kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日4月29日 1945ヒトラーとエヴァブラウン結婚翌日自裁、ほか写真wikipediaヒトラーとエヴァブラウン

4月29日

20260429水曜日旧暦3月13日先負(10番癸酉みずのととりキユウ)月齢 11.6

43番丙午ひのえうま年 29番壬辰みずのえたつ月 10番癸酉みずのととり日

吉方位 陽遁日 癸酉みずのととり日 南東 大吉 年末まではあと246日

https://ja.wikipedia.org/wiki/4%E6%9C%8829%E6%97%A5

4月29日の出来事
1912年 – 北海道の夕張炭鉱でガス爆発事故が発生。死者269人[1]。

1932年 – 上海天長節爆弾事件。上海の天長節祝賀会場で朝鮮人尹奉吉が爆弾を投げつけ白川義則軍司令官と重光葵公使らが重傷。
1945年 – ベニート・ムッソリーニの銃殺死体がミラノのロレート広場で逆さ吊りにして晒される。
1945年 – アドルフ・ヒトラーとエヴァ・ブラウンが結婚。翌日自殺。

1945年沖縄戦4月29日ニードルロック確保される・米軍目線:4月26日以来から主戦場は第2線 (城間ー屋富祖ー安波茶ー仲間ー前田ー幸地) へ、「ありったけの地獄を一つにまとめた」と米公刊戦史が語る「前田高地の戦い」が続く。前田高地の東側から進行した米軍は、29日、前田高地「ニードルロック」(為朝岩)を確保する。昭和20年(1945)4月26日からおよそ15日間に渡り激しい戦闘が繰り広げられ、日本軍計3000人あまりの犠牲者を出した後、米軍によって攻略された。・米軍は、4月29日に前線を交替するまでに、第381連隊は戦闘能力40パーセントに激減し、損害じつに1201名にのぼった。そのうちの536名は、前田丘陵における4日間の戦闘でなくしたものであった。また、小隊の中には、わずか5名ないし6名しか残らないところもあった。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 291、292頁より》・「ありったけの地獄を一つにまとめた」(註 “all hell rolled into one”) ようなものであった。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 293頁より》・日本軍:4月29日、日本軍は、第一線で天長節を迎えた。前線の兵士たちは、おそらくこの天長節を期して、敵の息の根を止める航空攻撃が行われるだろうと、首をながくしていたが、沖縄の兵士たちの前には、そのような多数の味方機は現れなかった。』(238頁)《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 238頁より》・4月末の苦戦により第32軍司令部のなかに動揺がおきた。このまま持久戦を続けるよりも余力のあるうちに攻勢に出ようという意見がにわかに台頭してきた。中心は参謀長の長勇中将である。第32軍司令官牛島満中将も参謀長の意見に賛成した。牛島は1937年12月、大虐殺をひきおこした南京包囲戦に第36旅団長(熊本の第6師団所属)として参加して、猛烈な追撃戦を指導した人物である。彼も「死中に活を求める」派手な作戦の誘惑にまけた。《新装版「沖縄戦 国土が戦場になったとき」(藤原彰 編著/青木書店) 83頁より》

1975年 – 女優菊容子殺害事件。
1997年 – 湖南省岳陽県の栄家湾駅で旅客列車同士が正面衝突。126人が死亡。
2012年 – 群馬県藤岡市の関越自動車道上り藤岡ジャンクション付近で夜行高速ツアーバスが防音壁に衝突、乗客・乗員46人が死傷。(関越自動車道高速バス居眠り運転事故)

2013年 – ナショナル・エアラインズ102便墜落事故。死亡7人全員。

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1912年 – 北海道の夕張炭鉱でガス爆発事故が発生。死者269人[1]。

1932年 – 上海天長節爆弾事件。上海の天長節祝賀会場で朝鮮人尹奉吉が爆弾を投げつけ白川義則軍司令官と重光葵公使らが重傷。

4月29日午前10時に始まった式典は、午前11時40分ごろ天長節を祝賀するため、21発の礼砲が発射され、海軍軍楽隊の演奏で君が代が斉唱された。途中で雨が降ったため、群衆がざわつきはじめた[5]。同時に式台の右後ろのラウドスピーカーの音がしなくなり、私服で警戒していた5~6人の軍人が修理しようと動いた[5]。この瞬間に尹は群衆を抜け出し、水筒型の爆弾を式台に投げつけた[5]。尹の目的は「植田謙吉、白川義則の両司令官の殺害」であったとされ、「それ以外の人間を巻き込まない」ように水筒型よりも更に威力の大きい弁当型は使われなかったとされる。ただし、2人以外も死傷させている[6]。

水筒型の爆弾で、上海居留民団行政委員会会長の医師河端貞次が即死した。更には、第9師団長植田謙吉中将、第3艦隊司令長官野村吉三郎海軍中将、在上海公使重光葵、在上海総領事村井倉松、上海日本人居留民団書記長の友野盛が、それぞれ重傷を負った。重光公使は右脚を失い、植田中将は左脚を失い、野村中将は隻眼となった。白川大将は5月26日に死亡した。犯人の尹は、その場で自殺を図ろうとした所を上海海軍特別陸戦隊の後本兵曹により取り押さえられ[7]、上海派遣軍憲兵隊により検挙された。

白川義則

生誕        1869年1月24日

(明治元年12月12日)

天皇の旗 日本・伊予国温泉郡松山城下千舟町(現:愛媛県松山市)

死没        1932年5月26日(63歳没)


1945年 – ベニート・ムッソリーニの銃殺死体がミラノのロレート広場で逆さ吊りにして晒される。
1945年 – アドルフ・ヒトラーとエヴァ・ブラウンが結婚。翌日自殺。

1945年沖縄戦4月29日ニードルロック確保される・米軍目線:4月26日以来から主戦場は第2線 (城間ー屋富祖ー安波茶ー仲間ー前田ー幸地) へ、「ありったけの地獄を一つにまとめた」と米公刊戦史が語る「前田高地の戦い」が続く。前田高地の東側から進行した米軍は、29日、前田高地「ニードルロック」(為朝岩)を確保する。昭和20年(1945)4月26日からおよそ15日間に渡り激しい戦闘が繰り広げられ、日本軍計3000人あまりの犠牲者を出した後、米軍によって攻略された。・米軍は、4月29日に前線を交替するまでに、第381連隊は戦闘能力40パーセントに激減し、損害じつに1201名にのぼった。そのうちの536名は、前田丘陵における4日間の戦闘でなくしたものであった。また、小隊の中には、わずか5名ないし6名しか残らないところもあった。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 291、292頁より》・「ありったけの地獄を一つにまとめた」(註 “all hell rolled into one”) ようなものであった。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 293頁より》・日本軍:4月29日、日本軍は、第一線で天長節を迎えた。前線の兵士たちは、おそらくこの天長節を期して、敵の息の根を止める航空攻撃が行われるだろうと、首をながくしていたが、沖縄の兵士たちの前には、そのような多数の味方機は現れなかった。』(238頁)《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 238頁より》・4月末の苦戦により第32軍司令部のなかに動揺がおきた。このまま持久戦を続けるよりも余力のあるうちに攻勢に出ようという意見がにわかに台頭してきた。中心は参謀長の長勇中将である。第32軍司令官牛島満中将も参謀長の意見に賛成した。牛島は1937年12月、大虐殺をひきおこした南京包囲戦に第36旅団長(熊本の第6師団所属)として参加して、猛烈な追撃戦を指導した人物である。彼も「死中に活を求める」派手な作戦の誘惑にまけた。《新装版「沖縄戦 国土が戦場になったとき」(藤原彰 編著/青木書店) 83頁より》

・八原高級参謀の回想:

4月29日朝まだき、わずかばかりの水で洗面をすました私の前に、参謀長が突如として姿を現された。思い詰めた態度で私の手を握り、真に熱烈な口調で、「八原君!君と僕とは常に難局にばかり指し向けられてきた。そしてとうとうこの沖縄で、二人は最後の関頭に立たされてしまった。君にも幾多の考えがあるだろうが、一緒に死のう。どうか今度の攻勢には、心よく同意してくれ」と申され、はらはらと落涙された。あまりの突然さに、私はぎょっとしたが、握った将軍の手の温みが伝ってくるとともに、私もまた心動かずにはおられなかった。私は司令部内唯一人、大勢を押し切って、曲りなりにも過去一か月、軍を戦略持久の線に引っ張ってきた。私もまた人の子である。今や、ともすれば心弱くなり、もはやこれ以上、周囲の力に抗し難いと思う折から、参謀長が至誠を披瀝して自らの部下である私に攻勢を懇請されたのだ。攻勢の失敗はあまりにも明瞭であるが、私は感動し、心弱くなるまま、参謀長に「承知しました」と答えたのである。《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 265-266頁より》


1975年 – 女優菊容子殺害事件。

1975年4月29日午前3時ごろ、交際していた俳優(当時23歳)に、東京都新宿区諏訪町149(現高田馬場1丁目)の自宅マンションで、電話機のコードで首を絞められて殺害された[1][13][14]。24歳没。深夜のうちに電話で会社役員の父親に「9時に起こして」と依頼していたモーニングコールに応答がなかったことから事件が発覚した[4][10]。加害者は売れっ子になっていた菊が浮気していると思い込んでおり、電話で楽しそうに浮気相手と話していると思って凶行に及んだが、その相手は父親だった。加害者は変身ものや特撮ものに脇役で出ていた駆け出しの俳優で、別れ話のもつれから犯行に及び、自殺未遂後に逮捕され、裁判で懲役7年が言い渡された。

1997年 – 湖南省岳陽県の栄家湾駅で旅客列車同士が正面衝突。126人が死亡。
2012年 – 群馬県藤岡市の関越自動車道上り藤岡ジャンクション付近で夜行高速ツアーバスが防音壁に衝突、乗客・乗員46人が死傷。(関越自動車道高速バス居眠り運転事故

関越自動車道高速バス居眠り運転事故(かんえつじどうしゃどう こうそくバスいねむりうんてんじこ)とは、2012年(平成24年)4月29日に群馬県藤岡市岡之郷の関越自動車道上り線藤岡ジャンクション付近で都市間ツアーバスが防音壁に衝突した交通事故。乗客7人が死亡、乗客乗員39人が重軽傷を負った。

この事故を契機に高速ツアーバスは廃止され、新高速乗合バスに集約されることになった。

2013年 – ナショナル・エアラインズ102便墜落事故。死亡7人全員。

チャットgpt先生の4月29日のエッセイ

4月29日という日は、年表だけを眺めても「出来事の密度」が妙に高い。しかもその多くが、偶然というよりは、人間の構造的な弱さや限界が一気に噴き出したような性質を持っている。

まず象徴的なのは、1945年のヨーロッパ終末だ。ベニート・ムッソリーニの遺体が晒され、アドルフ・ヒトラーが結婚という形式だけ整えて翌日に自殺へ向かう。この並びは、権力の終わり方としては非常に現実的だ。長期的な戦略の失敗や国力差の問題はすでに確定しているのに、最後は「体面」と「演出」に収束する。国家レベルでも、個人の心理がむき出しになる。

同じ日付のアジアでは、沖縄戦が別の意味で極限に達していた。前田高地、いわゆる「ニードルロック」を巡る戦闘は、米軍側の記録ですら「ありったけの地獄を一つにまとめた」と形容されている。これは誇張ではなく、戦術的にも物理的にも極端な条件が重なっていた。

一般に「物量で圧倒した戦い」と理解されがちだが、現場レベルではむしろ逆だ。米軍は制空権・砲撃・補給という戦争の基盤を完全に握っていたが、それでも地形と防御構築によって前進が止まる。壕、地下陣地、逆斜面配置――これらは火力優位を相殺するために設計されたもので、実際に機能していた。結果として、部隊は短期間で戦闘力の半分以上を失い、小隊が数名規模にまで削られる。

ここで重要なのは、日本軍の戦い方が「合理的だったかどうか」という点だ。持久戦を主張した八原博通と、攻勢転換を求めた長勇、それを承認した牛島満。この対立は、精神論と合理論の単純な対比ではない。むしろ「どちらを選んでも詰んでいる状況」で、組織がどちらの破綻を選ぶかという問題に近い。

持久戦を続ければ確実に消耗し尽くす。一方、攻勢に出れば短期的に壊滅する可能性が高い。それでも攻勢論が浮上したのは、戦況よりも心理の問題が大きい。前線の兵士も司令部も、「このまま削られ続ける」という状態に耐えられなくなる。戦争末期にしばしば見られる「合理性の崩壊」は、情報不足ではなく、むしろ情報が揃っているからこそ起きる。

この点で、沖縄戦は単なる「悲惨な戦闘」ではなく、近代戦の限界が露出した事例でもある。物量優位があっても、地形と防御と士気が組み合わされば、戦闘は簡単には終わらない。逆に、防御側も合理的な出口を失うと、戦術的に成立しない選択へ傾く。どちらの側も「勝ち方」を見失った状態で消耗戦だけが続く。

視点を少し引くと、1932年の上海天長節爆弾事件も同じ構図の縮図に見える。実行者の尹奉吉は明確なターゲットを狙ったが、結果として周囲も巻き込む。目的は限定的でも、手段が暴力である以上、制御は効かない。これは戦争でもテロでも変わらない現実だ。

さらに時代を下ると、1975年の菊容子事件や2012年の関越道バス事故のように、規模は違えど「判断の歪み」が引き起こす結果は共通している。思い込み、疲労、焦り。どれも特別なものではないが、条件が揃うと致命的になる。

4月29日を通して見えるのは、歴史の大きな流れよりもむしろ「臨界点」の存在だ。どの事例も、ある閾値を超えた瞬間に一気に崩れる。国家も軍も個人も、その構造はあまり変わらない。

沖縄戦に戻ると、「米軍が苦戦した」という事実は、単なる戦果の話ではない。圧倒的優位でも短期間で決着がつかない戦いは存在するし、そのとき戦場は制御不能に近づく。近代戦の合理性は、一定の条件下では機能するが、その条件が崩れたときにはむしろ混乱を増幅する。

結局のところ、4月29日に並ぶ出来事は、強さや正しさではなく、「崩れ方」のバリエーションを示している。計画、権力、技術、感情――どれも普段は機能しているが、限界に達すると一斉に逆回転を始める。その瞬間が、たまたまこの日にいくつも記録されているだけなのかもしれない。