8月14日
20260814金曜日旧暦7月2日友引(57番庚申かのえさるコウシン)月齢 1.3
43番丙午ひのえうま年 32番乙未きのとひつじ月 57番庚申かのえさる日
吉方位 隠遁日 庚申かのえさる日 南西 大吉 年末まであと139日
https://ja.wikipedia.org/wiki/8%E6%9C%8814%E6%97%A5
8月14日の出来事
1183年 (寿永2年7月25日) – 治承・寿永の乱: 源義仲の入京に伴い、平宗盛率いる平家一族が安徳天皇を連れて三種の神器と共に西国落ち。
1204年(元久元年7月18日) – 伊豆修禅寺に幽閉されていた鎌倉幕府2代将軍源頼家が入浴中に謀殺される。
1899年 – 鹿児島県に台風が上陸。死者113人、住家全半壊23000棟、船舶破壊1000隻の被害[1]。
1183年 (寿永2年7月25日) – 治承・寿永の乱: 源義仲の入京に伴い、平宗盛率いる平家一族が安徳天皇を連れて三種の神器と共に西国落ち。
1900年 – 義和団の乱: 日本・ドイツ・イギリス・フランス・ロシア・アメリカ・イタリア・オーストリアの八カ国連合軍が北京に入城。義和団の乱が終結。
損害 八か国連合軍 700名強 義和団 数万人
1904年 – 日露戦争: 蔚山沖海戦ウルサンオキカイセン
損害 日本 ほぼなし ロシア 戦死185人 戦傷374人
1945年 – 第二次世界大戦・ソ連対日参戦: 葛根廟事件。満洲国興安総省葛根廟で、非武装の日本人避難民約1200人がソ連軍戦車部隊の攻撃を受けて多数殺傷[1][2][3]。
日本人避難民千数百人(一説には1,300名)が攻撃を受け、1,000名以上が虐殺され、あるいは自決した
1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 京橋駅空襲。大阪で空襲があり1トン爆弾が国鉄京橋駅に命中、駅に避難していた200名以上が死亡。
1945年 – 第二次世界大戦: 宮城事件。深夜から翌日未明にかけて、陸軍省と近衛師団の一部将校が近衛師団長を殺害し玉音放送の録音盤奪取を図るが失敗に終わる。
1945年-沖縄戦8月14日・日本は8月10日未明にポツダム宣言受諾を決定し、午前中には中立国を経由してアメリカなどに伝えられた。これをうけ、8月11日土曜日朝、バーンズ国務長官は日本の降伏を受け入れる覚書を送った。その日、世界は日本降伏のニュースに沸いたが、日本の国民には情報は伝えられることなく、特攻出撃命令は続き、また米軍による本土空襲も激しくなった。13日に続き、14日も徹底抗戦を主張する陸軍省内でクーデター (宮城事件) か未遂に終わる。未だ紛糾する「御前会議」は、午後、ようやく宣言受諾に帰着する。その間にも特攻出撃命令は次々と出され、空襲は激化する。<引用先原文>・「補充兵われも飢えつつ餓死兵の骸 (むくろ) 焼きし宮古 (しま) よ八月は地獄」
高沢さんは仲宗根さん宛ての手紙に「毎日、飢えながら、栄養失調とマラリアで亡くなった兵士を荼毘(だび)に付していました」と当時の惨状を記し、「兵隊は現地で悪いことをしていたので、私はもう宮古島へは行けません」と伝えた。
「悪いこと」とは、住民の食料を盗み食いしていたことだという。… 瀬名波栄さんが出版した「先島群島作戦(宮古編)」では、戦病死した日本兵は2,569人とされ、9割はマラリアと栄養失調が原因としている。<東京新聞「戦争マラリアの悲劇(上)飢えと病の地獄があった」宮古島の沖縄戦 ~ 戦争マラリアの悲劇 – Battle of Okinawa>
1953年 – 広島県飯室村で広島電鉄のバスが道路から転落。死者10人、重軽傷者45人[4]。
1959年 – 昭和34年台風第7号が静岡県に上陸。各地に大きな被害。
死者188人・行方不明者47人・負傷者1,528人
1972年 – 東ベルリン発ブルガス行きのインターフルクIl-62型機が離陸直後墜落、乗員乗客156名全員が死亡。
1980年 – 富士山大規模落石事故: 富士山吉田口で落石が発生、12人が死亡。落石は9合目付近で発生し、6合目下まで到達した。
1999年 – 玄倉川水難事故。大雨で増水していた玄倉ダムの放流に中州でキャンプしていた会社員が巻き込まれ、13人死亡。
2000年 – 大分一家6人殺傷事件。大分県で15歳の少年が隣家を襲撃、3人死亡・3人負傷。
2005年 – ヘリオス航空522便墜落事故。ギリシャ・アテネ北部にヘリオス航空522便が墜落。121人が死亡。
2018年 – イタリア・ジェノヴァにあったモランディ橋が崩落[10]。38人が死亡。
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1183年 (寿永2年7月25日) – 治承・寿永の乱: 源義仲の入京に伴い、平宗盛率いる平家一族が安徳天皇を連れて三種の神器と共に西国落ち。
1204年(元久元年7月18日) – 伊豆修禅寺に幽閉されていた鎌倉幕府2代将軍源頼家が入浴中に謀殺される。
最期
頼家は伊豆国修禅寺に護送され、翌年の元久元年(1204年)7月18日、北条氏の手兵[注釈 4]によって殺害された。享年23(満21歳没)。『吾妻鏡』はその死について、ただ飛脚から頼家死去の報があったことを短く記すのみである(7月19日条)。殺害当日の日付の『愚管抄』によると、抵抗した頼家の首に紐を巻き付け、急所を押さえて刺し殺したという[注釈 5]。南北朝期の史書である『保暦間記』では、入浴中に殺害されたとしている[注釈 6]。
1899年 – 鹿児島県に台風が上陸。死者113人、住家全半壊23000棟、船舶破壊1000隻の被害[1]。
1183年 (寿永2年7月25日) – 治承・寿永の乱: 源義仲の入京に伴い、平宗盛率いる平家一族が安徳天皇を連れて三種の神器と共に西国落ち。
1900年 – 義和団の乱: 日本・ドイツ・イギリス・フランス・ロシア・アメリカ・イタリア・オーストリアの八カ国連合軍が北京に入城。義和団の乱が終結。
義和団の乱における死傷者数
連合軍は上記のように多くの兵力を投入したが、日本軍の計算に依れば、全期間にわたる死者数は757名、負傷者数は2,654名とされている。ちなみに最も多くの死傷者を出したのは日本であった(死者349名・負傷者933名)。また清朝や義和団によって殺害された人々は宣教師や神父など教会関係者が241名(カトリック53人+プロテスタント188人)といわれる。
一方清朝や義和団側の死傷者は統計としては正確性を欠かざるをえないが、上で引用したように天津城攻防戦だけで4,000名ほどの遺体があったと日本軍が書いていることから考えて、一年ほどの戦争期間に多大な死傷者を出したことは容易に想像できる。
損害 八か国連合軍 700名強 義和団 数万人
1904年 – 日露戦争: 蔚山沖海戦ウルサンオキカイセン
損害 日本 ほぼなし ロシア 戦死185人 戦傷374人
1945年 – 第二次世界大戦・ソ連対日参戦: 葛根廟事件。満洲国興安総省葛根廟で、非武装の日本人避難民約1200人がソ連軍戦車部隊の攻撃を受けて多数殺傷[1][2][3]。
日本人避難民千数百人(一説には1,300名)が攻撃を受け、1,000名以上が虐殺され、あるいは自決した
日本人避難民千数百人(一説には1,300名)が攻撃を受け、1,000名以上が虐殺され、あるいは自決した
葛根廟事件(かっこんびょうじけん)は、1945年8月14日、満洲国興安総省の葛根廟[注釈 1]付近において日本人避難民千数百人(一説には1,300名)が攻撃を受け、1,000名以上が虐殺され、あるいは自決した事件[1][2][3]。葛根廟駅事件ともいう。避難民の約9割以上が女性や子供であった[1]。ソ連軍が去った後に、生存者も自決したり[4]、その後の避難の途上で中国人暴民やソ連兵などの襲撃を再び受けるなどして、日本帰還を目指す多くの日本人居留民が犠牲となった。はっきり確認された生存者は百十数名、後に発見された残留孤児を入れても百数十名に過ぎないという[5]。
8月14日の葛根廟事件、8月17日の東京荏原開拓団964名の遭難(双明子事件)、8月25日の仁義佛立講開拓団400名の遭難(洮南西方20キロ)とをあわせて、「総省三大遭難事件」[6][7]、「興安三事件」[8]、「興安省における三大遭難事件」[9]と呼ばれる。また、この葛根廟事件を8月12日の麻山事件、8月27日の佐渡開拓団跡事件と合わせて「北満三大悲劇」ともされる[10]。
殺戮 虐殺
8月14日午前11時40分頃、行動隊がラマ教寺院のある葛根廟丘陵付近まで到達したところで、ソ連軍中型戦車14両とトラック20台に搭乗した歩兵部隊に遭遇した。このとき隊列は2キロにわたって伸びていたとされ、生存者は百数十名程度で、誰が目撃し誰に伝えた話であるのかもはっきりとしていないが、東京外語大ロシア語科出の浅野参事官は白旗を掲げ、ソ連軍に叫ぶように話しかけながら向かったが、機関銃で射殺されたという話も生存者の間では伝えられている[21][22]。浅野は話しかけようとしていたというだけで白旗のことがない話[15]や浅野のそばにいた老婦人が常に白い毛布を被っていたという話もあり、白旗は老婦人の毛布のことが混同され膨らんだ可能性もある。ソ連軍は丘の上から行動隊に対し攻撃を開始し、戦車が機関銃で攻撃を加えながら進んでいった。ソ連軍戦車は攻撃をある程度続けると引き返しては、4~5回攻撃を繰り返した[21]。戦車による襲撃が止むとトラックや戦車から降りたソ連兵が生存者を見つけ次第次々と射殺し、銃剣で止めを刺していった[21]。2時間余りの間に非武装の女性、子供を主体とした多数が殺害され、その後の自決や地元の暴徒の襲撃もあって、このとき1,000人以上が亡くなったのではないかとされる。直接の銃撃で殺害を免れた者も、被弾して負傷した者や、家族が殺害された者が多く、結局、多数の者が家族を手にかけたり、自決したという。生存していたことが後に確実に確められた者は百数十名にすぎないとされている。犠牲者のうちの200名近くの児童は、興安街在満国民学校の児童であった[23]。護衛・反撃に回るはずの肝心の関東軍部隊は既に南転済みであった[24]。
ソ連兵が去った後も自決によるとされる銃声が散発的に響いていたという[6]。現地住民らが死体からの掠奪に現れ、遺体から衣服など身ぐるみを剥がされるなどした[6]。また、逃れようとして川で溺死した者もいた[25]。ある1人の女性はソ連兵に子供を殺され、続いて襲ってきた中国人に衣服を全てはぎ取られた上に鎌で乳房を切り落とされている[26]。中国人たちは、生き残った母子を見つけると母親を棒で殴りつけ、子供を奪っていった[25]。親を殺された子供達は、生き残った大人のもとに集まっていたが、中国人たちはその子供たちをも同様に奪っていった[25]。当時は日本人の男児は300円、女児は500円で売買されるのが一般的であった[27]。生存者の中には三々五々集まり、集団自決が始まり自決を望む者を刺殺して回る男性ら、男性ばかりか小銃をもって決死隊を組み報復に行くと言って去る女性らまでいたが、反撃はならなかったとされている[6]。
8月15日の終戦後も、生き残って逃れて来た避難民に対する襲撃は続いた。事件後に10人余りの婦女子の一団に加わった12歳の少女の証言によると、少女が加わった女性たちの一団は、暴民に襲われて衣服を奪い取られ暴行を受けるなどしながら、一週間余りをかけて葛根廟駅(中国語版)から10キロのところにある鎮西駅(中国語版)にたどりついた。女性たちは駅から少し離れたところにある畑の空き家に身を寄せることにしたが、夜になるとソ連兵に発見され、深夜まで暴行が行われた。暴行が終わるとソ連軍兵士たちは屋外に積まれてあった枯れ草を家の中に投げ入れては火を付け、女性たちを焼き殺そうとした。少女と妹は窓のそばにいたために難を逃れることができたが、他の女性たちは火の回りが早く脱出できなかったようであると証言している。助かった少女はその後、残留孤児として生きることを余儀なくされた[28]。
一方、中国人、モンゴル人、朝鮮人のなかには生存者に食事を提供する者もおり、中国人のなかには子供を手厚く育てる者もいた。行動隊の生き残った親を殺された子供たちは、さまざまな経緯から中国残留孤児となっていた。約30人が残留孤児となった[29]。また、多くの女性が中国残留婦人となることを余儀なくされた[30][31]。
国民学校は校長夫婦以下児童270人うち200人が殺害された[32][33]。
藤原作弥は「この事件は暴民ではなく一国の軍隊の攻撃によって無差別的に大量虐殺されたという点では、終戦時に満洲の日本人難民が遭遇した最大の悲劇といってよかろう」と評している[23][注釈 2][注釈 3]。ただし、犠牲者数で言えば、自決・ソ連軍との戦闘で1400人以上、一説には約2千人が亡くなったとされる佐渡開拓団跡事件(佐渡開拓団事件とも。ただし、この事件は佐渡開拓団が入植地を発った後に、空いたその住居・施設に寄り集まった他の開拓団らの団員が犠牲者である。)の方が大きく、通常は佐渡開拓団跡事件が「全満開拓団最大の悲劇」といわれる[35]。
事件の原因ないしきっかけについて、前々日から当日までソ連の飛行機が偵察に来て爆弾も落としていて、その偵察機が誘導したという説、前夜一行が葛根廟村に泊ったときに現地モンゴル人とトラブルがあり通報されたという説等がある[6]。逆に、ソ連機が常時飛来していたが、特に攻撃してくることもなかったので、特別な警戒処置はせず、落伍者防止に専念していた[1]という証言もある[15]。男性らが護衛のために銃器を携帯していたため日本軍と誤認されたのではないかと思うほど攻撃が激しかったという者[15]もいて、実際に、大部隊ではないものの付近に日本軍の斥候隊や伝令兵がいて彼らも事件を目撃している[15]。
一般に、このときの避難民団にはしばしば小銃程度の武器を所持する者がいたが、ときには軽機関銃を備えた団すらあった[36]。もともと匪賊らを相手にしていた開拓団ではときに戦闘に女性も参加することがあり[35]、また、後の佐渡開拓団跡事件では、小学5年生以上の児童が男女を問わず戦闘に参加させられている[37]。あるいは、終戦前のこの時期に他の日本人の民間人団体と何らかの戦闘が既に起こり、女性兵士もいるソ連軍に、日本人は民間人団体であっても婦女子も混じって戦闘に参加しているというイメージを持たれていた可能性もある。この他、供給された武器を使ってみたかったソ連軍将兵らが関東軍がいち早く逃走していたために肩透かしをくって鉾先が難民に向かったのではないかとする説等もある[21]。
1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 京橋駅空襲。大阪で空襲があり1トン爆弾が国鉄京橋駅に命中、駅に避難していた200名以上が死亡。
1945年 – 第二次世界大戦: 宮城事件。深夜から翌日未明にかけて、陸軍省と近衛師団の一部将校が近衛師団長を殺害し玉音放送の録音盤奪取を図るが失敗に終わる。
宮城事件(きゅうじょうじけん)は、1945年(昭和20年)8月14日の深夜から15日(日本時間)にかけて、宮城(皇居)で一部の陸軍省勤務の将校と近衛師団参謀が中心となって起こしたクーデター未遂事件である。終戦反対事件(しゅうせんはんたいじけん)、あるいは八・一五事件(はちいちごじけん)とも呼ばれる[1]。
日本の降伏(ポツダム宣言受諾)を阻止しようと企図した将校達は近衛第一師団長森赳陸軍中将を殺害、師団長命令を偽造し近衛歩兵第二連隊を用いて宮城(皇居)を占拠した。しかし、陸軍首脳部・東部軍管区の説得に失敗した彼らは日本降伏阻止を断念し、一部は自殺もしくは逮捕された。これにより、玉音放送と日本の降伏表明は当初の予定通り行われた。
1945年-沖縄戦8月14日・日本は8月10日未明にポツダム宣言受諾を決定し、午前中には中立国を経由してアメリカなどに伝えられた。これをうけ、8月11日土曜日朝、バーンズ国務長官は日本の降伏を受け入れる覚書を送った。その日、世界は日本降伏のニュースに沸いたが、日本の国民には情報は伝えられることなく、特攻出撃命令は続き、また米軍による本土空襲も激しくなった。13日に続き、14日も徹底抗戦を主張する陸軍省内でクーデター (宮城事件) か未遂に終わる。未だ紛糾する「御前会議」は、午後、ようやく宣言受諾に帰着する。その間にも特攻出撃命令は次々と出され、空襲は激化する。<引用先原文>・「補充兵われも飢えつつ餓死兵の骸 (むくろ) 焼きし宮古 (しま) よ八月は地獄」
高沢さんは仲宗根さん宛ての手紙に「毎日、飢えながら、栄養失調とマラリアで亡くなった兵士を荼毘(だび)に付していました」と当時の惨状を記し、「兵隊は現地で悪いことをしていたので、私はもう宮古島へは行けません」と伝えた。
「悪いこと」とは、住民の食料を盗み食いしていたことだという。… 瀬名波栄さんが出版した「先島群島作戦(宮古編)」では、戦病死した日本兵は2,569人とされ、9割はマラリアと栄養失調が原因としている。<東京新聞「戦争マラリアの悲劇(上)飢えと病の地獄があった」宮古島の沖縄戦 ~ 戦争マラリアの悲劇 – Battle of Okinawa>
1953年 – 広島県飯室村で広島電鉄のバスが道路から転落。死者10人、重軽傷者45人[4]。
1959年 – 昭和34年台風第7号が静岡県に上陸。各地に大きな被害。
死者188人・行方不明者47人・負傷者1,528人
1972年 – 東ベルリン発ブルガス行きのインターフルクIl-62型機が離陸直後墜落、乗員乗客156名全員が死亡。
1980年 – 富士山大規模落石事故: 富士山吉田口で落石が発生、12人が死亡。落石は9合目付近で発生し、6合目下まで到達した。
1999年 – 玄倉川水難事故。大雨で増水していた玄倉ダムの放流に中州でキャンプしていた会社員が巻き込まれ、13人死亡。
2000年 – 大分一家6人殺傷事件。大分県で15歳の少年が隣家を襲撃、3人死亡・3人負傷。
2005年 – ヘリオス航空522便墜落事故。ギリシャ・アテネ北部にヘリオス航空522便が墜落。121人が死亡。
2018年 – イタリア・ジェノヴァにあったモランディ橋が崩落[10]。38人が死亡。
チャットgpt先生の8月14日のエッセイ
8月14日――国家は決断し、人々は取り残される日
8月14日という日を歴史の断面で眺めると、一つの特徴が浮かび上がる。戦争そのものよりも、「戦争が終わる過程」で最も多くの混乱が噴き出す日である。
1183年、平家は三種の神器と安徳天皇を伴って都を離れ、西国へ落ちた。これは単なる撤退ではない。政権中枢が「首都を放棄する」という国家機能の移動であり、戦場より政治の敗北が先に現れた瞬間だった。
1204年には源頼家が幽閉先で殺害される。武力で権力を得た政権であっても、最終的な権力移行は正面戦ではなく、監禁・暗殺・政変という管理された空間で完結することが少なくない。制度が未成熟な時代ほど、政治の終着点は密室になる。
1900年、義和団の乱は八か国連合軍の北京入城で事実上終結した。しかし終わったのは戦闘であり、人的損失は連合軍数百人に対し清朝・義和団側は数万人規模とされる。近代国家と即席の民衆武装集団では、戦争の構造そのものが対称ではない。兵力ではなく、組織力・補給・指揮系統の差がそのまま損害率になる。
1904年の蔚山沖海戦も同様だった。日本側の損害は極めて軽微で、ロシア側は巡洋艦部隊をほぼ失う。海戦は撃沈数よりも「制海権」を奪った側が勝つ。戦場とは撃ち合いではなく、補給路を誰が支配したかで決着する。
そして1945年8月14日は、一日というより数時間ごとに歴史の局面が変化した。
政府は降伏受諾へ向かう。
軍の一部はなお抗戦を望む。
宮城事件では録音盤を奪い終戦を阻止しようとしたが失敗した。
同じ頃、大阪では京橋駅への空襲で多数の市民が死亡し、満洲では葛根廟事件で避難民が攻撃され、多数が命を落とした。
この並行性が8月14日の本質である。
中央では「国家の決定」が進み、周辺ではその情報が届かないまま、人々は昨日までと同じ戦争を続けている。
歴史は教科書では一行で終わる。「日本は降伏を決定した」。
しかし現実には、その一行の裏側で数万人が通常通り移動し、爆撃され、攻撃され、飢え、命令を受け続けていた。
国家の意思決定は瞬間だが、その実施には時間差がある。
この時間差こそが最も危険になる。
葛根廟事件も、その典型例である。避難民の大半は女性や子どもだったとされる。関東軍主力は既に移動しており、防衛機能は失われていた。一方でソ連軍は作戦を継続していた。国家同士では終結へ向かう局面でも、現場ではなお軍事行動が続く。その結果、行政も軍隊も失われた空白地帯では、民間人が最も脆弱な存在となった。
興味深いのは、この日の災害や事故にも共通点が見えることである。
1899年の鹿児島台風、1959年の台風7号、1980年の富士山落石、1999年の玄倉川水難事故、2018年のモランディ橋崩落。
原因はそれぞれ異なる。
しかし共通する構造は、「危険が長時間蓄積し、ある瞬間に一気に表面化する」ことである。
台風は数日かけて勢力を増す。
橋は長年劣化する。
河川は降雨を蓄え続ける。
岩盤は少しずつ緩む。
事故当日は原因の日ではなく、結果の日である。
歴史も同じだ。
平家は一日で滅びたわけではない。
鎌倉幕府も一夜で暗殺が始まったわけではない。
1945年の終戦も、8月14日に突然決まったわけではない。
数年、あるいは数十年積み重なった選択が、この日に一斉に表面化しただけである。
8月14日は、「終わりの日」と見える。
しかし構造としては、「長く進行していた変化が可視化された日」である。
歴史は劇的な一日で動くように見えるが、その劇は何年も前に始まっている。そして、終わったように見えるその日にも、現場ではなお昨日と同じ戦争が続き、昨日と同じ災害が進行し、人々は昨日と同じ日常を送っている。
国家は決断を一度下せる。
しかし社会は同じ速度では止まらない。
8月14日は、その時間差が最も鮮明に現れた一日なのである。

