6月5日
20250605木曜日旧暦5月10日友引(乙巳きのとみイッシ)月齢 8.9
乙巳きのとみ年壬午みずのえうま月乙巳きのとみ日 年末まであと209日
吉方位 陽遁日 乙巳きのとみ日
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6月5日の出来事
1864年 – 南北戦争: ピードモントの戦い。
時 1864年6月5日
場所 バージニア州オーガスタ郡
結果 北軍の勝利
損害 北軍 8500名中875人戦死 南軍 5500名中1500名(捕虜1000人+500人戦死)
1942年 – 第二次世界大戦・ミッドウェー海戦:主力空母「加賀」「蒼龍」が沈没し日本海軍機動艦隊が壊滅状態に陥る。
ミッドウェー海戦
年月日:1942年6月5日 - 6月7日(6月3日から5日とする見解もある)[1]
場所:中部太平洋、ハワイ諸島北西のミッドウェー島とその周辺海域[1]。
結果:アメリカ軍の勝利。日本軍は制空・制海権を失い、戦局の主導権がアメリカ側に移行[1]。
損害 日本軍 戦死3057人 米軍307人。
1943年 – 日比谷公園で山本五十六の国葬。
1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 神戸大空襲。6月5日の空襲により、西部の須磨区垂水町から東は西宮市までの広範囲が爆撃され、それまで被害の少なかった神戸市東部や武庫郡が焦土と化し、3度の大空襲でほぼ神戸市全土が壊滅した[1]。
1960年 – フィンランドのボドム湖でボドム湖殺人事件が起こる。
1963年 – 黒四ダム竣工。総工費513億円、延べ1千万人の人手と171名の尊い犠牲により7年がかりの難工事を経て完成[5]。
1968年 – 米大統領選候補のロバート・ケネディ上院議員が銃撃される。翌日死亡。(ロバート・ケネディ暗殺事件)
1983年 – 客船アレクサンドル・スヴォーロフ号がウリヤノフスク鉄道橋に衝突、177名の死者を出す。
2003年 – パキスタンを最高気温51℃の熱波が襲う。死者26人。
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1864年 – 南北戦争: ピードモントの戦い。
時 1864年6月5日
場所 バージニア州オーガスタ郡
結果 北軍の勝利
損害 北軍 8500名中875人戦死 南軍 5500名中1500名(捕虜1000人+500人戦死)
ピードモントの戦い(ピードモントのたたかい、英: Battle of Piedmont)は、南北戦争中の1864年6月5日、バージニア州オーガスタ郡ピードモント村で、デイビッド・ハンター少将の指揮する北軍と、ウィリアム・E・”グランブル”・ジョーンズ准将の南軍が対戦した戦闘である。激戦が行われた後で、ジョーンズが戦死し、南軍が潰走した。ハンターは6月6日にスタントンを占領し、間もなくリンチバーグへの進軍を始め、その途中で軍事物資や公共資産を破壊した。
1942年 – 第二次世界大戦・ミッドウェー海戦:主力空母「加賀」「蒼龍」が沈没し日本海軍機動艦隊が壊滅状態に陥る。
年月日:1942年6月5日 - 6月7日(6月3日から5日とする見解もある)[1]
場所:中部太平洋、ハワイ諸島北西のミッドウェー島とその周辺海域[1]。
結果:アメリカ軍の勝利。日本軍は制空・制海権を失い、戦局の主導権がアメリカ側に移行[1]。
損害 日本軍 戦死3057人 米軍307人。
ミッドウェー海戦(ミッドウェーかいせん、英語: Battle of Midway)は、1942年6月5日から6月7日にかけて中部太平洋ミッドウェー島周辺で行われた日本海軍とアメリカ海軍による海戦である。太平洋戦争の転換点と言われ、この戦闘における敗北によって日本側は制空権と制海権を失い、以後は戦争の主導権がアメリカ側に移ったことで知られている[1]。
1942年4月、山本五十六司令長官率いる連合艦隊が中心となり、アメリカ軍の基地となっていたハワイ諸島北西のミッドウェー島を攻略し、アメリカ艦隊の早期壊滅を目指す作戦が立案される。それに対し、日本側の暗号を解読することによって作戦を察知したアメリカ軍のチェスター・ニミッツ司令官はハワイから空母部隊を出撃させて迎撃した。それぞれの主力は、日本側が南雲忠一司令官率いる第一航空艦隊の空母4隻(艦載機248機)、アメリカ側はフランク・J・フレッチャーとレイモンド・スプルーアンスの両司令官率いる機動部隊の空母3隻(艦載機233機)とミッドウェー島基地の航空部隊(126機)であった(航空機総数359機)。
航空兵力で100機以上劣勢の日本空母部隊は、索敵の失敗もあって攻撃準備中にアメリカ軍急降下爆撃機の急襲を受けることとなり、壊滅的な損害を被った。日本軍は空母全4隻と重巡洋艦1隻を失い、艦載機248機も全て喪失し、3,000人を超える兵士が戦死した。勝利したアメリカ軍も、空母1隻と駆逐艦1隻を撃沈され、航空機約150機を失った[1]が、戦死は307人だった[3]。ただし、日本の航空機搭乗員は多くが脱出に成功したので戦死者は121名にとどまり、200名を超える搭乗員が戦死したアメリカ軍を下回った[5]。
この戦い以後、太平洋戦争の主戦場はソロモン諸島とその周辺に移り、再編された日本機動部隊とアメリカ軍の間で激戦が繰り広げられることになる。
1943年 – 日比谷公園で山本五十六の国葬。
1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 神戸大空襲。6月5日の空襲により、西部の須磨区垂水町から東は西宮市までの広範囲が爆撃され、それまで被害の少なかった神戸市東部や武庫郡が焦土と化し、3度の大空襲でほぼ神戸市全土が壊滅した[1]。
1960年 – フィンランドのボドム湖でボドム湖殺人事件が起こる。
事件の概要
首都ヘルシンキから西に約22キロメートル離れたエスポー近くにあるボドム湖[1]で起こった。1960年6月5日早朝(午前4時から午前6時にかけて)、湖畔にキャンプしにきていた4人の若者達が何者かにナイフと鈍器で襲われ、3名が死亡、1名が重傷を負った。
1963年 – 黒四ダム竣工。総工費513億円、延べ1千万人の人手と171名の尊い犠牲により7年がかりの難工事を経て完成[5]。
黒部ダム(くろべダム)は、富山県東部の中新川郡立山町を流れる黒部川水系の黒部川に建設された水力発電専用のダムである。1956年(昭和31年)着工、太田垣士郎指揮の下、171人の殉職者を出し7年の歳月をかけて、1961年1月に送電を開始[2] し、1963年(昭和38年)6月5日に完成した[3][4]。貯水量2億トン。
総工費は建設当時の費用で513億円[8]。これは当時の関西電力資本金の5倍という金額である。作業員延べ人数は1,000万人[8]、工事期間中の転落やトラック、トロッコなど労働災害による殉職者は171人にも及んだ[4](ちなみに黒部第三ダム建設時には、建設現場以外で宿舎(飯場)が2度の泡雪崩の被害を受け108名、ダイナマイト自然発火事故で8名が死亡した)。
1956年(昭和31年)着工当時、「電力開発は1万kW生むごとに死者が1人出る」と言われていた[7]。完成時、25万kWを生み出した黒部ダムの建設工事で171人の殉職者を出したことは、人が行くこと自体が当時命がけだった秘境の黒部峡谷でのダム建設の困難さを示している。また当時、黒部峡谷のダム建設現場では「黒部にケガはない」と言われていた。しかしその言葉の意味は、工事での労働災害が無いという意味ではなく、「落ちたらケガでは済まない」という意味であり、工事のミスは即死を意味した[7]。
1968年 – 米大統領選候補のロバート・ケネディ上院議員が銃撃される。翌日死亡。(ロバート・ケネディ暗殺事件)
1983年 – 客船アレクサンドル・スヴォーロフ号がウリヤノフスク鉄道橋に衝突、177名の死者を出す。
2003年 – パキスタンを最高気温51℃の熱波が襲う。死者26人。
チャットgpt先生の6月5日のエッセイ
6月5日という日をめぐって──記憶と記録の交差点
6月5日——この日付が意味するものは、年を越え、時代を超えて、さまざまな形で記録に刻まれてきた。カレンダーの一片でありながら、それは数え切れないほどの人生の断面であり、歴史の転換点であり、痛みや希望が混ざり合う記憶のアーカイブでもある。
たとえば1864年のこの日、アメリカ・バージニア州で「ピードモントの戦い」が行われた。北軍の勝利に終わったこの戦いは、単なる戦局の一歩にすぎないかもしれない。しかし、その背後には875人の命と、さらに多くの血と涙があった。南軍のジョーンズ准将は戦死し、その死が一つの戦争の軌跡を変えたことを思えば、「勝利」とは果たして誰にとってのものだったのかと問い直したくなる。
そして、第二次世界大戦の激戦「ミッドウェー海戦」。1942年6月5日、日本海軍の主力空母が沈み、戦局の主導権はアメリカに移った。日本はこの敗北によって、単に艦船を失ったのではない。太平洋戦争における攻勢の終焉という、大きな流れの転換点を迎えたのだ。3,000人を超える命が失われたこの戦いは、いまなお多くの書籍や映画で語り継がれているが、それでもなお、死者一人ひとりの声を私たちは完全には拾えない。
戦争の陰には、もう一つの6月5日がある。1945年、神戸が空襲を受け、街は焦土と化した。須磨区から西宮市まで、広範囲にわたる破壊は、ただの軍事行動ではなく、生活と希望の一掃であった。焼け跡に立ち尽くした無数の人々の「日常」が、この日を境に変わった。6月5日は、都市の記憶として、焼けつくような暑さとともに刻まれている。
だが、6月5日はただ過去の戦火だけで構成されているわけではない。1963年には黒部ダムが完成した日でもある。この偉業は、171人の犠牲と1,000万人の労働によって成し遂げられた。自然と戦いながら、人々が命をかけて築いた構造物は、日本の戦後復興と電力供給の礎となった。犠牲の上に立つ誇りと技術の結晶は、「工事」という名のもう一つの戦いの記録だ。
また、1968年のロバート・ケネディ暗殺事件、1983年の客船事故、2003年のパキスタン熱波……。6月5日には、遠く離れた地で異なる物語が同時に展開されていた。政治、事故、災害——それぞれが、この日を痛みとともに記録し、記憶している。
ある人にとってはただの木曜日。ある人にとっては命日であり、記念日であり、転機である日。年が変わっても、国が違っても、6月5日という日付が内包する重さは変わらない。
日々は繰り返される。しかし、過ぎ去った6月5日たちは、確かに一つひとつの物語を背負って、今も私たちの歴史の中に生きている。そして、私たちはまた今年の6月5日を迎える。何が起こるかはわからない。ただ、私たちはそれを記録し、記憶する——過去から未来へと続くこの日付の物語を、静かに、しかし確かに受け継ぎながら。