kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日5月1日  1898マニラ湾開戦ほか、写真wikipedia米艦隊対スペイン艦隊

5月1日

20260501金曜日旧暦3月15日大安(12番乙亥きのといイツガイ)月齢 13.6

43番丙午ひのえうま年 29番壬辰みずのえたつ月 12番乙亥きのとい日

吉方位 陽遁日 乙亥きのとい日 南 大吉 年末まであと244日

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5月1日の出来事
1557年(弘治3年4月3日) – 防長経略: 大内義長が毛利元就に攻められて自害し、大内氏が滅亡。
1837年(天保8年3月27日) – 大塩平八郎の乱: 大塩平八郎が自害。
1877年 – 佐野常民と大給恒が西南戦争負傷者の救護のために博愛社(日本赤十字社の前身)を創設[2]。
1898年 – 米西戦争: マニラ湾海戦。戦争:米西戦争 年月日:1898年5月1日 場所:フィリピン・マニラ湾 結果:アメリカ合衆国の完勝 損害:スペイン軍 死傷者381名、全艦喪失。

1945年 – ヒトラーの遺書によって前日にドイツ国首相に任命されたヨーゼフ・ゲッベルスが、愛児を殺害した後に妻マクダとともに自殺。

1945年-沖縄戦5月1日-米軍:・第5海兵隊がまだ前線に移動中の4月30日と5月1日、第1海兵師団のほうでは南進を試みたが、かえって、毎日、反撃をくらい、かなりの人命の損失を出すような始末だった。5月1日には、一中隊だけで24名も戦死者を出した。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 278頁より》・第27師団の右翼の方では、5月1日、第307連隊第3大隊が仲間村落を攻め、そこから学校のほうに向かって進撃をつづけていた。ところが、この作戦中、日本軍の砲弾が後方の弾薬集積所に落ち、大爆発音とともに一瞬にして5名が戦死し—。・第32連隊の第1大隊は、前線交替後、後方陣地にひきあげるとき日本軍と衝突したが、この戦闘で11名が戦死し、22名を負傷。/日本軍:八原作戦参謀は総攻撃計画は「無意味な自殺的攻撃」であると進言する。・防衛召集の対象は、17歳から45歳までの男子であるが、実際には軍から要求された人数をそろえるために13歳ぐらいから60歳ぐらいまで召集され、病人も例外ではなかった。肩の骨を折っていながら召集され、竹槍訓練もやらされた例すらあった。<林博史「沖縄戦における軍隊と民衆―防衛隊にみる沖縄戦」1987年> 徴用された防衛隊員約25,000人のうち、半数以上の約13,000人が戦死する。

1960年 – U-2撃墜事件。ソ連が、自国領空内でアメリカ偵察機U-2を撃墜。

1963年 – 埼玉県狭山市で女子高校生が行方不明に、夜半に脅迫状が発見され誘拐事件に発展(狭山事件)。

2000年 – 豊川市主婦殺人事件。17歳少年が主婦殺害[10]。

2019年 – 天皇明仁が前日の4月30日に退位し、皇太子徳仁親王が1日午前0時、新天皇に即位した。天皇の退位等に関する皇室典範特例法に基づく代替わりで、元号は平成から令和に改元。天皇の譲位は202年ぶり[14]。(明仁から徳仁への皇位継承)

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1557年(弘治3年4月3日) – 防長経略: 大内義長が毛利元就に攻められて自害し、大内氏が滅亡。

防長経略と最期

功山寺墓地にある、大内義長の墓といわれる宝篋印塔
弘治元年(1555年)、晴賢が毛利元就との厳島の戦いで敗死すると、大内義興の外孫とはいえ外様出身で、一度解消された経緯のある養子だった義長の求心力は低く、ただでさえ晴賢の謀反やその他の内訌で弱体化していた家臣団は完全に崩壊し、大内家は急速に衰退していく。

義長は兄・義鎮に援軍を求めたが、義鎮は元就との間に大内領分割の密約を結んでいたために応じなかった。また義鎮は大内家の家督に興味を示さず、何ら野心の無い事を元就に約していたという[7]。

こうして後背の安全を得た毛利氏は防長経略で弘治3年(1557年)3月、山口へ侵攻。義長は寡兵をもってよく防戦したが、高嶺城を放棄し重臣・内藤隆世の長門且山城へ敗走した。しかし、すぐに毛利軍の福原貞俊により且山城を包囲され、隆世は義長の助命を条件に開城し、自刃した。義長も長門長福院(現在の功山寺)に入った後に毛利軍に囲まれて自刃を強要され、4月3日に陶鶴寿丸(晴賢の末子とされる)らと共に自害した[7]。享年26。辞世の句は「誘ふとて 何か恨みん 時きては 嵐のほかに 花もこそ散れ」。

義長の死により、西国の名門大内氏は滅亡したが、後に大内輝弘が大友氏の支援を受けて周防に上陸し、大内氏再興を試みている(大内輝弘の乱)。また、早くから分かれた傍流の山口氏が江戸時代に大名として存続した。

1837年(天保8年3月27日) – 大塩平八郎の乱: 大塩平八郎が自害。
1877年 – 佐野常民と大給恒が西南戦争負傷者の救護のために博愛社(日本赤十字社の前身)を創設[2]。
1898年 – 米西戦争: マニラ湾海戦。戦争:米西戦争 年月日:1898年5月1日 場所:フィリピン・マニラ湾 結果:アメリカ合衆国の完勝 損害:スペイン軍 死傷者381名、全艦喪失。

マニラ湾海戦(マニラわんかいせん、Battle of Manila Bay, Batalla de Cavite)は、アメリカ合衆国とスペイン帝国が戦った米西戦争中に起きた海戦の一つ。フィリピン方面における艦隊決戦で、スペイン帝国の太平洋艦隊はこの戦いによって壊滅した。

1945年 – ヒトラーの遺書によって前日にドイツ国首相に任命されたヨーゼフ・ゲッベルスが、愛児を殺害した後に妻マクダとともに自殺。

ゲッベルス

パウル・ヨーゼフ・ゲッベルス(ドイツ語 : Paul Joseph Goebbels De-Paul Joseph Goebbels.oga 発音[ヘルプ/ファイル]、1897年10月29日 – 1945年5月1日)は、ドイツの政治家。

ナチ党政権下では国民啓蒙・宣伝大臣を務め、強制的同一化を推進した。

第一次世界大戦後に政治活動を開始し、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)における左派の中心人物の一人となったが、その後はアドルフ・ヒトラーに接近し、第3代宣伝全国指導者を勤めてナチスのプロパガンダを積極的に広め、ナチ党の勢力拡大に貢献した。第二次世界大戦の敗戦の直前、ヒトラーの遺書(英語版)によってドイツ国首相に任命されるが、自らの意志でそれに背き、ヒトラーの後を追って家族とともに自殺した。

「ゲッペルス」は誤記。

マクダ・ゲッベルス

ヨハンナ・マリア・マクダレナ・ゲッベルス(Johanna Maria Magdalena Goebbels、1901年11月11日 – 1945年5月1日)は、ナチス・ドイツの宣伝相、ヨーゼフ・ゲッベルスの妻。

いわゆる第三帝国の掲げる理想を具現化した母親像として宣伝に加担した。第二次世界大戦の末期、ソビエト赤軍がベルリンに侵攻した際(ベルリン市街戦)、夫ヨーゼフとの間に生まれた6人の子供達を殺害し自殺した。

1945年-沖縄戦5月1日-米軍:・第5海兵隊がまだ前線に移動中の4月30日と5月1日、第1海兵師団のほうでは南進を試みたが、かえって、毎日、反撃をくらい、かなりの人命の損失を出すような始末だった。5月1日には、一中隊だけで24名も戦死者を出した。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 278頁より》・第27師団の右翼の方では、5月1日、第307連隊第3大隊が仲間村落を攻め、そこから学校のほうに向かって進撃をつづけていた。ところが、この作戦中、日本軍の砲弾が後方の弾薬集積所に落ち、大爆発音とともに一瞬にして5名が戦死し—。・第32連隊の第1大隊は、前線交替後、後方陣地にひきあげるとき日本軍と衝突したが、この戦闘で11名が戦死し、22名を負傷。/日本軍:八原作戦参謀は総攻撃計画は「無意味な自殺的攻撃」であると進言する。・防衛召集の対象は、17歳から45歳までの男子であるが、実際には軍から要求された人数をそろえるために13歳ぐらいから60歳ぐらいまで召集され、病人も例外ではなかった。肩の骨を折っていながら召集され、竹槍訓練もやらされた例すらあった。<林博史「沖縄戦における軍隊と民衆―防衛隊にみる沖縄戦」1987年> 徴用された防衛隊員約25,000人のうち、半数以上の約13,000人が戦死する。

八原高級参謀の回想:

… 軍司令官が「八原ちょっと来い」と言われる。沈黙しておられる参謀長の傍らを通り過ぎて軍司令官の前に立った。司令官は膝組んだまま、いままでにない沈痛な態度で、「貴官は攻勢の話が出るたびに反対し、また吾輩が攻勢に決心したのちも、浮かぬ顔をして全体の空気を暗くする。すでに軍は全運命を賭けて攻勢に決したのである。攻撃の気勢を殺ぐようなことはないよう」と申し渡された。(268頁)

… 私は後にも先にも、将軍から叱責の言葉を頂戴したのは、実にこのときだけである。瞬時にして私は全般の空気より判断し、軍参謀長が司令官に策動されたものと察した。私は言が過ぎると思ったが、暗に参謀長も聞いておられることを意識しつつ、

「私は失敗必定の攻撃の結果を思うと、つい憂鬱にならざるを得ません。今回の攻撃が成功するやに考える者が多いようですが、おそらく数万の将兵は、南上原の高地にも手をかけ得ず、幸地付近を血に染めて死んでいくでしょう。これは、無意味な自殺的攻撃に過ぎぬものと思います。しかし、すでに閣下がご決心になったことでありますので、私としては、もちろん、その職責に鑑み、全力を尽くしております。また私の態度については、今後十分注意いたします」とお答えした。

将軍は私の暴言に怒られた様子もなく、「もちろん玉砕攻撃である。吾輩も、最後には軍刀を振るって突撃する考えである」と言葉静かに申された。

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 268、270頁より》

1960年 – U-2撃墜事件。ソ連が、自国領空内でアメリカ偵察機U-2を撃墜。

1963年 – 埼玉県狭山市で女子高校生が行方不明に、夜半に脅迫状が発見され誘拐事件に発展(狭山事件)。

2000年 – 豊川市主婦殺人事件。17歳少年が主婦殺害[10]。

2019年 – 天皇明仁が前日の4月30日に退位し、皇太子徳仁親王が1日午前0時、新天皇に即位した。天皇の退位等に関する皇室典範特例法に基づく代替わりで、元号は平成から令和に改元。天皇の譲位は202年ぶり[14]。(明仁から徳仁への皇位継承)

チャットgpt先生の5月1日のエッセイ

5月1日という日付を眺めると、そこに通底しているのは「終わり方の現実」だ。理念や大義ではなく、最終局面で人間や組織がどう振る舞うか、その剥き出しの姿が並んでいる。

戦国期の防長経略での大内義長の最期は、典型的な「求心力を失った権力」の崩壊だ。外様出身で、内部抗争を経た家中をまとめきれず、最後は包囲されて自害。ここには忠義や美談よりも、組織の結束が崩れたときの脆さがある。裏切りや静観も含め、合理的な選択が積み重なった結果、名門は消えた。

江戸後期の大塩平八郎の乱も似ている。理想を掲げた蜂起は短期間で瓦解し、指導者である大塩平八郎は自害に追い込まれる。構想の正しさと実行力は別問題であり、動員・補給・持続力の差が結果を決めるという、冷たい現実だけが残る。

対外戦争に目を向ければ、マニラ湾海戦は逆に、圧倒的優位がいかに短時間で決着を生むかを示す。アメリカ艦隊はスペイン艦隊をほぼ一方的に壊滅させた。ここでは戦術や精神論より、訓練・装備・指揮統制の総合力が結果を決めている。近代戦において「差」はそのまま「時間」に変換され、敗者の選択肢を奪う。

しかし同じ近代戦でも、沖縄戦は別の様相を見せる。米軍は圧倒的な物量、制海権・制空権、補給能力を持ちながら、島の南部で想定以上の損害と停滞に直面した。ここでの日本側、特に八原博通らが構築した持久戦は、「勝つため」ではなく「負け方を遅らせる」戦略だった。洞窟陣地、分散配置、徹底した防御は、攻撃側に時間と損耗を強いる。

リアリストに見るなら、これは英雄的抵抗でも無謀な突撃でもない。「戦略的に敗北が確定している側が、いかにコストを相手に転嫁するか」という問題設定への回答だ。結果として米軍は、火力優勢にもかかわらず地上戦で消耗し、進撃速度は鈍化した。一方で、その代償は兵士だけでなく民間人にも広く及んだ。ここに理想はない。あるのは、国家と軍が極限状態で選ぶ“配分”の現実だ。

同じ日のヨーロッパでは、ヨーゼフ・ゲッベルスが家族とともに自殺している。アドルフ・ヒトラーの死後に政権を引き継ぐ立場にありながら、それを放棄した行動は、体制崩壊時のエリートの一つの選択だ。責任の継続よりも、物語の完結を優先する。この種の終わり方は、歴史上繰り返し現れる。

冷戦期のU-2撃墜事件になると、戦争は「起きない形」での衝突に変わる。撃墜そのものよりも、その後の外交的応酬や情報戦が本体であり、武力はメッセージの一部に過ぎない。ここでも本質は同じで、どれだけ相手にコストや不確実性を与えられるかという競争だ。

そして現代日本にとっての5月1日は、明仁から徳仁への皇位継承に象徴されるように、「制度としての安定した交代」が前面に出る。かつてのような流血や内戦ではなく、法制度と合意によって権威が移行する。この違いもまた、長い時間をかけて蓄積された“コスト管理”の結果と言える。

こうして並べると、5月1日は偶然の集合ではなく、「終局面における意思決定の標本集」のように見えてくる。崩壊する組織、短期決戦で勝敗が決まる戦争、長期消耗戦に持ち込む側の計算、体制の最期を自ら閉じる指導者、直接戦闘を避けつつ圧力をかけ合う国家、そして制度化された平和的移行。

どの事例にも共通するのは、理想ではなく制約条件の中での選択だ。資源、時間、情報、そして人命。それらをどう配分するかで、終わり方は決まる。5月1日は、その現実を静かに並べている。