4月23日
20260423木曜日旧暦3月7日先負(4番丁卯ひのとうテイボウ)月齢 5.6
43番丙午ひのえうま年 29番壬辰みずのえたつ月 4番丁卯ひのとう日
吉方位 陽遁日 丁卯ひのとう日 南 大吉 年末まではあと252日
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4月23日の出来事
1348年 – イングランド王エドワード3世が、アーサー王と円卓の騎士の精神に触発され、ガーター騎士団を設立。騎士団の守護聖人は聖ジョージで、欠員時の任命は聖ジョージの日(4月23日)に発表される[1]。
1869年(明治2年3月12日) – 明治天皇が歴代天皇で初めて伊勢神宮に参拝。
1945年-沖縄戦4月23日第一防衛線崩壊・米軍動向:23日ついに第1防衛線 (城間-伊祖-嘉数-我如古-西原-千原-和宇慶) を突破する。激しい白兵戦が展開され、銃剣や手榴弾だけでなく棍棒まで使用しての肉弾戦となった。浦添丘陵の西の峰の戦いは、4月23日の夜、突然、終わった。夜半になるちょうど1時間前、前日まで、昼でも夜でもたびたび合図のラッパを吹いていた日本軍のラッパ手が、集中ラッパを吹くや、30名からなる日本兵が、〝バンザイ〟を叫びながら、壕の中から飛び出し、まっすぐ伊祖の南に塹壕を掘っていた第106歩兵連隊の第1大隊の前線に突貫してきて、この日本軍はついに全滅したのである。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 267-268頁より》・日本軍32軍動向:「集団自決」は決して「米軍に追いつめられて」発生するのではない。 構造的に発生する。
4月21日頃 サンダタ壕の「集団自決」
4月22日頃 アハシャガマの「集団自決」
4月23日頃 一ツ岸ガマの「集団自決」
4月23日頃 ユナパチク壕の「集団自決」
・大本営発表:沖縄こそ決戦場。我が特攻隊の怒りは敵艦隊の頭上に炸裂する。敵艦船轟沈破、既に数百隻。しかも敵の戦意はなお熾烈。国運を懸ける沖縄決戦に、我が精鋭は敵殲滅の大攻防戦を展開しつつあり。ニュース映像 第250号|ニュース映像|NHK 戦争証言アーカイブス・一兵士日記:嘉数ー西原戦線で戦った日本軍の一兵隊のつぎの日記によっても明らかにされている。4月23日、米軍が最後の攻撃を試みた日、彼はつぎのように綴っている。
「敵上陸以来、すでに一と月になんなんとするも、熾烈なる戦闘まだ昼夜を分かたず。敵の物量は驚くべきほどなり。わが軍一発撃てば、敵は少なくとも十発をもって報いること必定なり。友軍機ついに一機も機影を見せず。もし飛行機われにあらば、たちまちにして勝利を収めん。ああ飛行機!」
《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 274頁より》
1969年 – 高校生首切り殺人事件。
1994年 – 井の頭公園バラバラ殺人事件。
1995年 – 村井秀夫刺殺事件。翌24日未明に死亡。
2015年 – アルメニア人虐殺から100年を迎えることに伴い、アルメニア使徒教会がジェノサイド犠牲者約150万人を殉教者として列聖[9]。
2022年 – 北海道の知床半島沖で、知床遊覧船沈没事故が発生。乗客18人及び船長と甲板員が死亡、6人が行方不明になった[10]。
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1348年 – イングランド王エドワード3世が、アーサー王と円卓の騎士の精神に触発され、ガーター騎士団を設立。騎士団の守護聖人は聖ジョージで、欠員時の任命は聖ジョージの日(4月23日)に発表される[1]。
ガーター勲章(ガーターくんしょう、英: Order of the Garter)は、1348年にエドワード3世によって創始された、イングランドの最高勲章。正式なタイトルは“Most Noble Order of the Garter”(最も高貴なガーター勲章)。グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(イギリス)の栄典においても騎士団勲章(order)の最高位であるが、全ての勲章・記章の中ではヴィクトリア十字章とジョージ・クロスが上位に位置付けられている。
騎士団勲章は本来、その騎士団の一員になるという意味を持っており、一般に勲章と呼ばれる記章はその団員章である。ガーター騎士団員の称号は男性が“Knight of the Garter”、女性が“Lady of the Garter”で、騎士のポスト・ノミナル・レターズはそれぞれ“KG”および“LG”と表記される。
モットーは“Honi soit qui mal y pense”(悪意を抱く者に災いあれ)で、勲章にもその文字が刻印されている。勲章の大綬の色がブルーであるため、「ブルーリボン」とも呼ばれている。
1869年(明治2年3月12日) – 明治天皇が歴代天皇で初めて伊勢神宮に参拝。
1945年-沖縄戦4月23日第一防衛線崩壊・米軍動向:23日ついに第1防衛線 (城間-伊祖-嘉数-我如古-西原-千原-和宇慶) を突破する。激しい白兵戦が展開され、銃剣や手榴弾だけでなく棍棒まで使用しての肉弾戦となった。浦添丘陵の西の峰の戦いは、4月23日の夜、突然、終わった。夜半になるちょうど1時間前、前日まで、昼でも夜でもたびたび合図のラッパを吹いていた日本軍のラッパ手が、集中ラッパを吹くや、30名からなる日本兵が、〝バンザイ〟を叫びながら、壕の中から飛び出し、まっすぐ伊祖の南に塹壕を掘っていた第106歩兵連隊の第1大隊の前線に突貫してきて、この日本軍はついに全滅したのである。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 267-268頁より》・日本軍32軍動向:「集団自決」は決して「米軍に追いつめられて」発生するのではない。 構造的に発生する。
4月21日頃 サンダタ壕の「集団自決」
4月22日頃 アハシャガマの「集団自決」
4月23日頃 一ツ岸ガマの「集団自決」
4月23日頃 ユナパチク壕の「集団自決」
・大本営発表:沖縄こそ決戦場。我が特攻隊の怒りは敵艦隊の頭上に炸裂する。敵艦船轟沈破、既に数百隻。しかも敵の戦意はなお熾烈。国運を懸ける沖縄決戦に、我が精鋭は敵殲滅の大攻防戦を展開しつつあり。ニュース映像 第250号|ニュース映像|NHK 戦争証言アーカイブス・一兵士日記:嘉数ー西原戦線で戦った日本軍の一兵隊のつぎの日記によっても明らかにされている。4月23日、米軍が最後の攻撃を試みた日、彼はつぎのように綴っている。
「敵上陸以来、すでに一と月になんなんとするも、熾烈なる戦闘まだ昼夜を分かたず。敵の物量は驚くべきほどなり。わが軍一発撃てば、敵は少なくとも十発をもって報いること必定なり。友軍機ついに一機も機影を見せず。もし飛行機われにあらば、たちまちにして勝利を収めん。ああ飛行機!」
《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 274頁より》
1969年 – 高校生首切り殺人事件。
事件の概要
サレジオ高等学校に通っていた男子生徒Aは、男子生徒Bと一緒に山へ行き、2日前に盗んだ登山ナイフを見せたが、Bはナイフに驚かず「お前の顔は豚に似ているな」と言った。その後、Aは今までに受けたいじめを思い出して憎らしさが込み上げ、Bをナイフで刺した。Bが倒れた後、仕返しを恐れたAは無我夢中でBの首を切断した。
Aは自分のやったことが怖くなって、自身の左肩をナイフで二回切って襲われたかのように偽装し、凶器のナイフは現場近くの土の中に埋めて隠した。そして車で通りかかった人に、3人の不良に襲われて友達が殺されたと嘘をついた。二日後の4月25日にAは警察署で取り調べを受けたが、巡査部長らに「これまでの供述は矛盾だらけだ。本当のことを言いなさい。」と言われ、午後6時15分にBの殺害を自供した。
Aは初等少年院を出所したのち、進学して大学院を修了し弁護士となった(なお、事件発覚後に養子縁組という手法で氏が変更している)。一方、被害者遺族は精神を病み家庭崩壊寸前の状態に陥っていた。Aの父親は、Bの遺族に対し和解金計720万円を毎月2万円ずつ支払うとの示談書を交わしていたが、40万円ほどを払って以降は支払いを滞らせ、1998年に死亡した際には680万円が未払いのままであった[1]。
2006年、事件を取材した奥野修司は著書『心にナイフをしのばせて』を出版し、ノンフィクションとしては異例の8万部を超える売上となった。一方、Aは個人情報がインターネット上で流出するなどの被害を受けた。Aは同年10月に遺族へ謝罪の手紙を送り、残された和解金を支払う意思があることを伝えている。手紙には、遺族に面会して直接詫びたい旨が書かれていたという。
しかし、その後Aは弁護士を廃業し、Aからの連絡は途絶えた[2]。
1994年 – 井の頭公園バラバラ殺人事件。
井の頭公園バラバラ殺人事件(いのかしらこうえんバラバラさつじんじけん)とは、1994年(平成6年)4月23日に東京都武蔵野市・三鷹市に所在する井の頭恩賜公園で発覚したバラバラ殺人事件である。
捜査は難航し、多くの謎を残したまま、2009年(平成21年)4月23日午前0時に公訴時効が成立し、未解決事件となった。
1995年 – 村井秀夫刺殺事件。翌24日未明に死亡。
村井秀夫刺殺事件(むらいひでおしさつじけん)とは、1995年(平成7年)4月23日に発生した殺人事件。オウム真理教の最高幹部であった村井秀夫が、東京都港区南青山にあった教団東京総本部前で、山口組傘下の右翼団体「神州士衛館」構成員を名乗る在日韓国人の徐裕行(ソ・ユヘン)に殺害された事件。
2015年 – アルメニア人虐殺から100年を迎えることに伴い、アルメニア使徒教会がジェノサイド犠牲者約150万人を殉教者として列聖[9]。
アルメニア人虐殺(アルメニアじんぎゃくさつ)は、19世紀末から20世紀初頭に、オスマン帝国の少数民族であったアルメニア人の多くが、強制移住、虐殺などにより死亡した事件の総称。狭義では特に第一次世界大戦中に起きた虐殺事件を指し、これがオスマン帝国政府(英語版)による計画的で組織的なジェノサイド(虐殺)だったと見る意見が大勢であり、「アルメニア人ジェノサイド」とも呼ばれる。21世紀に至る現代でも、オスマン帝国の主な継承国であるトルコ共和国は国際的に非難されている。トルコ政府(英語版)は、その計画性や組織性を認めていない[1]。
2022年 – 北海道の知床半島沖で、知床遊覧船沈没事故が発生。乗客18人及び船長と甲板員が死亡、6人が行方不明になった[10]。
知床遊覧船沈没事故(しれとこゆうらんせんちんぼつじこ)は、2022年(令和4年)4月23日に北海道斜里郡斜里町の知床半島西海岸沖で、有限会社知床遊覧船(しれとこゆうらんせん)が保有・運行する観光船「KAZU I(カズ ワン)」[8]が船内浸水により沈没した海難事故[9]。乗員・乗客合わせて26名全員が死亡・行方不明となり、旅客船事業に対して国の監督強化のほか[10]、海上保安庁が救助体制を強化するきっかけとなった[11]。
チャットgpt先生の4月23日のエッセイ
4月23日という日付を並べてみると、人間社会の振れ幅の大きさが、そのまま一日の中に圧縮されているように見える。
14世紀、ガーター騎士団が創設された。エドワード3世は、伝説的な円卓の騎士に触発され、忠誠と名誉を制度として固定しようとした。騎士道は理想でありつつ、同時に統治の道具でもあった。秩序を維持するには、理念だけではなく「選別」と「序列」が必要だという現実的な判断がそこにある。
それから約600年後、同じ日付に記録されているのが沖縄戦の局面だ。1945年4月23日、第一防衛線は崩壊する。ここで重要なのは、「崩壊=即敗北」ではなかった点だ。むしろこの後、戦闘はさらに粘着質になり、米軍にとっても想定外の消耗戦へと変質していく。
米軍は圧倒的な物量を持っていた。制空権、艦砲射撃、補給能力、どれをとっても優位だった。しかし沖縄の戦場は、その優位をそのまま効率に変換できる環境ではなかった。地形は複雑で、地下壕が張り巡らされ、日本軍は「持久戦」に徹した。前線は線ではなく、点在する抵抗拠点の集合体となり、攻略は一つずつ潰すしかない。
結果として、米軍は太平洋戦線でも最大級の損害を出す。これは単純に「激戦だった」という話ではなく、「近代戦の合理性が通用しにくい局面」が存在することを示している。火力や補給が優れていても、戦場の条件次第でコストは跳ね上がる。沖縄はその典型例だった。
同時に、日本側もまた合理的とは言い難い選択を重ねている。持久戦は時間を稼ぐが、戦局全体を覆す手段にはならない。現地の部隊や住民に極端な負担を押し付ける構造ができあがり、各地での「集団自決」や無謀な突撃は、その帰結として現れる。ここには美化も単純な被害者像も入り込む余地は少ない。組織が追い詰められたときに生じる、極端な判断の連鎖と見るほうが実態に近い。
戦後になると、この日の記録には別の種類の出来事が並ぶ。未解決のまま終わった井の頭公園バラバラ殺人事件や、宗教団体幹部が路上で刺殺された村井秀夫刺殺事件。国家総力戦の時代が終わっても、暴力は形を変えて残る。規模は縮小しても、構造は消えない。
さらに現代では、知床遊覧船沈没事故のような事故が記録される。これは戦争とは無関係に見えるが、別の意味で同じ問題を含んでいる。安全管理の軽視、判断の遅れ、情報の非対称性。どれも戦場で見られた構造と重なる部分がある。
こうして並べると、4月23日は特別な意味を持つ日というより、「人間の意思決定の癖」が露出した日だと見える。理想を掲げて制度を作ることも、圧倒的優位で戦争を始めることも、極限状況で非合理な行動に傾くことも、平時にリスクを軽視することも、すべて同じ延長線上にある。
歴史は教訓を与えると言われるが、実際には「同じ構造が繰り返される」ことを確認させる側面のほうが強い。4月23日は、その繰り返しの断面を、時代ごとに切り出して見せているに過ぎない。

