5月3日
20260503日曜日旧暦3月17日先勝(14番丁丑ひのとうしチュウゴ)月齢 15.6
43番丙午ひのえうま年 29番壬辰みずのえたつ月 14番丁丑ひのとうし日
吉方位 陽遁日 丁丑ひのとうし日 北 大吉 年末まではあと242日
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5月3日の出来事
1928年 – 済南事件(済南慘案): 山東省済南で日本軍と国民政府軍が衝突。日本人居留民:死者16〜13人[1] 暴行侮辱:30余 陵辱2 掠奪被害戸数136 他被害人員約400
日本軍:死者26[1] 負傷者157 中国民間人・国民革命軍:死者 約3,600[1]~6,123
負傷者 約1,400[1]~1,701
1945年-沖縄戦5月3日 日本軍総攻撃前日:米軍視点・3日になって、同連隊の第1大隊は手榴弾戦で死闘をくりひろげたが、日本軍もまた、反対側の丘腹から手榴弾や機関銃弾を雨あられのようにそそいで激しく応戦し、加えて遠距離から81ミリ迫撃砲で攻撃してきたのである。それはまったく地獄絵図だった。帰ってきた兵隊は、「もう二度とあんなところへなんかいくもんか」と叫んだ。だが、小隊長の話によると、そういった兵隊自身、5分もたつと、ふたたび手榴弾をもって引き返していって、栓をぬくが早いか、日本軍めがけて投げつけたのである。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 294頁より》・… 5月3日の夕暮れ、神風特攻隊が、米艦船団に襲いかかってきた。〝自爆機〟が1時間で5機も、アーロン・ウォード号に突入し、艦は炎上し、乗組員98名が死傷した。また別の3機は、爆弾をかかえたままリットル号につっこんで、これを撃沈させた。この急襲で、結局、米軍は軍艦2隻が沈没し、4隻が破損するという損害を出した。だが、米軍も飛行機や対空砲火で応戦して、日没までに特攻機14機と、ほかに22機を撃墜した。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 304頁より》:日本32軍 『戦勝祝宴会』・2日首里の司令部壕では酒を飲みながら激論のなか総攻撃計画が決定された。5月3日、牛島軍司令官は総攻撃計画に際し次の訓示を行った。(筆 長参謀長) 皇国の安危懸かりてこの一戦にあり。全員特攻忠則ジン命の大節に徴し醜敵撃滅にばく進すへし。皇紀2605年5月3日 軍司令官 牛島満。<戦史叢書第011巻 沖縄方面陸軍作戦 (防衛研究所) 453頁>・もともと総攻撃に反対であった八原博通参謀は「前祝」として決行中の逆上陸作戦すら心配する気配のない様子を、皮肉を込めて「立派な態度、悠々たる将軍振り」と記している。・司令部壕で華やかな「戦勝前祝」の酒宴が開かれている頃、無謀な逆上陸作戦を命じられたおびただしい兵士が出撃、ほとんどが殲滅された。
1946年 – 極東国際軍事裁判(東京裁判)開廷。
1962年 – 三河島事故: 常磐線三河島駅で脱線した貨物列車に上下2本の電車が追突、死者160人・重軽傷325人。
2006年 – アルマヴィア967便墜落事故。113名死亡。
2025年 – 2025年IBM航空ボーイング737墜落事故。90名全員死亡。
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1928年 – 済南事件(済南慘案): 山東省済南で日本軍と国民政府軍が衝突。日本人居留民:死者16〜13人[1] 暴行侮辱:30余 陵辱2 掠奪被害戸数136 他被害人員約400
日本軍:死者26[1] 負傷者157 中国民間人・国民革命軍:死者 約3,600[1]~6,123
負傷者 約1,400[1]~1,701
済南事件(さいなんじけん)は、1928年(昭和3年)、中国山東省の済南における5月3日に始まる日本軍と、蔣介石率いる国民革命軍(南軍)との間に起きた武力衝突事件[1]。その際、日中双方で相手方の官民・居留民らに対する虐殺、残虐行為があったとされる。
1945年-沖縄戦5月3日 日本軍総攻撃前日:米軍視点・3日になって、同連隊の第1大隊は手榴弾戦で死闘をくりひろげたが、日本軍もまた、反対側の丘腹から手榴弾や機関銃弾を雨あられのようにそそいで激しく応戦し、加えて遠距離から81ミリ迫撃砲で攻撃してきたのである。それはまったく地獄絵図だった。帰ってきた兵隊は、「もう二度とあんなところへなんかいくもんか」と叫んだ。だが、小隊長の話によると、そういった兵隊自身、5分もたつと、ふたたび手榴弾をもって引き返していって、栓をぬくが早いか、日本軍めがけて投げつけたのである。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 294頁より》・… 5月3日の夕暮れ、神風特攻隊が、米艦船団に襲いかかってきた。〝自爆機〟が1時間で5機も、アーロン・ウォード号に突入し、艦は炎上し、乗組員98名が死傷した。また別の3機は、爆弾をかかえたままリットル号につっこんで、これを撃沈させた。この急襲で、結局、米軍は軍艦2隻が沈没し、4隻が破損するという損害を出した。だが、米軍も飛行機や対空砲火で応戦して、日没までに特攻機14機と、ほかに22機を撃墜した。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 304頁より》:日本32軍 『戦勝祝宴会』・2日首里の司令部壕では酒を飲みながら激論のなか総攻撃計画が決定された。5月3日、牛島軍司令官は総攻撃計画に際し次の訓示を行った。(筆 長参謀長) 皇国の安危懸かりてこの一戦にあり。全員特攻忠則ジン命の大節に徴し醜敵撃滅にばく進すへし。皇紀2605年5月3日 軍司令官 牛島満。<戦史叢書第011巻 沖縄方面陸軍作戦 (防衛研究所) 453頁>・もともと総攻撃に反対であった八原博通参謀は「前祝」として決行中の逆上陸作戦すら心配する気配のない様子を、皮肉を込めて「立派な態度、悠々たる将軍振り」と記している。・司令部壕で華やかな「戦勝前祝」の酒宴が開かれている頃、無謀な逆上陸作戦を命じられたおびただしい兵士が出撃、ほとんどが殲滅された。
左右逆上陸隊が、粛々として暗夜の海上を、決死進撃の最中の5月3日夜、戦勝前祝会が牛島、長両将軍の居室になっている壕内で開催された。… 洞窟の中ではあるが、電灯は明るく、食卓の準備も綺麗にできあがり、酒も不足せず、ご馳走はかん詰め材料ながら本職の料理人の手になり、相当なものである。各将軍はアルコールの回るにつれ、朗らかになり、明日の戦いを語り、必勝を論じ、談笑尽きない。盛装の娘たちが、華やかに酒間を斡旋する。自身に満ちた、和やかな楽しい空気が洞窟のすみまでゆきわたり、ご馳走にありつけぬ、幕外幾多の将兵もなんとなく楽しくなる。(274頁)
幕間にかいま見える将軍中、たれ一人として明日の戦い ー 否、すでに今夜、その先鋒は、東西両海岸に沿い、汐吹雪を浴びて、必死攻撃に移っている ー を憂うる気配は見えない。立派な態度、悠々たる将軍振りである。… 歓談数刻、「天皇陛下万歳!第32軍万歳!」の唱和を最後として宴は散じた。(275頁)
《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 274、275頁より》
5月3日の昼間は、何一つ新しい動きは見えず、第1線で死闘を繰り返していたものが、日が落ちると同時に、日本軍は「爆発的に」行動を開始した。
総攻撃の口火は、まず、3日夜、陸軍舟艇部隊(船舶工兵1コ連隊基幹の逆上陸部隊2つ)の出撃で切られた。西逆上陸部隊は、約700名。大発約10隻、その他クリ舟、特攻艇多数に分乗、那覇付近を出、煙幕を張りながら約9キロの海を大山に向かい、東逆上陸部隊は約500名、与那原付近を出、約6キロの海上を津覇に向かい、それぞれ米軍第1線の後に回り、奇襲上陸しようとした。
しかし、小舟であっても、多数の舟艇が動けば、白波も立つし、夜光虫もキラキラする。その上、夜のことで、西逆上陸部隊は方向をまちがえ、米軍の防衛陣の中に突入した。2キロばかり進んだ小湾沖に接近中、陸上から米軍に発見され、猛烈な集中射撃を浴び、海上の艦艇からも照明弾を打ちげられ、射撃を受けるという最悪の事態になった。もはやこれまで。意を決した佐藤連隊長は、大発を海岸にノシ上げ、米軍と交戦、大部分は海岸で戦死。一部のクリ舟に乗った部隊約65名は、目的地大山を通り越して、伊佐まで行ったとき、米軍に発見され、上陸して交戦したが、ほとんど戦死。
一方、与那原を出た東逆上陸部隊は、目的地の3キロで米艦艇に発見され、照明弾の下で陸海から猛撃され、ほとんど全滅。期待された逆上陸は、こうして東西両海岸とも失敗に終わった。
《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 247-248頁より》
3日夕刻、146高地と120高地の奪取を師団長が賞し、恩賜の煙草が連隊本部を通じて伊東大隊と第89聨隊第2大隊に贈られた。もとより聨隊本部は、奪取に成功しなかった第89聨隊第2大隊には渡さなかったと聞く。伊東は、最後の打ち合わせのために大隊本部を訪れていた工藤、岸、高井の各隊長たちと煙草を分けあった。4人とも言葉少なにそれぞれの感慨に浸りながら煙草を胸深く吸い込んでいた。(今となっては万難を排し、棚原高地を目指して突進するだけだ) 伊東は部下の各隊長をぐるりと見渡した。皆、黙っている。
24時、第3中隊(1個小隊欠)が第一線となって前進を開始した。…やがて前方から激しい銃声が聞こえた。…銃声に交じって擲弾筒の発射音がする。第3中隊が敵と銃火を交えているのだ。…「第1小隊はほとんど全滅、…中隊指揮班半減です」…「あそこまで出ると皆やられます。どうしても駄目です」
振り返ると、銃火に引き寄せられて各隊がどんどん前進してきている。狭いところに大隊の全兵力が集まってきてしまった。…空も白み始めてきた。ぐずぐずしていると全滅だ。足下には部下の屍が累々と横たわり、重症の兵が呻いている。…「もとの位置で防御配備につけ!」すると誰かが「退却!」と叫んだ。伊東は声を荒げた。「退却ではない!もとの位置につくのだ!」…大隊は各隊長や副官の指示に従い、迅速に昼間防御の態勢に移った。
《「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸枝/Gakken) 171-176頁より》
1946年 – 極東国際軍事裁判(東京裁判)開廷。
1962年 – 三河島事故: 常磐線三河島駅で脱線した貨物列車に上下2本の電車が追突、死者160人・重軽傷325人。
三河島事故(みかわしまじこ)は、1962年(昭和37年)5月3日21時37分頃、東京都荒川区の日本国有鉄道(国鉄)常磐線三河島駅構内で発生した列車脱線多重衝突事故。「国鉄戦後五大事故」の一つ。
2006年 – アルマヴィア967便墜落事故。113名死亡。
2025年 – 2025年IBM航空ボーイング737墜落事故。90名全員死亡。
チャットgpt先生の5月3日のエッセイ
5月3日という日付を並べてみると、出来事の質は違っても、共通して浮かび上がるのは「計画と現実の乖離」と「現場の過酷さ」だ。
まず、済南事件。これは典型的に、政治的・軍事的意図が現地で暴走し、双方の統制が効かなくなった事例だ。数字の大小はさておき、居留民・兵士・民間人を問わず被害が広がった時点で、「限定的衝突」という前提は崩壊している。こうした都市型衝突は、命令系統よりも現場判断が優先されやすく、結果として残虐行為の応酬に転化しやすい。近代戦であっても、条件が揃えば統制は簡単に崩れるという現実がある。
そして1945年の沖縄戦、5月3日前後。ここは評価が極端に振れやすいが、リアリストに見れば「物量差があっても戦闘は容易ではない」という一点に尽きる。米軍は圧倒的な航空・砲兵・補給能力を持ちながら、地形(丘陵・壕)、防御側の徹底抗戦、夜間行動、近接戦闘によって消耗を強いられた。特に手榴弾距離の戦闘は、技術優位を相殺する典型例で、心理的負荷も極端に高い。
一方で、日本側の作戦判断は合理性と非合理性が混在している。逆上陸のような奇襲構想自体は戦術として理解できるが、制海・制空権を完全に失った状態で小舟による接近を試みれば、発見=壊滅に直結するのはほぼ自明だった。実際、夜光虫や波で露見するという「物理的条件」によって計画は崩れている。ここには精神論では覆せない限界がある。
さらに興味深いのは、司令部と前線の温度差だ。司令部壕での「前祝」と、海上で殲滅される逆上陸部隊。これは珍しい構図ではなく、戦争では繰り返し現れる。情報の非対称性と責任の分離がある以上、上層は楽観的になりやすく、現場は即時の現実に縛られる。どちらが「正しい」かではなく、構造的にそうなる。
ただし、米軍側も「楽勝」ではなかった点は重要だ。沖縄戦は、太平洋戦争の中でも最も損耗が激しく、上陸後の地上戦としては異例の長期化を見せた。洞窟陣地、分散防御、夜襲、そして死を前提とした抵抗は、攻撃側の計算を狂わせる。物量は最終的な勝敗を左右するが、過程のコストまでは保証しない。沖縄はその典型例だ。
戦後に入ると、同じ5月3日に極東国際軍事裁判が始まる。ここでは戦争の「解釈」が制度化される。だが、裁判は勝者の枠組みで行われる以上、現場の複雑さや相互の暴力性が均等に反映されるわけではない。後年の評価にばらつきが出るのは、この時点での整理が一面的だった部分も影響している。
さらに1962年の三河島事故。これは戦争とは無関係に見えるが、本質は似ている。ひとつの脱線に対する対応の遅れや確認不足が連鎖し、二次・三次事故へと拡大した。システムは単体ではなく連鎖で動くため、初動のミスが指数的に被害を増やす。これは軍事でもインフラでも変わらない。
航空事故(アルマヴィア967便墜落事故など)も同様で、複数の小さな要因が重なり、取り返しのつかない結果になる。個別のミスよりも「重なり」が致命的になる点が共通している。
結局、5月3日に並ぶ出来事は、善悪ではなく「条件が揃ったときに何が起きるか」を示している。
・統制が弱まれば暴力は拡大する
・物量があっても現場の抵抗は消えない
・計画は物理条件に制約される
・事故も戦闘も連鎖で拡大する
歴史は教訓を語るが、実際には同じ構造が形を変えて繰り返されているだけだ。

