kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日7月26日 2016相模原障碍者施設死傷事件、ほか写真wikipedia施設正面 

7月26日

20260726日曜日旧暦6月13日赤口(38番辛丑かのとうしチュウゴ)月齢 11.7

43番丙午ひのえうま年 32番乙未きのとひつじ月 38番辛丑かのとうし日

吉方位 隠遁日 辛丑かのとうし日 東 大吉 年末まであと158日

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7月26日の出来事

811年 – ブルガリア・東ローマ戦争: プリスカの戦い(ヴルビツァ峠の戦い)。第一次ブルガリア帝国のハーン・クルムが東ローマ帝国を破る。東ローマ皇帝ニケフォロス1世は戦死、息子のスタウラキオスも重傷を負う。

時             811年

場所        プリスカ

結果        決定的なブルガリア帝国の勝利

損害  ブルガリア軍 6万人中 被害僅少 ローマ帝国軍 7万人 壊滅

1918年 – 下関駅構内で軍用火薬が爆発。27人死亡、106人重軽傷[3]。

1930年 – 沖縄県で台風による暴風雨、高潮が発生。死亡・行方不明20人、家屋2160戸が損壊するなどの被害[4]。

1937年 – 広安門事件: 盧溝橋事件の直後、中国第38師団が、北京の広安門を通過中の朝鮮軍第20師団五ノ井部隊を襲撃。この両事件を口実に華北駐屯日本軍は 28日総攻撃を開始し、日中戦争に突入した。19名死傷。

1945年-沖縄戦7月26日・ポツダム宣言は、1945年7月26日、ドイツのポツダムにおいて、アメリカ・イギリス・中国(のちにソ連も参加)が発した対日共同宣言。日本に降伏を勧告し、戦後の対日処理方針を表明したものだ。

『ポツダム宣言』抜粋

四、日本が決断する時は来ている。知力を欠いた身勝手な軍国主義者によって制御され続け、滅亡の淵に至るのか。それとも、理性の道を選ぶのか。

六、日本の人々をだまし、間違った方向に導き、世界征服に誘った影響勢力や権威・権力は、排除されなければならない。無責任な軍国主義が世界からなくなるまでは、平和、安全、正義の新秩序は実現不可能である。<ポツダム宣言には、何が書かれているのか(現代語訳) | ハフポスト>・多くの人々は、「沖縄敗るれば、日本もまた亡ぶ」と言った。たしかに私自身もそう思ったこともある。しかし本土決戦は必ずあるものと信じていたし、これに参加するためにこそ今日まで、幾多の苦難を乗り越えてきたのである。今敵側将校の口から聞く、「日本の降伏」の言葉、それは私の今までの思念の一切を、根本から崩壊させるかに思われた。だが私は、これは単なる話に過ぎないと自らを制した。《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 479頁より》

1951年 – 北海道札幌市内を走行中の札幌中央バスから出火。火元は車内にあった映画フィルム。死者12人、重軽傷者32人[6]。

1953年 – 神奈川県早雲山で地すべりが発生。死傷者28人。

1993年 – アシアナ航空733便墜落事故。死者数         68 生存者数                 48

2016年 – 相模原障害者施設殺傷事件が発生。知的障害者施設に入所していた、知的障害者45名が刃物で襲われ、入所者19名が死亡、26名が負傷した[9]。

2018年 – オウム真理教事件に関与した死刑囚13人のうち、7月6日に死刑執行された7人に続いて残る6人の死刑を執行、一連の事件について死刑確定囚全員の死刑執行が完了[10]。

・26日 – ヨアキムとアンナ 記念 聖母マリアの両親の記念日。

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811年 – ブルガリア・東ローマ戦争: プリスカの戦い(ヴルビツァ峠の戦い)。第一次ブルガリア帝国のハーン・クルムが東ローマ帝国を破る。東ローマ皇帝ニケフォロス1世は戦死、息子のスタウラキオスも重傷を負う。

時             811年

場所        プリスカ

結果        決定的なブルガリア帝国の勝利

損害  ブルガリア軍 6万人中 被害僅少 ローマ帝国軍 7万人 壊滅

プリスカの戦い(英: Battle of Pliska)は、811年に第一次ブルガリア帝国と東ローマ帝国との間で行われた戦いである。この戦いで皇帝ニケフォロス1世は戦死し、ブルガリアが勝利した。ローマ皇帝の戦死はウァレンス以来のことである。

後の伝説によると、ニケフォロスの頭蓋骨は髑髏杯にされてクルムに献上されたという。

1918年 – 下関駅構内で軍用火薬が爆発。27人死亡、106人重軽傷[3]。

1930年 – 沖縄県で台風による暴風雨、高潮が発生。死亡・行方不明20人、家屋2160戸が損壊するなどの被害[4]。

1937年 – 広安門事件: 盧溝橋事件の直後、中国第38師団が、北京の広安門を通過中の朝鮮軍第20師団五ノ井部隊を襲撃。この両事件を口実に華北駐屯日本軍は 28日総攻撃を開始し、日中戦争に突入した。19名死傷。

事件の影響

この事件は、直前に起きた廊坊事件とともに中国側の規範意識の欠如と残酷な面を見せつけ、中国側に対して全く反省を期待できない不誠意の表れであり和平解決の望みが絶たれたと判断した日本軍支那駐屯軍は7月27日夜半[注釈 5]になって前日の通告[注釈 6]を取消し、改めて冀察政務委員会委員長であり、二十九軍軍長でもあった宋哲元に対し「協定履行の不誠意と屡次(るじ)の挑戦的行為とは、最早我軍の隠忍し能(あた)はざる所であり、就中(なかんずく)広安門に於ける欺瞞(ぎまん)行為は我軍を侮辱する甚(はなは)だしきものにして、断じて赦すべからざるものであるから、軍は茲(ここ)に独自の行動を執(と)る」ことを通告し、さらに北平城内の戦禍を避けるために中国側が全ての軍隊を城内から撤退させることを勧告した[2]。

日本軍支那駐屯軍は28日早朝から北平・天津地方の中国軍に攻撃を加える為、必要な部署を用意し、河北の民衆を敵視するものではなく、列国の権益とその居留民の生命財産と安全を図り、中国北部の獲得の意図がないことを布告し、これと同じ内容が内閣書記官長談として発表された[6]。駐屯軍は28日から北平周辺の中国軍に対し攻撃を開始し、天津方面では28日夜半から中国軍の攻撃が開始され、各方面で日本軍が勝利し2日間で中国軍の掃蕩が完了した。

この戦闘における日本軍の死傷者の合計は19名で、その内訳は戦死が上等兵2、負傷が少佐1、大尉1、軍曹1、上等兵2、一等兵1、二等兵7、軍属2、新聞記者1であり、桜井顧問に同行した通訳1名も戦死している[2]。

7月29日には、在留日本人数百人が「冀東防共自治政府」保安隊(中国人部隊)に虐殺される通州事件が起き、日本世論は激昂することとなった。

1945年-沖縄戦7月26日・ポツダム宣言は、1945年7月26日、ドイツのポツダムにおいて、アメリカ・イギリス・中国(のちにソ連も参加)が発した対日共同宣言。日本に降伏を勧告し、戦後の対日処理方針を表明したものだ。

『ポツダム宣言』抜粋

四、日本が決断する時は来ている。知力を欠いた身勝手な軍国主義者によって制御され続け、滅亡の淵に至るのか。それとも、理性の道を選ぶのか。

六、日本の人々をだまし、間違った方向に導き、世界征服に誘った影響勢力や権威・権力は、排除されなければならない。無責任な軍国主義が世界からなくなるまでは、平和、安全、正義の新秩序は実現不可能である。<ポツダム宣言には、何が書かれているのか(現代語訳) | ハフポスト>・多くの人々は、「沖縄敗るれば、日本もまた亡ぶ」と言った。たしかに私自身もそう思ったこともある。しかし本土決戦は必ずあるものと信じていたし、これに参加するためにこそ今日まで、幾多の苦難を乗り越えてきたのである。今敵側将校の口から聞く、「日本の降伏」の言葉、それは私の今までの思念の一切を、根本から崩壊させるかに思われた。だが私は、これは単なる話に過ぎないと自らを制した。《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 479頁より》

1951年 – 北海道札幌市内を走行中の札幌中央バスから出火。火元は車内にあった映画フィルム。死者12人、重軽傷者32人[6]。

1953年 – 神奈川県早雲山で地すべりが発生。死傷者28人。

1993年 – アシアナ航空733便墜落事故。死者数         68 生存者数                 48

2016年 – 相模原障害者施設殺傷事件が発生。知的障害者施設に入所していた、知的障害者45名が刃物で襲われ、入所者19名が死亡、26名が負傷した[9]。

相模原障害者施設殺傷事件(さがみはら しょうがいしゃしせつ さっしょうじけん)は、2016年(平成28年)7月26日未明に神奈川県相模原市緑区で発生した大量殺人事件[1]。

神奈川県立の知的障害者福祉施設「津久井やまゆり園」の元職員であった植松 聖(うえまつ さとし、事件当時26歳)が、同施設に刃物を所持して侵入し入所者19人を刺殺、入所者・職員計26人に重軽傷を負わせた[10][11][12]。殺人などの罪で逮捕・起訴された加害者・植松は、2020年(令和2年)3月に横浜地方裁判所における裁判員裁判で死刑判決を言い渡され[8]、自ら控訴を取り下げたことで死刑が確定した[9]。

殺害人数19人は、当事件が発生した時点で太平洋戦争後の日本で発生した単独犯の殺人事件としては最も多く[13][14][注 1]、事件発生当時は太平洋戦争後最悪の大量殺人事件として[17][18]日本社会に衝撃を与えた[19]。相模原殺傷事件[20][21]、相模原障害者殺人事件[22]、相模原障がい者施設殺傷事件[23] 、津久井やまゆり園事件などとも呼ばれる。

2018年 – オウム真理教事件に関与した死刑囚13人のうち、7月6日に死刑執行された7人に続いて残る6人の死刑を執行、一連の事件について死刑確定囚全員の死刑執行が完了[10]。

・26日 – ヨアキムとアンナ 記念 聖母マリアの両親の記念日。

チャットgpt先生の7月26日のエッセイ

7月26日――転換点は「決断」ではなく「構造」が生む

7月26日を眺めると、一人の英雄や悪人によって歴史が動いた日というより、長い間積み重なってきた構造が限界に達し、一気に表面化した日が多いことに気付く。

811年のプリスカの戦いでは、東ローマ帝国皇帝ニケフォロス1世が遠征の成功を確信して深く侵攻した。しかし勝敗を決めたのは最後の戦闘だけではなかった。補給線は伸び、敵地の地形を十分に掌握できず、退路は封鎖された。皇帝が戦死したという事実は劇的だが、敗北そのものは戦場へ入る以前から積み重ねられていた条件によってほぼ決まっていたともいえる。

1937年の広安門事件も同じ構造を持つ。一つの銃撃だけが日中戦争を始めたのではない。盧溝橋事件以降の不信、現場指揮官の判断、外交の限界、双方の軍事配置が重なり、局地衝突が全面戦争へ拡大した。歴史では「きっかけ」が有名になるが、「原因」はもっと前から存在している。

1945年7月26日のポツダム宣言も、突然現れた文書ではない。日本本土への空襲、沖縄戦の終結、連合国の戦略、国力の消耗という条件が揃った末に示された戦争終結の枠組みだった。宣言そのものより、それを受け入れるか否かを左右した国家の意思決定構造のほうが、その後の歴史に大きな影響を与えた。

一方で、平時の事故も構造は変わらない。1918年の下関駅での火薬爆発、1951年の札幌中央バス火災、1953年の早雲山地すべり、1993年のアシアナ航空733便墜落事故。原因はそれぞれ異なるが、「危険物管理」「自然条件」「人的判断」「設備」という複数の要素が重なった結果として事故は発生している。一つの失敗だけで大事故になることは少ない。複数の防壁が同時に破られたとき、被害は急激に拡大する。

2016年の相模原障害者施設殺傷事件も、社会に大きな衝撃を与えた。事件そのものは一人の犯行だったが、元職員であったこと、夜間の施設運営、防犯体制、思想の過激化など、複数の条件が重なって被害が拡大した。重大事件は単純な物語では説明できず、背景には必ず複数の構造が存在する。

7月26日に並ぶ出来事には共通点がある。それは「決定的瞬間」は突然訪れるように見えて、その前には長い助走期間があるということだ。

歴史は一日で変わる。しかし、その一日を作るのには何年、時には何十年もの蓄積が必要になる。戦争も事故も災害も事件も、表面に現れるのは最後の一押しだけであり、本当の主役は見えないところで積み重なった条件である。

だから歴史を見るときは、最も派手な一場面ではなく、「なぜそこまで条件が揃ってしまったのか」という構造を見るほうが、出来事全体ははるかに理解しやすい。

7月26日は、そのことを静かに物語る一日である。歴史を動かすのは劇的な一撃ではなく、目立たない積み重ねである。そして人々が驚く日は、多くの場合、構造そのものはすでに完成していた日なのである。

必要であれば、さらに「戦略史・軍事史」寄り、あるいは「文明論」寄りに重心を置いた版にもできます。