6月26日
20260626金曜日旧暦5月12日仏滅(8番辛未かのとひつじシンビ)月齢 11
43番丙午ひのえうま年 31番甲午きのえうま月 8番辛未かのとひつじ日
吉方位 隠遁日 辛未かのとひつじ日 北西 大吉 年末まであと188日
https://ja.wikipedia.org/wiki/6%E6%9C%8826%E6%97%A5
6月26日の出来事
699年(文武天皇3年5月24日) – 役小角(役行者)が弟子の讒言により伊豆に流罪。
1243年 – モンゴルのアナトリア侵攻戦争(英語版): キョセ・ダグの戦いが勃発。ルーム・セルジューク朝・トレビゾンド帝国・ニケーア帝国連合軍がバイジュ率いるモンゴル帝国に完敗。アナトリア半島がモンゴルの支配下に置かれた。
1284年 – ドイツ・ハーメルンで130人の子供が集団失踪。(ハーメルンの笛吹き男の起源)
1541年 – フランシスコ・ピサロが、1538年に処刑されたディエゴ・デ・アルマグロの遺児一派によりリマで暗殺される。
1945年 – 日本本土空襲: 京都市上京区の西陣にB29が空襲。死者43人、重軽傷者66人、家屋損壊292戸の被害が出た。
1945年-沖縄戦6月26日・1945年 6月26日 アメリカ軍イーフ海岸に上陸。ジェームズ・ジョーンズ少佐指揮下、水陸両用偵察隊(艦隊付き海兵隊)第7海兵連隊A中隊など戦闘員742人、非戦闘員224人、計966人。《「太平洋戦争と久米島」(上江洲盛元 編著/あけぼの印刷株式会社) 17頁》・最後の決断をなすべきときがきた。私は、私の前もって考えていた方針に従い、自らの掌握下にはいった難民をリードし、その一員として、今後の方途を策するに決意した。避難民の身の上を考えても、彼らは、敵手に落ちれば虐殺暴行されるものと思い込んでおればこそ、ここで憐れな生活に耐え忍んでいるのだ。
私は二年間の駐米生活で、アメリカ人の本質は承知している。今私の支配下にある数十名の難民を敵手に委しても、現在以上不幸な境地に陥るとは考えられない。彼らの生命を救うべきである。彼らは、潔くこの洞窟を出て行くのがよい。私は難民たちに呼びかけた。「諸君は、今やアメリカ軍の要求通り、洞窟の外に出て行くのが、最も賢明である。皆様が、もし賛成ならば、私が代わってアメリカ軍と交渉する」
私の提案に対し、ほとんど全員危険の色を浮べている。三人の年ごろの娘を連れた例の品の良い老夫婦は、「そのようなことは、なんとかせぬようにしてくれ」と哀願の態である。娘たちは泣いている。佐藤、新垣は当惑気である。「大丈夫だ。心配するな。私の言う通りにせよ!」と決然たる態度を示した。
恐怖のあまり判断力を失い、自失した人々を指導する急場においては、断固たる態度が必要である。私は、回廊の出口に立っているアメリカ兵に、「この洞窟の中には、数十名の老若男女が避難している。今から皆が私と一緒に出て行くから発砲するな」と英語で話しかけた。彼は「よろしい。一切の武器を棄てて出て来い」と答える。「射つな!」「武器を棄てよ!」と交互に繰り返しつつ、とうとう私は洞窟外に一歩を踏み出した。・私とアメリカ兵の和やかな対談振りに安心したのか、私の声に応じて、老人、女、子供、そして負傷したわが兵士らしいものが、続々と出てきた。攻撃部署を解いた部隊の中から、多数のアメリカ兵が躍び出して、老人の手をとり、あるいは子供を抱えて一同を援助する。美しい場面だ。今や敵も味方もない。人間愛に充ちた光景である。かつて豪雨のある夜、フィラデルフィアの南郊外で、自動車を路外に暴走させて困却した際、付近に住む青年たちが、雨をおかして駆けつけ、助けてくれたことをつい思い出してしまった。《八原博通『沖縄決戦 – 高級参謀 の手記』読売新聞社、1972年 電子版 》・やがて難民と敗残兵との選別が始まった。… アメリカ兵たちは惜し気もなく、ビスケット、チョコレート、キャンデーなどを避難民に雨の如くばら撒いた。難民、特に子供らは、不安から安心へ、そして今や身も心も軽く、歓喜して先を争って拾った。
… 敗残のわが兵士たちは、奥武島の収容所に送られて行った。続いて我々難民の群れは、自動小銃を肩にしたアメリカ兵に誘導され、長い列をつくり、傾き始めた夏の陽を浴びつつ、憶い出多い糸数高地の麓を指して動き出した。私の前後を進む女たちや年配の男は、アメリカ軍が思いもよらず親切なのを喜び、具志頭の洞窟でリーダーをつとめた私を、英雄の如くに感謝してくれる。私は移り変わる人心に、もの悲しく、ともすれば涙が落ちそうなので、多く語らず、喉のかわくままに、路傍の砂糖黍を折りとり、摩文仁の軍司令部洞窟で慣れた器用さで、しゃぶりながら、痛む膝に力を入れて、とぼとぼと列に従う。《八原博通『沖縄決戦 – 高級参謀 の手記』読売新聞社、1972年 電子版 》・第六二師団司令部の陣地壕は摩文仁にあった。二中通信隊の佐敷興勇、仲里祥一、山根文夫は分隊長七里伍長に引率されて、6月21日司令部の壕に着くと、無線小隊長金森少尉の指揮下にはいった。その翌22日、接近する敵戦車を発見、通信隊は肉薄攻撃の準備を整えて壕入り口付近に散った。そのとき金森少尉、松本一等兵および三人の歩哨が、つづけざまに撃たれて戦死した。やがて戦車のすさまじい火炎放射攻撃を受け、通信隊はほとんど戦死した。七里伍長、宇佐美上等兵は手榴弾で自決した。学徒兵真喜屋は急造爆雷を抱いて戦車に突進したが、ついに帰って来なかった。その夜、生き残った者だけで斬り込みを敢行しようと待機していると、爆雷攻撃を受けて壕の入り口がふさがれ、ほとんどが戦死した。約百人のうち生存者はわずかに数人であった。学徒兵佐敷興勇も、奇跡的に生きのびたうちの一人であった。《山川泰邦『秘録 沖縄戦記』(1969年)》・県立水産学校通信隊 (15歳) の証言
奥にいたのは水産通信隊の上前寛市、当間嗣冠の2人と、爆風で失明した開南中学生だった。4人で脱出の計画を立てたが、開南中学生は「足手まといになるから3人で行ってくれ」と応じない。「行けるところまで行こう」の瀬底さんの説得も無駄だった。 やむなく3人で脱出したが、最後の1人が壕を出る時、「がんばれよ」と壕の奥の方から声がして、手りゅう弾がさく裂する音が聞こえた。「神州不滅」を信じながら、また若い命が自らの手で断たれた。
下の海岸は人であふれていた。安全な壕など探せない。波打ち際をよく見ると死体が無数に漂っている。瀬底さんらの目は、月の光に照らし出されたそんな死体より、その間に浮かんでいる果物、玉ねぎ、ニンジンなどに向けられた。米軍の捨てた残飯だ。手当たりしだいに拾った。死体の衣服も探してみた。安全な岩場は、すでに敗残兵が入っており、海岸を移動しながら3日ほど暮らした。米須海岸まで来た時、清水のわく絶好の場所を見つけたが、“先客”の兵隊らは3人を見るなり「どこかに行け」と怒鳴り、短剣を抜いて威嚇した。
その時、そばから「学生さん、こっちに来い」と誘ってくれる伍長がいた。3人に食事までくれる。谷島秀敏といった。聞けば、学生を率いて戦闘をしていたと言い、戦友も学生も多く失ったと話していた。「谷島伍長に今でも感謝するほどありがたかった」。当時、敗残兵らの食糧の奪い合いはすさまじかった。食糧を壕の中に大量に保管している敗残兵2人が、周囲の評判だった。ある日、この壕に手りゅう弾が投げ込まれ、2人は即死。もちろん食糧はなくなっていた。
そのうち瀬底さんら水産通信隊の3人は他のグループと合流、一緒に生活するようになった。民間人の娘3人、夫婦連れと知念という1等兵、それと工業1年生の具志堅と名乗った生徒。米軍と戦う軍隊などもう存在しなかったが、
敗北を信じることのできない集団が、海岸沿いに無数に生きていた。<沖縄県立水産学校 22人の水産通信隊 たった一人の生還 – Battle of Okinawa>
1949年 – 同月29日にかけて熊本県と鹿児島県で集中豪雨。死者42人、負傷61人、家屋全壊119戸、床上浸水9658戸など[10]。
1973年 – ソ連のプレセツク宇宙基地でコスモス3Mロケットが爆発、9名の死者を出す。
1977年 – イギリス・ウェスト・ヨークシャーで、ピーター・サトクリフが店員の女性を殺害。サトクリフは以前から売春婦に対する連続殺人を犯していたが、売春婦以外の女性が殺害されたことで世間の関心が集まり、「ヨークシャーの切り裂き魔」と呼ばれるようになる。
1989年 – 東芝が世界初となるA4型ノートパソコン「DynaBook J-3100SS」を発売[11]。
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699年(文武天皇3年5月24日) – 役小角(役行者)が弟子の讒言により伊豆に流罪。
役 小角(えんの おづぬ / えんの おづの / えんの おつの、舒明天皇6年〈634年〉伝 – 大宝元年6月7日〈701年7月16日〉伝)は、飛鳥時代の呪術者[2]。役行者(えんのぎょうじゃ)、役優婆塞(えんのうばそく)などとも呼ばれている[3]。姓は君。
いくつかの文献では実在の人物とされているが生没年不詳[2]。人物像は後世の伝説も大きく、前鬼と後鬼を弟子にしたといわれる。天河大弁財天社や大峯山龍泉寺など多くの修験道の霊場でも役小角・役行者を開祖としていたり、修行の地としたという伝承がある。
1243年 – モンゴルのアナトリア侵攻戦争(英語版): キョセ・ダグの戦いが勃発。ルーム・セルジューク朝・トレビゾンド帝国・ニケーア帝国連合軍がバイジュ率いるモンゴル帝国に完敗。アナトリア半島がモンゴルの支配下に置かれた。
1284年 – ドイツ・ハーメルンで130人の子供が集団失踪。(ハーメルンの笛吹き男の起源)
ハーメルンの新門にあるラテン語の碑文には、この笛吹き男の正体はマグス(魔法使い)であったと刻まれている。いくつかの説では、子供たちは何らかの自然的要因により死亡したのであり、笛吹き男は死神の象徴であったとされている。死神はしばしば笛吹き男のようなまだら模様の衣装を身にまとった姿で描かれる。この説に関連付けられる類似のテーマとして、子供達の行進は中世ヨーロッパの基本的な美術様式である死の舞踏の表現であるとの説がある。自然要因説に含まれるいくつかの説として、子供たちはヴェーザー川で溺死したとする説、土砂崩れにより死亡したとする説、流行病により病死したとする説がある。
ウィリアム・マンチェスターの『炎のみに照らされた世界』(A World Lit Only by Fire, 1992) は、笛吹き男は精神異常の小児性愛者だったと述べている。マンチェスターはこの事件が起こったのは1484年の6月20日であり、この犯罪者はハーメルンのザクセン人の村から130人の児童を誘拐し、「口に出して言うのも憚られる目的」に用いたのだと断言している。更にマンチェスターは「ある子供達は二度と姿を見せず、ある子供たちは五体バラバラにされて、森の繁みの中や木の枝から吊り下がっている所を発見された」と付け加える。しかし、マンチェスターがまことしやかに述べ立てる事件を裏付けるような資料は一切発見されておらず、彼は事実と断言するこの説に対して出典を提示していない。マンチェスターの説は、少なくともその120年以前から現れている物語のバージョンを無視している[13]。
1541年 – フランシスコ・ピサロが、1538年に処刑されたディエゴ・デ・アルマグロの遺児一派によりリマで暗殺される。
生涯
カスティーリャ王国エストレマドゥーラのトルヒージョの生まれで、父はゴンサロ・ピサロ、母はフランシスカ・モラレス。父は軍人で小貴族、母は召使であったといわれる。教育されず、文字も知らないままで育った[1]。
1498年から1502年にかけてイタリア戦争に参加した後、1502年にニコラス・デ・オバンド総督の着任航海でエスパニョーラ島へ渡る。1513年にバルボアのパナマ遠征に同行し、太平洋に到達[2]。ペルラス諸島滞在中に黄金郷ペルーの情報を得て、探検家ディエゴ・デ・アルマグロと共に、1524年と1526年の二度にわたり南アメリカを探検し、苦労の末、都市トゥンベスまで進んだ[2]。その都市は、広大な領土を保有する国の一部であることを発見した。
1528年にスペインに戻り、カルロス1世(後の神聖ローマ皇帝カール5世)からペルー支配の許可を取った。征服の権利や搾取の特権、貴族の位も得て、ヌエバ・カスティーリャ(スペイン語版、英語版)の総督に任命され、4人の兄弟たちと募集した兵士とともに1530年、パナマに戻った[3]。
1531年には約180人の手勢と37頭の馬を率いてパナマを出港し、ペルーへの侵入を開始した。サン・マテオ島で騎馬隊を下船させ、トゥンベスまで南下し、サン・ミゲル・デ・ピウラを建設した。その後、インカ皇帝アタワルパを追って南進した。1532年にカハマルカでアタワルパと会見し、その場で生け捕りにした[2]。アタワルパの身代金として莫大な貴金属を受け取ったが、アタワルパが存在する限り先住民が彼をリーダーに担いで反乱を起こす可能性があると判断し、約束を反故にして、1533年7月26日処刑を敢行した。アタワルパは自身を「太陽の子」と信じ、いつか復活して報復すると誓いつつ死んで行ったと言う。その後もピサロはインカ帝国の分裂を巧みに利用しながら進撃し、11月にはインカ帝国の首都であるクスコに無血入城した。インカ帝国を滅ぼしクスコを制圧したが、敵対するインディオの大軍に包囲されていたため、パナマなどのスペイン人居留地と接触しやすい沿岸地域に町を建設する必要があったことから、1535年6月に「シウダー・デ・ロス・レイェス(諸王の都)」(現在のリマ市)を建設した[2]。
しかしその支配地の分配、特にクスコの領有権をめぐってディエゴ・デ・アルマグロと対立し始め、1537年から内戦が始まった。1538年4月にサリナスの戦い(英語版)でアルマグロを破り処刑した[2]。戦いに勝利したピサロではあったがスペイン本国の支持を失い、1536年にはカルロス1世にアタワルパを無実の罪で処刑したとして死刑を宣告され、結局1541年6月26日にアルマグロの遺児一派にリマで暗殺された。埋葬されなかったピサロの遺体はミイラとしてリマ大聖堂(英語版、スペイン語版、ドイツ語版)に現在も遺されている。
1945年 – 日本本土空襲: 京都市上京区の西陣にB29が空襲。死者43人、重軽傷者66人、家屋損壊292戸の被害が出た。
1945年-沖縄戦6月26日・1945年 6月26日 アメリカ軍イーフ海岸に上陸。ジェームズ・ジョーンズ少佐指揮下、水陸両用偵察隊(艦隊付き海兵隊)第7海兵連隊A中隊など戦闘員742人、非戦闘員224人、計966人。《「太平洋戦争と久米島」(上江洲盛元 編著/あけぼの印刷株式会社) 17頁》・最後の決断をなすべきときがきた。私は、私の前もって考えていた方針に従い、自らの掌握下にはいった難民をリードし、その一員として、今後の方途を策するに決意した。避難民の身の上を考えても、彼らは、敵手に落ちれば虐殺暴行されるものと思い込んでおればこそ、ここで憐れな生活に耐え忍んでいるのだ。
私は二年間の駐米生活で、アメリカ人の本質は承知している。今私の支配下にある数十名の難民を敵手に委しても、現在以上不幸な境地に陥るとは考えられない。彼らの生命を救うべきである。彼らは、潔くこの洞窟を出て行くのがよい。私は難民たちに呼びかけた。「諸君は、今やアメリカ軍の要求通り、洞窟の外に出て行くのが、最も賢明である。皆様が、もし賛成ならば、私が代わってアメリカ軍と交渉する」
私の提案に対し、ほとんど全員危険の色を浮べている。三人の年ごろの娘を連れた例の品の良い老夫婦は、「そのようなことは、なんとかせぬようにしてくれ」と哀願の態である。娘たちは泣いている。佐藤、新垣は当惑気である。「大丈夫だ。心配するな。私の言う通りにせよ!」と決然たる態度を示した。
恐怖のあまり判断力を失い、自失した人々を指導する急場においては、断固たる態度が必要である。私は、回廊の出口に立っているアメリカ兵に、「この洞窟の中には、数十名の老若男女が避難している。今から皆が私と一緒に出て行くから発砲するな」と英語で話しかけた。彼は「よろしい。一切の武器を棄てて出て来い」と答える。「射つな!」「武器を棄てよ!」と交互に繰り返しつつ、とうとう私は洞窟外に一歩を踏み出した。・私とアメリカ兵の和やかな対談振りに安心したのか、私の声に応じて、老人、女、子供、そして負傷したわが兵士らしいものが、続々と出てきた。攻撃部署を解いた部隊の中から、多数のアメリカ兵が躍び出して、老人の手をとり、あるいは子供を抱えて一同を援助する。美しい場面だ。今や敵も味方もない。人間愛に充ちた光景である。かつて豪雨のある夜、フィラデルフィアの南郊外で、自動車を路外に暴走させて困却した際、付近に住む青年たちが、雨をおかして駆けつけ、助けてくれたことをつい思い出してしまった。《八原博通『沖縄決戦 – 高級参謀 の手記』読売新聞社、1972年 電子版 》・やがて難民と敗残兵との選別が始まった。… アメリカ兵たちは惜し気もなく、ビスケット、チョコレート、キャンデーなどを避難民に雨の如くばら撒いた。難民、特に子供らは、不安から安心へ、そして今や身も心も軽く、歓喜して先を争って拾った。
… 敗残のわが兵士たちは、奥武島の収容所に送られて行った。続いて我々難民の群れは、自動小銃を肩にしたアメリカ兵に誘導され、長い列をつくり、傾き始めた夏の陽を浴びつつ、憶い出多い糸数高地の麓を指して動き出した。私の前後を進む女たちや年配の男は、アメリカ軍が思いもよらず親切なのを喜び、具志頭の洞窟でリーダーをつとめた私を、英雄の如くに感謝してくれる。私は移り変わる人心に、もの悲しく、ともすれば涙が落ちそうなので、多く語らず、喉のかわくままに、路傍の砂糖黍を折りとり、摩文仁の軍司令部洞窟で慣れた器用さで、しゃぶりながら、痛む膝に力を入れて、とぼとぼと列に従う。《八原博通『沖縄決戦 – 高級参謀 の手記』読売新聞社、1972年 電子版 》・第六二師団司令部の陣地壕は摩文仁にあった。二中通信隊の佐敷興勇、仲里祥一、山根文夫は分隊長七里伍長に引率されて、6月21日司令部の壕に着くと、無線小隊長金森少尉の指揮下にはいった。その翌22日、接近する敵戦車を発見、通信隊は肉薄攻撃の準備を整えて壕入り口付近に散った。そのとき金森少尉、松本一等兵および三人の歩哨が、つづけざまに撃たれて戦死した。やがて戦車のすさまじい火炎放射攻撃を受け、通信隊はほとんど戦死した。七里伍長、宇佐美上等兵は手榴弾で自決した。学徒兵真喜屋は急造爆雷を抱いて戦車に突進したが、ついに帰って来なかった。その夜、生き残った者だけで斬り込みを敢行しようと待機していると、爆雷攻撃を受けて壕の入り口がふさがれ、ほとんどが戦死した。約百人のうち生存者はわずかに数人であった。学徒兵佐敷興勇も、奇跡的に生きのびたうちの一人であった。《山川泰邦『秘録 沖縄戦記』(1969年)》・県立水産学校通信隊 (15歳) の証言
奥にいたのは水産通信隊の上前寛市、当間嗣冠の2人と、爆風で失明した開南中学生だった。4人で脱出の計画を立てたが、開南中学生は「足手まといになるから3人で行ってくれ」と応じない。「行けるところまで行こう」の瀬底さんの説得も無駄だった。 やむなく3人で脱出したが、最後の1人が壕を出る時、「がんばれよ」と壕の奥の方から声がして、手りゅう弾がさく裂する音が聞こえた。「神州不滅」を信じながら、また若い命が自らの手で断たれた。
下の海岸は人であふれていた。安全な壕など探せない。波打ち際をよく見ると死体が無数に漂っている。瀬底さんらの目は、月の光に照らし出されたそんな死体より、その間に浮かんでいる果物、玉ねぎ、ニンジンなどに向けられた。米軍の捨てた残飯だ。手当たりしだいに拾った。死体の衣服も探してみた。安全な岩場は、すでに敗残兵が入っており、海岸を移動しながら3日ほど暮らした。米須海岸まで来た時、清水のわく絶好の場所を見つけたが、“先客”の兵隊らは3人を見るなり「どこかに行け」と怒鳴り、短剣を抜いて威嚇した。
その時、そばから「学生さん、こっちに来い」と誘ってくれる伍長がいた。3人に食事までくれる。谷島秀敏といった。聞けば、学生を率いて戦闘をしていたと言い、戦友も学生も多く失ったと話していた。「谷島伍長に今でも感謝するほどありがたかった」。当時、敗残兵らの食糧の奪い合いはすさまじかった。食糧を壕の中に大量に保管している敗残兵2人が、周囲の評判だった。ある日、この壕に手りゅう弾が投げ込まれ、2人は即死。もちろん食糧はなくなっていた。
そのうち瀬底さんら水産通信隊の3人は他のグループと合流、一緒に生活するようになった。民間人の娘3人、夫婦連れと知念という1等兵、それと工業1年生の具志堅と名乗った生徒。米軍と戦う軍隊などもう存在しなかったが、
敗北を信じることのできない集団が、海岸沿いに無数に生きていた。<沖縄県立水産学校 22人の水産通信隊 たった一人の生還 – Battle of Okinawa>
1949年 – 同月29日にかけて熊本県と鹿児島県で集中豪雨。死者42人、負傷61人、家屋全壊119戸、床上浸水9658戸など[10]。
1973年 – ソ連のプレセツク宇宙基地でコスモス3Mロケットが爆発、9名の死者を出す。
1977年 – イギリス・ウェスト・ヨークシャーで、ピーター・サトクリフが店員の女性を殺害。サトクリフは以前から売春婦に対する連続殺人を犯していたが、売春婦以外の女性が殺害されたことで世間の関心が集まり、「ヨークシャーの切り裂き魔」と呼ばれるようになる。
死去
2020年、新型コロナウイルスに感染したため、病院で治療を受けていたが、11月13日に死去した[2]。73歳没。
1989年 – 東芝が世界初となるA4型ノートパソコン「DynaBook J-3100SS」を発売[11]。
チャットgpt先生の6月26日のエッセイ
6月26日という日は、歴史を眺めると「伝説と現実の境界が崩れる日」に見える。
699年の役小角流罪。後世には超人的な呪術者、修験道の祖として神話化された人物だが、同時代史料に現れるのは政治権力から危険視された一人の宗教者である。歴史とはしばしばこういうものだ。後世の人間は英雄や聖人を作りたがるが、当時の国家にとっては管理すべき不安定要素に過ぎない。
1284年のハーメルンの子供失踪も同じである。
ハーメルンの笛吹き男
後世の物語では魔法使いが子供を連れ去ったことになる。しかし現実に起きたのは、おそらく移住、疫病、事故、飢饉、あるいは集団死だった可能性が高い。人間社会は説明できない悲劇に遭遇すると物語を作る。物語は真実を隠すためではなく、真実の残酷さに耐えるために生まれる。
1541年のフランシスコ・ピサロ暗殺も興味深い。
フランシスコ・ピサロ
学校教育では「インカ帝国征服者」として登場するが、現実には彼もまた暴力によって権力を獲得し、最後は暴力によって排除された。帝国建設の歴史は理念ではなく利権配分の歴史である。インカ帝国を滅ぼした男は、征服後の利益分配争いで殺された。
そして1945年6月26日。
この日の記録を読むと、沖縄戦末期の実相が見えてくる。
沖縄戦
戦後日本では長らくGHQプレスコードの影響もあり、「日本軍の非人道性」と「米軍の解放者性」のどちらか一方に傾いた物語が流布された。しかし実態はもっと複雑である。
まず軍事的事実として、沖縄戦は米軍にとって太平洋戦争最大級の消耗戦だった。
一般には「物量で圧倒した」と説明される。しかしそれだけなら米軍死傷者がこれほど増える理由がない。
沖縄本島における米軍の戦死者は約1万2千人、負傷者は数万人規模に達した。太平洋戦線の他の主要作戦と比較しても異常に大きい。
日本軍第32軍は制空権も制海権も失いながら、地下陣地網による持久戦に徹した。
八原博通
が主導した消耗戦構想は、戦略的勝利には至らなかったが、戦術的には米軍を極限まで苦しめた。
米軍は史上最大級の兵站能力を持ちながら、それでもなお一つ一つの高地や洞窟を火炎放射器と爆薬で潰していくしかなかった。
この事実は戦後の勝者敗者双方の宣伝から切り離して評価する必要がある。
一方で民間人の運命を見ると、さらに複雑になる。
引用された八原の証言は興味深い。
米軍に投降すれば虐殺されると信じていた住民たちが、実際には保護され食糧を与えられた場面である。
これは事実として存在した。
同時に、米軍捕虜となった住民や投降者に対して日本側から報復が行われた事例も存在した。
しかしこれも単純な善悪では説明できない。
軍事組織の論理として見れば、住民が投降すれば陣地位置や兵力状況が敵に伝わる危険がある。
また総力戦下では民間人と兵士の境界が曖昧になる。
現代人から見れば残酷極まりないが、当時の現場指揮官にとっては情報漏洩防止という軍事合理性が存在した。
つまり虐殺は正当化できないが、「なぜ起きたか」は理解できる。
歴史研究で重要なのはそこだ。
善悪判定だけでは構造は見えない。
沖縄戦末期には日本軍の規律崩壊も進んでいた。
食糧争奪、住民との摩擦、敗残兵集団の形成。
引用された水産学校通信隊の証言に出てくる光景はまさにそれである。
国家も軍隊も事実上機能を失い、生存だけが目的になる。
そこでは英雄も非国民も存在しない。
飢えた人間がいるだけだ。
1945年6月26日の記録から見えるのは、戦争が国家の理念を剥ぎ取り、人間を生存競争の状態へ戻していく過程である。
同じ日に記録される京都空襲、西陣への爆撃もそうだ。
工業施設だけではなく都市機能そのものを破壊する総力戦の論理であり、近代戦争が「軍隊同士の戦い」から「社会全体の破壊」へ変質したことを示している。
6月26日を貫く共通項は、理想や神話ではない。
役小角の伝説、ハーメルンの童話、ピサロの征服譚、そして沖縄戦。
後世の人間はそこに英雄や悪魔を見出したが、現実には権力、恐怖、生存、情報、食糧、利害という極めて現実的な要素が動かしていた。
歴史を長く見れば、人間はあまり変わっていない。
神話の時代も、大航海時代も、第二次世界大戦も、人々は結局「何を信じるか」より先に、「どう生き残るか」を考えていたのである。

