4月28日
20260428火曜日旧暦3月12日友引(9番壬申みずのえさるジンシン)月齢 10.6
43番丙午ひのえうま年 29番壬辰みずのえたつ月 9番壬申みずのえさる日
吉方位 陽遁日 壬申みずのえさる日 東 大吉 年末まではあと247日
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4月28日の出来事
1708年(宝永5年3月8日) – 京都で大火(宝永の大火)。約1万4,000軒が焼失。
1916年 – 八幡製鐵所の上水道貯水池(下大谷貯水池)が崩壊。死者・行方不明者13人以上、浸水家屋約1500戸[2]。
1945年-沖縄戦4月28日米軍の部隊交替ほか・米軍視点:・米軍は、首里の攻防で消耗した米陸軍を北部掃討戦に配備されている米海兵隊と段階的に交代させることを決定。・4月の末日までには、前線の部隊交替は、日本軍の陣地が頑強で、しかも早急には陥落しそうにもないことから、どうしても必要だった。第96師団は、沖縄上陸のときから、すでに師団としては十分な兵力をもっていなかったが、戦闘でさらに大きな損害をこうむっていた。そのためどうしても休養が必要であり、また他部隊と入れ替わる時間も必要だった。
《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 276頁より》・4月28日、第381歩兵連隊のK中隊は、浦添丘陵の日本軍の抵抗を弱めようと、第27師団の作戦地区を西方に進み、仲間村落を通って南西を攻撃し、校舎のほうに進んでいった。この校舎は、大きなコンクリートづくりで兵舎として使用されていたもので、日本軍の本部があり、仲間村落と前田村落の中間、丘陵の南側にあった。そこで半時間にわたる白兵戦のすえ、K中隊は多大な損害をうけて撃退され、生き残った兵は、煙幕のもとに退却せざるを得なかった。中隊で使えるものは、いまではわずか24名になってしまった。第381連隊では、K中隊、I中隊とも、多数の死傷者を出したので、ついに両中隊を合併して兵員70名、重機関銃4梃からなる、協力な1個中隊をつくった。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 290-291頁より》・鉄血勤皇隊 肉迫攻撃隊 少年たちの多くも肉片と散る。・前田高地の歩兵第32連隊第2大隊、数日で800人から120人になる。・沖縄戦の最前線で戦った陸軍歩兵第32連隊。山形県、北海道、沖縄県の出身者で編成され、およそ3000人が投入された。5か月にわたる過酷な戦いの中で、将兵の9割が戦死する。<沖縄戦 住民を巻き込んだ悲劇の戦場 ~山形県・歩兵第32連隊~|戦争|NHKアーカイブス>・1945年4月1日に米軍が上陸してからは負傷兵が次々に運び込まれるようになる。麻酔等はすぐに底をつき手術は麻酔無しで行われた。手術の間、患者が暴れないよう押さえること、切断した手足や死体の処分等も ひめゆり学徒の仕事であった。ひめゆり学徒は沖縄師範学校女子部と第一高等女学校の生徒で構成されていた。彼女らは15歳~19歳であり、法的根拠もなく動員された。1945年5月25日に南部撤退命令が出る。そのとき独歩患者(一人で歩ける病人)以外は青酸カリや手榴弾で自決する事を強要された。
1996年 – ポートアーサー事件。オーストラリア・タスマニア州の観光地ポート・アーサーで男が無差別に発砲し、35人が死亡。
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1708年(宝永5年3月8日) – 京都で大火(宝永の大火)。約1万4,000軒が焼失。
宝永の大火(ほうえいの たいか)とは、宝永5年3月8日(1708年4月28日)に、京都で発生した火災。
内容
午の下刻に油小路通三条上ルの銭屋市兵衛宅より出火、南西の風に煽られて被害が拡大し、禁裏御所・仙洞御所・女院御所・東宮御所が悉く炎上、九条家・鷹司家をはじめとする公家の邸宅、寺院・町屋など、西は油小路通・北は今出川通・東は河原町通・南は錦小路通に囲まれた上京を中心とした417ヶ町、10351軒、佛光寺や下鴨神社などの諸寺社などを焼いた。
火災後、「見渡せば京も田舎となりにけり芦の仮屋の春の夕暮」と書かれた落首が市中に貼られた(『元禄宝永珍話』)。火災後、一部の町及び民家が鴨川の東や内野などの郊外に移され、千本通の西側や鴨川の東側まで京都の市街が拡大され、現代に観念される歴史的街並みが形成される契機となった[1][2]。たとえば、二条川東はこの大火後に形成された町と寺院が集まる地域である。
1916年 – 八幡製鐵所の上水道貯水池(下大谷貯水池)が崩壊。死者・行方不明者13人以上、浸水家屋約1500戸[2]。
1945年-沖縄戦4月28日米軍の部隊交替ほか・米軍視点:・米軍は、首里の攻防で消耗した米陸軍を北部掃討戦に配備されている米海兵隊と段階的に交代させることを決定。・4月の末日までには、前線の部隊交替は、日本軍の陣地が頑強で、しかも早急には陥落しそうにもないことから、どうしても必要だった。第96師団は、沖縄上陸のときから、すでに師団としては十分な兵力をもっていなかったが、戦闘でさらに大きな損害をこうむっていた。そのためどうしても休養が必要であり、また他部隊と入れ替わる時間も必要だった。
《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 276頁より》・4月28日、第381歩兵連隊のK中隊は、浦添丘陵の日本軍の抵抗を弱めようと、第27師団の作戦地区を西方に進み、仲間村落を通って南西を攻撃し、校舎のほうに進んでいった。この校舎は、大きなコンクリートづくりで兵舎として使用されていたもので、日本軍の本部があり、仲間村落と前田村落の中間、丘陵の南側にあった。そこで半時間にわたる白兵戦のすえ、K中隊は多大な損害をうけて撃退され、生き残った兵は、煙幕のもとに退却せざるを得なかった。中隊で使えるものは、いまではわずか24名になってしまった。第381連隊では、K中隊、I中隊とも、多数の死傷者を出したので、ついに両中隊を合併して兵員70名、重機関銃4梃からなる、協力な1個中隊をつくった。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 290-291頁より》・鉄血勤皇隊 肉迫攻撃隊 少年たちの多くも肉片と散る。・前田高地の歩兵第32連隊第2大隊、数日で800人から120人になる。・沖縄戦の最前線で戦った陸軍歩兵第32連隊。山形県、北海道、沖縄県の出身者で編成され、およそ3000人が投入された。5か月にわたる過酷な戦いの中で、将兵の9割が戦死する。<沖縄戦 住民を巻き込んだ悲劇の戦場 ~山形県・歩兵第32連隊~|戦争|NHKアーカイブス>・1945年4月1日に米軍が上陸してからは負傷兵が次々に運び込まれるようになる。麻酔等はすぐに底をつき手術は麻酔無しで行われた。手術の間、患者が暴れないよう押さえること、切断した手足や死体の処分等も ひめゆり学徒の仕事であった。ひめゆり学徒は沖縄師範学校女子部と第一高等女学校の生徒で構成されていた。彼女らは15歳~19歳であり、法的根拠もなく動員された。1945年5月25日に南部撤退命令が出る。そのとき独歩患者(一人で歩ける病人)以外は青酸カリや手榴弾で自決する事を強要された。
1996年 – ポートアーサー事件。オーストラリア・タスマニア州の観光地ポート・アーサーで男が無差別に発砲し、35人が死亡。
ポートアーサー事件 (ポートアーサーじけん、The Port Arthur Massacre) とは、1996年4月28日にオーストラリア・タスマニア島の観光地、ポート・アーサーで起こった大量殺人事件である。犯人はマーティン・ブライアント(英語版)で、死者35人、負傷者15人を出した。
概要
1996年4月28日(日曜日)の午後1時半頃に、最初の事件現場となったカフェにマーティン・ブライアントが車に乗って訪れ、当初は外のテーブルに座ってランチを注文して食べていた。食事が終わると店の客に対し「白人ばっかりだ、ジャップは少ないな」と言うと、店内に入り黒いスポーツバッグからAR-15アサルトライフルを取り出して無差別に発砲。わずか90秒の間に20人の死者と12人の重軽傷者を出した。
すぐにブライアントはカフェの駐車場に向かって発砲し、観光バスの運転手や乗客を射殺。さらに別のライフルに持ち替え、自分の車を運転しながら通行人を次々に射殺。そして数百メートル離れたガソリンスタンドに到着するや、そこにいたカップルの女性を射殺し、相手の男性を車のトランクに押し込めて再び運転した。コテージに到着したブライアントは男性を車のトランクから引きずり出して車に火をつけた後、男性と共にコテージに立てこもった。
数百人の警察とマスコミ、野次馬がコテージを取り囲んでいたが、コテージのオーナー夫妻やガソリンスタンドから連れ出された男性の情報が掴めず、コードレスホンの電池切れでブライアントからの連絡はすぐに途絶えた。また、建物の周囲が遮蔽物のまったく無い広い芝生だったこと、コテージの主人が銃のコレクターで屋内には多数の武器があること、電波状態が悪くてスナイパーと指揮所の連絡ができなかったことなどの理由で特殊部隊の突入も見送られ、一夜が過ぎた。
事件の翌朝、コテージから出火するや、ブライアントが飛び出してきて、すぐに取り押さえられた。焼け跡から、オーナー夫妻、ガソリンスタンドから連れ出された男性の遺体が発見された。後にオーナー夫妻とブライアントが知り合いで、彼がカフェに向かう途中ですでに夫妻を射殺していたことが判明した。
チャットgpt先生の4月28日のエッセイ
4月28日という日付を眺めると、共通して浮かび上がるのは「制御不能になった力が、人間の想定を超えて拡大する瞬間」だ。火災でも、戦争でも、暴力事件でも、その構図は驚くほど似ている。
まず、1708年の宝永の大火。出火は一軒の町家にすぎない。しかし当時の京都は木造密集、加えて風。結果として禁裏から町屋まで広範囲が焼け、都市構造そのものが作り替えられる契機になった。重要なのは「大火そのもの」よりも、その後だ。焼失は破壊だが、同時に都市再編の強制的トリガーでもあった。被害は甚大だが、長期的には都市の拡張と再設計を促している。災害は単なる不幸ではなく、構造を更新する圧力として機能する。
1916年の八幡の貯水池崩壊も同じ系統にある。人工構造物は「安全に制御されている前提」で成立しているが、一度破綻すると自然災害と区別がつかない規模で被害が出る。ここでも本質は技術の失敗ではなく、「想定の限界」だ。人間の設計は常に過去のデータに依存するが、破綻はその外側で起きる。
そして1945年、沖縄戦の4月28日。この日の断片的な戦闘記録は、しばしば全体像の中で埋もれるが、むしろ細部に本質がある。アメリカ軍は圧倒的な物量と補給能力を持っていたにもかかわらず、戦闘は「消耗戦」に引きずり込まれている。部隊交替が必要になったという事実自体が、それを示している。
一般に語られる「物量で押し切った戦い」というイメージは、現場レベルではかなり粗い。実際には、陣地化された日本軍に対し、局地戦では繰り返し撃退され、部隊は摩耗し、再編を余儀なくされている。歩兵中隊が数十名規模まで削られるのは、統計上の損耗ではなく「戦術単位の崩壊」に近い。
特に沖縄戦が特異なのは、防御側が合理的勝利ではなく「時間稼ぎと消耗の最大化」に戦略目標を置いていた点だ。これにより、攻撃側は勝利が確定していても損害を回避できない構造に陥る。結果として、米軍にとっては太平洋戦争の中でも極めて高コストな戦闘となった。物量優位があっても、地形・陣地・戦術思想が揃えば、戦場の効率は劇的に悪化する。
さらに現実的に見れば、この戦闘は「軍事」だけで完結していない。住民、学徒、補助戦力が巻き込まれ、戦闘と非戦闘の境界が消える。これは倫理の問題というより、総力戦の構造的帰結だ。制度も準備も不十分なまま人員が投入されると、現場では役割が曖昧化し、結果として最も脆弱な層に負担が集中する。
1996年のポートアーサー事件は、一見するとこれらとは異質だが、やはり「制御の破綻」という点では連続している。個人レベルの暴力でも、適切な抑止が外れた瞬間、短時間で甚大な被害が発生する。90秒で多数の死傷者という事実は、現代社会における「局所的な破壊力」の大きさを示している。
こうして並べると、4月28日は特別な意味を持つ日というより、人間社会の脆弱性が露出した事例の集積に見える。火災、インフラ崩壊、戦争、テロ的暴力。いずれも出発点は小さいか、あるいは制御可能と見なされていた。しかし一度閾値を超えると、被害は指数的に拡大する。
リアリストの視点で見れば、ここから導かれるのは教訓ではなく「前提」だ。
人間の作るシステムは必ず破綻しうる。
優勢な側でも損害は回避できない。
局所的な失敗は、条件が揃えば広域の破壊に転化する。
4月28日は、その前提が具体的な形を取って現れた日付のひとつに過ぎない。

