11月30日
20231130木曜日 旧暦10月18日 先負 壬辰みずのえたつ ジンシン 月齢 16.7
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11月30日の歴史上の出来事
1892年 – 日本海軍の水雷砲艦千島がイギリス商船と衝突、千島は沈没し商船側も損傷を受けた。(千島艦事件)[1]
1942年 – 第二次世界大戦・ソロモン諸島の戦い: ルンガ沖夜戦
1942年 – 横浜港ドイツ軍艦爆発事件がおこる。
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1892年 – 日本海軍の水雷砲艦千島がイギリス商船と衝突、千島は沈没し商船側も損傷を受けた。(千島艦事件)[1]
概要
1892年、日本海軍がフランスに発注していた砲艦千島が完成した。鏑木誠の指揮下、海軍の手により日本に回航し、長崎港を経由して神戸港に向かった。ところがその途中の1892年11月30日、愛媛県和気郡沖の瀬戸内海において、イギリスのP&O(当時の日本国内の呼称はピーオー汽船会社)所有のラヴェンナ号と衝突し、千島は沈没して乗組員74名が殉職した(ラヴェンナ号も損傷を受けた)。
だが、当時の日本は安政五カ国条約によって領事裁判権が設定されており、イギリス商船に関する裁判は横浜の横浜英国領事裁判所を第一審とすることになっていた。そのため、当時の第2次伊藤内閣は1893年5月6日に弁護士の岡村輝彦(後の中央大学総長)を代理人とし、P&Oを相手として85万ドルの賠償を求める訴訟をイギリス領事裁判所に起こした。これに対してP&Oも日本政府を相手として10万ドルの賠償を求める反訴を起こした。
1審は反訴のみが却下され、日本側の実質勝利とされたが、双方とも不服を抱いて上級審にあたる上海の英国高等領事裁判所に控訴した。ところが、2審ではP&Oの全面勝訴となった。この判決結果に加え、原告が元首である天皇の名義であったのか否かについての議論が湧きあがった。帝国議会では、立憲改進党の鳩山和夫らが政府を追及、同党とともに硬六派を形成していた各党や世論もこれに呼応した。硬六派は領事裁判権を含めた全面的な条約改正か現行条約の条文を徹底遂行して外国人の居留地に押込めるように迫った(条約励行運動)。
これに対して政府は2度にわたって衆議院解散を断行する一方、イギリス本国の枢密院に上告を決めた。政府内には岡村の能力を不安視して末松謙澄や金子堅太郎に代理人として派遣する構想も出されたものの、最終的には岡村に一任することとなった。1895年7月3日に枢密院は上海の判決を破棄して横浜領事館への差し戻しを命じるとともに、P&Oに日本側の訴訟費用約12万円の負担を命じた。その後、イギリス外務省の意向を受けた領事館によって和解が図られ、1895年9月19日に日本政府とP&Oの間で和解が成立、P&Oは1万ポンド(日本円で90,995円25銭)の和解金と日本側の訴訟費用全額を負担する代わりに日本政府は一切の請求権を放棄した。
その他
俳人の正岡子規は、同年12月2日の新聞「日本」に、千島艦事件に付いて「海の藻屑」と題した俳句時評を記述。「もののふの 河豚にくはるる 悲しさよ」という句を詠んでいる。
1942年 – 第二次世界大戦・ソロモン諸島の戦い: ルンガ沖夜戦
ルンガ沖夜戦(ルンガおきやせん)は、1942年11月30日夜にガダルカナル島ルンガ岬の沖にて日本海軍とアメリカ海軍の間で行われた海戦である。連合軍側の名称は「タサファロンガ沖海戦 (Battle of Tassafaronga)」。
損害
日本 駆逐艦8のうち1、米国 重巡洋艦4,軽巡洋艦1、駆逐艦6のうち重巡洋艦1沈没、
3大破、
1942年 – 横浜港ドイツ軍艦爆発事件がおこる。
横浜港ドイツ軍艦爆発事件(よこはまこうドイツぐんかんばくはつじけん)は、神奈川県横浜市の横浜港新港埠頭内で、1942年(昭和17年)11月30日に起こったドイツ艦船「ウッカーマルク」の爆発事故[1][2]。
概要
ドイツの高速タンカーである「ウッカーマルク」は、ドイツのキールやドイツ占領下のフランスの軍港から、厳重な大西洋上の連合国軍の海上封鎖線を突破して、1942年以降日本が制海権を握っていたインド洋から、昭南(日本占領下のシンガポール)やペナンなどの日本海軍の基地を経て、横須賀港や横浜港などを結んだ「柳船」のうちの1隻として日本に訪れ、横浜港を拠点に活動していた。
事件の1週間ほど前に、日本軍占領下のインドネシアから大日本帝国陸軍向けの航空ガソリンを横浜港に運び[3]、大桟橋に係留され油槽清掃中の11月30日13時40分頃に爆発を起こした。
爆発により、港湾施設や近くに停泊していた船舶が被害をうけた[4]。
爆発の原因は、大規模な被害により物証となるものが破壊されてしまった上に、戦時中のことであり、現在でも明らかになっていない。そのため、当時からイギリスやソビエト連邦などの敵国(当時日本とソ連は戦争状態にはないが、ドイツとソ連は戦争状態にあった)の工作員による破壊工作など様々な説が唱えられたが、目撃者の証言などから、ウッカーマルクの油槽の清掃作業中の作業員の喫煙との説が有力である[5]。
被害
この事故により、ドイツ海軍の将兵ら61人、中国人労働者36人、日本人労働者や住人など5人の合計102名が犠牲になり、周辺の住民や労働者、ドイツ海軍艦船を見学に来ていたドイツ大使館員のエルヴィン・ヴィッケルトをはじめ多数の重軽傷者を出した[5]。
また、ウッカーマルクとその近辺に停泊していたドイツ海軍の仮装巡洋艦「トール」、およびトールに拿捕されたオーストラリア船籍の客船「ナンキン」(拿捕後「ロイテン」と改名)、中村汽船所有の海軍徴用船「第三雲海丸」の合計4隻が失われ、横浜港内の設備が甚大な被害を受けた[6]。
犠牲者のうちドイツ海軍将兵ら外国籍者は横浜外国人墓地に埋葬された。なお、事故前後まで横浜港を活動拠点としていた行商人であった、俳優の竹中直人の母方の祖父が、この事故の犠牲者の一人となっている[7]。
その後
生き残ったドイツ将兵のうち将校クラスの数名は潜水艦で帰国したものの、その他の将兵はその後ドイツの戦局が悪化し、さらに日本の戦局も悪化したために帰国できず、終戦まで箱根町の芦之湯温泉の貸切状態の旅館で暮らし、大戦終結後まもなくGHQによりドイツに送還された。
なお、この事故は港周辺の住民の多数に目撃されたものの、戦時中の同盟国の軍艦の事故のために機密扱いとされ、戦後は大きな話題になることもなくなり長く秘されていた。しかし、横浜税関に残されていた事故の写真フィルム(ガラス乾板)[8]により、神奈川新聞社の取材で事故の概要が明らかになった。
余談であるが、この事故で生き残った将兵が戦時中に箱根に阿字ヶ池と呼ばれる人工の池を作ったことで知られる[9][10]。
チャットgpt先生の11月30日のエッセイ
1月30日の歴史的な出来事
11月30日は歴史上いくつかの重要な出来事が起きた日であり、その中でも特に注目すべき事件を振り返ると、異なる時代における船舶関連の二つの出来事が浮かび上がります。
1892年、日本海軍の水雷砲艦「千島」がイギリス商船との衝突事故により沈没し、乗組員74名が殉職するという悲劇が発生しました。この出来事は「千島艦事件」として知られ、日英間で裁判が行われました。当時、領事裁判権が定められており、日本政府は裁判所を通じて賠償を求めました。裁判の結果、最初は日本が勝利したかに見えましたが、控訴によりイギリス商船が全面勝訴し、日本政府は賠償金を支払うこととなりました。この事件は日本における対外的な法的な関係に対する不満を引き起こし、条約改正を求める動きが高まりました。
50年後の1942年、第二次世界大戦中には太平洋戦域で激しい戦闘が繰り広げられていました。この日、ソロモン諸島の戦いにおいて、ルンガ沖夜戦が発生しました。この戦闘では、日本海軍とアメリカ海軍が激突し、日本側が多大な損害を被りました。これは連合軍が「タサファロンガ沖海戦」と呼んだ戦いであり、日本にとっては戦局が厳しくなっていく一翼を担った出来事でした。
同じくこの日、日本占領下の横浜港で第二次世界大戦中のもう一つの重大な出来事が起こりました。ドイツ艦船「ウッカーマルク」が横浜港で爆発事故を引き起こし、多くの犠牲者と被害をもたらしました。この事件は当初機密扱いとされ、戦後まで長らく秘匿されていましたが、写真フィルムにより明らかになりました。
これらの出来事はそれぞれ異なる時代・文脈で起きたものですが、船舶と関連する事件として歴史に刻まれています。時代背景や国際関係、法的な問題などが交錯し、それぞれがその時代において大きな影響を及ぼしたであろうと考えられます。
11月30日は歴史の中で重要な日であり、これらの出来事を振り返ることで、その時代の複雑な状況や人々の苦悩に思いを馳せることができます。