kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日5月4日 1471薔薇戦争テュークスベリーの戦い、ほか写真wikipediaゲント写本の同戦い

5月4日

20260504月曜日旧暦3月18日友引(15番戊寅つちのえとらボイン)月齢 16.6

43番丙午ひのえうま年 29番壬辰みずのえたつ月 15番戊寅つちのえとら日

吉方位 陽遁日 戊寅つちのえとら日 南東 中吉  年末まではあと241日

https://ja.wikipedia.org/wiki/5%E6%9C%884%E6%97%A5

5月4日の出来事
585年(敏達14年3月30日) – 仏教排斥を唱える物部守屋が、崇仏派の蘇我馬子が大野丘(甘樫丘)北方に建造した仏塔を焼打ちする。蘇我・物部戦争(丁末の役)の端緒[1]。

1471年 – 薔薇戦争: テュークスベリーの戦い。薔薇戦争の転換点。

ヨーク家5000人 損害不明僅少 ランカスター家6000人 中2000人死亡


1555年 – 『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』の初版が刊行される。

1584年(天正12年3月24日) – 沖田畷の戦い。 島津家久、有馬晴信軍が龍造寺隆信軍に勝利。大将・隆信を始め龍造寺家の武将が多く討死する。2000人以上死亡。
1912年 – 北海道岩内町沖合で、暴風雨のため漁船31隻が遭難。死者・行方不明者115人[2]。
1919年 – 第一次世界大戦後の山東半島権益問題で北京大学の学生が天安門広場に集結し反日デモ、全国に拡大。(五四運動)

1945年-沖縄戦5月4日 日本軍総攻撃大損害:米軍・明け方から午前10時ごろまでに、米海軍は「カミカゼ」の攻撃をうけっぱなしだった。特攻4機が、駆逐艦モリソン号に突っ込み、艦は8分間で轟沈、154名の損害を出した。〝バカ・ボンブ〟がシーア号に命中し、艦は火災を発生して、25名の戦死者を出し、4室に浸水したが、さいわいにも沈没はまぬがれた。また渡具知方面の輸送船団の上を飛んでいた1機は、一斉射撃の砲火をあびたが、そのまま、真下にいたバーミンガム号の第2砲塔めがけて突っ込んだ。飛行機のエンジンは、三甲板をつきやぶり、250キロ爆弾は、艦内病室で爆発した。戦死傷は90名をかぞえた。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 313頁より》・5月3日の夜から4日の夜中にかけて、日本軍の飛行機は米軍艦17隻を撃沈し、あるいは破損させ、682名の死傷者が出た。だが一方、米軍も、飛行機や対空砲火で121機を撃墜した。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 313頁より》:日本軍・5月4日、日本軍の全火砲が地表に現した 。沖縄戦中、はじめてのことだった。あらゆる砲という砲が地上にひっぱり出され、そこから総反撃にあたって、1万3千発の砲弾を撃ち込んできた。大砲の周囲は、主として75ミリ高射砲で固めて米軍に小型機にそなえ、発砲にあたっては、砲火のきらめきをかくすため、煙幕弾を使用した。だが、この作戦は、かえって失敗を招いた。それは、米軍砲兵隊が攻撃したところ、日本軍が高射砲隊で応戦してきたので、その間隙を利用して、米軍機は、多くの日本軍砲兵陣地に対して正確な爆撃を加えることができたからである。この日、米軍の砲兵隊は、日本軍の砲19門を破壊し、さらにつぎの2日間で40門も破壊した。このため日本軍は、その後ふたたび大砲を壕内にひき入れざるをえなくなった。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 312-313頁より》・反撃はたった1日で失敗、牛島満軍司令官は中止の判断を下します。多くの航空機を失い、海岸からの逆上陸も失敗。第32軍はこのときすでに全兵力の75%を失っていました。<65年前のきょうは1945年5月4日 – QAB NEWS Headline>


1949年 – イタリア・トリノ郊外でアリタリア航空機が墜落、ACトリノの選手18人を含む乗員・乗客31人が全員死亡。(スペルガの悲劇)

1997年 – 奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺害事件が発生する[5]。
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585年(敏達14年3月30日) – 仏教排斥を唱える物部守屋が、崇仏派の蘇我馬子が大野丘(甘樫丘)北方に建造した仏塔を焼打ちする。蘇我・物部戦争(丁末の役)の端緒[1]。

1471年 – 薔薇戦争: テュークスベリーの戦い。薔薇戦争の転換点。

ヨーク家5000人 損害不明僅少 ランカスター家6000人 中2000人死亡

ランカスター朝の終焉

テュークスベリーの戦場における高貴な死傷者の一人はエドワード王太子だった(戦闘中の死亡であるか戦闘後の死亡であるかは明らかではないが、クラレンス公の兵が討ち取ったといわれる)。エドワードは今日に至るまで、イングランド史上「戦死した唯一の王太子(プリンス・オブ・ウェールズ)」である。

マーガレット王妃と義理の娘アン・ネヴィル(王太子妃)は「最も高貴な捕虜」とされ、残ったサマセット公を含む全ての戦闘指揮官はその後間もなく手短に処刑された。ヘンリー6世は既にロンドン塔に収監されており、同月21日にロンドン塔のウェイクフィールド・タワー内で、エドワード4世の命を受けた何者かに殺害されている。
1555年 – 『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』の初版が刊行される。
1584年(天正12年3月24日) – 沖田畷の戦い。 島津家久、有馬晴信軍が龍造寺隆信軍に勝利。大将・隆信を始め龍造寺家の武将が多く討死する。2000人以上死亡。

大将の最後

また一説によると、首を打ちとったとされる人物は万膳仲兵衛尉弘賀[注釈 1]であり、弘賀によると乱戦となった戦場は混乱を極めており、隆信は籠に乗り6人のかつぎ手と共に、アシの茂みで隠れていたところ、索敵中の弘賀隊が発見、「伝令」と言いながら近づくも6人を素早くなで切り、「南無阿弥陀仏」と唱え這いずり逃げる隆信を、一刀のもと首を落としたともされる。打ちとられた報はすぐさま戦場を駆けまわり、首実検のおり島津家久に向かって隆信の家臣、江里口藤兵衛というものがとびかかったとされている。

戦後

龍造寺家

龍造寺家はこの戦で総大将の隆信や信勝の他、鍋島信生の実弟・龍造寺康房、小河信俊をはじめ、重臣の成松信勝、百武賢兼ら多数が討ち死した。『九州治乱記』によると二百三十余人が戦死したとある[9]。

総大将を失って総崩れとなった龍造寺勢は本拠地の佐賀城に向けて撤退した。浜側を攻めていた江上家種は配下の執行種兼らを退却中に失ったがなんとか戦場を脱出した。鍋島信生は本隊が総崩れとなって柳河を目指して落ちて行った[9]。

隆信の嫡子・政家は祖母とともに国政を行ったが、島津家が来襲するとの流言があり、天正16年、政家は鍋島信生を養子として呼び戻すことになった[10]。

1912年 – 北海道岩内町沖合で、暴風雨のため漁船31隻が遭難。死者・行方不明者115人[2]。
1919年 – 第一次世界大戦後の山東半島権益問題で北京大学の学生が天安門広場に集結し反日デモ、全国に拡大。(五四運動

五・四運動(ごしうんどう)は、中華民国において、1915年の日本による対華21カ条要求の内容不満により1919年に発生した抗日、反帝国主義を掲げる学生運動、大衆運動。北京から全国に広がったが、5月4日に発生したのでこの名で呼ばれ、五四愛国運動、五・四運動、5・4運動とも表記される。抗日・反帝国主義だけではなく反封建主義の側面もあった。

1949年 – イタリア・トリノ郊外でアリタリア航空機が墜落、ACトリノの選手18人を含む乗員・乗客31人が全員死亡。(スペルガの悲劇)
1997年 – 奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺害事件が発生する[5]。

チャットgpt先生の5月4日のエッセイ

5月4日という日付を眺めると、時代も場所も違う出来事が、ひとつの共通した現実に収束していく。「転換点は、だいたい過剰な衝突のあとにしか現れない」という、ごく身も蓋もない事実だ。

15世紀のテュークスベリーの戦いでは、数千規模の兵が正面からぶつかり、結果は拍子抜けするほど一方的だった。勝敗は兵数や名門の血筋ではなく、地形・指揮・士気の噛み合いで決まる。ここでランカスター側は事実上の終焉を迎え、王太子すら戦場で消えた。政治的正統性は、戦場での数時間で簡単に蒸発する。

日本の戦国でも同じ構図は繰り返される。沖田畷の戦いでは、龍造寺隆信という「強者」が、湿地と奇襲に足を取られて崩壊した。数の優位や過去の勝利は、地の利と判断ミスの前では意味を持たない。しかも敗北は連鎖する。大将の首が落ちた瞬間、組織は一気に機能停止する。これはどの時代でも変わらない。

近代に入ると、衝突の規模は国家単位へと拡張される。1919年の五四運動は、戦場ではなく都市で起きた「政治的衝突」だが、本質は同じだ。不満が臨界を超えたとき、統制は効かなくなる。しかもそれは軍事力では抑えきれない。国家の正統性は外圧と内圧の両方で削られる。

そして1945年5月4日、沖縄戦。ここがこの日の中で最も重い。

一般に「物量で圧倒した米軍」という単純な図式で語られがちだが、現実はもう少し厄介だ。確かに制海権・制空権・補給能力は米軍が圧倒的だった。しかし、それでも戦闘は「簡単に終わる類のもの」ではなかった。

5月4日の日本軍総反撃は、その象徴的な失敗例だ。全火砲を露出し、航空・海上も含めて一斉に圧力をかける。しかし結果は短時間で破綻する。理由は単純で、現代戦では「見えた瞬間に死ぬ」からだ。煙幕で隠したつもりでも、対砲兵戦と航空観測の前では位置は割れる。結果として砲兵陣地は精密に潰される。

一方で、米軍側も楽ではない。特攻は戦術的には非効率だが、「防御側に常時緊張を強いる」という意味では極めて厄介だった。駆逐艦が数分で沈む、艦隊が連続して損傷する——こうした状況は、物量優位だけでは吸収しきれない心理的・運用的コストを生む。実際、沖縄戦は米軍にとって太平洋戦争で最大級の損害を伴う戦いになった。

つまりここでは、奇妙な均衡が成立している。

  • 日本軍:戦略的には敗北確定だが、局地的には異常な抵抗力を発揮
  • 米軍:戦術的には優位だが、想定以上の損耗と時間を強いられる

この「勝つ側が苦しみ、負ける側が粘る」状態こそが、沖縄戦の実態に近い。物量差は結果を決めるが、過程を楽にはしない。

さらに現実的に言えば、この戦いは「本土決戦の予行」としての意味も持っていた。米軍はここで、「日本本土に上陸すればどれほどの損害が出るか」を具体的に計算できるようになる。その計算結果が、後の意思決定に影響を与えたのはほぼ間違いない。

5月4日に起きた他の出来事——スペルガの悲劇のような事故や、個別の事件——も含めて見ると、この日は「組織やシステムが限界に達したとき、どのように壊れるか」を示すサンプルが並んでいる。

戦争でも、政治運動でも、事故でも同じだ。
・過信は崩壊を早める
・優位は万能ではない
・限界はある日突然ではなく、積み重なって破裂する

5月4日は祝日(日本では「みどりの日」)としては穏やかだが、歴史の中身はむしろ逆で、かなり生々しい。表面の静けさと、中身の暴力性。この落差もまた、歴史を現実として見るときに避けて通れない部分だ。