることなく押し寄せてくる腐臭はごまかしようもなく鼻腔を満たし、呼吸するたびに意識しないわけにはいかなかった。
《「ペリリュー・沖縄戦記」(ユージン・B・スレッジ: 伊藤真/曽田和子 訳 /講談社学術文庫) 379-380、380-381頁より》:日本軍:・大本営陸軍部(参謀本部)はかねてから「沖縄は本土決戦準備のための捨て石であり、時間稼ぎのための楯である」との方針を固めていたが、軍司令部はそれを忠実に守ったのである。牛島司令官の「残存する兵力と足腰の立つ島民とをもって、最後の一人まで、沖縄の島の南の涯、尺寸の土地の存す限り、戦いを続ける」との言葉にそれは表れていた。だが、それは南部へ逃れている県民約15万人を巻き込んで、島尻全域〝戦場の村〟と化す悲劇の始まりであった。逃げ場のない島の南端に追い詰められる県民の運命は、一顧だにされなかった。《「ざわわざわわの沖縄戦 サトウキビ畑の慟哭」(田村洋三/光人社) 156頁より》・軍隊は敵のせん滅が役目。住民を守ることは作戦に入っていなかった。住民は大事だが作戦にとっては足かせになる。純粋に軍事的な立場からは住民を守るゆとりはない。《琉球新報「軍は住民を守らない」/神直道氏(元第32軍司令部航空参謀)証言/作戦遂行上 足かせに/戦艦「大和」の出撃も辞退 1992年7月22日 Archive 》
2014年 – カリフォルニア州で2014年アイラビスタ銃乱射事件が発生。6人が死亡、犯人も自殺。
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1213年(建暦3年5月2日) – 和田合戦。和田義盛と北条義時が鎌倉で合戦。三浦義村が北条方に味方したため、勝負は2日で決し、和田氏が滅亡した。
年月日:建暦3年5月2日 – 3日(1213年5月23日 – 24日)
場所:鎌倉市街
結果:和田氏一族の滅亡、執権北条氏の勝利
損害:和田一族237人死亡。
1430年 – 百年戦争: ジャンヌ・ダルクがコンピエーニュ包囲戦でブルゴーニュ軍に捕えられる。
1498年 – フィレンツェ共和国で神権政治を行ったジロラモ・サヴォナローラが教皇アレクサンデル6世の命により処刑。
1701年 – 海賊船の船長ウィリアム・キッド(キャプテン・キッド)がロンドンで絞首刑に処せられる。
ウィリアム・キッド(William Kidd、1635年 – 1701年5月23日[1])は、スコットランド生まれの私掠船、海賊船の船長。キャプテン・キッドの別名が広く知られている。65歳没。
私掠船の船長として
アドヴェンチャー・ギャレー号の航路
1695年、キッドは私掠免許を得るための活動をするためにロンドンに向かった[11]。当時のアメリカ植民地は、イギリスの法律によって困窮していたため、インド洋などに略奪に向かう海賊たちを援助していた[12][注 5] 。植民地は、海賊たちが略奪してきた財宝などを売却する場所となり、北アメリカには海賊たちが集まった[13]。それらの行為についてはイギリス政府も関知していたが、世界各地で戦争をしていたため対処できる状態ではなかった[14]。その為、海賊退治を私掠船にまかせることにした[14]。
縛り首の判決を受けたキッドは英国下院議長に「私は10万ポンドの財宝をどこかに隠してある。縛り首を免除してくれるなら、その財宝の在りかまで案内しよう」という手紙を書いたが聞き入れられなかった[54][55]。10万ポンドは現在の価値では800万から900万ポンド、ドルでは2000万ドルである[56][54]。この手紙の話は数日で人々の間に拡散されキッドの隠し財宝を探索する試みが始まった[56]。
最終的に、彼は5つの海賊行為と殺人の罪で死刑となった[57]。
その遺体はタールを塗られ、散り散りにならないように鉄の輪をはめられた上で鉄の檻に入れられた[59]。海賊を志す者に対する警告としてテムズ川の絞首台に数年間放置された[59]。死後、彼を称えるバラッドが多数制作され、その一部は動画投稿サイトYouTubeで試聴可能である[60][61]。
イスパニオラ島で手放したケダー・マーチャント号とその財宝の行方は長らく不明のままだった。ベロモントが探索に派遣したエバーツ船長は、ボールトンがケダー・マーチャントに火を付けて破棄し積み込まれていた財宝はキュラソー島で売り払ったと報告した[62]。また、「船はボールトンによってニューイングランドに運ばれてから破棄された」または「船も財宝も手付かずのまま今もどこかに眠っている」などの説も唱えられている[63]。
1706年 – スペイン継承戦争: ラミイの戦い
年月日:1706年5月23日
場所:ベルギー・ブラバン・ワロン州ラミイ
結果:イングランド・オランダ同盟軍の勝利
損害:イングランドオランダ同盟軍 6万人中戦死1000人 スペイン軍6万人中戦死捕虜20000人。
ラミイの戦い(ラミイのたたかい、The Battle of Ramillies)は、スペイン継承戦争における戦闘の1つで1706年5月23日に現在のベルギー・ブラバン・ワロン州ラミイでイングランド・オランダ同盟軍とフランス・バイエルン軍が衝突した。ラミリーの戦いともいわれる。
1901年 – ブランシュ・モニエ事件が発覚。フランスにて当時絶世美女とされた本人が母親に監禁され変わり果てた姿で正気を失った状態で発見された事件。
ブランシュ・モニエ(Blanche Monnier,1849年3月1日 – 1913年10月13日)は、フランス・ポワチエ生まれのソーシャライトである。フランスでは、la Séquestrée de Poitiers(意訳では「ポアチエの監禁女性」)として知られている[1][2]。
美貌に恵まれ、パリ社交界の花形として知られていた[3]。しかし、母親の意向に沿わない結婚を望んだことなどが原因となって、1876年から25年間日の当たらない自邸の屋根裏部屋に監禁されていた[2][4]。1901年、匿名での手紙による告発で監禁の事実が発覚して救出された[3]。しかし、長期間劣悪な環境での生活を強いられたことで肉体的にも精神的にも衰弱し、正気を取り戻さないままで1913年に死去した[5]。アンドレ・ジッドは彼女の事件を題材として『La Séquestrée de Poitiers』(1930年)を発表している[2][6]。
1925年 – 円山川河口を震源に北但馬地震(北但大震災)が発生。死者428人。
1934年 – アメリカで銀行強盗・殺人を繰返していたクライド・バーローとボニー・パーカーが、警官隊の待ち伏せに遭い射殺される。
ボニーとクライド(Bonnie and Clyde)は、1930年代前半にアメリカ中西部で銀行強盗や殺人を繰り返した犯罪者。ボニー・パーカー(Bonnie Elizabeth Parker、1910年10月1日 – 1934年5月23日)とクライド・バロウ(Clyde Chestnut Barrow、1909年3月24日 – 1934年5月23日)の2人組。
1945年 – イギリス軍に拘束中の元ナチス親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーが自殺。
ハインリヒ・ルイトポルト・ヒムラー(ドイツ語: Heinrich Luitpold Himmler, de-Heinrich Himmler.ogg 発音[ヘルプ/ファイル]、1900年10月7日 – 1945年5月23日)は、ナチス・ドイツの政治家[3]。親衛隊のトップである親衛隊全国指導者として治安・諜報などで強大な権力を握り、国内統制、反ナチ勢力、ユダヤ人などに対する迫害を実行した。
概要
1929年、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の準軍事組織である親衛隊(SS)の第3代親衛隊全国指導者(RFSS)に就任し、党内警察業務を司った。ナチ党の政権掌握後には、1934年にプロイセン自由州の秘密国家警察ゲシュタポ[注 4]副長官、1936年には親衛隊全国指導者兼全ドイツ警察長官に任命されて国内の警察機構を掌握した[4](ゲシュタポは全国の政治警察を直轄する組織となった)。政権末期の1943年にはヒトラー内閣内務大臣も兼務するようになった。ナチ体制は当初、一元的に統制されているとは言いがたい多頭制の様相を呈していたが、その中でヒムラー率いる親衛隊が次々に権限を拡大して優位に立ったことにより、ナチ体制は「親衛隊国家」の性格を色濃くした[5]。
社会ダーウィン主義とアーリアン学説の影響を受けたナチスの人種イデオロギーは、アーリア人種、特にその一派とされた北方人種と定義された人々を主たる人種(ドイツ語版)とし、ユダヤ人[注 5]、ロマ[注 6]、スラヴ人[注 7]は人種的に劣るとしたが、ヒムラーもまたそれらの人種的に劣るとされた集団を蔑視し、北方人種の優越性を信じていた。ヒムラー率いる親衛隊は水晶の夜事件以後、ナチスの人種政策に関与するようになり、ユダヤ人を国外退去させる任務に携わった。「北方人種」「アーリア人」として認定された者であっても、反ナチ運動家や障害者などは「人種の血を汚す者」として劣等人種とされた人々と同等に扱った。親衛隊の所管となった強制収容所(KZ)には、当初ゲシュタポが取り締まりの対象とした政治犯が主に収容されたが、同性愛者や浮浪者など「反社会分子」とみなされた人々やユダヤ人といった政治犯でない人々が収監者の多数を占めるようになった[6]。
第二次世界大戦期には、ドイツが占領したヨーロッパの広範な地域にヒムラーの権力が及ぶこととなった。ポーランド侵攻に際しては親衛隊特別行動部隊がポーランド人を奴隷化するための知識人掃討作戦を展開した。占領地域での生存圏政策の執行においてもヒムラーは中心的役割を担い、親衛隊はドイツに編入されたポーランド西部からポーランド人とユダヤ人をポーランド中部の総督府領に追放させる任務に当たった。その後ユダヤ人の追放政策は絶滅政策に転換し、「生きるに値しない命」とされた精神障害者等を殺害する安楽死作戦に従事したスタッフが絶滅収容所建設のために派遣され、親衛隊はそこでユダヤ人等の大量虐殺を組織的に実行した。
大戦後期には軍集団の指揮も任されたが、軍事的素質には乏しく、目立った戦果はあげられなかった。ドイツの戦況を絶望視して独断でアメリカ合衆国との講和交渉を試みたが失敗し、アドルフ・ヒトラーの逆鱗に触れて解任された。その後は逃亡を図ったが、エルベ川を渡った後の1945年5月22日にイギリス軍の捕虜となり、翌日の5月23日に自殺した。
1945年沖縄戦5月23日雨季12日~23日:米軍:・5月12日から18日まで続いたシュガーローフの戦いで米軍死傷者は2662人に。・ついに第6海兵師団は、シュガーローフの占拠を確たるものにした。しかし、祝賀ムードはほとんどなかった。埋葬しなければならない海兵隊員の死体があまりに多かったからである。
死体収容作業をした海兵隊員たちの証言:
「軍曹が、…〝多くの死体は、もう5日間も放置されており、このままだと溶解して、地面にとけて染み込んでしまう…〟と言ったんだ、まったくその通りだったよ」(374頁)
… ある死体は、負傷して治療中に死んでおり、包帯をまいたままだった。その中に、自分で腹部の傷に包帯をまいた状態で死んでいった者もあったが、腐敗して膨張していた。(375頁)… 雨は土砂ぶりで、くるぶしまで泥に埋まりながらだった。作業していると、時折ジャップの狙撃兵が発砲してきたし、狂ったように迫撃砲弾が落下してくることがあった (376頁)《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 》・荒れ果てたシュガーローフ一帯には、数百、数千もの日本兵の死体が散乱していた。その大半は、独立混成第15連隊の兵士たちだった。… 死体はあらゆる場所に散らばっており、突き出た手や足が「まるで子供のボーリングゲームのピンのようだった」
… それ以外の日本兵もシュガーローフの地下トンネルや、洞窟で腐って横たわっていた。勇気をふりしぼってシュガーローフの裏側斜面の入り口から洞窟の1つに入った海兵隊員は、3人の日本兵が機関銃のかたわらに横たわっているのを見つけた。軍服の内側はドロドロしており、溶解した皮膚が辛うじて骨に張りついている状態だった。
…「可能なかぎり日本兵の上に土をかぶせたよ」「そしたら、あろうことか雨がふり出して、洗われた死体が地面からふたたび出てきてしまった。頭部が見えたので歩み寄ってみたら、足から全身、蛆虫が張りついており、耐えられない悪臭がただよっていたんだ」日本兵の死体は死んだ場所で土をかけられるか、あるいは、そのまま放置されて腐っていった。《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 377-378頁》・… たちこめる屍臭は圧倒的だった。そのとてつもない恐怖に耐える方法は一つしかなかった。自分を取り巻く生々しい現実から目をそむけ、空を見上げること。そして頭上を過ぎる鉛色の雲を見つめながら、これは現実じゃない、ただの悪い夢だ、もうすぐ目が覚めてどこか別の場所にいることに気づくはずだ、と何度も何度も自分に言い聞かせることだった。だが、絶えることなく押し寄せてくる腐臭はごまかしようもなく鼻腔を満たし、呼吸するたびに意識しないわけにはいかなかった。
《「ペリリュー・沖縄戦記」(ユージン・B・スレッジ: 伊藤真/曽田和子 訳 /講談社学術文庫) 379-380、380-381頁より》:日本軍:・大本営陸軍部(参謀本部)はかねてから「沖縄は本土決戦準備のための捨て石であり、時間稼ぎのための楯である」との方針を固めていたが、軍司令部はそれを忠実に守ったのである。牛島司令官の「残存する兵力と足腰の立つ島民とをもって、最後の一人まで、沖縄の島の南の涯、尺寸の土地の存す限り、戦いを続ける」との言葉にそれは表れていた。だが、それは南部へ逃れている県民約15万人を巻き込んで、島尻全域〝戦場の村〟と化す悲劇の始まりであった。逃げ場のない島の南端に追い詰められる県民の運命は、一顧だにされなかった。《「ざわわざわわの沖縄戦 サトウキビ畑の慟哭」(田村洋三/光人社) 156頁より》・軍隊は敵のせん滅が役目。住民を守ることは作戦に入っていなかった。住民は大事だが作戦にとっては足かせになる。純粋に軍事的な立場からは住民を守るゆとりはない。《琉球新報「軍は住民を守らない」/神直道氏(元第32軍司令部航空参謀)証言/作戦遂行上 足かせに/戦艦「大和」の出撃も辞退 1992年7月22日 Archive 》
2014年 – カリフォルニア州で2014年アイラビスタ銃乱射事件が発生。6人が死亡、犯人も自殺。
2014年アイラビスタ銃乱射事件(2014ねんアイラビスタじゅうらんしゃじけん)は、2014年5月23日にアメリカ合衆国カリフォルニア州アイラビスタで発生した、発砲、刺傷、車両衝突による一連の殺傷事件である。
事件はインセル(女性蔑視主義者)を自認する22歳のエリオット・ロジャー(Elliot Rodger)によって実行された。ロジャーはカリフォルニア大学サンタバーバラ校(UCSB)のキャンパスの近くで6人を殺害し、14人を負傷させたのちに自殺した。
ロジャーは最初に、自分のアパートで3人の男性を刺殺し、約3時間後に自動車で女子学生寮へ向ったが、入ることができなかった。ロジャーはこの外で3人の女性を銃撃し、内2人が死亡。次に食料品店の前を自動車で通り過ぎ、店内にいた男子学生を射殺した。そののちロジャーはアイラビスタ中を運転しながら車内から数人の歩行者を銃撃して負傷させ、自動車で他の数人を攻撃した。その間に警察と2回銃撃を交し、致命的ではない銃創を腰に負った。自動車は駐車中の自動車に衝突して停止し、警察はロジャーが車内で自らの頭を銃撃して死亡しているのを発見した。
女子学生寮へ行く前に、ロジャーはYouTubeに「エリオット・ロジャーの報復(Elliot Rodger’s Retribution)」という題名の動画を投稿している。動画ではこれから行う攻撃の詳細と動機を説明しており、彼を拒否した女性を罰したい旨と、性的に活発な男性を羨ましく思ったため罰したい旨を述べた。動画の投稿後、ロジャーは長い自伝の原稿を知人の数人、彼の療法士、家族の数人に電子メールで送信した。「僕の歪んだ世界――エリオット・ロジャーの物語(My Twisted World: The Story of Elliot Rodger)」という題名のこの文書はインターネット上に公開され、声明文として広く知られるようになった。この文書でロジャーは、彼の子供時代、家族の葛藤、ガールフレンドを見付けられぬことへの欲求不満、彼の女性憎悪、カップルへの軽蔑(殊に異人種間のカップルに対するそれ)、そして彼が「報復」と表現したものの計画を説明している。
チャットgpt先生の5月23日のエッセイ
5月23日 ― 「勝者の損耗」と「消耗される人間」の日
5月23日を並べて見ると、この日は単純な「英雄の日」でも「悲劇の日」でもない。
むしろ、勝者も敗者も腐敗し、制度も理想も最後には泥に沈む、そういう現実が露出した日である。
中世では1213年の和田合戦。
鎌倉武士団は「御恩と奉公」の共同体と言われるが、実態は権力再編の連続だった。和田義盛は源頼朝以来の宿老だったが、北条義時は情ではなく構造で動いた。三浦義村も友情ではなく生存を選んだ。結果、和田一族237人死亡。鎌倉幕府は「武士の連帯」から「北条執権体制」へ変質した。
1430年にはジャンヌ・ダルクが捕縛される。
後世では聖女だが、当時のフランス王権にとって彼女は便利な戦時装置であり、用済みになれば外交カードだった。理想主義はしばしば国家に利用され、国家は必要以上には忠誠を返さない。
1498年のジロラモ・サヴォナローラ処刑も同じ構図だ。
禁欲と神権政治を掲げたが、経済と快楽で回る都市国家フィレンツェに長期適応できなかった。理念国家は、物流・金融・欲望を制御できないと崩れる。
1701年のウィリアム・キッドも興味深い。
国家公認の「私掠船」は、平時になれば「海賊」に変わる。つまり暴力の合法・非合法は道徳ではなく国家都合で決まる。
キッドは帝国の外縁で必要とされたが、英政府は海賊問題の責任処理のため彼を吊るした。
死後に「隠し財宝伝説」が膨張したのは、人々が国家の公式説明より“裏帳簿”を信じていたからだ。
そして1945年5月23日。
この日は沖縄戦の現実が最も露骨に露出した時期のひとつだった。
沖縄戦 ― 「勝った側も壊れた」戦場
沖縄戦は、日本ではしばしば「悲劇」、アメリカでは「勝利」と整理される。
だが実際には、米軍にとっても異常な消耗戦だった。
硫黄島ですら凄惨だったが、沖縄は規模・期間・湿地・民間人混在・地下陣地・雨季が重なり、太平洋戦争でも特異な地獄になった。
特にシュガーローフ周辺は、米海兵隊史でも最悪級の白兵消耗戦として記録される。
重要なのは、「米軍だから圧勝した」という単純図式ではない。
確かに制空権、艦砲、補給、航空支援、砲兵、医療、輸送――すべて米軍が圧倒していた。
だが日本軍第32軍は、本土決戦までの“時間稼ぎ”に徹し、縦深陣地・逆斜面・地下壕・夜間浸透で米軍火力を吸収した。
つまり日本軍は「勝つ戦争」をしていない。
「どれだけ相手に血を払わせるか」に目的を切り替えていた。
これは近代戦として極めて危険な形態で、合理的に見ると「兵士と住民を資源化した遅滞戦術」である。
米軍側も、物量優位なのに前進距離が異様に短かった。
丘一つ取るのに数百〜数千の死傷者が出る。
砲撃で制圧したと思えば地下壕から再出現する。
雨で死体が浮き上がる。腐敗臭が戦場全体を覆う。
ここで重要なのは、戦後日本で語られた「玉砕の美学」でも、GHQプレスコード下で作られた「米軍の清潔な解放戦争」でもなく、両軍とも極限環境で人間性を摩耗させていた事実である。
米軍海兵隊員の回想には、日本兵の腐乱死体を埋めても雨で浮き出る描写が繰り返し出る。
一方、日本軍側は「本土防衛の盾」という戦略論理の中で、住民保護を後順位にした。
戦後日本では「軍は住民を守らなかった」という証言が強調されるが、リアリスト的には、それは非道徳というより、末期国家の軍事合理性そのものだった。
つまり、
- 本土決戦準備の時間を稼ぐ
- 米軍損耗を最大化する
- 継戦意志を削る
これが第32軍の存在理由だった。
住民は守る対象ではなく、戦場環境の一部へ組み込まれていった。
逆に米軍も、補給優位にもかかわらず、精神的には深く損耗している。
ユージン・スレッジの記録にあるように、兵士たちは「現実ではないと思い込む」ことでしか戦場を処理できなくなっていく。
これは単なる残虐描写ではない。
工業化戦争の本質である。
大量生産された砲弾、無限に近い補給、ブルドーザー、火炎放射器、艦砲射撃――。
そうした近代文明の総力投入の末に、人間は泥と腐臭の中で手作業で死体を埋めている。
近代化は、人間を優雅には殺さない。
むしろ死を大量処理可能にする。
5月23日という日
この日に並ぶ事件を見ていると、共通しているのは「理念より構造が勝つ」という点である。
- 和田義盛は忠義より権力構造に敗れた
- ジャンヌ・ダルクは国家利用の後に切り捨てられた
- サヴォナローラは宗教理念で都市経済を制御できなかった
- キャプテン・キッドは帝国の都合で海賊に変えられた
- 沖縄戦では国家目的が住民生存を飲み込んだ
- ヒムラーですら、敗戦国家では一日で無力化した
歴史を動かすのは、しばしば英雄ではない。
補給、制度、外交、人口、時間稼ぎ、権力維持、情報統制――そうした「構造」のほうが長く残る。
そして5月23日は、その構造が人間を押し潰した痕跡が異様に多い日である。

