3月3日
20260303火曜日旧暦1月15日先負(13番丙子ひのえねヘイシ)月齢 13.6
丙午ひのえうま年 庚寅かのえとら月 丙子ひのえね日 年末まであと303日
吉方位 陽遁日 丙子ひのえね日 北 大吉
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3月3日の出来事
1105年(長治2年2月15日) – 藤原清衡が平泉に最初院多宝寺(中尊寺)を建立する。
1921年 – 日本の皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)がヨーロッパ歴訪に出発(皇太子裕仁親王の欧州訪問)。
1933年 – 昭和三陸地震が発生、死者、行方不明者3,064人、約6,800棟の家屋が流出する被害を出す[4]。
1974年 – トルコ航空DC-10パリ墜落事故が発生。死亡346人全員。
1991年 – ユナイテッド航空585便墜落事故が発生。死亡25人全員。
2023年 – 大江健三郎[12]、小説家(* 1935年)逝去88歳。
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1105年(長治2年2月15日) – 藤原清衡が平泉に最初院多宝寺(中尊寺)を建立する。
1921年 – 日本の皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)がヨーロッパ歴訪に出発(皇太子裕仁親王の欧州訪問)。
皇太子裕仁親王の欧州訪問(こうたいしひろひとしんのうのおうしゅうほうもん)では、1921年(大正10年)3月3日から9月3日までの6か月間にわたる皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)によるヨーロッパ各国の歴訪を扱う。日本の皇太子がヨーロッパを訪問したのは初めてのことであり、日本国内でも大きな話題となった。
1933年 – 昭和三陸地震が発生、死者、行方不明者3,064人、約6,800棟の家屋が流出する被害を出す[4]。
・明治三陸地震は旧暦の端午の節句の夜に津波に襲われたが(当時は旧暦で節句を祝う人々が多かった)、今度は新暦の桃の節句の未明に津波に襲われたことから、人々は「節句の厄日」「呪いの節句」と呼んで恐れたという[31]。
・因果関係は不明であるが前兆現象としてイワシ・マグロ・カツオが豊漁であったと報告されている。また、前日に神奈川県三崎港に水揚げされたイワシの体内には、通常の5倍の量の底着生プランクトンがあった[32]。
・宮沢賢治は地震発生の4日後、大木実へのはがきで「被害は津波によるもの最多く海岸は実に悲惨です」と記した[33]。また宮沢賢治が生まれたのは1896年(明治29年)で、明治三陸地震の2ヶ月後のことであり、同時に宮沢は地震の半年後の9月21日に亡くなっている[33]。
・寺田寅彦は『津波と人間』で、最初のうちは津波研究・対策が行われるだろうが、やがてその世代は去って忘れられてしまうので、地震津波教育をしない限り災禍は繰り返されると記した[34]。
1974年 – トルコ航空DC-10パリ墜落事故が発生。死亡346人全員。
1991年 – ユナイテッド航空585便墜落事故が発生。死亡25人全員。
2023年 – 大江健三郎[12]、小説家(* 1935年)逝去88歳。
大江 健三郎(おおえ けんざぶろう、1935年〈昭和10年〉1月31日 – 2023年〈令和5年〉3月3日)は、日本の小説家。昭和中期から平成後期にかけて活躍した現代日本文学を代表する作家の一人である。愛媛県喜多郡大瀬村(現:内子町)出身。
東京大学文学部仏文科卒。学生作家としてデビューして、大学在学中の1958年、短編小説「飼育」により当時最年少の23歳で芥川賞を受賞。新進作家として脚光を浴びた[4]。
新しい文学の旗手として、豊かな想像力と独特の文体で、現代に深く根ざした作品を次々と発表していく[5]。1967年、代表作とされる[6]『万延元年のフットボール』により歴代最年少[7]で谷崎潤一郎賞を受賞した。
1973年に『洪水はわが魂に及び』により野間文芸賞、1983年に『「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち』により読売文学賞(小説賞)など多数の文学賞を受賞。1994年、日本文学史上において2人目のノーベル文学賞受賞者となった。
核兵器や天皇制などの社会的・政治的な問題、知的な障害をもつ長男(作曲家の大江光)との共生、故郷である四国の森のなかの谷間の村の歴史や伝承といった主題を重ね合わせた作品世界を作り上げた[8][9]。
上記以外の主な作品に『芽むしり仔撃ち』『個人的な体験』『同時代ゲーム』『新しい人よ眼ざめよ』『懐かしい年への手紙』『燃えあがる緑の木』『取り替え子(チェンジリング)』『水死』などがある[10]。
戦後民主主義の支持者を自認し、国内外における社会的な問題への発言を積極的に行っていた。
チャットgpt先生の3月3日のエッセイ
3月3日という日は、ひな祭りのやわらかな色彩とは裏腹に、日本の歴史のなかで幾度も大きな記憶を刻んできた日でもある。
平安後期の1105年、奥州にあって独自の理想郷を築こうとした藤原清衡が平泉に中尊寺を建立した。戦乱の果てに立てられたその寺は、争いの記憶を超えて、祈りによって土地を鎮めようとする意志の象徴だった。北の大地に黄金文化を花開かせた奥州藤原氏の出発点が、3月3日であったことは印象深い。破壊の後に、祈りを置く。その姿勢は時代を超えて響く。
1921年の同じ日には、後に昭和天皇となる皇太子裕仁親王が欧州へと旅立った。日本の皇太子として初のヨーロッパ訪問。第一次世界大戦後の世界を自らの目で見るための半年間だった。その体験は、のちに激動の時代を担う天皇の視野に少なからぬ影響を与えただろう。海を渡る若き皇太子の胸中には、期待と不安、そして新しい時代への予感が去来していたに違いない。
しかし3月3日は、祝祭よりもむしろ「警鐘」として記憶される側面も持つ。1933年、昭和三陸地震が発生し、大津波が三陸沿岸を襲った。桃の節句の未明、眠りの中を襲った海。明治の三陸地震と重なる記憶から、人々は「節句の厄日」と恐れたという。
物理的な被害だけではない。自然の猛威は、人の記憶のあり方も試す。物理学者の寺田寅彦は『津波と人間』で、災害の教訓はやがて忘れられる、と警告した。研究も対策も、世代が去れば風化する。教育として刻み続けなければ、災禍は繰り返される、と。これは1933年だけでなく、現代にも向けられた言葉である。
1974年のトルコ航空機墜落事故、1991年のユナイテッド航空機事故もまた、空の安全に対する過信を揺さぶった。技術が進歩しても、人は自然や偶然の前で決して万能ではない。だからこそ、失敗の記録を残し、語り継ぐことが文明の責務となる。
そして2023年3月3日、作家の大江健三郎が世を去った。核、戦争、天皇制、障害をもつ長男との共生――常に時代の核心に触れる主題に向き合い続けた作家だった。1994年、日本で二人目となるノーベル文学賞受賞者となった彼は、戦後民主主義の理念を問い直しながら、日本という国の精神の深層を掘り続けた。
大江の作品には、「忘却」との闘いが通奏低音のように流れている。歴史の暴力も、個人の苦悩も、見ないことにすれば楽になる。しかし、それでは世界はよりよい方向へは進まない。言葉によって記憶を引き受けること。それが文学の役割だと、彼は示した。
3月3日。
華やかな雛人形の背後で、祈りがあり、旅立ちがあり、津波があり、問い続ける文学がある日。
春は、ただ暖かいだけの季節ではない。過去を思い起こし、未来への責任を確かめる季節でもあるのだろう。
桃の花のほのかな紅の下で、私たちは何を忘れずにいるべきか。
3月3日は、静かにそれを問いかけている。

