kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日8月6日 1945広島市原子爆弾投下とされる、ほかwikipedia爆心地路面電車残骸

8月6日

20260806木曜日旧暦6月24日大安(49番壬子みずのえねジンシ)月齢 22.7

43番丙午ひのえうま年 32番乙未きのとひつじ月 49番壬子みずのえね日

吉方位 隠遁日 壬子みずのえね日 南 大吉 年末まであと147日

https://ja.wikipedia.org/wiki/8%E6%9C%886%E6%97%A5

8月6日の出来事

1566年 – オスマン・ハプスブルク戦争: スィゲトヴァール包囲戦が開始。損害ハプスブルグ 3000 オスマン帝国30000 合計33000死亡

1578年(天正6年7月3日) – 上月城の戦い: 尼子勝久らが自刃し尼子氏が滅亡。籠城2000全滅。

1806年 – フランツ2世が「神聖ローマ皇帝」の称号を自ら放棄し、神聖ローマ帝国が名実ともに解体。

1869年(明治2年6月29日)- 戊辰戦争の官軍側戦死者を祀る神社として東京招魂社(現靖国神社)が創建。

1910年 – 8月11日にかけて中部地方、関東地方、東北地方で明治期最悪の風水害被害。死者・行方不明者1379人[3]。

1916年 – 第一次世界大戦: 第六次イゾンツォの戦いが起こる。11日で約100000人死傷。

1923年 – 徳島県鳴門市の区内観測所で42.5℃を観測[2]。

1945年 – 第二次世界大戦: 広島市への原子爆弾投下。死者10万~20万人。

1945年-沖縄戦8月6日・前日、テニアン島ハゴイ飛行場のピットからB29エノラ・ゲイに原爆が積み込まれ、翌朝の8月6日、1時27分に広島に向かって離陸した。米海兵隊ハゴイ飛行場はもとは日本軍が建設し南洋一の飛行場といわれていたが、1944年に米軍が上陸して接収・拡張したものだった。<引用先原>・… 1944年7月24日、米軍はテニアン島に上陸し30日にはテニアン町を占領しました。サイパン島と同様に民間人を巻き込んだ地上戦で、米軍の圧倒的な戦力の前に日本軍は追い詰められていきました。悲惨を極めたテニアン島の戦いでは8月3日に日本軍の組織的戦闘が終了しました。この戦闘における沖縄県出身者の戦没者数は約3,500人とされています。<〔WEB展示〕令和2年度 新規公開写真資料展―サイパン・テニアン・ペリリューの戦い – 沖縄県公文書館>・エノラ・ゲイは、爆弾倉に長さ3.1メートル、最大直径75センチ、重量約4トンのウラニウム型原子爆弾「リトルボーイ」を搭載し、1945年8月6日未明にテニアン島を発進、同日午前8時15分に高度1万1500メートルから広島市中心部に原爆を投下した。<広島に原子爆弾を投下した後、マリア…:「超」空の要塞 B29爆撃機 写真特集:時事ドットコム>・久志・辺野古の米軍野戦病院にて

ある日の夕方、ベイツという看護兵が私のベッドに腰を下ろした。彼はCテントの係であったが、よく私のところへ顔を出した。そのベイツから「君は広島を知っているか」と聞かれた。「知っている」と答えると、彼は「そこへ爆弾が落とされたが、半径7.5マイル内のものすべてが死滅する新型爆弾だ」と言った。

原爆を知らない私は、まるでよそ事のように〝原爆〟投下のニュースを聞いていた。

ベイツについて忘れられないことがある。彼は全患者に「新約聖書」を配った。もちろん日本語版である。彼は言った。「アメリカからのプレゼント」であると—。それから、彼は、ライフ誌を持ってきてくれた。アウシュビッツの写真は、私たちに衝撃を与えた。《「狂った季節 戦場彷徨、そしてー。」(船越義彰/ニライ社) 114-115頁より》・一方で、8月20日の『ライフ誌』のヒロシマ・ナガサキ特集は、勝利のシンボルとしての巨大なきのこ雲や空中写真を掲載しながらも、その下で展開している恐ろしい残虐行為の写真を掲載してはいない。<引用先原文>

1975年 – 青森県の岩木山麓で土石流が発生(岩木山百沢土石流災害)。死者22人。

1997年 – 大韓航空801便墜落事故。ソウル発グアム行きの大韓航空機がグアム国際空港への着陸進入中に墜落、乗員乗客254名中228名が死亡。

2021年 – 小田急線刺傷事件が発生[10]。

負傷者    10人被害者           20歳の女子大生ほか

2024年 – ロシアのウクライナ侵攻: ウクライナがロシア西部のクルスク州への侵攻を開始。

時             2024年8月6日 – 2025年5月25日

場所        ロシアの旗 ロシア クルスク州、ベルゴロド州[1]

結果        ・クルスク州の一部地域をウクライナ軍が2025年初頭まで占領

・ロシア及び北朝鮮の勝利、ウクライナ軍の撤退

・ウクライナ軍は作戦を継続中(ウクライナ側の主張、2025年4月時点)

損害  ウクライナ軍 49,000+が死傷 ロシア軍 ウクライナの主張:[32][33]

死傷者40,000人(死者16,100人)、909人拘束

主の変容の祝日

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1566年 – オスマン・ハプスブルク戦争: スィゲトヴァール包囲戦が開始。損害ハプスブルグ 3000 オスマン帝国30000 合計33000死亡

1566年8月から9月にかけてのこの包囲戦で、オスマン帝国は勝利しスィゲトヴァールを確保しこそしたものの、双方が大勢の兵を失う結果に終わった。最終盤でスレイマン1世が陣没し、ニコラ・シュビッチ・ズリンスキも戦死した。オスマン軍は2万人が戦死し、対する守備兵2300人はほぼ全滅した。後者のうち、最後の日の総攻撃まで生存していたのは600人ほどだった[4]。膨大な被害とスルタンの死により、オスマン軍は同年中に撤退を余儀なくされ、その後1683年の第二次ウィーン包囲までウィーンがオスマン軍の脅威にさらされることはなかった。

1578年(天正6年7月3日) – 上月城の戦い: 尼子勝久らが自刃し尼子氏が滅亡。籠城2000全滅。

上月城の戦い(こうづきじょうのたたかい)は、天正6年(1578年)4月18日から同年7月3日まで播磨国上月城で毛利輝元と尼子勝久との間で行われた合戦である。

尼子氏

尼子氏(あまごし)は、武家・士族だった日本の氏族。室町時代中期に京極氏の分流京極高久が所領の近江国犬上郡尼子郷から尼子を称したのに始まる。

京極氏の守護代として出雲に下って勢力を拡大、経久の代に守護を世襲した京極氏が断絶したことから守護となり、出雲を中心に山陰地方の国人を従え安芸国、石見国において大内氏と中国地方の覇を争ったが、やがて大内氏を滅ぼした毛利氏に圧迫され、義久の代に居城月山富田城が落城[2]。以降義久とその子孫は毛利氏の家臣となり、江戸時代には佐佐木に復姓して長州藩士家として続き、維新後士族。通字は「久」(ひさ)。

1806年 – フランツ2世が「神聖ローマ皇帝」の称号を自ら放棄し、神聖ローマ帝国が名実ともに解体。

1869年(明治2年6月29日)- 戊辰戦争の官軍側戦死者を祀る神社として東京招魂社(現靖国神社)が創建。

概要

ボアソナード・タワー26階から鳥瞰する

九段坂の坂上[5]に東面して鎮座しており、日本の軍人、軍属等を主な祭神として祀っている。勅祭社で旧別格官幣社[6]。主に「対外戦争の戦没者」と「明治維新前後の国事殉難者」が祀られている[7]。また、境内は桜の名所として知られる他、大鳥居が東に向いている、数少ない神社の一つでもある[注釈 1]。

創建当初は軍務官(直後に兵部省に改組)が[8]、後に内務省が人事を所管し、大日本帝国陸軍(陸軍省)と同海軍(海軍省)が祭事を統括していた[9](陸海両軍を以下「旧陸海軍」等と略記する)が、1946年(昭和21年)に、日本国政府の管理を離れて東京都知事の認証により、宗教法人法の単立宗教法人となった[10]。

ウィリアム・P・ウッダードによれば、靖国神社は戦没者の霊を祀る全国的な唯一の神社であり、昭和20年(1945年)当時には明治神宮と並び伊勢神宮以外には次ぐものがないと言われるほどの尊崇を受けていたという[11]。かつて日本軍の将兵が戦場で死に直面した時の合言葉は「靖国神社で会おう」であった[12]。終戦当時、靖国神社は連合国より超国家主義と軍国主義の象徴とみなされ、解体の危機にあったが、GHQによる厳格な調査と検討、神社側の努力や遺族の請願の結果、戦没者が払った犠牲の適正な公的記念を求める日本人の希望の高まりを考察して、連合国はこれら戦没者のための神社にいかなる抑圧的行動もとならないとの結論に達し、一宗教法人としての存続が決まったという[13]。戦前から戦争直後まで宮司を務めた鈴木孝雄は「遺族の方々は神ということばの厳粛さに感じいっております。・・これは遺族の皆様に与えられる最大の名誉であります。神に列せられ、広く国民から敬われ、恐れ多くも天皇陛下おんみずから参拝いただくことは、臣下として無上の光栄とするところであります」と当時の靖国神社の性格に付いて語っている[12]。

1910年 – 8月11日にかけて中部地方、関東地方、東北地方で明治期最悪の風水害被害。死者・行方不明者1379人[3]。

1916年 – 第一次世界大戦: 第六次イゾンツォの戦いが起こる。11日で約100000人死傷。

第六次イゾンツォの戦い(Sixth Battle of the Isonzo)とは、第一次世界大戦中のイタリア戦線のゴリツィアの戦いとしても知られる会戦で、イタリアがイゾンツォ川に沿って勝利を収めた。

戦闘

8月6日、ゴリツィアで衝突があり、攻撃が開始された。8月8日にゴリツィアはイタリア軍によって落とされ、イゾンツォ川を渡す橋頭堡がつくられた。オーストリア・ハンガリー軍は、防衛線を突破されるのを防ぐために、前線のゴリツィアに軍を送った。だが、橋頭堡を確保することに満足したカドルナは、8月17日に攻撃を終了した。ゴリツィアへの攻撃はイゾンツォ戦線に沿って行われたイタリアの攻撃の中で最もうまくいったもので、大いに士気が高まることにつながった。8月28日、それまで同盟国と協商国に分かれつつも中立を維持していたイタリアとドイツは遂に戦争状態に突入した。

後年の歴史家達はこのゴリツィア攻勢がカドルナ体制での唯一最大の戦略的勝利であったと評した上で、戦争の趨勢に与えた影響は低かったと指摘した。死傷者数に大きな差は無かったものの、死者数の割合がイタリア側で非常に多かった。これはカドルナがイタリア陸軍の装備の劣悪さを歩兵突撃で挽回しようとした事と、同様に性能で上回るオーストリア軍の野戦砲によって生まれた結果だった。またオーストリア軍は戦力を温存して防御体制を維持した。

1923年 – 徳島県鳴門市の区内観測所で42.5℃を観測[2]。

1945年 – 第二次世界大戦: 広島市への原子爆弾投下。死者10万~20万人。

広島市への原子爆弾投下(ひろしましへのげんしばくだんとうか)は、第二次世界大戦(太平洋戦争)末期の1945年(昭和20年)8月6日(月曜日)午前8時15分、連合国のアメリカ合衆国が、枢軸国の日本の広島市に対して原子爆弾「リトルボーイ」を実戦使用した出来事である[2]。これは、人類史上初の都市に対する核攻撃である。この核攻撃により当時の広島市の人口35万人(推定)の内、9~16万6千人が被爆から2~4ヶ月以内に死亡したとされる[3]。

原爆投下後の入市被爆者も含め56万人が被爆したとされる[4]。また、わずか3日後の1945年8月9日には、長崎市へも原子爆弾が投下された。

1945年-沖縄戦8月6日・前日、テニアン島ハゴイ飛行場のピットからB29エノラ・ゲイに原爆が積み込まれ、翌朝の8月6日、1時27分に広島に向かって離陸した。米海兵隊ハゴイ飛行場はもとは日本軍が建設し南洋一の飛行場といわれていたが、1944年に米軍が上陸して接収・拡張したものだった。<引用先原>・… 1944年7月24日、米軍はテニアン島に上陸し30日にはテニアン町を占領しました。サイパン島と同様に民間人を巻き込んだ地上戦で、米軍の圧倒的な戦力の前に日本軍は追い詰められていきました。悲惨を極めたテニアン島の戦いでは8月3日に日本軍の組織的戦闘が終了しました。この戦闘における沖縄県出身者の戦没者数は約3,500人とされています。<〔WEB展示〕令和2年度 新規公開写真資料展―サイパン・テニアン・ペリリューの戦い – 沖縄県公文書館>・エノラ・ゲイは、爆弾倉に長さ3.1メートル、最大直径75センチ、重量約4トンのウラニウム型原子爆弾「リトルボーイ」を搭載し、1945年8月6日未明にテニアン島を発進、同日午前8時15分に高度1万1500メートルから広島市中心部に原爆を投下した。<広島に原子爆弾を投下した後、マリア…:「超」空の要塞 B29爆撃機 写真特集:時事ドットコム>・久志・辺野古の米軍野戦病院にて

ある日の夕方、ベイツという看護兵が私のベッドに腰を下ろした。彼はCテントの係であったが、よく私のところへ顔を出した。そのベイツから「君は広島を知っているか」と聞かれた。「知っている」と答えると、彼は「そこへ爆弾が落とされたが、半径7.5マイル内のものすべてが死滅する新型爆弾だ」と言った。

原爆を知らない私は、まるでよそ事のように〝原爆〟投下のニュースを聞いていた。

ベイツについて忘れられないことがある。彼は全患者に「新約聖書」を配った。もちろん日本語版である。彼は言った。「アメリカからのプレゼント」であると—。それから、彼は、ライフ誌を持ってきてくれた。アウシュビッツの写真は、私たちに衝撃を与えた。《「狂った季節 戦場彷徨、そしてー。」(船越義彰/ニライ社) 114-115頁より》・一方で、8月20日の『ライフ誌』のヒロシマ・ナガサキ特集は、勝利のシンボルとしての巨大なきのこ雲や空中写真を掲載しながらも、その下で展開している恐ろしい残虐行為の写真を掲載してはいない。<引用先原文>

1975年 – 青森県の岩木山麓で土石流が発生(岩木山百沢土石流災害)。死者22人。

1997年 – 大韓航空801便墜落事故。ソウル発グアム行きの大韓航空機がグアム国際空港への着陸進入中に墜落、乗員乗客254名中228名が死亡。

2021年 – 小田急線刺傷事件が発生[10]。

負傷者    10人被害者           20歳の女子大生ほか

概要

2021年8月6日20時30分頃、成城学園前駅 – 祖師ヶ谷大蔵駅間を走行中の小田急小田原線車内で、36歳の無職の男が牛刀を振り回し乗客を負傷させた[7][8][注 1]。まず男は逆手に持った牛刀で7号車(5156号車)にいた20歳の女子大学生の胸を2回刺した。女性が逃げると追いかけて背中を刺すなどし、牛刀の柄が折れて使用できなくなるまで切りつけた[9][10]。さらに男はサラダ油を8号車(5106号車)の床に撒いてライターで着火しようと試みたが失敗した[11]。

男は緊急停車後に乗客がドアコックを使って開けていた9号車(5006号車)のドアから下車し、高架橋を下りて現場から逃走したが[11]、同日22時頃に杉並区高井戸西のファミリーマート高井戸西一丁目店に入店し、店員に「いまニュースでやっている事件は私がやった」と話した[12]。その後、店員の通報で駆け付けた警察官に殺人未遂容疑で逮捕された[13]。犯人が犯行現場を快速急行の車内としたのは、停車駅が少なく犯行しやすいからだと供述している[11]。この影響により小田急電鉄全線のダイヤが大きく乱れ、小田急ロマンスカーは全列車の運休を決定、直通運転先の東京メトロ千代田線も終日直通運転を中止した。

本事件を皮切りに、2021年10月の京王線刺傷事件など列車内での事件が相次いだため、国土交通省は鉄道事業者に対し、新規の全車両において防犯カメラの設置を義務付ける方針を固め、防犯カメラが設置されていない既存車両についても設置するよう求められた[14]。

2024年 – ロシアのウクライナ侵攻: ウクライナがロシア西部のクルスク州への侵攻を開始。

時             2024年8月6日 – 2025年5月25日

場所        ロシアの旗 ロシア クルスク州、ベルゴロド州[1]

結果        ・クルスク州の一部地域をウクライナ軍が2025年初頭まで占領

・ロシア及び北朝鮮の勝利、ウクライナ軍の撤退

・ウクライナ軍は作戦を継続中(ウクライナ側の主張、2025年4月時点)

損害  ウクライナ軍 49,000+が死傷 ロシア軍 ウクライナの主張:[32][33]

死傷者40,000人(死者16,100人)、909人拘束

ウクライナ軍によるクルスク州への侵攻は、ロシアのウクライナ侵攻下の2024年8月6日にウクライナが始め2025年5月25日までに撃退されたロシア西部クルスク州への越境攻撃。

主の変容の祝日

主イエスの変容(しゅイエスのへんよう、英:Transfiguration of Jesus)は、福音書に記述された、イエス・キリストが高い山に弟子たち(ペトロ、ヨハネ、ヤコブ)を伴い、旧約の預言者であるモーセとエリヤと語り合いながら白く光り輝く姿を弟子たちに示したと聖書に記された出来事をいう(マタイによる福音書17章1節 – 9節、マルコによる福音書9章2節 – 8節、ルカによる福音書9章28節 – 36節)。

概要

タボル山(ファヴォル山)の現在の姿。

山の名は正教会においては「タボル山(スラヴ語ではファヴォル山)」と伝承されているが、聖書には山の名についての記載は無い。山において、イエス・キリストは預言者とともに語り合いながら光り輝く姿を弟子達に見せたと伝えられる。教会では、この世的な意味でのキリストの勝利(イスラエルの解放)を願う弟子達に対し、自らの受難を予言し続けたキリストが、これから受ける苦難に際して信仰し続ける希望を与えるためにこの奇蹟を行ったと伝えられる。

イコンには光り輝くイエス・キリストのほか、二人の預言者、三人の弟子達が描かれる。

正教会ではこの時のイエス・キリストの光が、ヘシュカスム(静寂主義)の際に放たれる光と同一のものであるとされる。このことに関する神学はグリゴリオス・パラマスによって体系化された。

チャットgpt先生の8月6日のエッセイ

8月6日――歴史は「巨大な転換」と「巨大な損耗」を繰り返す

8月6日を年代順に眺めると、この日には一つの共通した構造が浮かび上がる。それは「長い均衡が崩れ、新しい秩序が始まる日」である。

1566年、スィゲトヴァール包囲戦が始まる。オスマン帝国は勝利したが、約2万人を失い、守備側もほぼ全滅した。戦術的には勝利でも、戦略的には国力を大量消費した戦いだった。さらにスレイマン1世は陣中で没し、この戦役を最後にオスマン帝国の中欧進出はしばらく停滞する。勝者であっても、代償が大きければ勢いは続かない。

1578年の上月城では尼子氏が滅亡した。一族の滅亡は一日の出来事ではなく、数十年続いた勢力争いの最終局面である。歴史では「滅亡の日」が記録されるが、実際にはそれ以前に政治・軍事・外交の選択肢が徐々に失われている。最後の日は、積み重ねの結果にすぎない。

1806年には神聖ローマ帝国が消滅する。約千年続いた帝国も、ナポレオン戦争という新しい軍事・政治システムの前では制度として維持できなかった。制度は永遠ではなく、それを支える軍事力と経済力が失われれば、名称だけ残しても意味を持たない。

1869年には東京招魂社(後の靖国神社)が創建された。戦争は戦場だけで終わらない。戦後には戦死者をどう位置づけ、国家がどう記憶するかという制度設計が始まる。国家は軍隊だけでは成立せず、記憶を管理する仕組みもまた統治の一部である。

1910年の大水害、1923年の猛暑、1975年の岩木山土石流災害は、人間社会が自然条件の上に成立していることを示している。政治や経済がどれほど発展しても、気象や地形という基盤は変わらない。自然災害は国家の意志とは無関係に社会を揺さぶる。

1916年、第六次イゾンツォの戦いでは約11日間で10万人規模の死傷者が発生した。戦線は動いたが、戦争全体の流れを決定づけるほどではなかった。近代戦では、局地的勝利が戦略的勝利につながらない例が珍しくない。人的損耗だけが積み上がる戦争の特徴がここに現れている。

1945年8月6日は、人類史上初めて都市に対して核兵器が使用された日となった。広島への原爆投下は、一都市への攻撃であると同時に、戦争技術の段階が変わった瞬間でもある。それまで爆撃は大量の航空機と継続的な出撃を必要としたが、一発の兵器が都市機能そのものを破壊できる時代が始まった。核兵器は単なる火力増強ではなく、抑止・外交・安全保障を含めた国際政治全体の構造を変化させた。

その前日まで原爆はテニアン島で準備され、飛行場、補給、整備、護衛、気象観測など膨大な後方支援によって運用された。一つの爆弾だけが歴史を変えたのではなく、それを成立させる物流・基地・工業力・情報収集能力という巨大なシステムが存在していた。近代戦は兵器だけではなく、生産力と補給能力の競争でもある。

1997年の大韓航空801便墜落事故、2021年の小田急線刺傷事件は、平時における社会インフラの脆弱性を示している。航空機や鉄道は高い安全性を前提とした巨大システムである一方、事故や犯罪が起きれば社会全体へ影響が波及する。高度な社会ほど、一つの障害が広範囲へ伝播する。

2024年にはウクライナ軍がロシア・クルスク州へ越境攻撃を開始した。戦場は固定戦線から相手領内への機動戦へ移り、国境そのものが絶対的な防壁ではないことを示した。この戦いでも戦果だけでなく、兵站、補充能力、継戦能力が勝敗を左右した。現代戦でも最終的に問われるのは、一度の攻撃ではなく長期間戦い続ける総合力である。

8月6日を通して見ると、歴史は英雄や偶然ではなく、構造によって動いていることが分かる。国家は軍事力、経済力、制度、物流、技術、人口という複数の要素の均衡で維持され、その均衡が崩れた瞬間に大きな転換が起こる。

この日に並ぶ出来事は、包囲戦、滅亡、帝国の終焉、自然災害、大規模戦闘、核兵器、航空事故、都市犯罪、越境戦争と一見ばらばらである。しかし共通するのは「既存の仕組みが限界に達した時、歴史は一気に次の段階へ移る」という構造である。

8月6日は、一つの事件を記憶する日というよりも、「秩序が更新される境界」を繰り返し示してきた歴史上の日付なのである。