8月15日
20260815土曜日旧暦7月3日先負(58番辛酉かのととりシンユウ)月齢 2.3
43番丙午ひのえうま年 32番乙未きのとひつじ月 58番辛酉かのととり日
吉方位 隠遁日 辛酉かのととり日 北 大吉 年末まであと138日
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8月15日の出来事
1057年 – ランファナンの戦い。スコットランド王マクベスがマルカム(後のスコットランド王マルカム3世)に討たれる。
1248年 – 同年4月に火災で焼失したケルン大聖堂について、マリアの昇天の祝日であるこの日、大司教の命令で3代目となる聖堂の建築が起工[1]。1880年に完成。
1534年 – イグナチオ・デ・ロヨラ他7名によってイエズス会が結成。
1261年 – 東ローマ帝国・パレオロゴス王朝の初代皇帝ミカエル8世パレオロゴスが戴冠。
1461年 – ルイ11世がノートルダム大聖堂にて戴冠。
1483年 – システィーナ礼拝堂が開場。
1549年(天文18年7月22日) – フランシスコ・ザビエル一行が鹿児島に上陸。日本でキリスト教の布教が始まる。
1573年(天正元年7月18日) – 槇島城の戦い: 宇治・槇島城に立て籠っていた将軍・足利義昭が織田信長に降伏。義昭は京を追放され、室町幕府が事実上滅亡。
1760年 – 七年戦争: リーグニッツの戦い
プロイセンフリードリヒ大王軍 対 オーストリアハプスブルグ
戦力 プロイセン 16000 対 オーストリア 32000
損害 戦死傷 プロイセン 3500 対 オーストリア 6000+捕虜4000
1863年(文久3年7月2日) – イギリス艦隊が鹿児島に砲撃し、薩英戦争が開戦。
1868年 – エクアドル地震。エクアドル・コロンビア国境付近で地震。翌日も地震。二度の地震で死傷者7万人。(*エクアドルは典型的なカトリック国)
1886年 – 長崎事件。清国(中国)の水兵が長崎市内で暴動を起こし、日清両国に死傷者が出る。
清国水兵と斬り合う事態に発展し、それぞれ死傷者を出す(清国人士官1人死亡、3名負傷。清国人水兵3名死亡、50人余りが負傷。日本人側も警部3名負傷、巡査2名が死亡、16名が負傷。長崎市民も十数名が負傷)
1899年 – 森永太一郎によって森永西洋菓子製造所(森永製菓の前身)が創業。
1929年 – 嘆きの壁事件。嘆きの壁においてシオニストとアラブ人が衝突、多数の死傷者を出す。
暴動のあった一週間で、ユダヤ人は合計133人が殺害され339人が負傷した(大部分がアラブ人による殺傷)。アラブ人は合計116人が殺害され232人が負傷した(大部分はイギリス植民地警察・植民地兵による殺傷)。
1945年 – 第二次世界大戦: 正午、昭和天皇が「大東亜戦争終結の詔書」を朗読する玉音放送により、ポツダム宣言(正式には「日本軍への降伏要求の最終宣言(Proclamation Defining Terms for Japanese Surrender)」。7月26日にアメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマン、イギリス首相ウィンストン・チャーチル、中華民国主席蔣介石の名において大日本帝国(日本)に対して発された、「全日本軍の無条件降伏」等を求めた全13か条から構成される宣言)の受諾・連合国への降伏がラジオと新聞で日本国民に伝えられる(日本の終戦の日)。
1945年-沖縄戦8月15日・日本は8月10日未明にポツダム宣言受諾を決定、午前中には中立国を経由してアメリカなどに伝えられた。8月11日土曜日朝、バーンズ国務長官は日本の降伏を受け入れる覚書を送った。その日、世界は日本降伏のニュースに沸いたが、一方で日本の国民には知らされず、特攻出撃命令も次々と出された。日本は11日早々にアメリカ側の返信を受けつつも、会議はいっこうに進まず、軍内の徹底抗戦派によるクーデター危機を幾度も経験した。15日には玉音放送の録音盤(玉音盤)奪取計画すらあった。1945年8月15日の正午、「終戦の詔書」、いわゆる「玉音放送」がラジオで放送された。国民はこの放送で初めて「敗戦」を知らされる。<引用先原文>・宇垣中将の道連れ自死特攻について 川野和一さん証言
終戦だったっていうのを全然私は知らないわけです。そのときにもう一般の隊員は、終戦の話をされるから広場に集まれということで、広場に集合していたらしいです。我々は知らないから、飛行場に、指揮所に行ったわけですね。<8月15日「玉音放送」後の特攻命令 ~ 宇垣特攻とは ~ 川野和一さん証言 Battle of Okinawa>・長官の出撃を見送った中にさえ、「1人で死ね!」と叫ぶ声があった。海軍総隊の小沢長官も、あからさまに不快な表情でこの自爆飛行を非難した。<「1人で死ね!」玉音放送を聴いたにもかかわらず特攻機に乗り込んだ司令長官…見送る兵士たちの“悲痛すぎる叫び” | 文春オンライン>・
・敗戦の日以来、残存将兵たちへの投降の呼びかけが連日活発に行なわれたが、容易に成果が上がらなかった。摩文仁の海岸洞窟にひそむ日本兵も民間人も、日本の敗戦を信じようとせず、米軍の掃蕩兵に撃たれたり、逆に米兵が殺されたり、相変わらずの戦闘状態が続いていた。<渡辺憲央『逃げる兵ーサンゴ礁の碑』マルジュ社 (1979年) – Battle of Okinawa>
1953年 – 各地で豪雨災害が発生(南山城豪雨・多羅尾豪雨)。
死者290人 行方不明者140人 負傷者994人
2007年 – ペルー地震。死傷者数 少なくとも514人死亡[2]、1,090人怪我[2]
2021年 – ターリバーンが首都カブールを陥落し、アフガニスタン全土を支配下に置いたと宣言[9][10]。アシュラフ・ガニー政権が事実上崩壊した。
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1057年 – ランファナンの戦い。スコットランド王マクベスがマルカム(後のスコットランド王マルカム3世)に討たれる。
ランファナンの戦い (ランファナンのたたかい、英語: Battle of Lumphanan)は、1057年8月15日にスコットランド王マクベスとマルカム(後のマルカム3世)と争い、戦死した戦い。戦場は伝統的にアバディーンシャーのランファナン砦とされている。ランファナン砦の南西300メートルほどの地点に、マクベスが首を取られた場所であるという「マクベスの石」がある[1]。
マクベタッド・マク・フィンレック(Mac Bethad mac Findlaich, 現代ゲール語:MacBheatha mac Fhionnlaigh, 1005年 – 1057年8月15日[2])は、スコットランド王(在位 : 1040年 – 1057年)。ウィリアム・シェイクスピアの戯曲の題名にもなったマクベス(Macbeth)の通称で世界的に知られる。マルカム2世の次女ドウナダ(Donada)とマリ領主フィンレック(Findlaich)の間に生まれた。異父兄にオークニー伯トールフィン(ソーフィン)がいる。マクベスの名は、ゲール語で「生命の子(マク・ベーサ)」の意味である[3]。
52歳没。
1248年 – 同年4月に火災で焼失したケルン大聖堂について、マリアの昇天の祝日であるこの日、大司教の命令で3代目となる聖堂の建築が起工[1]。1880年に完成。
1534年 – イグナチオ・デ・ロヨラ他7名によってイエズス会が結成。
イエズス会(イエズスかい、ラテン語: Societas Iesu)は、カトリック教会の男子修道会[2][3]。1534年にイグナティウス・デ・ロヨラを中心として、フランシスコ・ザビエル、ピエール・ファーブルら7人によって創設され、1540年にローマ教皇パウルス3世により承認された[4]。草創期から世界各地への宣教に積極的に取り組み[5][6]、日本に初めてカトリックをもたらした[7]。なおイエズスは、中世ラテン語による Iesus(イエス・キリスト)の古くからのカトリックの日本語表記である[要出典]。
会の略称はS.J.であり、中国や古くの日本では「イエス」の漢訳が耶穌であることから耶穌会(やそかい)やジェズイット (Jesuit[8]) 教団とも呼ばれた[9]。
イエズス会は「神の軍隊」、イエズス会員は「教皇の精鋭部隊」とも呼ばれ、軍隊的な規律で知られる。このような軍隊的な会風は、創立者の1人で・初代総長のイグナティウス・デ・ロヨラが、修道生活に入る以前に騎士であり、長く軍隊で過ごしたことと深い関係がある。
現代では六大陸の112か国で活動する2万人の会員がいる。これはカトリック教会の男子修道会としては最大規模のものである。イエズス会の主な活動は高等教育と研究活動といった教育活動であり、宣教事業や社会正義事業と並んで活動の三本柱となっている。
イエズス会の保護者は聖母マリアの数ある称号の一つである「道の聖母 (Madonna Della Strada) 」。イエズス会の指導者は終身制で総長とよばれる。現在の総長はアルトゥロ・ソサ(スペイン語版) 師である。会の総本部はローマにあり、かつて本部がおかれていたジェズ教会(Chiesa del Gesù)は歴史的建築物となっている。
1261年 – 東ローマ帝国・パレオロゴス王朝の初代皇帝ミカエル8世パレオロゴスが戴冠。
1461年 – ルイ11世がノートルダム大聖堂にて戴冠。
1483年 – システィーナ礼拝堂が開場。
1549年(天文18年7月22日) – フランシスコ・ザビエル一行が鹿児島に上陸。日本でキリスト教の布教が始まる。
1573年(天正元年7月18日) – 槇島城の戦い: 宇治・槇島城に立て籠っていた将軍・足利義昭が織田信長に降伏。義昭は京を追放され、室町幕府が事実上滅亡。
槇島城の戦い(まきしまじょうのたたかい)は、元亀4年(1573年)7月に織田信長と室町幕府の将軍・足利義昭との間で行われた戦い。この戦いで義昭が敗れた結果、京都から追放され、室町幕府は事実上滅亡した[3][4]。
7月18日午前10時頃、織田軍は作戦通り、川上の平等院、川下の五ヶ庄より二手に分かれて川を渡ると、しばし休息し、槇島城のある南向きに隊列を整えた[25]。城から足軽が出てきたが、佐久間信盛・蜂屋頼隆らがこれを50ほど討ち取り、織田軍は城を包囲した。
織田軍は槇島城を攻撃し、槇島一帯も焼き払った[19][26]。槙島城の外構は乗り破られ、火をつけられて迫られた[25]。義昭は槇島城を難攻不落の城と捉えていたようであるが、信長の大軍の前では全く無力であった[1]。
本城も危うくなったことで、義昭は織田軍の攻勢に恐怖し、信長に講和を申し入れた[19]。義昭は敗軍の将として、信長の眼前に引き据えられた[1]。信長は義昭の一命は助けたが[1]、講和の条件として2歳の息子・義尋を人質に出させることで降伏を受け入れた[19]。
1760年 – 七年戦争: リーグニッツの戦い
プロイセンフリードリヒ大王軍 対 オーストリアハプスブルグ
戦力 プロイセン 16000 対 オーストリア 32000
損害 戦死傷 プロイセン 3500 対 オーストリア 6000+捕虜4000
リーグニッツの戦い(リーグニッツのたたかい、ドイツ語: Schlacht bei Liegnitz)は七年戦争中の戦闘であり、1760年8月15日、フリードリヒ大王率いるプロイセン軍が、エルンスト・ギデオン・フォン・ラウドン率いるオーストリア(ハプスブルク帝国)軍を破った。
両軍はシュレージエン地方の都市リーグニッツの周辺で衝突した。早朝にラウドン率いるオーストリア騎兵はプロイセン軍陣地を攻撃したが、これをツィーテン率いるハサーの反撃を受けて後退を強いられる。続いて両軍は砲撃合戦を始めるが、これはプロイセン軍の榴弾がオーストリア軍の弾薬庫に命中し、勝敗が決する。仕方なくオーストリア軍は歩兵戦列を前進させるが、プロイセン軍の激しい砲撃によって阻まれてしまった。アンハルト=ベルンブルク公率いるプロイセン軍歩兵連隊が反攻に出ると、オーストリア軍は退却に追い込まれた。
退却するオーストリア軍は止まないプロイセン軍の砲撃に悩まされることになる。ダウンはラウドンの敗北を知ったにもかかわらず、自身が率いる無傷の軍勢を加勢させることを拒んだ。これは後に両者の対立を生む原因となった。
1863年(文久3年7月2日) – イギリス艦隊が鹿児島に砲撃し、薩英戦争が開戦。
戦闘の結果
薩摩側の砲台によるイギリス艦隊の損害は、大破1隻・中破2隻の他、死傷者は63人(旗艦「ユーライアラス」の艦長ジョンスリングや副長ウィルモットの戦死を含む死者13人、負傷者50人内7人死亡[27])に及んだ。一方、薩摩側の人的損害は祇園之洲砲台では税所清太郎(篤風)[3]のみが戦死し、同砲台の諸砲台総物主(部隊長)の川上龍衛や他に守備兵6名が負傷した[28]。他の砲台では沖小島砲台で2名の砲手などが負傷した[29]。市街地では7月2日に流れ弾に当たった守衛兵が3人死亡、5人が負傷した。7月3日も流れ弾に当たった守衛兵1名が死亡した。物的損害は台場の大砲8門、火薬庫の他に、鹿児島城内の櫓、門等損壊、集成館、鋳銭局、寺社、民家350余戸、藩士屋敷160余戸、藩汽船3隻、琉球船3隻、赤江船2隻が焼失と軍事的な施設以外への被害は甚大であり、艦砲射撃による火災の焼失規模は城下市街地の「10分の1」になる。
島津家は2万5000ポンドに相当する6万300両を幕府から借用して支払ったが、これを幕府に返さなかった。また、講和条件の一つである生麦事件の加害者は「逃亡中」として処罰されなかった。
イギリスは講和交渉を通じて薩摩を高く評価するようになり、関係を深めていく(2年後には公使ハリー・パークスが薩摩を訪問しており、通訳官アーネスト・サトウは多くの薩摩藩士と個人的な関係を築く)。薩摩側も、欧米の文明と軍事力の優秀さを改めて理解し、イギリスとの友好関係を深めていった。
1868年 – エクアドル地震。エクアドル・コロンビア国境付近で地震。翌日も地震。二度の地震で死傷者7万人。(*エクアドルは典型的なカトリック国)
1886年 – 長崎事件。清国(中国)の水兵が長崎市内で暴動を起こし、日清両国に死傷者が出る。
清国水兵と斬り合う事態に発展し、それぞれ死傷者を出す(清国人士官1人死亡、3名負傷。清国人水兵3名死亡、50人余りが負傷。日本人側も警部3名負傷、巡査2名が死亡、16名が負傷。長崎市民も十数名が負傷)
1899年 – 森永太一郎によって森永西洋菓子製造所(森永製菓の前身)が創業。
品質第一を心がけ、駐日アメリカ公使夫人や皇室からも注文がきた。やがて箱入りのミルク・キャラメルがヒット商品となり、全国的に有名になる[6]。
帰国後起業家となり多額の富を得た森永はキリスト教を離れたが、1930年に2人目の妻を亡くしたのをきっかけに再び信仰に戻る。関東大震災ではミルクの接待30万人、ビスケット・キャラメルなどの菓子類6万袋、米87石8斗、小缶練乳1万5千缶に達した。それからも、日比谷公園や芝公園などの避難場所でトラックに満載したドーナッツの配布した[7]。
1935年4月に社長を引退、その後はキリスト教の教えを説きながら全国をめぐる日々を過ごした。1937年に71歳で没した[1]。
1919年 – 鹿児島県種子島沖合で海軍運送船「自岐丸」が暴風雨を受けて沈没。死者111人[2]。
1929年 – 嘆きの壁事件。嘆きの壁においてシオニストとアラブ人が衝突、多数の死傷者を出す。
暴動のあった一週間で、ユダヤ人は合計133人が殺害され339人が負傷した(大部分がアラブ人による殺傷)。アラブ人は合計116人が殺害され232人が負傷した(大部分はイギリス植民地警察・植民地兵による殺傷)。
1945年 – 第二次世界大戦: 正午、昭和天皇が「大東亜戦争終結の詔書」を朗読する玉音放送により、ポツダム宣言(正式には「日本軍への降伏要求の最終宣言(Proclamation Defining Terms for Japanese Surrender)」。7月26日にアメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマン、イギリス首相ウィンストン・チャーチル、中華民国主席蔣介石の名において大日本帝国(日本)に対して発された、「全日本軍の無条件降伏」等を求めた全13か条から構成される宣言)の受諾・連合国への降伏がラジオと新聞で日本国民に伝えられる(日本の終戦の日)。
1945年-沖縄戦8月15日・日本は8月10日未明にポツダム宣言受諾を決定、午前中には中立国を経由してアメリカなどに伝えられた。8月11日土曜日朝、バーンズ国務長官は日本の降伏を受け入れる覚書を送った。その日、世界は日本降伏のニュースに沸いたが、一方で日本の国民には知らされず、特攻出撃命令も次々と出された。日本は11日早々にアメリカ側の返信を受けつつも、会議はいっこうに進まず、軍内の徹底抗戦派によるクーデター危機を幾度も経験した。15日には玉音放送の録音盤(玉音盤)奪取計画すらあった。1945年8月15日の正午、「終戦の詔書」、いわゆる「玉音放送」がラジオで放送された。国民はこの放送で初めて「敗戦」を知らされる。<引用先原文>・宇垣中将の道連れ自死特攻について 川野和一さん証言
終戦だったっていうのを全然私は知らないわけです。そのときにもう一般の隊員は、終戦の話をされるから広場に集まれということで、広場に集合していたらしいです。我々は知らないから、飛行場に、指揮所に行ったわけですね。<8月15日「玉音放送」後の特攻命令 ~ 宇垣特攻とは ~ 川野和一さん証言 Battle of Okinawa>・長官の出撃を見送った中にさえ、「1人で死ね!」と叫ぶ声があった。海軍総隊の小沢長官も、あからさまに不快な表情でこの自爆飛行を非難した。<「1人で死ね!」玉音放送を聴いたにもかかわらず特攻機に乗り込んだ司令長官…見送る兵士たちの“悲痛すぎる叫び” | 文春オンライン>・
・敗戦の日以来、残存将兵たちへの投降の呼びかけが連日活発に行なわれたが、容易に成果が上がらなかった。摩文仁の海岸洞窟にひそむ日本兵も民間人も、日本の敗戦を信じようとせず、米軍の掃蕩兵に撃たれたり、逆に米兵が殺されたり、相変わらずの戦闘状態が続いていた。<渡辺憲央『逃げる兵ーサンゴ礁の碑』マルジュ社 (1979年) – Battle of Okinawa>
1953年 – 各地で豪雨災害が発生(南山城豪雨・多羅尾豪雨)。
死者290人 行方不明者140人 負傷者994人
2007年 – ペルー地震。死傷者数 少なくとも514人死亡[2]、1,090人怪我[2]
2021年 – ターリバーンが首都カブールを陥落し、アフガニスタン全土を支配下に置いたと宣言[9][10]。アシュラフ・ガニー政権が事実上崩壊した。
2024年 – ロシアのウクライナ侵攻: クルスク州への侵攻を同月6日に開始したウクライナが現地に軍事当局を設置し、クルスク州の占領を開始。
チャットgpt先生の8月15日のエッセイ
8月15日――「転換点は、一日で訪れるのではなく、一日に現れる」
8月15日は、日本では終戦の日として記憶される。しかし歴史全体を俯瞰すると、この日は単なる「終わりの日」ではない。王朝の交代、宗教組織の成立、国家体制の崩壊、軍事的勝利、巨大災害、新国家の誕生まで、「ある構造が終わり、別の構造が始まる日」として繰り返し現れる。
重要なのは、一日で世界が変わるのではなく、長期間蓄積された力関係が、この日に可視化されることである。
1057年、スコットランドではマクベスが戦死した。シェイクスピア作品の印象とは異なり、彼は17年間王位を維持した現実的な統治者だった。その支配は一度の戦闘で突然終わったのではない。諸勢力の支持が徐々に失われ、最後に戦場で決着がついただけである。
1573年の槇島城の戦いも同じ構造である。足利義昭が降伏し、室町幕府は事実上終焉を迎えた。しかし室町幕府はこの日突然弱体化したのではない。応仁の乱以降百年以上積み重なった統治能力の低下が、最後に一つの戦闘という形で表面化したのである。
1945年8月15日も同様である。玉音放送は「終戦の日」と呼ばれるが、実際には8月10日に受諾方針は固まり、その後も軍内部では徹底抗戦派との政治闘争が続き、終戦後も各地で戦闘は継続した。8月15日は戦争そのものが終わった日ではなく、日本という国家の意思決定が国民へ公表された日だった。構造変化と、その認識には時間差が存在する。
この「認識の遅れ」は歴史に何度も現れる。
2021年、ターリバーンがカブールへ入城した日も、突然国家が消えたわけではない。二十年間続いた政府軍の脆弱性、外国軍への依存、地方支配の浸食が積み重なり、最後に首都陥落という一日が象徴となった。
2024年、ウクライナ軍がクルスク州へ侵攻し占領行政を開始した出来事も、戦線が固定されているという前提を崩した象徴的な転換だった。戦争は一つの前提が崩れると、その後の交渉、補給、外交、世論まで一斉に再配置される。
宗教史にも同じ現象が見える。
1534年にイエズス会が結成された時、その規模はわずか七人だった。しかし軍隊的な規律と教育制度を備えた組織は、その後数世紀にわたり世界へ拡大し、日本にも到達する。1549年のフランシスコ・ザビエル来日は、日本側から見れば「宣教師来航」であるが、イエズス会から見れば世界展開の一工程に過ぎない。
つまり歴史では、当事者にとって大事件でも、より大きな構造から見れば計画の途中であることが珍しくない。
軍事史を見ると、1760年リーグニッツの戦いも興味深い。兵力ではオーストリア軍が倍近い優位を持ちながら敗北した。勝敗を決めたのは総兵力ではなく、指揮系統、砲兵運用、戦場での判断速度だった。
歴史は「量」がそのまま結果になる世界ではない。
一方で自然災害は、人間の構造を容赦なく破壊する。
1868年エクアドル地震、1953年豪雨災害、2007年ペルー地震では、それまで維持されていた社会インフラが短時間で崩壊した。政治体制や軍隊は意思決定で動くが、自然は意思を持たない。だからこそ社会は、災害発生後の行政能力によって実力を測られる。
経済では1899年の森永創業が対照的である。
国家や戦争は短期間で転換するが、企業は逆である。創業日は歴史に残るが、その価値は何十年もの品質管理、販売網、ブランド形成によって積み上がる。歴史に残る一日は、長い時間の出発点でしかない。
こうして8月15日を眺めると、一つの共通点が見えてくる。
王朝の交代も、宗教組織の成立も、企業の創業も、国家の敗戦も、軍事侵攻も、自然災害も、それぞれ性質は全く異なる。しかし共通しているのは、「見えている結果は、その日以前に蓄積された構造の総決算」であることだ。
歴史は劇的な一日で動いているように見える。しかし実際には、構造が長期間変化し続け、その変化がある一日に誰の目にも否定できない形で現れる。
8月15日は、そのような「転換点が可視化される日」の典型例である。
歴史は日付によって動くのではない。構造によって動き、日付はその構造が姿を現した瞬間を記録しているのである。

