kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日5月2日 1945ベルリン陥落、ほか写真wikipeddia議事堂の赤軍兵士

5月2日

20260502土曜日旧暦3月16日赤口(13番丙子ひのえねヘイシ)月齢 14.6

43番丙午ひのえうま年 29番壬辰みずのえたつ月 13番ひのえね日

吉方位 陽遁日 丙子ひのえね日 北 大吉 年末まではあと243日

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5月2日の出来事
1536年 – イングランド王ヘンリー8世の2番目の王妃アン・ブーリンが反逆罪・不義密通の容疑で逮捕。同月19日に処刑。
1808年 – スペイン独立戦争:スペインのマドリードで市民がフランスの占領に対し暴動。フランス軍が1,500人の市民を射殺。
1945年 – 第二次世界大戦・ベルリンの戦い: 赤軍が総統官邸を占領。

戦争:第二次世界大戦(独ソ戦)
年月日:1945年4月16日 – 5月8日[1]
場所:ナチス・ドイツの旗 ドイツ ベルリン
結果:赤軍の勝利

損害:ドイツ軍 100万人 軍死亡者15万人強 民間市民死亡者15万人強 計30万人死亡

ソ連軍 200万人中 8万人強死亡。

1945年-沖縄戦5月2日 米軍の交替進む 日本の総攻撃計画:米軍・5月2日は雨も降り、肌寒かった。(278頁) …  5月2日までに、第1海兵師団がこうむった損害は54名戦死、233名の負傷、11名の行方不明、合計298名の損害であった。(279頁)《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 278、279頁より》:日本・5月2日の夜、沖縄守備部隊第32軍の高級指揮官たちが集まって、重大決定を下すための作戦会議を開いていた(酒宴)。牛島中将麾下の幕僚たちは、まだ作戦で攻守いずれにすべきか、意見がわかれていた。参謀長の長勇中将はただちに攻勢に出て、一大攻撃を加えることを主張してゆずらず、決定的打撃を加える時機は到来している、というのが彼の意見だった。一方、これに対する代表的な意見は、高級参謀八原大佐の消耗作戦論で、彼は、攻勢に出ることは時期尚早であり、防衛戦術こそ日本軍がとるべき戦術である、とするその信念を説いてやまなかった。(中略)藤岡中将も熱烈に長参謀長を支持し、これでほとんどの軍司令官が、守って戦うということにはがまんができず、消耗戦で米軍に勝てるとは、誰も思わなくなった。八原大佐の警告も、いまやまったく無意味なものとなってしまった。大佐の持論は、米軍を長期戦に引っぱり込んで、味方の兵の損失を少なくしながら、相手を消耗していくという戦術だったが、前にもこの意見はいれられず、こんどふたたび多数決によって彼の意見は否認されてしまったのである。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 297-298頁より》・146高地を死守する伊東大隊に、攻勢に転ずる命令が届いたのは5月2日の夕刻だった。(なに⁉︎ この戦況下で攻勢とは、一体何を考えているのか)

腐れ参謀どもが!

伊東は一瞬、叫び出したい衝動にかられた。軍司令部や師団司令部には、個人的に尊敬できる先輩も多かったが、果たして最前線の歩兵戦力の実状を知ってのことなのだろうか。聨隊命令を要約すれば次のようになる。

「彼我第一線は幸地南・前田東南の線である。砲兵は4日黎明に支援射撃を実施する。第1大隊は120高地・前田東北高地を経て、棚原西北側高地へ向かい前進すべし」

… 軍も師団も、120高地を米軍が占領しているのを知らないようだった。… 120高地の夜襲成功という誤った報告の結果が、このような命令となって表れてきたのである。(166-167頁) 20時になって、ようやく大隊の方針をまとめた。… 。21時、伊東は各隊に攻撃命令を下達した。《「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸枝/Gakken) 166-167、168-169頁より》

1953年 – 英国海外航空783便墜落事故起こる。死亡43人(全員)。
2008年 – サイクロン・ナルギスがミャンマーに上陸。死者・行方不明者約14万人の甚大な被害をもたらす。

2011年 – ウサーマ・ビン・ラーディンの殺害: パキスタン郊外のアボッタバードにて米軍が銃撃戦を展開。国際テロ組織アルカイダの指導者ウサーマ・ビン・ラーディンが死亡。

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1536年 – イングランド王ヘンリー8世の2番目の王妃アン・ブーリンが反逆罪・不義密通の容疑で逮捕。同月19日に処刑。
アン・ブーリン(英語: Anne Boleyn,1501年頃 – 1536年5月19日)は、イングランド王ヘンリー8世の2番目の王妃(1533年結婚、1536年離婚)、エリザベス1世の生母である。父の代で名字の綴りを Bullen から Boleyn に変更したが、アン自身も Nan Bullen と呼ばれることがあった。 Nan はアンという名前の当時の愛称であり、日本語ではアン・ブリンと表記されることもある[1]。
父は駐仏大使、のちウィルトシャー及びオーモンド伯爵となったトマス・ブーリン、母は第2代ノーフォーク公トマス・ハワードの娘エリザベス・ハワード。ヘンリー8世の3番目の王妃ジェーン・シーモアは又従妹、5番目の王妃キャサリン・ハワードは従妹に当たる[注 1]。
王妃の侍女から国王の愛人へ
国王との出会い(19世紀画)
アンは幼少期にメヘレンのマルグリット・ドートリッシュの私設学校で教育を受けた後、フランス宮廷に戻った。1526年頃に帰国し、ヘンリー8世の最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンの侍女となった。オーモンド伯爵の相続争いを収めるため、もう一人の相続人ピアス・バトラーとの結婚の話もあったが、立ち消えになった。他に詩人のサー・トマス・ワイアットや後のノーサンバランド伯ヘンリー(ハル)・パーシー(英語版)とのロマンスもあったといわれるが、ジョアンナ・デニー(Joanna Denny)のようにロマンスはいずれも根拠がないとする歴史家もいる。同時代のフランス側の一次史料によれば、アンは魅力に乏しい女性であり、国王のお気に入りという以外にこれといった特徴がなかったと記録されている(In the early 1530s, the Venetian ambassador Savorgnano wrote)。
やがてアンは、ヘンリー8世の愛人になるよう求められた。
ヘンリー8世とキャサリンとの間には王女メアリー(後のメアリー1世)しか子がなく(早世した男子がいたともされる)、ヘンリー8世は男子の王位継承者を切望していたものの、当初はアンを愛人にする程度で満足するはずだった。
しかし、アンから強硬に王妃の座を要求され、さもなければ肉体関係は拒否すると宣言されたため、ローマ教皇クレメンス7世にキャサリンとの「離婚許可」を求めることになった[注 2]。
国王の離婚問題
王妃の座を追われるキャサリンと、公衆の面前で愛をささやく国王とアン・ブーリン(19世紀画)
カトリック教会は離婚を認めないが、離婚ではなく「結婚そのものが無効であった」(婚姻の無効)という認可を与えることで事実上の離婚を可能にする方法があった(実際に中世の王族や貴族は、教皇の認可を得てこの方法を利用している)。
ヘンリー8世とキャサリンの場合、キャサリンが元々ヘンリーの兄アーサーの妻だったことが結婚無効の理由になりえたが、教皇ユリウス2世から教会法規によって特免を得ていたため、合法的な結婚と見なされていた。また、キャサリンの甥に当たる神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)も国際関係を考慮して反対しており、教皇庁は許可を出すことが難しかった。キャサリンは国民の人気が高かったために、国内からも反対の声が大きかった。
ヘンリー8世はこれに激怒して、教皇庁との断絶を決意した。こうしてイングランド国教会の原型が成立することになった。国王至上法によって、イングランド国内において国王こそ宗教的にも政治的にも最高指導者であることを宣言し、ヘンリーは1533年5月にアンを正式な王妃に迎えた。
これに反対したトマス・モアは処刑された。また、修道院解散によってカトリックの修道院の多くが解散させられ、反対した多くの修道士が処刑された。
約1000日の王妃として
1533年5月23日、キャサリン王妃との結婚の無効の宣言がなされた。6月1日、聖霊降臨祭の日に戴冠式が行われ、アンが正式な王妃と宣言される。
1533年9月、アンはヘンリー8世の第2王女となるエリザベスを出産した。王子誕生を望んでいたヘンリー8世は王女誕生に落胆したが、エリザベスには王位継承権が与えられた。アンは、王女の身分を剥奪され庶子に落とされたメアリーに対し、エリザベスの侍女となることを強要した。アンはまた贅沢を好み、宮殿の改装や家具・衣装・宝石などに浪費した。一方、ヘンリー8世はアンの侍女の一人ジェーン・シーモアへと心移りし、次第にアンへの愛情は薄れていった。
1536年1月、前王妃キャサリンが幽閉先のキムボルトン城で亡くなった知らせを聞くと、アンとヘンリー8世は黄色の衣装を着て祝宴を開き、ダンスを楽しんだ(黄色はイギリスでは喜びと祝いの意味を持つ)と神聖ローマ帝国及びスペインの駐英大使だったウスタシュ・シャピュイ(英語版)は本国に報告している。この行動を見た人々は不快に思い、2人がキャサリンを毒殺したと噂し合った。一方で黄色はスペインを表す色であり、2人は個人としてはキャサリンの訃報を悲しんでいたという記述も当時の文献にある。その後、アンは男児を流産した。奇しくもキャサリンの葬儀の日だった。男子を産まず、流産を繰り返すアンから王の寵愛が離れたことを見てとり、アンの敵たちは力を増した。
処刑
ロンドン塔のアン(19世紀画)
1536年5月1日、アンは結婚から2年後、国王暗殺の容疑、および不義密通を行ったとして、反逆罪に問われた。5人の男と姦通したとされたが、うち1人は実の兄弟ジョージ・ブーリンだったとされる。
同年5月19日、反逆、姦通、近親相姦及び魔術という罪で死刑判決を受け、ロンドン塔にて斬首刑に処せられた。この時、ヘンリー8世はイングランドの死刑執行人に処刑させず、フランスのリールからジャン・ロムバウドという死刑執行人を呼び寄せて執行させたと伝えられている。また、アンが断首され首だけになった後、明らかに何かを話そうとしていたという逸話がある[4][出典無効]。
当時のイングランドは斧を使って斬首していたのだが、剣での斬首を懇願するほど、アンは斧での執行を嫌がったという。
1808年 – スペイン独立戦争:スペインのマドリードで市民がフランスの占領に対し暴動。フランス軍が1,500人の市民を射殺。
1945年 – 第二次世界大戦・ベルリンの戦い: 赤軍が総統官邸を占領。

戦争:第二次世界大戦(独ソ戦)
年月日:1945年4月16日 – 5月8日[1]
場所:ナチス・ドイツの旗 ドイツ ベルリン
結果:赤軍の勝利

損害:ドイツ軍 100万人 軍死亡者15万人強 民間市民死亡者15万人強 計30万人死亡

ソ連軍 200万人中 8万人強死亡。

1945年-沖縄戦5月2日 米軍の交替進む 日本の総攻撃計画:米軍・5月2日は雨も降り、肌寒かった。(278頁) …  5月2日までに、第1海兵師団がこうむった損害は54名戦死、233名の負傷、11名の行方不明、合計298名の損害であった。(279頁)《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 278、279頁より》:日本・5月2日の夜、沖縄守備部隊第32軍の高級指揮官たちが集まって、重大決定を下すための作戦会議を開いていた(酒宴)。牛島中将麾下の幕僚たちは、まだ作戦で攻守いずれにすべきか、意見がわかれていた。参謀長の長勇中将はただちに攻勢に出て、一大攻撃を加えることを主張してゆずらず、決定的打撃を加える時機は到来している、というのが彼の意見だった。一方、これに対する代表的な意見は、高級参謀八原大佐の消耗作戦論で、彼は、攻勢に出ることは時期尚早であり、防衛戦術こそ日本軍がとるべき戦術である、とするその信念を説いてやまなかった。(中略)藤岡中将も熱烈に長参謀長を支持し、これでほとんどの軍司令官が、守って戦うということにはがまんができず、消耗戦で米軍に勝てるとは、誰も思わなくなった。八原大佐の警告も、いまやまったく無意味なものとなってしまった。大佐の持論は、米軍を長期戦に引っぱり込んで、味方の兵の損失を少なくしながら、相手を消耗していくという戦術だったが、前にもこの意見はいれられず、こんどふたたび多数決によって彼の意見は否認されてしまったのである。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 297-298頁より》・146高地を死守する伊東大隊に、攻勢に転ずる命令が届いたのは5月2日の夕刻だった。(なに⁉︎ この戦況下で攻勢とは、一体何を考えているのか)

腐れ参謀どもが!

伊東は一瞬、叫び出したい衝動にかられた。軍司令部や師団司令部には、個人的に尊敬できる先輩も多かったが、果たして最前線の歩兵戦力の実状を知ってのことなのだろうか。聨隊命令を要約すれば次のようになる。

「彼我第一線は幸地南・前田東南の線である。砲兵は4日黎明に支援射撃を実施する。第1大隊は120高地・前田東北高地を経て、棚原西北側高地へ向かい前進すべし」

… 軍も師団も、120高地を米軍が占領しているのを知らないようだった。… 120高地の夜襲成功という誤った報告の結果が、このような命令となって表れてきたのである。(166-167頁) 20時になって、ようやく大隊の方針をまとめた。… 。21時、伊東は各隊に攻撃命令を下達した。《「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸枝/Gakken) 166-167、168-169頁より》


1953年 – 英国海外航空783便墜落事故起こる。

ベルリンの戦い(ベルリンのたたかい、ドイツ語: Schlacht um Berlin、英語: Battle of Berlin)は、第二次世界大戦末期、1945年4月16日のソビエト赤軍のゼーロウ高地攻撃開始から、総統地下壕におけるアドルフ・ヒトラーの自殺、国会議事堂の陥落、5月2日のドイツ国防軍のベルリン防衛軍司令官ヘルムート・ヴァイトリング砲兵大将の降伏に至るまで、ベルリン周辺で展開された赤軍とドイツ軍の戦闘のことである。


1953年5月2日、英国海外航空(BOAC)783便は、シンガポールからロンドンに向かうフライトプランの下、コメットMk.I(イギリス・デハビランド製ジェット4発旅客機、機体記号G-ALYV)によって運航されていた。経由地であるインドのカルカッタのダムダム空港をデリーに向けて現地時間4時29分に離陸した。
離陸後、高度7,000フィート (2,133 m) 付近を上昇中に強い雷雲に突入して機体が空中分解し炎上、カルカッタの北西約38kmの西ベンガル地方ジャガロゴリ近郊に墜落した。この事故で乗員6名乗客37名の合計43名全員が犠牲になった。この事故が商業路線に就航中のジェット旅客機としては世界初の航空事故になった。
2008年 – サイクロン・ナルギスがミャンマーに上陸。死者・行方不明者約14万人の甚大な被害をもたらす。
サイクロン・ナルギス(Cyclone Nargis)は、2008年4月27日にベンガル湾中央部で発生した、発達したサイクロンである。最も勢力の大きい時点でのシンプソン・スケールはカテゴリー4だった。5月2日にミャンマーのエーヤワディー川デルタに上陸し甚大な被害をもたらし、5月3日にミャンマーとタイの国境付近で消滅した。
通常、ベンガル湾で発生するサイクロンは、北東貿易風の影響で東進する事は無く、多くがバングラデシュに、次いでカルカッタ付近やインド半島東岸に上陸する。ナルギスのように東に進んでミャンマーに上陸する事は稀であり、被害が拡大した大きな原因となった。
ミャンマー南西部エーヤワディ管区を中心に、ヤンゴン管区、バゴー管区、モン州などで大雨や洪水、強風による被害が発生した。
被害状況
バングラデシュなどでは、国連の力もあり、被害をできるだけ食い止めることができた。しかし、ミャンマーではこのサイクロンへの備えが少なく、社会基盤が脆弱だったこともあり、死者は10万人を超えたといわれている。
2011年 – ウサーマ・ビン・ラーディンの殺害: パキスタン郊外のアボッタバードにて米軍が銃撃戦を展開。国際テロ組織アルカイダの指導者ウサーマ・ビン・ラーディンが死亡。

チャットgpt先生の5月2日のエッセイ

5月2日という日付を横に並べると、共通して見えてくるのは「体制が限界に達した瞬間に何を選ぶか」という一点に尽きる。

1536年、アン・ブーリンの逮捕は、王権の感情と政治合理が一致した例だ。ヘンリー8世にとって、王妃は愛情の対象である前に、王朝存続の機能部品だった。不要になれば排除される。ここでは判断は冷酷だが一貫している。体制は個人を切ることで自分を延命する。

1808年のマドリード蜂起では、占領軍は都市統治の基本に忠実だった。抵抗の芽を即時に潰す。1500人射殺は過剰に見えるが、目的は「次を起こさせない」ことだ。短期的には効果があるが、長期的には敵意を固定化する。ここでも選択は合理だが、時間軸によって評価が変わる。

1945年5月2日のベルリンの戦いは別の種類の合理だ。赤軍は損害を受け入れてでも速度を優先した。戦略目標は「首都占領=戦争終結の加速」。都市そのものや民間の損害はコストとして織り込まれている。ここでは意思決定と現場の行動は一致している。結果もそれに沿う。

同じ日、しかし性質がまったく異なるのが沖縄戦だ。この戦場は、米軍が物量を持ちながら異例の足止めを食らった数少ないケースであり、「押せば崩れる」戦争ではなかった。地形、地下陣地、火力配置、そして日本軍の持久志向が、進撃速度を削り続けた。5月2日時点でのアメリカ海兵隊第1海兵師団の損害が示すのは、激烈な戦闘が続きつつも、米軍が損耗管理と部隊交替で前進を維持していたという事実だ。苦戦しているが、崩れてはいない。

問題は日本側だ。第32軍の中枢では、「どう戦えば相手のコストを最大化できるか」という問いから、「どうすれば主導権を取り戻せるか」という心理に軸が移っていた。長勇の攻勢論は、戦術的合理というより、停滞に対する焦燥への反応だ。一方、八原博通の消耗戦は、唯一「時間」を武器に変換できる選択だったが、意思決定の場では退けられた。

このズレは前線で露骨になる。伊東孝一の大隊に下った命令は、既に敵に奪われた高地を前提としていた。誤報を修正できない指揮系統、現実を反映しない作戦計画。それでも命令は実行される。ここで戦闘は「戦果を狙う行動」から、「組織を維持するための行動」に変質する。つまり、勝つためではなく、命令体系を保つために攻撃が行われる。

この一点が、沖縄戦を「米軍にとって史上最大級に厄介な戦闘」にした核心でもある。米軍は物量優位にもかかわらず、敵が合理的に防御している限りコストを払わされ続ける。しかし同時に、日本軍の意思決定の歪みが、長期的には自壊を加速させる。米軍の苦戦は戦術レベル、日本軍の崩壊は構造レベル。この非対称が、戦いの時間と損害の形を決めた。

その構図は、他の5月2日の事例とも通じる。2008年のサイクロン・ナルギスでは、自然現象そのものよりも、国家の対応能力の不足が被害を拡大させた。2011年のウサーマ・ビン・ラーディンの殺害は、長期追跡の末に一点へ戦力を集中した結果だ。いずれも「環境に対して組織がどう応答するか」で結果が決まる。

結局、5月2日という断面で見えるのは単純だ。
現実に合わせて戦い方を変えた側は、コストを払いながらも前に進む。
現実よりも意志を優先した側は、短期的には動けても、長期的には自壊する。

沖縄の5月2日は、その分岐が不可逆になった日だ。