6月7日
20250607土曜日旧暦5月12日仏滅(丁未ひのとひつじテイビ)月齢 10.9
乙巳きのとみ年壬午みずのえうま月丁未ひのとひつじ日 年末まであと207日
吉方位 陽遁日 丁未ひのとひつじ日 北東 大吉
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6月7日の出来事
1099年 – 第1回十字軍: エルサレム攻囲戦 が始まる。年月日:1099年6月7日 – 7月15日
場所:エルサレム
結果:十字軍の勝利
損害:十字軍 13500人中 戦死1000人 ファーティマ朝 守備隊1000人 死亡守備隊全滅1000人戦死 市民40000人被虐殺死。
1494年 – スペインとポルトガルの間でトルデシリャス条約が締結。新大陸における両国の境界を定める。
1868年(明治元年閏4月17日) – 明治政府が、長崎・浦上で発見されたキリシタンを流罪にする。(浦上四番崩れ)
1921年 – 九州全域で豪雨。大分県内だけでも死者約200人[5]。
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1099年 – 第1回十字軍: エルサレム攻囲戦 が始まる。年月日:1099年6月7日 – 7月15日
場所:エルサレム
結果:十字軍の勝利
損害:十字軍 13500人中 戦死1000人 ファーティマ朝 守備隊1000人 死亡守備隊全滅1000人戦死 市民40000人被虐殺死。
エルサレム攻囲戦(エルサレムこういせん、英: Siege of Jerusalem)は、1099年6月7日から7月15日まで、聖地エルサレムを舞台に戦われた、第1回十字軍の主要な攻城戦の一つ。最終的には十字軍がファーティマ朝軍を破り、聖地を占領することに成功した。
虐殺
ムスリム
エルサレムの征服
エルサレムの陥落。19世紀フランスの画家 Emil Signol による。1. は聖墳墓教会、2. は岩のドーム、3. は城壁。
ムスリムの市民の多くは、アル=アクサー・モスク、岩のドーム、神殿の丘などに逃げた。『ゲスタ・フランコルム』は神殿の丘周辺についてしか述べていないが、次のように殺戮の様を描く。
…(われらの兵は)ソロモンの神殿でも殺して斬っていった。神殿ではあまりにも殺した数が多かったので、われらの兵は足首まで血に浸かって歩いた…
レーモン・ダジールも神殿の丘周辺についてしか言及していないが、こう書く。
ソロモンの神殿でもソロモンの玄関でも、騎馬の兵は膝や手綱まで血に浸かって歩いた。
神殿では1万人が殺された。たしかに、もしそなたがそこにおれば、そなたは我らの足はくるぶしまで殺した者らの血の色になっているのを見たであろう。しかしこれ以上何を語るべきであろう。彼らのだれも生き残らなかった。女も子供も容赦はされなかった。[6]
このような神殿の丘での殺戮は、時として市全体の人口の殺戮にまで膨らまされる場合もある。しかし神殿の丘以外での状況については大殺戮についての目撃証言は残っていない。『ゲスタ・フランコルム』によれば命を容赦された者もいたようである。
異教徒たちが打ち負かされると、われらの兵は大勢を捕らえた。男も女もおり、彼らの望みに応じて殺したり捕らえたままにしたりした。[7]
後に書かれた別の文献では次のようにあり、神殿の丘以外でも殺戮のあったことが示唆されている。
(我らの指導者は)すさまじい悪臭のため、サラセン人の死体をすべて外へ捨てるよう命じた。全市が死体で埋め尽くされていたためである。生き残ったサラセン人は死体を市門の出口の前まで引きずり、馬の死体かのように積み上げた。誰も異教徒に対するこのような殺戮を見たことも聞いたこともなかった。死体の山々はピラミッドのように見え、死者の数は神のみぞ知ることであろう。しかしレーモンはエミールと、共にいた者たちについては、アスカロンへ無傷で逃げることを許した。[8]
その場にいたレーモン・ダジールも、ダビデの塔に立て篭もっていた者らにレーモンが降伏を薦め、保護したことを書いている[9]。これらの者たちは、司令官イフティハールらとともにアスカロンへ退去することができた[10]。ムスリムの歴史家イブン・アル=アシールも、エルサレムが陥落し略奪を受けている最中のこの出来事について書いている。
ムスリムの一団はミフラブ・ダウード(ダビデの塔)に立て篭もって数日間戦った。彼らは降伏の代わりに命は許された。フランクたちは約束を守り、夜にアスカロンへ出発させた。
カイロ・ゲニザの一つは、このときにユダヤ人の住民の一部がイフティハール・アッ=ダウラらとともにアスカロンへ脱出したことを伝えている[11]。
タンクレードは神殿の丘地区を自らの管理下とし、その場のムスリムの命を救ったと主張している。彼はモスクの屋根に逃れたムスリムらの安全を保証するため、持っていた軍旗を彼らに渡したという。しかし、他の十字軍の兵士らが結局彼らを殺すことを止めることはできなかった。
1494年 – スペインとポルトガルの間でトルデシリャス条約が締結。新大陸における両国の境界を定める。
すでに1481年に布告された教皇シクストゥス4世の回勅『エテルニ・レギス』(永遠の王)で、カナリア諸島以南の新領土はすべてポルトガルに与えられると定められていた。ところが1493年になるとスペイン出身であった教皇アレクサンデル6世が自国に便宜をはかろうとし、カーボベルデの西わずか100レグアの地点を通過する子午線を境界線(教皇子午線)に、それより東側はポルトガルに優先権を認めるにせよ、西側の土地はすべてスペイン領にするという回勅『インテル・チェテラ』を布告した。西方への航海熱が高まっていた時代、当然ポルトガルのジョアン2世にとってこの裁定は面白くなかった。
そこでジョアン2世はスペインのフェルディナンド2世と直接交渉し、1494年に教皇子午線からさらに西に270レグア進んだ子午線を境界線とするトルデシリャス条約を締結した。1506年にはアレクサンデル6世の次の教皇、ユリウス2世による確認を受け、この取り決めは教皇庁にも認められることになる。[7]
スペインはこの条約のおかげでアメリカ大陸の全域で優先権を持つことができた。ただ、現在のブラジルにあたる領土は1500年にペドロ・アルヴァレス・カブラルが到達したため、ポルトガルに与えられた。この条約はアジアにも適用されると考えられていたが、経度の厳密な測定が困難だったこの時代にはアジアにはどのように適用されるのかよくわからず、再度の論争が起こることになった。ただ、この条約についてスペインもポルトガルも過度にこだわった様子はなく、アメリカ大陸にポルトガルが植民活動をおこなうことをスペインも黙認している。
フランス、イギリス(イングランド)、オランダといった国々はこの条約によって領土獲得の優先権から締め出される形となった。この状況を打破するには、スペインやポルトガルの船団に対して海賊行為をおこなうか、(このころはまだ難しかった)教皇の決定を無視するかという選択肢しかなかった。こうして新領土獲得から締め出された国々の心情は、フランソワ1世のものとされる「(新領土から締め出される根拠とされた)アダムの意志とはいったい何か?」という言葉によくあらわされている。
1868年(明治元年閏4月17日) – 明治政府が、長崎・浦上で発見されたキリシタンを流罪にする。(浦上四番崩れ)
浦上四番崩れ(うらかみよばんくずれ)は、現在の長崎市の浦上地区で江戸時代末期から明治時代初期にかけて起きた大規模な隠れキリシタン(キリスト教徒。当時のキリスト教は禁教であり犯罪行為であった)の摘発事件である。長崎で江戸時代中期から4度にわたって発生したキリシタン弾圧事件浦上崩れの4度目。
発端
1864年(元治元年)、日仏修好通商条約に基づき、居留するフランス人のため長崎の南山手居留地内にカトリック教会の大浦天主堂が建てられた。主任司祭であったパリ外国宣教会のベルナール・プティジャン神父は信徒が隠れているのではないかという密かな期待を抱いていた。そこへ1865年4月12日(元治2年3月17日)、浦上村の住民数名が訪れた。その中の1人でイザベリナと呼ばれた「ゆり(後に杉本姓)」という当時52歳の女性がプティジャン神父に近づき、「ワレラノムネ(宗)アナタノムネトオナジ」(私たちはキリスト教を信じています)「サンタ・マリアの御像はどこ?」とささやいた。神父は驚愕した。これが世にいう「信徒発見」である。彼らは聖母マリアの像を見て喜び、祈りをささげた。神父は彼らが口伝で伝えた典礼暦を元に「カナシミセツ」(四旬節)を守っていることを聞いて再び驚いた。以後、浦上のみならず、外海、五島、天草、筑後今村などに住む信徒たちの指導者が続々と神父の元を訪れて指導を願った。神父はひそかに彼らを指導し、彼らは村に帰って神父の教えを広めた。
しかし、2年後の1867年(慶応3年)、浦上村の信徒たちが仏式の葬儀を拒否したことで信徒の存在が明るみに出た。この件は庄屋によって長崎奉行に届けられた。信徒代表として奉行所に呼び出された高木仙右衛門らははっきりとキリスト教信仰を表明したが、逆に戸惑った長崎奉行はいったん彼らを村に返した。その後、長崎奉行の報告を受けた幕府は密偵に命じて浦上の信徒組織を調査し、7月14日(6月13日)の深夜、秘密の教会堂を幕吏が急襲したのを皮切りに、高木仙右衛門ら信徒ら68人が一斉に捕縛された。捕縛される際、信徒たちはひざまずいて両手を出し、「縄をかけて下さい」と述べたため、抵抗を予想していた捕手側も、信徒側の落ち着き様に怯んだと伝えられている。捕縛された信徒たちは激しい拷問を受けた。
翌日、事件を聞いたプロイセン公使とフランス領事、さらにポルトガル公使、アメリカ公使も長崎奉行に対し、人道に外れる行いであると即座に抗議を行った。9月21日(8月24日)には正式な抗議を申し入れたフランス公使レオン・ロッシュと将軍徳川慶喜が大坂城で面会し、事件についての話し合いが行われた。
帰郷
1873年(明治6年)2月24日、日本政府はキリスト教禁制の高札を撤去し、信徒を釈放した。配流された者の数3394名、うち662名が命を落とした。生き残った信徒たちは流罪の苦難を「旅」と呼んで信仰を強くし、1879年(明治12年)、故地・浦上に聖堂(浦上天主堂)を建てた[4]。
1921年 – 九州全域で豪雨。大分県内だけでも死者約200人[5]。
チャットgpt先生の6月7日のエッセイ
6月7日 ― 歴史の交差点に立つ日
6月7日という一日は、私たちにとって平凡な土曜日かもしれない。しかし、歴史の眼差しから眺めると、この日は世界のあちこちで人類の光と闇が交錯した「記憶の交差点」であることに気づく。
1099年6月7日――第1回十字軍による「エルサレム攻囲戦」が始まった日。十字軍という言葉には、聖地を奪還せんとする神聖な響きが込められているかのように思えるが、実際には神の名を冠した戦争の狂気が全開した日でもあった。エルサレムの城壁を越えた兵士たちは、敵兵ばかりでなく、女も子どもも容赦なく斬り伏せ、街中が死臭に覆われたという。足首まで血に浸かったという記述に、私たちはただ言葉を失うしかない。信仰とは、命を救うものではなかったのか。祈りの場であるべき神殿が、血の海となったこの歴史は、現代に生きる私たちにも痛切な問いを投げかける。
1494年のこの日には、スペインとポルトガルが「トルデシリャス条約」を結び、新大陸を分け合った。世界がまだ「知られていなかった」時代、ヨーロッパの2国が地図に定規をあて、あたかも神のように世界を分割していった日でもある。そこには、先住民の声も、文化も、歴史も含まれていなかった。ここでもまた「神の代理人」を名乗る者たちが、人の暮らしを越えて線を引いた。やがてこの線は、植民地という名の支配と搾取の幕を上げることになる。
1868年6月7日(閏4月17日)、日本では「浦上四番崩れ」により、長崎・浦上のキリシタンが流罪にされた。3000人を超える人々が、信仰のゆえに家を追われ、拷問を受け、命を落とした。近代化へと舵を切るその影で、「違うことを信じる」という行為が、犯罪とされた。だが彼らは沈黙しなかった。「サンタ・マリアの御像はどこ?」と祈る声は、宗教弾圧の時代に静かに燃え続けた信仰の灯火である。
そして1921年、九州を襲った豪雨は自然の猛威を示した日。人の作る争いや条約とは無関係に、自然は容赦なく命を奪い、大地を呑み込む。近代化のさなかにあっても、人間は自然の前ではいかに無力であるかを思い知らされた。
このように6月7日は、剣を取り祈りを踏みにじった日でもあり、祈りによって耐え抜いた日でもあり、自然に膝をついた日でもある。過去の出来事は終わったことではない。それらは私たちの足元で静かに脈を打っている。6月7日が、単なるカレンダーの一日ではなく、「人間とは何か」「信じるとはどういうことか」を問い直す契機であることを、今年もまた思い出したい。
そう、歴史とは、遠くで起こった物語ではない。私たち自身の物語なのだ。