6月27日
20260627土曜日旧暦5月13日大安(9番壬申みずのえさるジンシン)月齢 12
43番丙午ひのえうま年 31番甲午きのえうま月 9番壬申みずのえさる日
吉方位 隠遁日 壬申みずのえさる日 西 大吉 年末まであと187日
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6月27日の出来事
1333年(元弘3年/正慶2年5月15日) – 元弘の乱: 分倍河原の戦い。
戦争:元弘の乱
年月日:元弘3年(1333年)5月15日・5月16日
場所:武蔵国分倍河原(現在の東京都府中市)
結果:後醍醐天皇勢力の勝利
損害:新田義貞軍 80000人 北条軍150000人にて詳細不明だが壊滅的敗北と。
1743年 – オーストリア継承戦争: デッティンゲンの戦い。史上最後のイギリス国王が自ら戦闘に参加した戦い。
戦争:オーストリア継承戦争
年月日:1743年6月27日
場所:マインツ選帝侯領、デッティンゲン(現カールシュタイン・アム・マイン)
結果:連合軍の勝利
損害:フランス軍 戦死傷4000人 イギリス、ハノーファ、ハプスブルグ連合軍 戦死傷2300人。
1787年(天明7年5月12日) – 天明の大飢饉: 天明の打ちこわし。大坂の庶民が米屋を襲撃。
1863年(文久3年5月12日 – 伊藤博文・井上馨ら長州藩士5人が英国留学のため密出国。
1869年(明治2年5月18日) – 戊辰戦争: 箱館戦争終結。新政府軍と旧幕府軍との戦いが終わる。
戦力
新政府軍 9500人軍艦6 蝦夷共和国 3500人軍艦5
損害
新政府軍 死者300人軍艦1沈没 蝦夷共和国 死者1000人軍艦5使用不能
1945年-沖縄戦6月27日・那覇では、6月に入ってから、港湾の片づけを開始したが、那覇港が主要港として使用されるようになるまでには、数ヵ月を要するとみられていた。
《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 447頁より》・… 6月26日午前9時、交渉団一行はウタハの浜に拡声器と黄色の旗を携えて上陸した。…午前11時頃、ついに、正装した野田少佐が2人の軍曹と数人の武装護衛兵を伴って交渉団の前に姿を現した。(188頁)
… 日米会談2日目の6月27日午前9時、交渉団は座間味島米軍守備隊から派遣された護衛兵を伴い、歩兵上陸艇でウタハの海岸に向け出発した。… 10時15分、竹田少尉と2人の軍曹からなる日本軍側の交渉団一行が現れた。しかし、その中に野田少佐の姿はなかった。… 竹田少尉は「野田少佐がこの場に直接出席できないのは残念だが」と前置きしながら、野田少佐の回答をクラーク中佐に手渡した。… 回答の内容は次のとおりだった。
1. 天皇やその代理の者からの命令が無い限り、降伏はできない。これは全軍の総意である。<中村仁勇『沖縄・阿嘉島の戦闘 沖縄戦で最初に米軍が上陸した島の戦記』(2013年) – Battle of Okinawa>・第一号の犠牲者は、首里出身で久米島郵便局の電話保守係として駐在していた安里正次郎さんであった。6月26日米軍上陸の情報を聞いていったん山奥の避難小屋に隠れた。暗くなるのを待って生活道具を取りに集落に降りてきて、夜が明けたら山小屋へ帰るつもりだったが、27日未明、武装米兵に取り囲まれ米軍陣地に引致された。そこで (米軍) 部隊長から日本軍への降伏勧告状を鹿山隊長に届けるように命ぜられ、拒否すれば米兵に殺されると思ったのであろう、勧告状を持って見張り隊の本部陣地へ届けたところ鹿山隊長は「敵の手先になってこんなものを持ってくるからには覚悟はできているだろうな」と怒鳴って、その場で自分からピストルで安里さんを撃ち、一発では即死しないので部下に命じて両側から銃剣でとどめを刺した。
安里さんには島出身の内縁の妻がいたが、夫がスパイ容疑で射殺されたと知らされて恐怖のあまり家をとびだして山田川に身を投げて自殺した。彼女の母親もショックを起こして寝込んでしまい、間もなく亡くなった。二人とも鹿山隊長が殺したようなものだと近親者は嘆いた。《大城将保 『沖縄戦の真実と歪曲』(高文研 2007年) p.131》
1949年 – 秋田県脇本村の海岸に漂着した機雷が爆発。死亡8人、重軽傷4人、家屋全壊10戸[1]。
1980年 – イタリア・シチリア島近海でイタビア航空機が墜落。死者81名(全員)
1983年 – 練馬一家5人殺害事件。
1983年(昭和58年)6月27日に東京都練馬区大泉学園町六丁目で発生した殺人・死体損壊(バラバラ殺人)事件[6]。バブル景気以前に不動産競売の取引をめぐるトラブルから、不動産鑑定士の男が幼児を含む一家5人を惨殺した上、隠匿のため死体損壊に及んだ
1994年 – 長野県松本市でサリンガスによる中毒事件、死者7人・重軽症者144人。(松本サリン事件)
2020年 – コロンビアのトリマ県で闘牛場が倒壊して4人が死亡、300人が負傷するという大事故が発生[6]。
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1333年(元弘3年/正慶2年5月15日) – 元弘の乱: 分倍河原の戦い。
戦争:元弘の乱
年月日:元弘3年(1333年)5月15日・5月16日
場所:武蔵国分倍河原(現在の東京都府中市)
結果:後醍醐天皇勢力の勝利
損害:新田義貞軍 80000人 北条軍150000人にて詳細不明だが壊滅的敗北と。
分倍河原の戦い(ぶばいがわらのたたかい)は、鎌倉時代後期の元弘3年(1333年)5月15日・5月16日に、武蔵国多摩川河畔の分倍河原(現在の東京都府中市)において、北条泰家率いる鎌倉幕府勢と新田義貞率いる反幕府勢との間で行われた合戦である。
1743年 – オーストリア継承戦争: デッティンゲンの戦い。史上最後のイギリス国王が自ら戦闘に参加した戦い。
戦争:オーストリア継承戦争
年月日:1743年6月27日
場所:マインツ選帝侯領、デッティンゲン(現カールシュタイン・アム・マイン)
結果:連合軍の勝利
損害:フランス軍 戦死傷4000人 イギリス、ハノーファ、ハプスブルグ連合軍 戦死傷2300人。
デッティンゲンの戦い(ディッティンゲンのたたかい、英語: Battle of Dettingen、ドイツ語: Schlacht bei Dettingen)は、オーストリア継承戦争中の1743年6月27日にマインツ選帝侯領デッティンゲンで行われた会戦である。イギリス、ハノーファー、オーストリア兵で構成された連合軍(国事軍)とノアイユ公爵率いるフランス軍が戦った。
イギリス軍は実質的にはステア伯爵が指揮したが、名目上は国王ジョージ2世が指揮官を務め、息子のカンバーランド公爵が同伴するという形をとったため、イギリス国王が戦闘に参加した最後の戦いとして知られる。戦闘は連合軍が勝利したものの、大局への影響は少なく、「大勝利よりは幸運な逃走」と形容された[8]。
1787年(天明7年5月12日) – 天明の大飢饉: 天明の打ちこわし。大坂の庶民が米屋を襲撃。
1863年(文久3年5月12日 – 伊藤博文・井上馨ら長州藩士5人が英国留学のため密出国。
1869年(明治2年5月18日) – 戊辰戦争: 箱館戦争終結。新政府軍と旧幕府軍との戦いが終わる。
戦力
新政府軍 9500人軍艦6 蝦夷共和国 3500人軍艦5
損害
新政府軍 死者300人軍艦1沈没 蝦夷共和国 死者1000人軍艦5使用不能
1945年-沖縄戦6月27日・那覇では、6月に入ってから、港湾の片づけを開始したが、那覇港が主要港として使用されるようになるまでには、数ヵ月を要するとみられていた。
《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 447頁より》・… 6月26日午前9時、交渉団一行はウタハの浜に拡声器と黄色の旗を携えて上陸した。…午前11時頃、ついに、正装した野田少佐が2人の軍曹と数人の武装護衛兵を伴って交渉団の前に姿を現した。(188頁)
… 日米会談2日目の6月27日午前9時、交渉団は座間味島米軍守備隊から派遣された護衛兵を伴い、歩兵上陸艇でウタハの海岸に向け出発した。… 10時15分、竹田少尉と2人の軍曹からなる日本軍側の交渉団一行が現れた。しかし、その中に野田少佐の姿はなかった。… 竹田少尉は「野田少佐がこの場に直接出席できないのは残念だが」と前置きしながら、野田少佐の回答をクラーク中佐に手渡した。… 回答の内容は次のとおりだった。
1. 天皇やその代理の者からの命令が無い限り、降伏はできない。これは全軍の総意である。<中村仁勇『沖縄・阿嘉島の戦闘 沖縄戦で最初に米軍が上陸した島の戦記』(2013年) – Battle of Okinawa>・第一号の犠牲者は、首里出身で久米島郵便局の電話保守係として駐在していた安里正次郎さんであった。6月26日米軍上陸の情報を聞いていったん山奥の避難小屋に隠れた。暗くなるのを待って生活道具を取りに集落に降りてきて、夜が明けたら山小屋へ帰るつもりだったが、27日未明、武装米兵に取り囲まれ米軍陣地に引致された。そこで (米軍) 部隊長から日本軍への降伏勧告状を鹿山隊長に届けるように命ぜられ、拒否すれば米兵に殺されると思ったのであろう、勧告状を持って見張り隊の本部陣地へ届けたところ鹿山隊長は「敵の手先になってこんなものを持ってくるからには覚悟はできているだろうな」と怒鳴って、その場で自分からピストルで安里さんを撃ち、一発では即死しないので部下に命じて両側から銃剣でとどめを刺した。
安里さんには島出身の内縁の妻がいたが、夫がスパイ容疑で射殺されたと知らされて恐怖のあまり家をとびだして山田川に身を投げて自殺した。彼女の母親もショックを起こして寝込んでしまい、間もなく亡くなった。二人とも鹿山隊長が殺したようなものだと近親者は嘆いた。《大城将保 『沖縄戦の真実と歪曲』(高文研 2007年) p.131》
1949年 – 秋田県脇本村の海岸に漂着した機雷が爆発。死亡8人、重軽傷4人、家屋全壊10戸[1]。
1980年 – イタリア・シチリア島近海でイタビア航空機が墜落。死者81名(全員)
1983年 – 練馬一家5人殺害事件。
1983年(昭和58年)6月27日に東京都練馬区大泉学園町六丁目で発生した殺人・死体損壊(バラバラ殺人)事件[6]。バブル景気以前に不動産競売の取引をめぐるトラブルから、不動産鑑定士の男が幼児を含む一家5人を惨殺した上、隠匿のため死体損壊に及んだ
1994年 – 長野県松本市でサリンガスによる中毒事件、死者7人・重軽症者144人。(松本サリン事件)
練馬一家5人殺害事件(ねりまいっかごにんさつがいじけん)は、1983年(昭和58年)6月27日に東京都練馬区大泉学園町六丁目で発生した殺人・死体損壊(バラバラ殺人)事件[6]。バブル景気以前に不動産競売の取引をめぐるトラブルから、不動産鑑定士の男が幼児を含む一家5人を惨殺した上、隠匿のため死体損壊に及んだ本事件は、『週刊新潮』2004年9月2日号(新潮社)にて「その後のバブル時代にも多発した不動産取引関連トラブルの先駆け的な事案となった」と評された[7]。
事件当時、警視庁の捜査一課長として本事件の捜査を指揮した田宮榮一は「本事件は世田谷一家殺害事件(2000年12月発生)など通常の殺人事件とは違う陰惨な雰囲気・異常性があった」と形容したが、テレビのワイドショーや週刊誌などの報道は、本事件と同日に俳優の沖雅也が飛び降り自殺した事件をセンセーショナルに扱い、本事件の報道はその陰に隠れる形となったことから、一家5人が惨殺された重大な被害に比して一般社会からの認知度が低い事件である[7]。
1994年 – 長野県松本市でサリンガスによる中毒事件、死者7人・重軽症者144人。(松本サリン事件)
松本サリン事件(まつもとサリンじけん)は、1994年(平成6年)6月27日に長野県松本市でオウム真理教により引き起こされたテロ事件。警察庁における事件の正式名称は松本市内における毒物使用多数殺人事件[1]。オウム真理教教徒らにより、神経ガスのサリンが散布されたもので、被害者は死者8人に及んだ。戦争状態にない国において、サリンのような化学兵器クラスの毒物が一般市民に対して無差別に使用された世界初の事例であり、同じくオウム真理教による地下鉄サリン事件を除けばその後も類が無い。また、第一通報者で被害者の河野義行が容疑者として扱われた報道被害事件でもある。その背景には、杜撰な捜査を実施した警察とマスコミのなれ合いがあったとも言われる。坂本堤弁護士一家殺害事件、地下鉄サリン事件と並んでオウム3大事件[2]と呼ばれている。
2020年 – コロンビアのトリマ県で闘牛場が倒壊して4人が死亡、300人が負傷するという大事故が発生[6]。
チャットgpt先生の6月27日のエッセイ
6月27日を眺めると、そこに並ぶ出来事は偶然にも「勝敗が決した後に何が起きるか」という一点でつながっているように見える。
1333年の分倍河原の戦いでは、新田義貞軍が北条軍を破った。史料上の兵力数は誇張も多いが、本質は数ではない。この戦いで重要なのは、鎌倉幕府という既存秩序が軍事的に崩壊する決定打となったことだ。戦場での勝利は、そのまま政治秩序の崩壊を意味した。中世日本では、敗北は単なる軍事的失敗ではなく、支配権そのものの喪失だった。
1743年のデッティンゲンの戦いは逆に、戦術的勝利と戦略的成果が一致しない典型例である。連合軍は勝った。しかし戦争全体の趨勢を変えたわけではない。後世に残ったのは「イギリス国王が自ら戦場に立った最後の戦い」という象徴性だった。戦争史ではしばしば、勝敗そのものよりも物語化しやすい要素の方が記憶される。
1869年の箱館戦争の終結も興味深い。蝦夷共和国は敗北したが、後に旧幕府側人材の多くが明治国家に組み込まれていく。現実の国家運営では、敵を皆殺しにするより利用した方が得だからである。戦争の目的は敵軍の壊滅ではなく、戦後秩序の確立にあるという冷徹な論理が見える。
そして1945年の沖縄。
日本では長らく感情論が先行しやすいテーマだが、軍事史として見るとまず確認すべき事実がある。
沖縄戦は、米軍が太平洋戦争全期間を通じて経験した最も苛烈な地上戦の一つだった。
米軍は圧倒的な航空優勢、艦砲射撃、補給能力を持っていた。それでも攻略に約3か月を要した。米軍戦死者は1万人を超え、戦傷者を含めると数万人規模の損害を受けている。硫黄島も激戦だったが、作戦規模では沖縄がはるかに大きい。
重要なのは、「物量で押したから楽勝だった」という理解が事実ではないことだ。
牛島満・長勇らの第32軍は上陸海岸での決戦を避け、首里を中心とする縦深陣地へ米軍を引き込み、消耗戦を選択した。米軍は艦砲射撃で地表を破壊できても、地下陣地までは容易に無力化できなかった。結果として米軍は歩兵による正面攻撃を繰り返し、多大な損害を払った。
一方で、日本軍側も戦略的には敗北を前提としていた。
本土決戦準備の時間稼ぎ。
これが第32軍に課された現実的任務だった。
だから住民保護と軍事合理性が衝突する。
阿嘉島や久米島などで起きた住民殺害やスパイ容疑処刑を考える際も、善悪だけでは構造が見えない。
軍事組織は極限状態になるほど情報漏洩を恐れる。
敵に協力した可能性がある。
捕虜になった。
降伏勧告を持参した。
こうした行為は平時なら何でもない。しかし包囲された孤立部隊にとっては重大な脅威と認識される。
だから報復殺害が起きた。
これは正当化ではない。
むしろ逆で、極限状態の軍事組織がどのような論理で住民に牙を向けるかを説明している。
同様に米軍側も理想的存在ではなかった。
捕虜射殺、住民への暴力、略奪などの証言は存在する。
ただし組織としては比較的統制が維持されていたため、日本軍ほど体系的問題には発展しなかった。
戦後の記憶では、日本軍の加害と住民被害、あるいは米軍の圧倒的火力ばかりが語られがちだが、実際の戦場はもっと混沌としている。
そこには英雄も悪魔も少なく、大半は極限環境で生存を図る人間だった。
1994年の松本サリン事件も別の意味で同じ構造を示す。
近代国家は通常、暴力を独占する。
しかし宗教団体という非国家主体が化学兵器級の毒物を使用したことで、「戦争と平時の境界」が崩れた。しかも当初は被害者である河野義行氏が疑われた。大事件が起きると、人間は真相より先に犯人像を求める。その傾向は中世も現代も変わらない。
6月27日を貫く一本の線があるとすれば、それは「勝利や正義ではなく、秩序の維持」である。
分倍河原では幕府秩序が崩れた。
箱館では新しい国家秩序が完成した。
沖縄では帝国秩序が崩壊した。
松本では近代社会の安全神話が揺らいだ。
歴史を動かしているのは理想や理念だけではない。補給、情報、統制、恐怖、そして生存。6月27日は、その冷徹な現実が繰り返し顔を出す日として見ることができる。

