kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日6月9日 今日という日6月9日  68皇帝ネロ自殺、ほか写真wikipediaセネカとネロ(左)

6月9日

20260609火曜日旧暦4月24日先負(51番甲寅きのえとらコウイン)月齢 23.2

43番丙午ひのえうま年 30番癸巳みずのとみ月 51番甲寅きのえとら日

吉方位 陽遁日 甲寅きのえとら日 北東 中吉 年末まであと205日

https://ja.wikipedia.org/wiki/6%E6%9C%889%E6%97%A5

6月9日の出来事

53年 – 後にローマ皇帝となるネロがオクタウィアと結婚[1]。

62年 – ローマ皇帝ネロの最初の妻だったオクタウィアが処刑される[2]。

68年 – ローマ皇帝ネロが自殺する[3]。30歳。

初代ローマ教皇・ペトロの殉教

初代ローマ教皇・ペトロ。

「Dirce chrześcijańska」『クォ・ヴァディス』(「主よ、どこに行かれるのですか」)における絵画。

初代ローマ教皇・ペトロは、ネロ帝による迫害で殉教した。ペトロは、迫害の激化したローマから逃れ、アッピア街道をゆくと、師のイエスが反対側から歩いてくる。ペトロが「主よ、どこへいかれるのですか?(Domine, quo vadis?)」と問うと、イエスは「あなたが私の民を見捨てるのなら、私はもう一度十字架にかけられるためにローマへ」と答えた。ペトロはそれを聞いて悟り、殉教を覚悟してローマへ戻ったという。しかし、以上の伝承は、『新約聖書』外典である「ペテロ行伝」などに記されたもので、『新約聖書』正典はもちろんその他の信頼できる歴史書にも記載されておらず、史実としては実証されていない。

1281年(弘安4年5月21日) – 元寇: 壱岐・対馬に高麗の兵船が襲来。弘安の役の始まり。

1887年 – 東京浜町の待合の女将・花井お梅が使用人・八杉峰三郎を刺殺。流行歌「明治一代女」などのモデルとなる。

1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 熱田空襲。従業員や動員学徒1,045人が死亡。

1945年-沖縄戦6月9日:米軍:・機動部隊の艦艇は島を包囲し、正規の戦闘体制で先ず艦砲射撃を行い、艦載機で警戒掃射し、東海岸から戦車で歩兵地上部隊と共に上陸を6月9日午前5時決行した。島に抵抗の部隊が皆無であることを知り、全機動部隊約4万人が上陸して来たのである。不意を打たれた村民は生か死かの混乱状態に陥った。食料も蘇鉄より外なく飢餓寸前のこともあった。米軍は上陸するや要所要所に防御陣地を構築し、住民に安堵の念を与え軍兵占部から軍食糧の米や缶詰を配給する等喧撫工作に主力を注いだ。米軍約六ヶ月駐屯して引揚げた。《「粟国村史」 (粟国村村史編纂委員/粟国村) 256-257頁》・上陸数日後、(駐屯軍の) 隊長ペーイン少佐は村長末吉達幸氏と対面して次のように伝達す。… 伊平屋に上陸したら粟国島には日本兵が400人駐屯していると聞いたので4万人上陸させた。<粟国村『粟国村史』アメリカ軍の粟国上陸と終戦処理 (1984年) – Battle of Okinawa>・第7師団のアーノルド少将は、…6月9日の午前7時30分を期して攻撃を開始するよう命令を下した。さしあたってとるべき目標が2つあった。玻名城の95高地と、ごつごつした珊瑚礁の岩山は、フォールトン中佐の率いる第32歩兵連隊第1大隊の責任となり、ウォーレス中佐の率いる第7連隊第3大隊は、安里村落の真北で八重瀬岳のふもとの平地に足場を固めることになった。暁の偵察隊は、95高地の前にある岩山まではなんら邪魔されることなく進撃した。ところが、第3連隊C中隊の攻撃主力が100メートルも進撃すると、日本軍は激しい抵抗を示してきた。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 471-472頁より》・こうして、6月9日の午後1時半までに、K中隊は八重瀬岳の南東端を確保することができた。その夜、日本軍は少人数ながらも決死の3個小隊が、手榴弾戦の合間を利用してI中隊に対して3回も反撃してきた。I中隊はこれを軽機関銃や自動小銃で迎えうち撃退した。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 473頁より》:日本軍:・9日、沖根の陣地は直径2キロ余の小さな円に狭められ、米軍の猛攻は四方からこの狭い地域に集中した。74高地の西・数百メートル、…司令部医務隊壕にも、馬乗りの危機が迫っていた。(434頁)

衛生兵長の証言:

「戦闘で負傷した者や、敵がほとんど夜通し上げている照明弾の灰で火傷した人など、患者は約30人程居ました。そのうち、少なくとも足腰の立つ者、這ってでも歩ける者には肉薄攻撃、つまり肉攻隊への出撃命令が出ました。敵の戦車が通りそうな道路の要所要所に、夜のうちにタコツボ壕を掘っておく。そこへ箱爆雷を持った肉攻隊を潜ませ、敵が現れたら爆雷に点火して飛び込めと言う訳です。そんな陸上特攻に、20名は出ました。私もそのうちの何人かをタコツボへ連れて行きましたが、皆それっきり帰りませんでした。医務隊として誠に辛い任務でした」(434頁)《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三 / 光人社NF文庫) 434頁より》

1950年 – 信越本線・熊ノ平駅で土砂崩れ。死者50人。

2021年 – 韓国光州広域市で解体中の5階建て建物が崩壊。現場に差し掛かったバスが巻き込まれ乗客9人が死亡、8人が重傷[8]。

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53年 – 後にローマ皇帝となるネロがオクタウィアと結婚[1]。

62年 – ローマ皇帝ネロの最初の妻だったオクタウィアが処刑される[2]。

68年 – ローマ皇帝ネロが自殺する[3]。30歳。

初代ローマ教皇・ペトロの殉教

初代ローマ教皇・ペトロ。

「Dirce chrześcijańska」『クォ・ヴァディス』(「主よ、どこに行かれるのですか」)における絵画。

初代ローマ教皇・ペトロは、ネロ帝による迫害で殉教した。ペトロは、迫害の激化したローマから逃れ、アッピア街道をゆくと、師のイエスが反対側から歩いてくる。ペトロが「主よ、どこへいかれるのですか?(Domine, quo vadis?)」と問うと、イエスは「あなたが私の民を見捨てるのなら、私はもう一度十字架にかけられるためにローマへ」と答えた。ペトロはそれを聞いて悟り、殉教を覚悟してローマへ戻ったという。しかし、以上の伝承は、『新約聖書』外典である「ペテロ行伝」などに記されたもので、『新約聖書』正典はもちろんその他の信頼できる歴史書にも記載されておらず、史実としては実証されていない。

1281年(弘安4年5月21日) – 元寇: 壱岐・対馬に高麗の兵船が襲来。弘安の役の始まり。

1887年 – 東京浜町の待合の女将・花井お梅が使用人・八杉峰三郎を刺殺。流行歌「明治一代女」などのモデルとなる。

花井 お梅(はない おうめ、1863年(元治元年) – 1916年(大正5年)12月13日[1])は、幕末から大正時代にかけての女性。芸妓などで生計を立てていたが、1887年(明治20年)に犯した殺人事件が、色々な演芸に脚色され、演じられた。

1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 熱田空襲。従業員や動員学徒1,045人が死亡。

1945年-沖縄戦6月9日:米軍:・機動部隊の艦艇は島を包囲し、正規の戦闘体制で先ず艦砲射撃を行い、艦載機で警戒掃射し、東海岸から戦車で歩兵地上部隊と共に上陸を6月9日午前5時決行した。島に抵抗の部隊が皆無であることを知り、全機動部隊約4万人が上陸して来たのである。不意を打たれた村民は生か死かの混乱状態に陥った。食料も蘇鉄より外なく飢餓寸前のこともあった。米軍は上陸するや要所要所に防御陣地を構築し、住民に安堵の念を与え軍兵占部から軍食糧の米や缶詰を配給する等喧撫工作に主力を注いだ。米軍約六ヶ月駐屯して引揚げた。《「粟国村史」 (粟国村村史編纂委員/粟国村) 256-257頁》・上陸数日後、(駐屯軍の) 隊長ペーイン少佐は村長末吉達幸氏と対面して次のように伝達す。… 伊平屋に上陸したら粟国島には日本兵が400人駐屯していると聞いたので4万人上陸させた。<粟国村『粟国村史』アメリカ軍の粟国上陸と終戦処理 (1984年) – Battle of Okinawa>・第7師団のアーノルド少将は、…6月9日の午前7時30分を期して攻撃を開始するよう命令を下した。さしあたってとるべき目標が2つあった。玻名城の95高地と、ごつごつした珊瑚礁の岩山は、フォールトン中佐の率いる第32歩兵連隊第1大隊の責任となり、ウォーレス中佐の率いる第7連隊第3大隊は、安里村落の真北で八重瀬岳のふもとの平地に足場を固めることになった。暁の偵察隊は、95高地の前にある岩山まではなんら邪魔されることなく進撃した。ところが、第3連隊C中隊の攻撃主力が100メートルも進撃すると、日本軍は激しい抵抗を示してきた。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 471-472頁より》・こうして、6月9日の午後1時半までに、K中隊は八重瀬岳の南東端を確保することができた。その夜、日本軍は少人数ながらも決死の3個小隊が、手榴弾戦の合間を利用してI中隊に対して3回も反撃してきた。I中隊はこれを軽機関銃や自動小銃で迎えうち撃退した。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 473頁より》:日本軍:・9日、沖根の陣地は直径2キロ余の小さな円に狭められ、米軍の猛攻は四方からこの狭い地域に集中した。74高地の西・数百メートル、…司令部医務隊壕にも、馬乗りの危機が迫っていた。(434頁)

衛生兵長の証言:

「戦闘で負傷した者や、敵がほとんど夜通し上げている照明弾の灰で火傷した人など、患者は約30人程居ました。そのうち、少なくとも足腰の立つ者、這ってでも歩ける者には肉薄攻撃、つまり肉攻隊への出撃命令が出ました。敵の戦車が通りそうな道路の要所要所に、夜のうちにタコツボ壕を掘っておく。そこへ箱爆雷を持った肉攻隊を潜ませ、敵が現れたら爆雷に点火して飛び込めと言う訳です。そんな陸上特攻に、20名は出ました。私もそのうちの何人かをタコツボへ連れて行きましたが、皆それっきり帰りませんでした。医務隊として誠に辛い任務でした」(434頁)《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三 / 光人社NF文庫) 434頁より》

1950年 – 信越本線・熊ノ平駅で土砂崩れ。死者50人。

2021年 – 韓国光州広域市で解体中の5階建て建物が崩壊。現場に差し掛かったバスが巻き込まれ乗客9人が死亡、8人が重傷[8]。

チャットgpt先生の6月9日のエッセイ

6月9日という日付を追うと、奇妙なほど「国家や体制が追い詰められた末に何をするか」が繰り返し現れる。

53年、後の皇帝となる ネロ が結婚し、62年には妻 オクタウィア が処刑され、68年には当のネロ自身が自殺する。ローマ帝国史を眺めると、権力者の人格よりも、権力構造そのものの残酷さが見えてくる。皇帝は絶対権力者のように見えても、実際には軍、元老院、宮廷勢力、民衆の支持という不安定な土台の上に立つ危険職でしかない。昨日まで処刑命令を出していた側が、翌日には自ら死を選ぶ立場になる。

伝承上では ペトロ が殉教したともされる。後世はそこに信仰や美談を見出したが、ローマ国家の側から見れば単なる治安維持である。逆にキリスト教共同体の側から見れば国家による弾圧である。歴史の多くは善悪ではなく、異なる組織がそれぞれ合理性を持って衝突した結果として現れる。

1281年の弘安の役も同じだ。モンゴル帝国と高麗王朝の連合軍は日本侵攻を行った。日本史では「神風」が強調されるが、現実には対馬・壱岐で住民は虐殺され、防衛側も侵攻側も徹底的に現実主義だった。海を越える大規模遠征がいかに巨大な兵站と政治的意思を必要とするかを示す事例でもある。

そして6月9日を語る上で最も重いのは、1945年の沖縄戦終盤である。

戦後日本では長くGHQプレスコードの影響もあり、日本軍の残虐性や軍国主義の問題は広く語られた一方、米軍側の行動や戦争そのものの苛烈さについては比較的扱いに偏りがあった時期が存在した。しかしそれを差し引いても、沖縄戦の本質は「善い米軍と悪い日本軍」の物語ではない。

沖縄戦は米軍にとって太平洋戦争最大級の苦戦だった。

米軍は圧倒的な航空優勢、海上優勢、砲兵火力、補給能力を持っていた。それでも沖縄では約12,500名以上の戦死者を出し、負傷者を含めれば数万人規模の損害を被った。これは単なる物量戦ではない。日本軍第32軍は勝利不能を理解した上で、地下陣地網と持久戦によって米軍に最大損害を与える戦略を選択した。

軍事史的に見ると、日本軍は戦略的には敗北していたが、戦術的には極めて手強かった。

米軍は硫黄島でも苦戦したが、沖縄では住民が存在し、市街地や集落があり、補給線も長くなった。さらに日本軍は洞窟陣地を利用し、砲撃後に再び現れる。米軍は制空権も制海権も持ちながら、歩兵が最終的に前進しなければならなかった。

だからこそ、双方の残虐行為もまた構造として理解する必要がある。

例えば米軍に保護された住民や捕虜となった住民に対する報復殺害が存在した事例がある。現代の価値観では明確に犯罪である。しかし戦場の構造で見るならば、日本軍将兵は「情報漏洩によって部隊全体が壊滅する」という恐怖の中にいた。もちろん正当化はできないが、なぜ起きたかは説明できる。

逆に米軍側もまた理想化はできない。沖縄では砲爆撃による膨大な民間人被害が発生し、疑わしい対象への射撃も行われた。戦場で兵士は生存確率を優先する。そこに人道主義だけを期待するのは現実的ではない。

戦争とは人間性が消える場所ではない。

むしろ人間性が組織の論理に従属させられる場所である。

6月9日の記録に残る衛生兵長の証言も象徴的だ。負傷兵を肉薄攻撃に送り出し、自らはそれを見送る。英雄譚ではなく、敗北が確定した軍隊の末期症状である。しかし同時に、それを命じた側も狂人ではなく、自らも追い詰められていた。だから歴史は単純な善悪劇にならない。

同じ6月9日には熱田空襲があり、1950年には熊ノ平駅の土砂崩れがあり、2021年には韓国光州の建物崩壊事故が起きた。

戦争も災害も事故も、後世の人間は意味を探したがる。しかし現実には、巨大な構造と偶然が交差した結果である場合が多い。

6月9日という日は、英雄や聖人の記念日というより、「組織と人間の限界が露出した日」として眺める方が実態に近い。

ローマ皇帝も、元寇の遠征軍も、沖縄戦の日本軍も米軍も、そして戦後の事故の当事者たちも、それぞれの立場では合理的に行動していた。しかし合理性を積み重ねても、歴史はしばしば破局へ向かう。

6月9日の出来事を並べると、人類は二千年近く経過してもなお、権力、恐怖、誤算、補給、情報、組織の論理という同じ条件の中で動いていることが見えてくる。その連続性こそが、この日の歴史の最も冷徹な側面なのかもしれない。