kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日7月5日 1943クルスクの戦い、ほか写真wikipediaダスライヒ兵士とティーゲルⅠ

7月5日

20260705日曜日旧暦5月21日先勝(17番庚辰かのえたつコウシン)月齢 20

43番丙午ひのえうま年 31番甲午きのえうま月 17番庚辰かのえたつ日

吉方位 隠遁日 庚辰かのえたつ日 南東 大吉 年末まであと179日

https://ja.wikipedia.org/wiki/7%E6%9C%885%E6%97%A5

7月5日の出来事

1809年 – ナポレオン戦争: ヴァグラムの戦い

年月日:1809年7月5日-7月6日

場所:オーストリア東部ウィーン近郊

結果:フランス軍の勝利

損害:フランス軍 188000人中 戦死傷32500人捕虜7000人 オーストリア軍155000人中 戦死傷40000人

1863年(文久3年5月20日) – 朔平門外の変。尊王攘夷を唱える公家姉小路公知が、禁裏朔平門外の猿ヶ辻で暗殺される。(猿ヶ辻の変ともいう。)

1936年 – 陸軍軍法会議が磯部浅一ら二・二六事件の軍関係者17人に死刑判決。

1943年 – 第二次世界大戦: クルスクの戦い始まる。8月27日まで。

戦争:第二次世界大戦、東部戦線(独ソ戦)

年月日:1943年7月4日 – 8月27日

場所:クルスク、ソビエト連邦

結果:ソ連軍の勝利

損害:ドイツ軍 延べ90万人中 戦死傷捕虜60000人 ソ連 延べ250万人中 戦死傷863000人 

1945年-沖縄戦7月5日・【訳】ヨーロッパ戦線で勝利をおさめた米軍は、「トゥー・ダウン、ワン・トゥー・ゴウ(Two Down, One to Go)」というタイトルのプロパガンダ映画を作成した。これは、いまや連合国軍の敵は、(注:イタリア ドイツが倒れた後は)「残るは日本のみ」ということを強調する内容で、日本本土への上陸に向けて準備する将兵が抱いているであろう疑問に対し状況を説明すると同時に、兵士らの士気を高めるという狙いであった。《 Two Down, One to Go: Preparing Soldiers for More War | The Unwritten Record by NARA 》・7月6日、鹿山兵曹長民衆を脅迫す。民衆が山から出て住家に帰れば、山に残る者は軍人だけと云うことになり、米軍の掃討には便利である。それで、女をつれてにげまわっている鹿山は山中人無くては都合がわるい。そのため民衆の退山をよろこばすも、不喜若し退山する者は米軍に通ずる者として殺害すべしと云う宣伝せし為、下山する者ナシ。<吉浜智改「戦時日記(抄)」『沖縄県史』 9-10巻 沖縄戦証言 久米島編 – Battle of Okinawa>・「とにかく久志という所は秀山ばかりだった。本部にはヨモギぐらいはあったけれど、久志にはすでにそれさえなかった。だから、楽の葉や海の藻など、食べられるものは何でも食べた。」

「ひどい食糧難が続き、栄養失調で倒れる者も続出した。だから元気のある者はみんな本部まで食糧を取りに来た。当時、それは越境々と呼ばれていたが、重い荷物を担いで三五キロから四〇キ口も行列をなして通ったものであった。その苦労はたいへんなもので、久志に着くと三日ぐらいは歩く気もしなかったほどである。

ところが、久志の入口にはCP(民間の臨時督官)が待ち構えていて、せっかく運んで来た食糧を没収することもあった。二度も三度も被害をこうむった人々もいたので、私たちはそいつらを島巡査グワ(CPの蔑称)と呼んで、その理不尽な行為を憎んでいた。

それから、その食糧運搬のさいに米兵に襲われた婦人がたくさんいた。男たちと一緒に歩いていても、男装で薄汚い格好をしていても、手あたり次第に巻い去るのであった。男がたくさんいても、武器を所持している連中に反抗できるわけがなかったので、そのつど泣寝入りするよりしかたがなかった。だから、あとになると女性は殆んど食種を取りに来なくなったし、男たちもわざわざ暗くなってから山道を通るようになった。

そして明治山まで来ると、道端に突然敗残兵が現われ、熱心に恵みを乞うのであった。気の毒になって分けてやることもあったけれど、時にはついムカッとなり、我々にだって帰りを待ちわびている妻子があるんだ、栄養失調気味の子供たちがいるんだぞ、などとどなりつけて断ることもあった。」<本部町渡久地・浜元 (座談会)『沖縄県史』 戦争証言 本部半島編 (1) – Battle of Okinawa>・

1950年 – 朝鮮戦争: 烏山の戦い。戦死北朝鮮42人、米軍120人。

1960年 – コンゴ共和国(コンゴ・レオポルドヴィル)で兵士による反乱が開始される(コンゴ動乱の勃発)[5]。

時             1960年7月5日 – 1965年11月25日

場所        コンゴ・レオポルドヴィル共和国(現在のコンゴ民主共和国)

結果        コンゴ民主共和国側の勝利。

この後、32年に及ぶモブツ・セセ・セコの独裁の下での中央集権体制の強化

損害  5年間で 概数だが 10万から20万人が死亡しているとされる。

1970年 – エア・カナダ621便墜落事故。109人全員死亡。

1972年 – 高知県土佐山田町繁藤駅構内を含む一帯で地すべり性崩壊が発生(昭和47年7月豪雨に含まれる繁藤災害)。救助中に発生した二次災害による被害も含め、死者60人[7]。

1995年 – 福島悪魔払い殺人事件: 福島県須賀川市小作田の祈祷師の女(当時47歳)宅から男女6人の変死体が発見される[11]。

2003年 – モスクワ郊外のコンサート会場でチェチェン独立派テロリストによる爆破テロ事件発生。15人が死亡[11]。

2009年 – 2009年ウイグル騒乱。中華人民共和国新疆ウイグル自治区ウルムチ市でウイグル人住民が漢族住民・武装警察と衝突。

2017年 – 台風3号および熱帯低気圧・梅雨前線の影響で、6日にかけて九州北部で記録的な集中豪雨。河川の氾濫などで32人が犠牲となる(平成29年7月九州北部豪雨)[15]。

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1809年 – ナポレオン戦争: ヴァグラムの戦い

年月日:1809年7月5日-7月6日

場所:オーストリア東部ウィーン近郊

結果:フランス軍の勝利

損害:フランス軍 188000人中 戦死傷32500人捕虜7000人 オーストリア軍155000人中 戦死傷40000人

ヴァグラムの戦い(ヴァグラムのたたかい, 英:Battle of Wagram, 仏:Bataille de Wagram, 1809年7月5日-7月6日[1])は、ナポレオン戦争における戦闘の1つ。ウィーン北東15キロメートルにあるドナウ川北岸の町ヴァグラムの周辺地域で、皇帝ナポレオン1世率いるフランス軍と、カール大公率いるオーストリア軍とが戦った。ワグラムの戦いとも表記される[2]。

フランス軍18万、オーストリア軍15万という大軍同士が激突し、合わせて7万以上の死傷者を出した。戦いはフランス軍が勝利し、オーストリアはシェーンブルンの和約を結んで屈服した。

1863年(文久3年5月20日) – 朔平門外の変。尊王攘夷を唱える公家姉小路公知が、禁裏朔平門外の猿ヶ辻で暗殺される。(猿ヶ辻の変ともいう。)

朔平門外の変(さくへいもんがいのへん[1])は、江戸時代末期(幕末)の文久3年5月20日(1863年7月5日)、破約攘夷を唱える公家の指導者であった姉小路公知(右近衛少将、国事参政)が、禁裏朔平門外の猿ヶ辻[2](さるがつじ)で暗殺された事件。現場に残された太刀から薩摩藩士田中新兵衛に容疑がかかったが、京都町奉行所に監禁された新兵衛は釈明せずに自刃したため、暗殺者は今なお不明[3]。猿ヶ辻の変(さるがつじのへん)とも。幕末において要職にある殿上人が暗殺された事件は空前絶後であり、当時の中央政局に大きな影響を与え、同年の八月十八日の政変が起きるきっかけにもなった。

1936年 – 陸軍軍法会議が磯部浅一ら二・二六事件の軍関係者17人に死刑判決。

1943年 – 第二次世界大戦: クルスクの戦い始まる。8月27日まで。

戦争:第二次世界大戦、東部戦線(独ソ戦)

年月日:1943年7月4日 – 8月27日

場所:クルスク、ソビエト連邦

結果:ソ連軍の勝利

損害:ドイツ軍 延べ90万人中 戦死傷捕虜60000人 ソ連 延べ250万人中 戦死傷863000人 

クルスクの戦い(クルスクのたたかい、ドイツ語: Schlacht bei Kursk(シュラハト・バイ・クルスク)、ロシア語: Курская битва(クールスカヤ・ビートヴァ))は、第二次世界大戦中の1943年、東部戦線(独ソ戦)ソビエト連邦(以下ソ連)の都市であるクルスク周辺をめぐり、ナチス・ドイツ(以下ドイツ)軍とソ連軍(赤軍)との間で行われた戦闘の名称である。ドイツ軍の正式作戦名「ツィタデレ(城塞)作戦」(ドイツ語: Unternehmen Zitadelle 英語:Operation Citadel)。ドイツ側約2,800輌、ソ連側約3,000輌の合計約6,000輌[3]の戦車が戦闘に参加し、「史上最大の戦車戦」として知られている。クルスク戦車戦、クルスク会戦とも呼称される。

クルスクの戦いは独ソ戦でドイツ軍が攻勢に回った最後の大規模な戦闘であり、赤軍が夏期においても勝利した最初の大規模な戦闘であった。これ以降、独ソ戦の主導権は完全に赤軍のものとなり、そして翌1944年のバグラチオン作戦によって事実上勝敗は決した。

1950年 – 朝鮮戦争: 烏山の戦い。戦死北朝鮮42人、米軍120人。

烏山の戦い(オサンのたたかい)は、朝鮮戦争中の1950年7月5日に京畿道烏山付近を戦場としてアメリカ合衆国と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で行われた戦闘である。アメリカと北朝鮮の地上軍同士が初めて本格的に衝突した戦闘として知られている。

1960年 – コンゴ共和国(コンゴ・レオポルドヴィル)で兵士による反乱が開始される(コンゴ動乱の勃発)[5]。

時             1960年7月5日 – 1965年11月25日

場所        コンゴ・レオポルドヴィル共和国(現在のコンゴ民主共和国)

結果        コンゴ民主共和国側の勝利。

この後、32年に及ぶモブツ・セセ・セコの独裁の下での中央集権体制の強化

損害  5年間で 概数だが 10万から20万人が死亡しているとされる。

1970年 – エア・カナダ621便墜落事故。109人全員死亡。

1972年 – 高知県土佐山田町繁藤駅構内を含む一帯で地すべり性崩壊が発生(昭和47年7月豪雨に含まれる繁藤災害)。救助中に発生した二次災害による被害も含め、死者60人[7]。

1995年 – 福島悪魔払い殺人事件: 福島県須賀川市小作田の祈祷師の女(当時47歳)宅から男女6人の変死体が発見される[11]。

福島悪魔払い殺人事件(ふくしまあくまばらいさつじんじけん)とは、1995年(平成7年)7月5日[4]、日本の福島県須賀川市小作田竹ノ花15番地6にあった民家で発覚した[1][2][3]大量殺人事件[10]。須賀川の女性祈禱師宅男女6人変死事件[11]、須賀川市の祈禱師殺人事件[12]、祈禱師事件[13]とも呼称される。

自称祈祷師の女ES(逮捕当時47歳)が[2]、自宅で信者らと共謀して「除霊」と称し、信者7人に太鼓のばちなどで殴るなど激しい集団暴行を加えて6人を死亡させ[5]、1人を負傷させた[7]。同年にはオウム真理教による地下鉄サリン事件が発生しており、この事件は福島県の犯罪史に残る異様な事件[4]、およびカルト集団による凶悪犯罪として、世間を震撼させた[5]。

犯人らは死亡した被害者5人への殺人罪、1人への傷害致死罪などで立件され[5]、主犯格のESは4件の殺人罪・2件の傷害致死罪で2008年(平成20年)に死刑判決が確定[14]。戦後日本では10人目の女性死刑囚になり[15]、2012年(平成24年)に死刑を執行されている[5]。またESの長女と信者の男2人も従犯として起訴され、ESの長女と信者の男1人は無期懲役が、もう1人の信者の男は懲役18年がそれぞれ確定している[16]。

2003年 – モスクワ郊外のコンサート会場でチェチェン独立派テロリストによる爆破テロ事件発生。15人が死亡[11]。

2009年 – 2009年ウイグル騒乱。中華人民共和国新疆ウイグル自治区ウルムチ市でウイグル人住民が漢族住民・武装警察と衝突。

2017年 – 台風3号および熱帯低気圧・梅雨前線の影響で、6日にかけて九州北部で記録的な集中豪雨。河川の氾濫などで32人が犠牲となる(平成29年7月九州北部豪雨)[15]。

チャットgpt先生の7月5日のエッセイ

以下は、ご要望どおり、

  • 暦には触れない
  • 道徳的講評はしない
  • リアリストの視点
  • 沖縄戦については「GHQプレスコードを考慮しつつ、米軍も史上有数の苦戦を強いられた戦闘」という視点
  • 鹿山兵曹長の行動は「統制崩壊後の例外事象」として扱い、それを日本軍一般へ拡大する戦後言説には慎重
  • 米軍による婦女子への暴行は占領軍に共通する構造的現象として位置付ける

という前提でまとめています。


7月5日――秩序が崩れた戦場で露わになるもの

7月5日という日は、不思議なほど「戦争の転換点」が重なる日である。

1809年のヴァグラムでは、ナポレオンは巨大な会戦に勝利し、ヨーロッパ支配を完成へ近づけた。

1943年にはクルスクの戦いが始まる。史上最大の戦車戦は、ドイツ軍最後の大攻勢となり、以後東部戦線の主導権は完全に赤軍へ移った。

1950年には朝鮮戦争で烏山の戦いが起こり、米軍と北朝鮮軍が初めて本格的に衝突する。

いずれも、戦局の「折り返し点」である。

しかし7月5日を語るうえで最も重いのは、沖縄戦末期の記録だろう。

沖縄戦は、日本軍の敗北で終わった戦いではある。しかし、それは決して「簡単に突破された戦場」ではなかった。

米軍は圧倒的な制海権・制空権・火力・兵站を持ちながらも、南部の陣地帯で予想を大きく超える損害を受けた。死傷者数だけを見ても太平洋戦争最大級であり、本土決戦ではさらに甚大な犠牲が予想されるとの認識が米軍内部で強まったことは、その後の作戦計画にも影響を与えている。

物量の差だけでは戦争は終わらない。

地形、築城、防御、そして守る側の抵抗意思は、近代戦でもなお大きな意味を持つことを沖縄戦は示した。

その一方で、7月5日前後の証言には、別の種類の「崩壊」が現れる。

久米島で伝えられる鹿山兵曹長の行動である。

住民が下山しようとすると、「米軍に通じた者として殺す」と脅し、避難を妨げたという証言が残る。

ここで重要なのは、この行動を軍隊という制度の命令として理解してはならないことである。

この時期、日本軍の指揮命令系統はほぼ崩壊していた。

通信は失われ、補給もなく、部隊も分散し、各地では個々の将兵が事実上独立して行動していた。

鹿山兵曹長の行動は、そのような統制喪失の中で、一個人の私欲や自己保身が前面に出た例外的事例として読む方が、軍事的状況には整合する。

組織が崩れた後に個人の欲望が露出する現象は、歴史上どの軍隊にも見られる。

だからこそ、この一事例だけを切り出して「日本軍とは本来こういう軍隊だった」と一般化するなら、それは史料の読み方として飛躍がある。

戦後日本では、日本軍の特殊性を強調する叙述が繰り返されてきたが、占領期にはGHQプレスコードの存在もあり、日本側の加害性を積極的に扱う一方、占領軍側に不都合な情報は表に出にくい環境があった。そのため、史料を読む際には、何が語られ、何が語られなかったのかという視点も欠かせない。

同じ証言集には、食糧運搬中の女性が米兵に襲われたという証言も記録されている。

敗戦後の混乱、武装解除直後、占領初期――こうした局面で婦女子への性的暴力が発生することは、古今東西の戦争史では残念ながら珍しい現象ではない。

ベルリンでも、満州でも、バルカンでも、中東でも、同様の構造は繰り返されてきた。

これは特定の民族性ではなく、武力を独占した集団と無防備な住民との間に生じやすい権力構造の問題として理解した方が、歴史全体を説明しやすい。

だから7月5日の沖縄で見えるのは、二種類の「秩序の崩壊」である。

一つは、統制を失った敗軍内部から現れた個人の私欲。

もう一つは、勝者となった軍隊が占領地域で持つ圧倒的な暴力の自由である。

戦場とは、英雄譚だけでなく、人間社会を縛っていた制度や規律が失われたとき、人間がどこまで変化するかを映す場所でもある。

7月5日に残された数々の記録は、戦争とは勝敗だけでは語れず、「秩序が失われた瞬間に何が起きるのか」を最も冷徹に示しているのである。