6月7日
20260607日曜日旧暦4月22日先勝(49番壬子みずのえねジンシ)月齢 21.2
43番丙午ひのえうま年 30番癸巳みずのとみ月 49番壬子みずのえね日
吉方位 陽遁日 壬子みずのえね日 北 大吉 年末まであと207日
https://ja.wikipedia.org/wiki/6%E6%9C%887%E6%97%A5
6月7日の出来事
923年(延長元年閏4月20日) – 903年に大宰府で亡くなった菅原道真を右大臣に復し正二位を贈る。
1099年 – 第1回十字軍: エルサレム攻囲戦 が始まる。年月日:1099年6月7日 – 7月15日
場所:エルサレム
結果:十字軍の勝利
損害:十字軍 13500人中 戦死1000人 ファーティマ朝 守備隊1000人 死亡守備隊全滅1000人戦死 市民40000人被虐殺死。
1494年 – スペインとポルトガルの間でトルデシリャス条約が締結。新大陸における両国の境界を定める。
1868年(明治元年閏4月17日) – 明治政府が、長崎・浦上で発見されたキリシタンを流罪にする。(浦上四番崩れ)
1921年 – 九州全域で豪雨。大分県内だけでも死者約200人[5]。
1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 大阪大空襲。6月7日空襲だけで数百人から数千人死亡。
1945年-沖縄戦6月7日:米軍:・金武掃討作戦と呼ばれた戦闘に参加するアメリカ兵達。連日、たくさんの雨が降り道もぬかるむ中、アメリカ軍は山の中や民間人が住む住宅地にも入り込んでいきました。合図に合わせて一斉に民家に押し入り、日本兵が隠れていないか、武器などを隠していないかを確認するアメリカ兵。追い出された住民は茫然とした様子で家の方を向き座り込んでいます。住民を制圧し、日本兵がいそうな場所は全て火炎放射機で焼き払われました。<琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年6月7日>・…頑強な日本軍の防衛線にあって、海兵隊は、6月7日、8日と2日間にわたって戦闘でわずかしか進撃できなかったのである。戦車は使用できなかった。泥の層が厚く、広い地域にわたって地雷が埋めてあり、さらにその周囲の丘には機関砲座がいっぱいあったからだ。6月7日は筆架山占領に3個小隊の戦車隊が出動したが、たいていの場合、戦車は泥のなかにはまって動けなくなり、また地雷地帯のかなたから飛んでくる機関砲の弾丸にあたって前進をはばまれてしまった。第4海兵連隊の第2大隊では、丘陵の頂上を攻めるのに、丘をのり越えて行くかわりに3ヵ所に大がかりなトンネルを掘って目的地に到達するという方法までとったのである。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 462頁より》:日本軍:・日本軍の最高戦争指導会議は本土決戦の方針を採択。沖縄は帝都防衛の準備のための時間稼ぎに使われ、住民を巻き込んだ戦いはさらに泥沼化します。<琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年6月7日>・7日午後大田司令官は、指揮下の各部隊に4日以来の奮闘をたたえ、今後の健闘のため、次のような訓示をした。
「小禄地区に敵来襲以来、各隊が連日肉弾特攻精神をもって勇戦敢闘しているのは、本職の最も心強さを覚えるところであり、また戦果に大なる期待をもつものである。今や当地区は決戦段階に入っており、諸子はますます強靭作戦に徹し、短兵で功をあせることなく極力敵に出血を強要し、かねてより覚悟している小禄死守に海軍伝統精神の発揚と、戦果獲得に全力をつくしてもらうことを望む。予は74高地(司令部壕のある高地)にあり」
《「沖縄 旧海軍司令部壕の軌跡」(宮里一夫著/ニライ社) 109頁より》
・「急造爆雷」は沖縄戦で数多く使われた。32軍の高級参謀・八原博通氏の手記「沖縄決戦」には次のように経緯を書いている。「(略)最期に大本営陸軍部参謀次長後宮将軍からじかに必勝戦法を承った。(略)貧乏人が金持ちと同じ戦法で戦えば、負けるに決まっている。そこで日本軍には『新案特許』の対戦車戦法が発案された。それは十キロの黄色薬を入れた急造爆雷を抱えて、敵戦車に体当たりして爆破するのだ。(略)もちろん、この必死攻撃に任ずる兵士は直ちに三階級特進させるのだ(略)」現実に爆薬を背負わされたのは学生たちが多かった。3階級特進の話もほとんど聞かれない。<一中鉄血勤皇隊 急造爆雷を背負わされ – Battle of Okinawa>・八原高級参謀の回想:
津嘉山から摩文仁に至る途中のいたましい避難民の印象は、今なお脳裡に鮮明である。各方面の情報を統合するに、首里戦線の後方地域には土着した住民のほか、軍の指示に従い、首里地域から避難してきた者が多数あることは確実である。これら難民を、再びここで地獄の苦しみに陥れ、戦いの犠牲とするのは真に忍び得ない。軍が退却方針を決めたさい、戦場外になると予想される知念方面への避難は、一応指示してあるはずだった (注) 。しかし、同方面に行けば敵手にはいること明瞭だ、今やそのようなことに拘泥すべきときではない。彼らは避難民なのだ。敵の占領地域内にいる島の北半分住民と同様、目をつむって敵に委するほかはない。そして彼らへの餞けとして知念地区に残置してある混成旅団の糧秣被服の自由使用を許可すべきである。(注)
軍司令官は、この案を直ちに決裁された。司令は隷下各部隊、警察機関—荒井県警察部長は、首里戦線末期においても、なお400名の警官を掌握していた。住民の保護指導のために、特に軍への召集を免除されていた。— 鉄血勤皇隊の宣伝班、さらに壕内隣組等の手を経て一般住民に伝達された。戦場忽忙の間、この指令は各機関の努力にかかわらず、十分に徹底しなかった憾みがある。指令に従い、知念向かった人々も、潮の如く殺到する敵の追撃部隊を見ては、怖気を出し、具志頭付近から再び踵を返す始末である。かくて琉球島南端の断崖絶壁上において、多くの老幼婦女子をいたましい犠牲としたのは実に千秋の恨事である。《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 369-370頁より》
2017年 – ミャンマー空軍Y-8墜落事故: ミャンマー空軍のY-8が墜落し、乗員122人が死亡[17]。
—————-
923年(延長元年閏4月20日) – 903年に大宰府で亡くなった菅原道真を右大臣に復し正二位を贈る。
1099年 – 第1回十字軍: エルサレム攻囲戦 が始まる。年月日:1099年6月7日 – 7月15日
場所:エルサレム
結果:十字軍の勝利
損害:十字軍 13500人中 戦死1000人 ファーティマ朝 守備隊1000人 死亡守備隊全滅1000人戦死 市民40000人被虐殺死。
エルサレム攻囲戦(エルサレムこういせん、英: Siege of Jerusalem)は、1099年6月7日から7月15日まで、聖地エルサレムを舞台に戦われた、第1回十字軍の主要な攻城戦の一つ。最終的には十字軍がファーティマ朝軍を破り、聖地を占領することに成功した。
虐殺
ムスリム
エルサレムの征服
エルサレムの陥落。19世紀フランスの画家 Emil Signol による。1. は聖墳墓教会、2. は岩のドーム、3. は城壁。
ムスリムの市民の多くは、アル=アクサー・モスク、岩のドーム、神殿の丘などに逃げた。『ゲスタ・フランコルム』は神殿の丘周辺についてしか述べていないが、次のように殺戮の様を描く。
…(われらの兵は)ソロモンの神殿でも殺して斬っていった。神殿ではあまりにも殺した数が多かったので、われらの兵は足首まで血に浸かって歩いた…
レーモン・ダジールも神殿の丘周辺についてしか言及していないが、こう書く。
ソロモンの神殿でもソロモンの玄関でも、騎馬の兵は膝や手綱まで血に浸かって歩いた。
神殿では1万人が殺された。たしかに、もしそなたがそこにおれば、そなたは我らの足はくるぶしまで殺した者らの血の色になっているのを見たであろう。しかしこれ以上何を語るべきであろう。彼らのだれも生き残らなかった。女も子供も容赦はされなかった。[6]
このような神殿の丘での殺戮は、時として市全体の人口の殺戮にまで膨らまされる場合もある。しかし神殿の丘以外での状況については大殺戮についての目撃証言は残っていない。『ゲスタ・フランコルム』によれば命を容赦された者もいたようである。
異教徒たちが打ち負かされると、われらの兵は大勢を捕らえた。男も女もおり、彼らの望みに応じて殺したり捕らえたままにしたりした。[7]
後に書かれた別の文献では次のようにあり、神殿の丘以外でも殺戮のあったことが示唆されている。
(我らの指導者は)すさまじい悪臭のため、サラセン人の死体をすべて外へ捨てるよう命じた。全市が死体で埋め尽くされていたためである。生き残ったサラセン人は死体を市門の出口の前まで引きずり、馬の死体かのように積み上げた。誰も異教徒に対するこのような殺戮を見たことも聞いたこともなかった。死体の山々はピラミッドのように見え、死者の数は神のみぞ知ることであろう。しかしレーモンはエミールと、共にいた者たちについては、アスカロンへ無傷で逃げることを許した。[8]
その場にいたレーモン・ダジールも、ダビデの塔に立て篭もっていた者らにレーモンが降伏を薦め、保護したことを書いている[9]。これらの者たちは、司令官イフティハールらとともにアスカロンへ退去することができた[10]。ムスリムの歴史家イブン・アル=アシールも、エルサレムが陥落し略奪を受けている最中のこの出来事について書いている。
ムスリムの一団はミフラブ・ダウード(ダビデの塔)に立て篭もって数日間戦った。彼らは降伏の代わりに命は許された。フランクたちは約束を守り、夜にアスカロンへ出発させた。
カイロ・ゲニザの一つは、このときにユダヤ人の住民の一部がイフティハール・アッ=ダウラらとともにアスカロンへ脱出したことを伝えている[11]。
タンクレードは神殿の丘地区を自らの管理下とし、その場のムスリムの命を救ったと主張している。彼はモスクの屋根に逃れたムスリムらの安全を保証するため、持っていた軍旗を彼らに渡したという。しかし、他の十字軍の兵士らが結局彼らを殺すことを止めることはできなかった。
1494年 – スペインとポルトガルの間でトルデシリャス条約が締結。新大陸における両国の境界を定める。
すでに1481年に布告された教皇シクストゥス4世の回勅『エテルニ・レギス』(永遠の王)で、カナリア諸島以南の新領土はすべてポルトガルに与えられると定められていた。ところが1493年になるとスペイン出身であった教皇アレクサンデル6世が自国に便宜をはかろうとし、カーボベルデの西わずか100レグアの地点を通過する子午線を境界線(教皇子午線)に、それより東側はポルトガルに優先権を認めるにせよ、西側の土地はすべてスペイン領にするという回勅『インテル・チェテラ』を布告した。西方への航海熱が高まっていた時代、当然ポルトガルのジョアン2世にとってこの裁定は面白くなかった。
そこでジョアン2世はスペインのフェルディナンド2世と直接交渉し、1494年に教皇子午線からさらに西に270レグア進んだ子午線を境界線とするトルデシリャス条約を締結した。1506年にはアレクサンデル6世の次の教皇、ユリウス2世による確認を受け、この取り決めは教皇庁にも認められることになる。[7]
スペインはこの条約のおかげでアメリカ大陸の全域で優先権を持つことができた。ただ、現在のブラジルにあたる領土は1500年にペドロ・アルヴァレス・カブラルが到達したため、ポルトガルに与えられた。この条約はアジアにも適用されると考えられていたが、経度の厳密な測定が困難だったこの時代にはアジアにはどのように適用されるのかよくわからず、再度の論争が起こることになった。ただ、この条約についてスペインもポルトガルも過度にこだわった様子はなく、アメリカ大陸にポルトガルが植民活動をおこなうことをスペインも黙認している。
フランス、イギリス(イングランド)、オランダといった国々はこの条約によって領土獲得の優先権から締め出される形となった。この状況を打破するには、スペインやポルトガルの船団に対して海賊行為をおこなうか、(このころはまだ難しかった)教皇の決定を無視するかという選択肢しかなかった。こうして新領土獲得から締め出された国々の心情は、フランソワ1世のものとされる「(新領土から締め出される根拠とされた)アダムの意志とはいったい何か?」という言葉によくあらわされている。
1868年(明治元年閏4月17日) – 明治政府が、長崎・浦上で発見されたキリシタンを流罪にする。(浦上四番崩れ)
浦上四番崩れ(うらかみよばんくずれ)は、現在の長崎市の浦上地区で江戸時代末期から明治時代初期にかけて起きた大規模な隠れキリシタン(キリスト教徒。当時のキリスト教は禁教であり犯罪行為であった)の摘発事件である。長崎で江戸時代中期から4度にわたって発生したキリシタン弾圧事件浦上崩れの4度目。
発端
1864年(元治元年)、日仏修好通商条約に基づき、居留するフランス人のため長崎の南山手居留地内にカトリック教会の大浦天主堂が建てられた。主任司祭であったパリ外国宣教会のベルナール・プティジャン神父は信徒が隠れているのではないかという密かな期待を抱いていた。そこへ1865年4月12日(元治2年3月17日)、浦上村の住民数名が訪れた。その中の1人でイザベリナと呼ばれた「ゆり(後に杉本姓)」という当時52歳の女性がプティジャン神父に近づき、「ワレラノムネ(宗)アナタノムネトオナジ」(私たちはキリスト教を信じています)「サンタ・マリアの御像はどこ?」とささやいた。神父は驚愕した。これが世にいう「信徒発見」である。彼らは聖母マリアの像を見て喜び、祈りをささげた。神父は彼らが口伝で伝えた典礼暦を元に「カナシミセツ」(四旬節)を守っていることを聞いて再び驚いた。以後、浦上のみならず、外海、五島、天草、筑後今村などに住む信徒たちの指導者が続々と神父の元を訪れて指導を願った。神父はひそかに彼らを指導し、彼らは村に帰って神父の教えを広めた。
しかし、2年後の1867年(慶応3年)、浦上村の信徒たちが仏式の葬儀を拒否したことで信徒の存在が明るみに出た。この件は庄屋によって長崎奉行に届けられた。信徒代表として奉行所に呼び出された高木仙右衛門らははっきりとキリスト教信仰を表明したが、逆に戸惑った長崎奉行はいったん彼らを村に返した。その後、長崎奉行の報告を受けた幕府は密偵に命じて浦上の信徒組織を調査し、7月14日(6月13日)の深夜、秘密の教会堂を幕吏が急襲したのを皮切りに、高木仙右衛門ら信徒ら68人が一斉に捕縛された。捕縛される際、信徒たちはひざまずいて両手を出し、「縄をかけて下さい」と述べたため、抵抗を予想していた捕手側も、信徒側の落ち着き様に怯んだと伝えられている。捕縛された信徒たちは激しい拷問を受けた。
翌日、事件を聞いたプロイセン公使とフランス領事、さらにポルトガル公使、アメリカ公使も長崎奉行に対し、人道に外れる行いであると即座に抗議を行った。9月21日(8月24日)には正式な抗議を申し入れたフランス公使レオン・ロッシュと将軍徳川慶喜が大坂城で面会し、事件についての話し合いが行われた。
帰郷
1873年(明治6年)2月24日、日本政府はキリスト教禁制の高札を撤去し、信徒を釈放した。配流された者の数3394名、うち662名が命を落とした。生き残った信徒たちは流罪の苦難を「旅」と呼んで信仰を強くし、1879年(明治12年)、故地・浦上に聖堂(浦上天主堂)を建てた[4]。
1921年 – 九州全域で豪雨。大分県内だけでも死者約200人[5]。
1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 大阪大空襲。6月7日空襲だけで数百人から数千人死亡。
大阪大空襲(おおさかだいくうしゅう)は、第二次世界大戦末期にアメリカ軍が実施した、大阪府大阪市を中心とする地域への空襲である。
1945年3月13日深夜から翌日未明(日本時間、以下同様)にかけて最初の大阪空襲が行われ[1]、その後、6月1日、6月7日、6月15日、6月26日、7月10日、7月24日、8月14日に空襲が行われた。これらの空襲で10,000人以上の一般市民が死亡したと言われている。
1945年-沖縄戦6月7日:米軍:・金武掃討作戦と呼ばれた戦闘に参加するアメリカ兵達。連日、たくさんの雨が降り道もぬかるむ中、アメリカ軍は山の中や民間人が住む住宅地にも入り込んでいきました。合図に合わせて一斉に民家に押し入り、日本兵が隠れていないか、武器などを隠していないかを確認するアメリカ兵。追い出された住民は茫然とした様子で家の方を向き座り込んでいます。住民を制圧し、日本兵がいそうな場所は全て火炎放射機で焼き払われました。<琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年6月7日>・…頑強な日本軍の防衛線にあって、海兵隊は、6月7日、8日と2日間にわたって戦闘でわずかしか進撃できなかったのである。戦車は使用できなかった。泥の層が厚く、広い地域にわたって地雷が埋めてあり、さらにその周囲の丘には機関砲座がいっぱいあったからだ。6月7日は筆架山占領に3個小隊の戦車隊が出動したが、たいていの場合、戦車は泥のなかにはまって動けなくなり、また地雷地帯のかなたから飛んでくる機関砲の弾丸にあたって前進をはばまれてしまった。第4海兵連隊の第2大隊では、丘陵の頂上を攻めるのに、丘をのり越えて行くかわりに3ヵ所に大がかりなトンネルを掘って目的地に到達するという方法までとったのである。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 462頁より》:日本軍:・日本軍の最高戦争指導会議は本土決戦の方針を採択。沖縄は帝都防衛の準備のための時間稼ぎに使われ、住民を巻き込んだ戦いはさらに泥沼化します。<琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年6月7日>・7日午後大田司令官は、指揮下の各部隊に4日以来の奮闘をたたえ、今後の健闘のため、次のような訓示をした。
「小禄地区に敵来襲以来、各隊が連日肉弾特攻精神をもって勇戦敢闘しているのは、本職の最も心強さを覚えるところであり、また戦果に大なる期待をもつものである。今や当地区は決戦段階に入っており、諸子はますます強靭作戦に徹し、短兵で功をあせることなく極力敵に出血を強要し、かねてより覚悟している小禄死守に海軍伝統精神の発揚と、戦果獲得に全力をつくしてもらうことを望む。予は74高地(司令部壕のある高地)にあり」
《「沖縄 旧海軍司令部壕の軌跡」(宮里一夫著/ニライ社) 109頁より》
・「急造爆雷」は沖縄戦で数多く使われた。32軍の高級参謀・八原博通氏の手記「沖縄決戦」には次のように経緯を書いている。「(略)最期に大本営陸軍部参謀次長後宮将軍からじかに必勝戦法を承った。(略)貧乏人が金持ちと同じ戦法で戦えば、負けるに決まっている。そこで日本軍には『新案特許』の対戦車戦法が発案された。それは十キロの黄色薬を入れた急造爆雷を抱えて、敵戦車に体当たりして爆破するのだ。(略)もちろん、この必死攻撃に任ずる兵士は直ちに三階級特進させるのだ(略)」現実に爆薬を背負わされたのは学生たちが多かった。3階級特進の話もほとんど聞かれない。<一中鉄血勤皇隊 急造爆雷を背負わされ – Battle of Okinawa>・八原高級参謀の回想:
津嘉山から摩文仁に至る途中のいたましい避難民の印象は、今なお脳裡に鮮明である。各方面の情報を統合するに、首里戦線の後方地域には土着した住民のほか、軍の指示に従い、首里地域から避難してきた者が多数あることは確実である。これら難民を、再びここで地獄の苦しみに陥れ、戦いの犠牲とするのは真に忍び得ない。軍が退却方針を決めたさい、戦場外になると予想される知念方面への避難は、一応指示してあるはずだった (注) 。しかし、同方面に行けば敵手にはいること明瞭だ、今やそのようなことに拘泥すべきときではない。彼らは避難民なのだ。敵の占領地域内にいる島の北半分住民と同様、目をつむって敵に委するほかはない。そして彼らへの餞けとして知念地区に残置してある混成旅団の糧秣被服の自由使用を許可すべきである。(注)
軍司令官は、この案を直ちに決裁された。司令は隷下各部隊、警察機関—荒井県警察部長は、首里戦線末期においても、なお400名の警官を掌握していた。住民の保護指導のために、特に軍への召集を免除されていた。— 鉄血勤皇隊の宣伝班、さらに壕内隣組等の手を経て一般住民に伝達された。戦場忽忙の間、この指令は各機関の努力にかかわらず、十分に徹底しなかった憾みがある。指令に従い、知念向かった人々も、潮の如く殺到する敵の追撃部隊を見ては、怖気を出し、具志頭付近から再び踵を返す始末である。かくて琉球島南端の断崖絶壁上において、多くの老幼婦女子をいたましい犠牲としたのは実に千秋の恨事である。《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 369-370頁より》
・せいぜい私が19歳だったので、やっと今90近くで生かされておりますけれども、本当に戦争さえなければ大変のどかな静かないい島でございました。そして戦後はまた、戦争が終わったらまた今は基地。ほとんど基地があるために、いろんな事故、事件もありまして、こんな小さな島はいつも、いつまでいじめられればいいのかと思って本当に悔しゅうございます。私も19歳の時に大変親しく可愛がってくださったお姉さん方を、戦中目の前で4、5人すぐ死傷しまして、最初50人いた同僚が、最後は11人になりましたけれども、その11人がさらに南部の果てまで追われたために、7人が撃ち殺されて2人が行方不明で、今2人だけが生かされています。
… 亡くなり方も、すぐ即死だったら本当にいいんですけれども、足をもぎ取られたり、手をもぎ取られたり、喉元を切られたり、一人はまた横っ腹を二十センチメートルぐらい切られまして、そこから腸が飛び出して、消毒薬もないし医者もいないし、その腸を押し込んでタオルで巻いてやったら、六月の沖縄は暑くて豪内もすごい暑いものですから、熱い苦しいと言ってこのタオルを取って捨ててしまったら、またこの腸が飛び出しまして、それで苦しんでまたこの腸を押し込んでまたタオル二枚で今度は巻いてしっかりくびってやったら、結局は二日目に亡くなりました。治療薬も全然ないし、包帯もないし、医者も現場になんかもいませんので、ただタオルでその傷を巻いたり、足をもぎ取られた人もタオルでただくびったりでございますので、二、三日では破傷風になって亡くなったりで、最初の五十人の仲間が最後二人だけ残りまして、その一人の私がまだ今までこう生かされてます。<語り部:山里和枝さん | 沖縄市役所>
2017年 – ミャンマー空軍Y-8墜落事故: ミャンマー空軍のY-8が墜落し、乗員122人が死亡[17]。
チャットgpt先生の6月7日のエッセイ
6月7日 ― 理想ではなく現実が勝敗を決めた日
6月7日という日を眺めると、人類史に繰り返し現れる一つの共通点が見えてくる。
それは「理念や正義よりも、組織力・物量・持久力が最終結果を決める」という現実である。
923年、死後20年を経て菅原道真は右大臣に復され正二位を贈られた。
これは朝廷が突然道真の無実に気づいたからではない。
政権は常に安定を求める。怨霊信仰が政治的リスクとなり、権力がそれを無視できなくなった結果である。名誉回復とは道徳的反省というより、政治的コスト計算の産物だった。
1494年のトルデシリャス条約も同様である。
スペインとポルトガルは新大陸の所有権を神学ではなく外交で分配した。
未知の土地には現地住民が存在していたが、欧州列強にとって重要だったのは「誰が管理するか」であった。
世界地図は発見されたのではなく、交渉によって切り分けられた。
1868年の浦上四番崩れも国家の論理が表れている。
明治政府は近代国家を目指しながらも、政権基盤が固まるまでは旧来の禁教政策を維持した。
国家にとって信仰の正邪は本質ではない。
統治に従うかどうかが本質である。
1921年の九州豪雨では自然が国家の能力を試した。
洪水は善悪を区別しない。
治水能力とインフラ整備の差がそのまま生存率の差になる。
自然災害ですら最終的には組織力の競争になる。
そして1945年6月7日の沖縄戦である。
後年、「圧倒的物量を持つ米軍が一方的に進撃した戦い」という印象で語られることも多い。
しかし実際の戦場を見ると、米軍は予想を超える苦戦を強いられていた。
ノルマンディー、サイパン、グアム、硫黄島を経験した米軍にとっても、沖縄南部の戦場は異質だった。
豪雨。
泥濘。
石灰岩地形。
地下陣地。
複雑な洞窟網。
機関銃陣地。
迫撃砲。
縦深防御。
そして徹底した持久戦。
日本軍は制空権も制海権も失っていたが、その代わり地形そのものを要塞化した。
米軍は火力で制圧しても次の稜線から射撃を受けた。
陣地を奪っても地下壕から再び敵が現れた。
戦車は泥にはまり、工兵は地雷除去に追われた。
火炎放射器と爆薬で一つ一つ陣地を潰すしかなかった。
米軍が最終的に勝利した理由は戦術的優位というより、補充能力と継戦能力だった。
日本軍が兵士を失えば減るだけだったが、米軍は補給船から弾薬も燃料も兵員も補充できた。
戦争の本質は勇敢さの競争ではなく、生産能力の競争であることを沖縄戦は示している。
同時に、日本軍の側も単純な悲劇ではない。
彼らは勝利を目指していたというより、敗北を遅らせることを目的としていた。
本土決戦準備の時間を稼ぐこと。
それが32軍に与えられた戦略目標だった。
つまり沖縄戦は「勝つための戦い」ではなく、「負け方を管理する戦い」だった。
そのため住民もまた戦略の一部に組み込まれた。
避難誘導も軍事判断によって左右され、住民保護と軍事行動は常に衝突した。
一方で米軍も理想的な解放軍ではなかった。
戦場では住民が民間人なのか、協力者なのか、兵士なのか判別できない。
ゲリラ戦の環境下では疑心暗鬼が生じる。
住民が米軍に保護されたことで日本軍から報復対象と見なされる事例も発生した。
逆に日本軍への協力を疑われて米軍から厳しく扱われる例もあった。
これは善悪ではなく、内戦・占領戦・ゲリラ戦で普遍的に見られる構造である。
現場では情報不足が人命より優先される。
沖縄戦はその極端な実例だった。
同じ1945年6月7日、大阪では大空襲が行われていた。
ここでも米軍は都市機能そのものを攻撃対象としている。
工場だけでなく交通網、住宅地、労働力、行政能力まで含めて戦争遂行能力と見なした。
近代総力戦では軍人と民間人の境界は曖昧になる。
都市全体が兵站拠点として扱われるからである。
6月7日に始まった1099年のエルサレム攻囲戦も同じだった。
宗教戦争として記憶されるが、現場で行われたのは極めて現実的な攻城戦だった。
中世において城塞都市を陥落させた後の虐殺は珍しいことではなかった。
恐怖による支配の確立は軍事的合理性を持っていた。
現代人には残虐に見えるが、当時の戦争論理では秩序維持の一手段として理解されていた。
2017年のミャンマー空軍輸送機墜落事故もまた別の形で国家の現実を示している。
軍隊は戦闘よりも事故で人員を失うことがある。
戦争も平時も、組織は人間が運用する以上、常に故障と事故のリスクから逃れられない。
こうして見ると、6月7日に並ぶ出来事は驚くほど似ている。
朝廷も教会も帝国も軍隊も近代国家も、最終的には理想だけで動いてはいない。
彼らを動かしているのは権力、補給、人口、情報、時間である。
歴史を動かすのはしばしば英雄ではない。
補給船であり、食糧であり、行政機構であり、そして戦場で泥に埋まる兵士たちである。
6月7日は、その冷徹な現実が時代を超えて顔を覗かせる一日なのである。
補足すると、軍事史研究では沖縄戦は「米軍が史上最大に苦戦した戦闘」と断定するより、「米軍が経験した最も困難な上陸戦・持久戦の一つ」と表現する方が正確です。米軍側の人的損害、地形、気象、地下陣地、住民混在という複合条件は確かに極めて苛烈で、硫黄島と並んで米軍が想定以上の代償を払った戦場として位置付けられています。

