6月24日
20260624水曜日旧暦5月10日友引(6番己巳つちのとみキシ)月齢 9
43番丙午ひのえうま年 31番甲午きのえうま月 6番己巳つちのとみ日
吉方位 隠遁日 己巳つちのとみ日 北 北東 大吉 年末まであと190日
https://ja.wikipedia.org/wiki/6%E6%9C%8824%E6%97%A5
6月24日の出来事
1333年(元弘3年/正慶2年5月12日) – 久米川の戦い。新田義貞軍が武蔵国久米川で鎌倉幕府の軍勢を破る。
戦争:元弘の乱
年月日:元弘3年(1333年)5月12日
場所:武蔵国久米川(現在の東京都東村山市諏訪町)
結果:後醍醐天皇勢力の勝利 損害:不明
1340年 – スロイスの海戦。英海軍が仏海軍を破り、ドーバー海峡の制海権を握る。
年月日:1340年6月24日
場所:フランス、フランドル地方スロイス(現オランダ、ゼーラント地方)
結果:イングランドの勝利
損害不明:ほとんどのフランス船が拿捕された。
1348年 – イングランドのドーセット地方にペストが上陸。
14世紀に起きた大流行では、当時の世界人口4億5000万人の22%にあたる1億人が死亡したと推計されているが、正式な住民登録制度はおろか正式な記録文書もないため信憑性は不明である[6]。
1535年 – ミュンスターの反乱: 再洗礼派の都市ミュンスターが帝国諸侯軍により陥落。
戦争:16世紀の神聖ローマ帝国の都市ミュンスターで発生した再洗礼派の反乱
年月日:1534年 – 1535年
場所:ミュンスター
結果:ミュンスター再洗礼派は敗北し帝国諸侯軍が勝利した
損害:詳細不明だが 数千人。
1779年 – アメリカ独立戦争: ジブラルタル包囲戦が始まる。
戦争:アメリカ独立戦争
年月日:1779年6月24日 – 1783年2月7日
場所:ジブラルタル
結果:イギリスの勝利
損害:イギリス海軍 1000人弱 フランススペイン海軍 5000人戦死傷。
1942年 – ナチス・ドイツがラインハルト・ハイドリヒ暗殺の報復としてチェコのレジャーキで住民を虐殺。
1945年-沖縄戦6月24日・6月中旬には稲刈り取りがなされたが、作物はすべて軍の倉庫に保管され、住民には一日わずか一にぎりの配給がなされるだけであった。… 6月22日には軍民が一ヵ所に集められた。隊長自身、これ以上保護しても無意味と思ったのか「米軍へ投降してもよい。」という意味の命令が下された。つまり、米軍への投降は黙認されることになったのである。そのため軍民の半数以上と、朝鮮人の軍夫全員が山を下り投降していった。
… 主計の見ノ木中尉は率先して部落民を指導、ソテツの製造製塩法、自然野菜の植え付けなどを行ったが、部落民にとって、この見ノ木主計は最も恐ろしい存在で、作業中に隊を離れたといっては罰し、とにかく、むちゃくちゃな程に住民をいじめぬいた。ある老人は釣りの帰りにちょっとしたことで半殺しの目にあい、子供泣きに泣きじゃくる程の仕打ちを受け、またある老婆は「じゃま者」ということで、石を投げられ傷つき、その傷から破傷風となり死亡するという事件も起きた。とにかく部落民は、この主計の横暴ぶりに恐れおののいた。人々の間からは、「見ノ木主計は犬畜生よ、天地人の罰」と唱える者もいた。《垣花武栄『「敵」と化した日本軍』座間味村史・下巻 (1989年) 132-133頁》・しかし海軍の軍曹・佐々木は、住民を殺害したり、女性を強姦したり、食料を強奪していた。近くで水が飲めた唯一の井戸を独占している、という話も住民から聞いた。「住民が泣きついてきたんです。佐々木は自分だけ生き延びようとしていた。反感を持たれていました」
ウワサだけでなく、飯田さん自身も佐々木の蛮行を目撃する。もう限界だと思った。… 「佐々木さえいなければ、なんとかしのげて、水も飲めるのに」飯田さんは、仲間と一緒に殺害計画を立てた。井戸で住民に嫌がらせをしていた佐々木に近づき、後頭部に銃を突きつけ、引き金を引いたのだ。
日本兵が日本兵を銃殺 当事者の元隊員95歳男性が記録に 「住民虐殺、強姦・強奪許せず」 – 琉球新報・兵隊が再びやって来て『いくら言っても分からんのかッ。なぜ泣かすのだッ』と言い、理由がわかるとオバアの黒砂糖を取り上げました。その時、下の子が『これは僕らのだ』と言って兵隊に飛びかかったのです。兵隊はこの子を銃で撃ち殺しました。オバアは目の前で孫が殺されても、恐ろしくて声を出して泣くことも出来ない。回りの人たちも皆、シーンと静まり返っていました」
「それからは赤ちゃんが泣いても、周囲の人たちが『子供を泣かすなッ』と母親をしかるのです。泣かすなと言われても、赤子は泣きます。よく泣いていた赤ちゃんが急に静かになったな、と不思議に思っていたら、『たまりかねた母親が口におしめを押し込んだ』というヒソヒソ話が伝わって来ました。この時から私たちは敵は米軍でなく、友軍だと思うようになりました。県民はありったけの協力をした揚げ句、土壇場で裏切られたのです。私が豊見城の海軍外科壕からこの壕へ向かっていた時、逆に南から北上して来る避難民に会いました。『なぜ敵の居る方へ行くの?』と聞くと『友軍に銃を突きつけられ、わずかな持ち物を取り上げられ、壕を追い出された。ウッター(あいつら)に殺されるより、自分の屋敷で艦砲にでも当たった方がまし』と吐き捨てた言葉が忘れられません」』《「沖縄の島守 内務閣僚かく戦えり」(田村洋三/中央公論新社) 380、380-381頁より》
1949年 – 昭和電工川崎工場で爆発事故。死者17人、重軽傷者50余人[4]。
1994年 – フェアチャイルド空軍基地でアメリカ空軍のB-52が墜落。搭乗者4名全員が死亡した[5]。
聖ヨハネ祭(キリスト教)
バプテスマのヨハネの生誕祭。ヨハネは祭司ザカリヤとエリサベツの子としてイエス・キリストより6ヵ月早く生まれ(ルカの福音書1:5~36)、キリストに洗礼を施した(マタイの福音書3:13~16)。そのため、クリスマスが12月25日に定められると、彼の誕生日は6月24日の夏至の日になった。
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1333年(元弘3年/正慶2年5月12日) – 久米川の戦い。新田義貞軍が武蔵国久米川で鎌倉幕府の軍勢を破る。
戦争:元弘の乱
年月日:元弘3年(1333年)5月12日
場所:武蔵国久米川(現在の東京都東村山市諏訪町)
結果:後醍醐天皇勢力の勝利 損害:不明
久米川の戦い(くめがわのたたかい)は、元弘の乱の戦いの一つで、鎌倉時代最末期の元弘3年(1333年)5月12日に、武蔵国久米川(現在の東京都東村山市諏訪町)において、桜田貞国率いる鎌倉幕府勢と新田義貞率いる反幕府勢との間で行われた合戦である。
1340年 – スロイスの海戦。英海軍が仏海軍を破り、ドーバー海峡の制海権を握る。
年月日:1340年6月24日
場所:フランス、フランドル地方スロイス(現オランダ、ゼーラント地方)
結果:イングランドの勝利
損害不明:ほとんどのフランス船が拿捕された。
スロイスの海戦(スロイスのかいせん)は、1340年6月24日に行われた、百年戦争における主要な海戦の1つ。ゼーラント(現オランダ)のスロイス(フランス語名エクリューズ)の港においてイングランド海軍がフランス海軍を壊滅させて、以降ドーバー海峡の制海権を握った。
百年戦争における、三つの重要な海戦の一つといわれる。他の二つはレ・ゼスパニョール・シュール・メールの海戦、1372年のラ・ロシェルの海戦である[1]。
1348年 – イングランドのドーセット地方にペストが上陸。
14世紀に起きた大流行では、当時の世界人口4億5000万人の22%にあたる1億人が死亡したと推計されているが、正式な住民登録制度はおろか正式な記録文書もないため信憑性は不明である[6]。
ペスト(百斯篤[1]、百斯杜[1]、ドイツ語: Pest、英語: plague[注 1])とは、ペスト菌による感染症[2]。症状は、発熱、脱力感、頭痛などがある[3]。感染して1-7日後に発症する[2] 。感染者の皮膚が内出血して紫黒色になるため、黒死病(こくしびょう、英語: Black Death、ドイツ語: Schwarzer Tod)とも呼ばれる。
感染ルートや臨床像によって腺ペスト、肺ペスト、敗血症型ペストに分けられる[4]。人獣共通感染症かつ動物由来感染症である[4]。ネズミ[注 2]など齧歯類を宿主とし、主にノミによって伝播されるほか、野生動物やペットからの直接感染や、ヒト→ヒト間での飛沫感染の場合もある[4]。感染した場合、治療は抗生物質と支持療法による[2]。致命率は非常に高く、治療した場合の死亡率は約10%だが、治療が行われなかった場合には60%から90%に達する[5](これはエボラ出血熱の40〜70%よりも高い)。
1535年 – ミュンスターの反乱: 再洗礼派の都市ミュンスターが帝国諸侯軍により陥落。
戦争:16世紀の神聖ローマ帝国の都市ミュンスターで発生した再洗礼派の反乱
年月日:1534年 – 1535年
場所:ミュンスター
結果:ミュンスター再洗礼派は敗北し帝国諸侯軍が勝利した
損害:詳細不明だが 数千人。
ミュンスターの反乱(ミュンスターのはんらん、独: Täuferreich von Münster)は、16世紀の神聖ローマ帝国の都市ミュンスターで発生した再洗礼派の反乱。
1779年 – アメリカ独立戦争: ジブラルタル包囲戦が始まる。
戦争:アメリカ独立戦争
年月日:1779年6月24日 – 1783年2月7日
場所:ジブラルタル
結果:イギリスの勝利
損害:イギリス海軍 1000人弱 フランススペイン海軍 5000人戦死傷。
ジブラルタル包囲戦(ジブラルタルほういせん、英語: Great Siege of Gibraltar)は、アメリカ独立戦争の期間に、ジブラルタルのイギリスからの奪取を目的としてスペインとフランスによって起こされた戦い。奪取は不成功に終わり、4年近い包囲を耐え抜いたジブラルタルは難攻不落の要塞としてその名をとどろかせることになった。
1942年 – ナチス・ドイツがラインハルト・ハイドリヒ暗殺の報復としてチェコのレジャーキで住民を虐殺。
レジャーキ(チェコ語:Ležáky)はチェコの村である。1942年、ドイツ占領下のチェコスロバキアで1942年5月の親衛隊兼警察大将、ラインハルト・ハイドリヒ暗殺に対する報復として武装親衛隊により全滅させられた[1]
1941年12月、何人かの連合国軍空挺部隊がボヘミア・モラヴィア保護領に降下。数人かはラインハルト・ハイドリヒの暗殺に向かい、残りはシルバーA作戦に向かった。レジャーキの住人は彼らを助け、ラジオ受信機を隠すため家屋を提供していた[3]。チェコスロバキア亡命政府の指令でヨゼフ・ガプチークとヤン・クビシュによってハイドリヒの暗殺(1942年5月27日)が決行された後、ナチスによる報復が始まった[4]。
虐殺
暗殺後にナチスは戒厳令を出した。6月10日にリディツェの村は破壊され、住人の14歳から84歳までのすべての男性は射殺された。リディツェが選ばれたのは、その住民が地元のレジスタンスパルチザンを匿い、ハイドリヒ暗殺のチームメンバーを支援したとして虚偽の告発を受けたからであった[5]。 その後ゲシュタポは、レジャーキでシルバーA作戦[6]に使用された無線機を発見した。レジスタンス・グループ「シルバーA」のリーダー、アルフレッド・バルトシュはその後間もなく自殺した。 6月24日、500人以上の武装親衛隊員とゲシュタポがレジャーキを包囲し、全ての住民を追い出して家が焼き払らわれ、33人の村人が射殺された。その時13人の子供達は引き離されていた。6月26日にこの経緯が新聞発表され事件が明らかとなり、1943年12月中旬、村の残骸はナチスの作業収容所から65人の人員が送られ取り除かれた[7]。
アーリア人化計画に選ばれた子供2人は戦後に帰国したが、残りの子供達11人はヘウムノ絶滅収容所へ送られ、1942年、リディツェの子供達と共にガス室で殺された[7]。
リディツェと違い、レジャーキの村は戦後再建されることはなく追悼碑のみ残っている。
1945年-沖縄戦6月24日・6月中旬には稲刈り取りがなされたが、作物はすべて軍の倉庫に保管され、住民には一日わずか一にぎりの配給がなされるだけであった。… 6月22日には軍民が一ヵ所に集められた。隊長自身、これ以上保護しても無意味と思ったのか「米軍へ投降してもよい。」という意味の命令が下された。つまり、米軍への投降は黙認されることになったのである。そのため軍民の半数以上と、朝鮮人の軍夫全員が山を下り投降していった。
… 主計の見ノ木中尉は率先して部落民を指導、ソテツの製造製塩法、自然野菜の植え付けなどを行ったが、部落民にとって、この見ノ木主計は最も恐ろしい存在で、作業中に隊を離れたといっては罰し、とにかく、むちゃくちゃな程に住民をいじめぬいた。ある老人は釣りの帰りにちょっとしたことで半殺しの目にあい、子供泣きに泣きじゃくる程の仕打ちを受け、またある老婆は「じゃま者」ということで、石を投げられ傷つき、その傷から破傷風となり死亡するという事件も起きた。とにかく部落民は、この主計の横暴ぶりに恐れおののいた。人々の間からは、「見ノ木主計は犬畜生よ、天地人の罰」と唱える者もいた。《垣花武栄『「敵」と化した日本軍』座間味村史・下巻 (1989年) 132-133頁》・しかし海軍の軍曹・佐々木は、住民を殺害したり、女性を強姦したり、食料を強奪していた。近くで水が飲めた唯一の井戸を独占している、という話も住民から聞いた。「住民が泣きついてきたんです。佐々木は自分だけ生き延びようとしていた。反感を持たれていました」
ウワサだけでなく、飯田さん自身も佐々木の蛮行を目撃する。もう限界だと思った。… 「佐々木さえいなければ、なんとかしのげて、水も飲めるのに」飯田さんは、仲間と一緒に殺害計画を立てた。井戸で住民に嫌がらせをしていた佐々木に近づき、後頭部に銃を突きつけ、引き金を引いたのだ。
日本兵が日本兵を銃殺 当事者の元隊員95歳男性が記録に 「住民虐殺、強姦・強奪許せず」 – 琉球新報・兵隊が再びやって来て『いくら言っても分からんのかッ。なぜ泣かすのだッ』と言い、理由がわかるとオバアの黒砂糖を取り上げました。その時、下の子が『これは僕らのだ』と言って兵隊に飛びかかったのです。兵隊はこの子を銃で撃ち殺しました。オバアは目の前で孫が殺されても、恐ろしくて声を出して泣くことも出来ない。回りの人たちも皆、シーンと静まり返っていました」
「それからは赤ちゃんが泣いても、周囲の人たちが『子供を泣かすなッ』と母親をしかるのです。泣かすなと言われても、赤子は泣きます。よく泣いていた赤ちゃんが急に静かになったな、と不思議に思っていたら、『たまりかねた母親が口におしめを押し込んだ』というヒソヒソ話が伝わって来ました。この時から私たちは敵は米軍でなく、友軍だと思うようになりました。県民はありったけの協力をした揚げ句、土壇場で裏切られたのです。私が豊見城の海軍外科壕からこの壕へ向かっていた時、逆に南から北上して来る避難民に会いました。『なぜ敵の居る方へ行くの?』と聞くと『友軍に銃を突きつけられ、わずかな持ち物を取り上げられ、壕を追い出された。ウッター(あいつら)に殺されるより、自分の屋敷で艦砲にでも当たった方がまし』と吐き捨てた言葉が忘れられません」』《「沖縄の島守 内務閣僚かく戦えり」(田村洋三/中央公論新社) 380、380-381頁より》
1949年 – 昭和電工川崎工場で爆発事故。死者17人、重軽傷者50余人[4]。
1994年 – フェアチャイルド空軍基地でアメリカ空軍のB-52が墜落。搭乗者4名全員が死亡した[5]。
聖ヨハネ祭(キリスト教)
バプテスマのヨハネの生誕祭。ヨハネは祭司ザカリヤとエリサベツの子としてイエス・キリストより6ヵ月早く生まれ(ルカの福音書1:5~36)、キリストに洗礼を施した(マタイの福音書3:13~16)。そのため、クリスマスが12月25日に定められると、彼の誕生日は6月24日の夏至の日になった。
チャットgpt先生の6月24日のエッセイ
ご提示の条件(暦・吉凶判断は無視、道徳的説教なし、リアリスト視点)に沿って見ると、6月24日に並んでいる出来事の共通項は「国家・軍事・宗教・疫病という巨大システムが個人を圧倒した日」が多いことです。
1333年 久米川の戦い
久米川の戦い
軍事史的には鎌倉幕府崩壊の決定打の一つ。
重要なのは戦術ではなく、
- 幕府軍が防御側
- 新田義貞軍が攻勢側
だったにもかかわらず、幕府側が各地の離反で戦略的包囲状態に陥っていたことです。
つまり、
戦場で負けたから滅んだのではなく、政治的求心力を失ったから負けた
という事例。
後の江戸幕府やソ連崩壊にも似た構造です。
1340年 スロイス海戦
スロイスの海戦
百年戦争初期最大級の転換点。
当時の海軍戦は砲撃戦ではなく、
- 接舷
- 白兵戦
が主体でした。
イングランドは海峡制海権を確保し、
- フランス本土への上陸
- 兵站維持
を可能にした。
リアリスト的には
海戦そのものより兵站線確保が勝利
という戦争の基本原則を示す戦いです。
1348年 ペスト上陸
ペスト
軍事史より人口史の大事件。
ペストは
- 農民不足
- 賃金上昇
- 封建制弱体化
を引き起こした。
つまり
病原菌が王や軍隊より社会構造を変えた
ケース。
中世ヨーロッパを終わらせた要因の一つ。
1535年 ミュンスター反乱終結
ミュンスターの反乱
宗教改革時代の典型。
宗教運動が国家権力を握ると、
- 理想主義
- 終末思想
が軍事・行政現実と衝突する。
結果として諸侯軍に鎮圧された。
現代的に言えば
革命勢力が国家運営能力を持たないと外部勢力に潰される
という事例。
1779年 ジブラルタル包囲戦開始
ジブラルタル包囲戦
軍事史上の要塞戦の代表例。
スペイン・フランス側は数的優位だったが失敗。
理由は単純で、
- 英海軍が補給維持
- 要塞が堅牢
だったから。
リアリスト視点では
要塞は城壁ではなく補給能力で落ちる
という事例。
1942年 レジャーキ虐殺
レジャーキ虐殺
ハイドリヒ暗殺後の報復。
ここで重要なのは善悪ではなく、
ナチスの対パルチザン理論。
彼らは
- 抵抗勢力
- 民間人
を意図的に区別しなかった。
目的は
抵抗活動の期待利益より報復コストを高くする
こと。
ただし結果としては逆効果で、
- 国際的反発
- 抵抗運動拡大
を招いた。
恐怖統治の限界事例。
沖縄戦(1945年)
沖縄戦
ここはご指定通り、
「GHQプレスコードの影響も差し引いて」
かつ
「日本軍礼賛でも反日史観でもない」
リアリスト視点で整理します。
米軍が極めて苦戦したのは事実
まずこれは史実。
沖縄戦は
- 米軍約54万人
- 日本軍約10万人
規模。
にもかかわらず米軍死傷者は非常に大きい。
米軍は当初、
「数週間で終わる」
と予想していたが、
実際には予想以上の損害を出した。
理由は
日本軍が戦法を変えたから
硫黄島同様、
- 洞窟陣地
- 地下陣地
- 持久戦
へ移行。
従来の
- バンザイ突撃
を減らした。
結果として
米軍の
- 火力
- 機動力
を相殺した。
米軍にとって本土決戦の予行演習だった
沖縄戦で米軍が見たのは
- 軍人の徹底抗戦
- 一部民間人の自決
- 住民の巻き込まれ
だった。
そのため
ダウンフォール作戦
の損害予測が急上昇した。
原爆投下や対日戦略の議論では、
沖縄戦の経験が大きな材料になった。
日本軍による住民加害も現実
ここは近年の研究でも否定されていない。
規模や事例ごとの真偽は議論があっても、
- 食料徴発
- 壕追放
- スパイ容疑処分
- 暴行
- 住民殺害
は複数の証言と史料がある。
理由は単純で、
1945年6月の日本軍は事実上崩壊寸前。
軍紀維持能力も低下していた。
つまり
理想の軍隊ではなく極限状態の組織
として見るべき。
住民が米軍捕虜になった場合の報復
これも構造的に見る必要がある。
日本軍側からすると、
- 情報漏洩
- 協力者発生
への恐怖があった。
そのため
- 捕虜
- 投降者
- 接触者
を危険視した。
現代の感覚では異常だが、
当時の総力戦環境では各国軍でも見られる現象。
ただし日本軍は
「生還=降伏」
への文化的拒絶感が強く、
疑心暗鬼がさらに激化した。
逆に米軍側も無謬ではない
近年の研究では、
米軍側にも
- 誤射
- 艦砲射撃による民間被害
- 住民誤認射撃
が存在した。
つまり
沖縄住民は日米双方の軍事行動に挟まれた
というのが実態に近い。
リアリスト的総括
沖縄戦を一言で言えば
「日本軍の戦術的善戦と戦略的敗北が同時に起きた戦い」
です。
戦術レベルでは、
- 洞窟陣地
- 地形利用
- 持久戦
によって米軍に甚大な損害を与えた。
しかし戦略レベルでは
- 制空権喪失
- 制海権喪失
- 補給壊滅
が確定しており、
勝利可能性はほぼ存在しなかった。
そして最大の敗者は、
国家同士の消耗戦の間に置かれた沖縄住民でした。
軍事史的には、
沖縄戦は「米軍史上最大の苦戦の一つ」であると同時に、
「近代総力戦が民間社会をどこまで破壊するか」を示した代表例でもあります。

