kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日7月3日 1863年ゲティスバーグ戦終結、ほかwikipediaゲティスバーグ会戦図

7月3日

20260703金曜日旧暦5月19日大安(15番戊寅つちのえとらボイン)月齢 18

43番丙午ひのえうま年 31番甲午きのえうま月 15番戊寅つちのえとら日

吉報位 隠遁日 戊寅つちのえとら日 東 南 中吉 年末まではあと181日

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7月3日の出来事

822年(弘仁13年6月11日) – 延暦寺の大乗戒壇建立が勅許。

1837年(天保8年6月1日) – 生田万の乱。

1863年 – 南北戦争: ゲティスバーグの戦いが終結。戦争:南北戦争

年月日:1863年7月1日 – 7月3日

場所:ペンシルベニア州アダムズ郡近郊

結果:アメリカ合衆国の勝利

損害:北部アメリカ合衆国93,921    中23,055(戦死 3,155 負傷 14,531 捕虜・不明 5,365)南部アメリカ連合国71,699 中23,231(戦死 4,708 負傷 12,693 捕虜・不明 5,830)

1866年 – 普墺戦争: ケーニヒグレーツの戦い。プロイセン軍がオーストリア軍に大勝をおさめる。

戦争:普墺戦争

年月日:1866年7月3日

場所:ケーニヒグレーツ(現フラデツ・クラーロヴェー)近郊(サドワ村との中間)

結果:プロイセンの勝利

損害:プロイセン軍 221000 中戦死傷9000人 オーストリア軍 206000 中戦死傷戦死傷 約24,000人 捕虜 約20,000人 

1931年 – 朝鮮排華事件:朝鮮で中国人が100名以上殺害される。

1935年 – 小豆島沖で「みどり丸」と「大連丸」が衝突し「みどり丸」が沈没。旅客92人及び乗組員6人が溺死し、 旅客8人及び乗組員1人が行方不明となる[7]。 

1938年 – イギリスの蒸気機関車マラードが、蒸気機関車の世界最高速度203km/hを記録。

1945年-沖縄戦7月3日・【沖縄戦の絵】「尖閣諸島近海  疎開船への攻撃」

石垣島から台湾への最後の疎開船・第一千早丸に家族で乗っていた時の体験。よく晴れた日、魚釣島近海にさしかかった時、米軍戦闘機が現れて同じ船団の第五千早丸を攻撃、船は炎上して沈没した。戦闘機はその後、第一千早丸の上を何度も旋回して機銃攻撃を繰り返し、機関室は破損、船底も破壊された。女性や子どもなど約90人が乗船していた船内は、叫びやうめき声で騒然となった。…頭の左側に弾がかすり、血が噴き出した。姉が海へ飛び込もうと言ったが、「死ぬなら家族一緒」と考えた母親は、末の子のおぶいひもを家族8人全員にくくりつけ船内に留まった。船はその後、魚釣島に着いたが、50日間食糧はなく餓死寸前に陥った。その後家族は全員石垣島に戻ることができたが、7人きょうだいのうち下の2人は栄養不足などがたたってまもなく亡くなった。

<尖閣諸島近海 疎開船への攻撃 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局 >

船は、第一千早丸(一心丸)第五千早丸(友福丸)で、180名ほどの疎開者で、そのほとんどが老人、婦人、子どもで、その外に台湾人、朝鮮人が乗っていました。

<『沖縄県史 第9巻/第10巻』 沖縄戦証言 ~ 八重山 ( 3 ) – Battle of Okinawa>

・当時、一心丸の機関長だった金城珍吉さん(64)の話によると、「7月2日午後7時ごろ、舟浮港を出て、1回目と同じ航路(尖閣諸島経由)を取って7月3日午後5時ごろ、基隆港に入る予定」だった。波もなく、風も静かで、疎開者の中からは楽しそうな歌声も聞こえてきたという。 ところが、入港予定間近の3日午後2時ごろ、2隻の疎開船は米軍機に捕捉される。B24といわれている。…

B-24は繰り返し攻撃した。一心丸は火災を起こし、逃げ遅れた者は生きながら焼かれた。火から逃れようと次々に海へ飛び込んだ。

<尖閣諸島戦時遭難事件「一心丸・友福丸事件」 – Battle of Okinawa>

1970年 – マンチェスターからバルセロナに向かって飛行中のダン・エア・サービスのDH106 コメットがバルセロナ近郊に墜落、乗員乗客112名全員が死亡[11]。

1971年 – ばんだい号墜落事故。北海道横津岳に東亜国内航空(現・日本航空)のYS-11ばんだい号が墜落。

1988年 – イラン航空655便撃墜事件。アメリカ海軍のミサイル巡洋艦『ヴィンセンス』がホルムズ海峡でイラン航空のエアバスA300B2型機を撃墜、乗員乗客290名が死亡。

2006年 – スペイン・バレンシアで地下鉄脱線事故[14]。死者43人。

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822年(弘仁13年6月11日) – 延暦寺の大乗戒壇建立が勅許。

戒壇の歴史

・日本に仏教が伝わったのは538年であるが、その際に伝わった戒律は、不完全なものであった。当時、出家は税を免除されていたため、税を逃れるために出家して得度を受けない輩(私度僧)が多く、出家といえど修行もせず堕落した僧が多かった[1]。

・そのため、唐より鑑真が招かれ、戒律が伝えられた。この戒律を守れるものだけが僧として認められることとなった。その結果、仏教界の規律は守られるようになった。鑑真は754年、東大寺に戒壇を築き、同年4月に聖武天皇をはじめ430人に授戒を行なった。これが最初の戒壇である。

・その後、東大寺に戒壇院を建立し、筑紫の大宰府の観世音寺、下野国(現在の栃木県)の薬師寺に戒壇を築いた(天下の三戒壇)[2]。

<大乗戒壇>

・これ以降、僧になるためには、いずれかの戒壇で授戒して戒牒を受けることが必須となり、国(国分寺)が僧を管理することになった。しかし、822年、最澄の死後に延暦寺に対して戒壇の勅許が下され、戒壇が建立された。大乗戒壇と呼ばれることもある。当時は、中国の仏教界は延暦寺の大乗戒壇を、戒壇としては認めておらず、ここで受戒した僧は、道元禅師の例にもあるように中国では僧侶として認められなかった。また、官立寺院(官寺)ではない延暦寺の山内に戒壇設置を認められたことに、東大寺をはじめとする南都(奈良)の寺院の反発を抱き、両者の対立の原因の一つとなった[3]。

・大乗戒壇は権力闘争の原因ともなり、天台宗の山門寺門の争いは有名である。また、戒壇で授戒を受けた僧侶の中にも修行もせず堕落した僧侶も多くなった。鎌倉時代の叡尊は元々真言僧であったが、後に鑑真が伝えた律宗を学んで両者を統合した真言律宗を起こし、三戒壇や延暦寺の戒壇は実態を失って授戒を行うに値しないと批判して、戒律に則って結界を築き正しい手順に従って儀式を行えば授戒は成立すると唱え、自ら仲間とともに東大寺において改めて授戒を行い、更に西大寺に独自の戒壇を創設した[4]。続いて、延暦寺の僧侶であった円観も比叡山を離れて独自の戒壇を置いた。以後、南都や延暦寺と対立する形で成立した鎌倉仏教も独自の得度・授戒の儀式を行うようになっていった。その一方で、東大寺や延暦寺の戒壇も由緒あるものとして尊重され[5]、江戸時代の終わりまで授戒が行われていた。

1837年(天保8年6月1日) – 生田万の乱

生田万の乱(いくたよろずのらん)は、天保の大飢饉のさなか、天保8年(1837年)6月に国学者の生田万が越後国柏崎で貧民救済のため蜂起した事件。同年の大塩平八郎の乱の余波。

概要

上野国館林に生まれた生田万は、平田篤胤に入門し、碧川好尚(篤胤養子平田銕胤の弟)とならぶ篤胤の二大高弟の一人として平田塾(気吹舎)の塾頭を務め、篤胤に「後をつぐものは国秀[注釈 1]」と将来を嘱望された人物である[1][2][3]。篤胤は、敬神尊王の志すこぶる厚く、幕政批判の言動も見え始めた万を危ぶみ、かれに帰藩を勧め、万はこれにしたがい館林藩にもどったが、文政11年(1828年)、藩主に提出した藩政改革の書によって追放処分を受けた[1][注釈 2]。

天保7年(1836年)、万は、越後国柏崎へ移り、桜園塾を開き、国学を講じた[1]。万が、柏崎に移ったのは、同門の友人樋口英哲に招かれてのことといわれる[1]。天保年間は大飢饉により多数の餓死者を出していたが、そのような状況にあっても豪商や代官役人は結託して米を買い占める不正を働き、米価は暴騰して庶民生活を圧迫していた。万は、越後で貧民に食糧を与えるなどして人望を集めた[1]。

万は、天保8年(1837年)3月に大坂で蜂起した大塩平八郎に刺激され、同年5月30日、同志5人とともに越後国桑名藩領荒浜村の庄屋の屋敷を襲撃して金品を奪って村民に与え、柏崎町への同行を誘った[2]。翌6月1日、新しく加わった14名とともに、米の津出(つだし)を図る桑名藩陣屋を襲撃した[2][3]。旗には「奉天命誅国賊」の文字が書かれていた[1]。陣屋側は大混乱となったが、駆けつけた長岡藩の兵によって撃ち破られ、万は、負傷して自刃した[2]。妻と2人の幼い子供も自害したと伝わる。乱の翌日より、米価は値下がりしたといわれている。

1863年 – 南北戦争: ゲティスバーグの戦いが終結。戦争:南北戦争

年月日:1863年7月1日 – 7月3日

場所:ペンシルベニア州アダムズ郡近郊

結果:アメリカ合衆国の勝利

損害:北部アメリカ合衆国93,921    中23,055(戦死 3,155 負傷 14,531 捕虜・不明 5,365)南部アメリカ連合国71,699 中23,231(戦死 4,708 負傷 12,693 捕虜・不明 5,830)

ゲティスバーグの戦い(ゲティスバーグのたたかい、英語: Battle of Gettysburg)は、南北戦争において事実上の決戦となった戦い。ゲティスバーグ戦役の中核を成し、アメリカ合衆国軍とアメリカ連合国が双方総力を結集、南北戦争史上最大の激戦となった。

1866年 – 普墺戦争: ケーニヒグレーツの戦い。プロイセン軍がオーストリア軍に大勝をおさめる。

戦争:普墺戦争

年月日:1866年7月3日

場所:ケーニヒグレーツ(現フラデツ・クラーロヴェー)近郊(サドワ村との中間)

結果:プロイセンの勝利

損害:プロイセン軍 221000 中戦死傷9000人 オーストリア軍 206000 中戦死傷戦死傷 約24,000人 捕虜 約20,000人 

ケーニヒグレーツの戦い(ケーニヒグレーツのたたかい、独: Schlacht bei Königgrätz)は、普墺戦争における会戦の1つ。1866年7月3日にボヘミア(ベーメン)中部のケーニヒグレーツ(現在はチェコの都市フラデツ・クラーロヴェー)とサドワ村(英語版)の中間地点でプロイセン王国とオーストリア帝国の軍の間で戦われた。分進合撃に成功したプロイセン軍はオーストリア軍を包囲し、決定的な打撃を与え、戦争終結を決定づけた。サドワの戦いとも呼ばれる。

1931年 – 朝鮮排華事件:朝鮮で中国人が100名以上殺害される。

朝鮮排華事件(ちょうせんはいかじけん)とは、1931年7月3日から発生した朝鮮半島における朝鮮人による中華街襲撃事件とそれに係る中国人殺傷事件[1]。 朝鮮内排華事件[2][3]、朝鮮事件[4]とも呼称される。万宝山事件に包含して呼称されることもある[5]。 リットン調査団は朝鮮人によって中国人127名が殺害されたと報告している[5]。

万宝山事件とそれに係る誤った誇大報道により感情を刺戟された朝鮮人によって[9][6]、日本統治下の朝鮮京城府(現大韓民国ソウル特別市)仁川を中心にして朝鮮半島各地で中国人襲撃事件が起きていた[1]。7月3日午前1時に仁川で軽微な暴行事件が起きると、朝鮮総督府は直ちに朝鮮各道に警戒するよう通牒を出した[10]。総督府は悪化して行く情勢を受け、3度にわたって通牒を発していたが平壌では大事件が勃発することとなった[10]。

7月4日午後9時30分、京城府外新堂里において100余名の朝鮮人と40名の中国人が衝突し、朝鮮人1名が死亡し中国人1名が重傷を負う事件が起き、その他数か所に渡って中国人住居が放火される事件が起きた[11]。同日午後11時より仁川では数千人の群衆が警察に反抗し、外里派出所(交番)を襲撃して破壊するとともに電線を切断するなど暴動を激化させていった[11]。このため総督府は警察官に武装させて厳重警戒を布いたところ、午前3時にようやく襲撃団を解散させることができた[11]。

7月5日、朝鮮総督府は各道知事に民心を刺戟・扇動する記事を掲載しないよう新聞・通信社に対して警告するよう通牒する[12]。同日、平壌では午後9時から翌7月6日3時にかけて数千人の朝鮮人が中華街を襲撃し、狂暴の限りを尽くし中国人88名を殺害し、102名を負傷させた[1][13][注 1]。事件を食い止めようと已む無く警察が発砲したため朝鮮人1名も死亡した[14]。総督府は事態の悪化を防ぐため、職員を派遣するとともに補助憲兵の応援を頼み現地駐屯部隊からは将兵51名が派遣された[15]。また、警察官115名を増派して、武装警官350名をもって警戒にあたったが警察官35名が負傷する事態となった[10]。事件発生地の仁川では警察官30名と乗馬5頭が負傷した[10]。このような暴動のさなか総督府は被災者の収容に務めていた[10]。

1935年 – 小豆島沖で「みどり丸」と「大連丸」が衝突し「みどり丸」が沈没。旅客92人及び乗組員6人が溺死し、 旅客8人及び乗組員1人が行方不明となる[7]。 

1938年 – イギリスの蒸気機関車マラードが、蒸気機関車の世界最高速度203km/hを記録。

マラード (Mallard) は、ロンドン・アンド・ノース・イースタン鉄道 (LNER) の蒸気機関車である。4468号機「マラード」はA4形のうちで、最も有名な車両である。日本ではマラード号と呼ばれることが多い。この機関車はナイジェル・グレズリー卿によって設計され、1938年イングランドのドンカスターで製造された。

風洞実験を利用して設計された空気力学的に優れた流線形の車体をもち、時速160 km(100 mph)以上の速度で走ることができた。1963年の引退までの総走行距離は約240万キロ。1988年に50周年を記念して動態に復元されたが、ボイラーが検査を通過できず2003年9月に再び引退した。現在はヨークにあるイギリス国立鉄道博物館の収蔵品の一部として静態保存されている。全長は21 m(70 ft)、総重量は165 t。車軸配置は4-6-2。

記録

マラードの速度記録銘板

マラード号は時速203 km という蒸気機関車の世界最高速度記録をもつ。この記録は1938年7月3日、東海岸本線のグランサムにあるストーク・バンクの下り坂で樹立された。最高速度が記録された位置は、Little BythamとEssendineの間、901/4のマイル標(距離標)の地点である。これにより、ドイツ国鉄05形蒸気機関車が1936年に樹立した最速記録、時速200.4 km を塗り替えることに成功した。

1945年-沖縄戦7月3日・【沖縄戦の絵】「尖閣諸島近海  疎開船への攻撃」

石垣島から台湾への最後の疎開船・第一千早丸に家族で乗っていた時の体験。よく晴れた日、魚釣島近海にさしかかった時、米軍戦闘機が現れて同じ船団の第五千早丸を攻撃、船は炎上して沈没した。戦闘機はその後、第一千早丸の上を何度も旋回して機銃攻撃を繰り返し、機関室は破損、船底も破壊された。女性や子どもなど約90人が乗船していた船内は、叫びやうめき声で騒然となった。…頭の左側に弾がかすり、血が噴き出した。姉が海へ飛び込もうと言ったが、「死ぬなら家族一緒」と考えた母親は、末の子のおぶいひもを家族8人全員にくくりつけ船内に留まった。船はその後、魚釣島に着いたが、50日間食糧はなく餓死寸前に陥った。その後家族は全員石垣島に戻ることができたが、7人きょうだいのうち下の2人は栄養不足などがたたってまもなく亡くなった。

<尖閣諸島近海 疎開船への攻撃 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局 >

船は、第一千早丸(一心丸)第五千早丸(友福丸)で、180名ほどの疎開者で、そのほとんどが老人、婦人、子どもで、その外に台湾人、朝鮮人が乗っていました。

<『沖縄県史 第9巻/第10巻』 沖縄戦証言 ~ 八重山 ( 3 ) – Battle of Okinawa>

・当時、一心丸の機関長だった金城珍吉さん(64)の話によると、「7月2日午後7時ごろ、舟浮港を出て、1回目と同じ航路(尖閣諸島経由)を取って7月3日午後5時ごろ、基隆港に入る予定」だった。波もなく、風も静かで、疎開者の中からは楽しそうな歌声も聞こえてきたという。 ところが、入港予定間近の3日午後2時ごろ、2隻の疎開船は米軍機に捕捉される。B24といわれている。…

B-24は繰り返し攻撃した。一心丸は火災を起こし、逃げ遅れた者は生きながら焼かれた。火から逃れようと次々に海へ飛び込んだ。

<尖閣諸島戦時遭難事件「一心丸・友福丸事件」 – Battle of Okinawa>

1970年 – マンチェスターからバルセロナに向かって飛行中のダン・エア・サービスのDH106 コメットがバルセロナ近郊に墜落、乗員乗客112名全員が死亡[11]。

1971年 – ばんだい号墜落事故。北海道横津岳に東亜国内航空(現・日本航空)のYS-11ばんだい号が墜落。

1988年 – イラン航空655便撃墜事件。アメリカ海軍のミサイル巡洋艦『ヴィンセンス』がホルムズ海峡でイラン航空のエアバスA300B2型機を撃墜、乗員乗客290名が死亡。

2006年 – スペイン・バレンシアで地下鉄脱線事故[14]。死者43人。

チャットgpt先生の7月3日のエッセイ

7月3日 ― 制度と火力と大量死の日

7月3日という日を並べて眺めると、「理想が制度になり、制度が力になり、その力が人間を押し流していく」という流れが見える。

822年、最澄の悲願だった延暦寺の大乗戒壇が認められた。表面的には宗教史の出来事だが、本質は「誰が正統な資格を与えるのか」という権限の再編である。それまで東大寺など南都仏教が独占していた僧侶認定権に、比叡山が割り込んだ。宗教改革というより、巨大組織間の権力再編だった。

千年後の1837年、飢饉の中で生田万が蜂起する。こちらは逆方向だ。制度から排除された側が、制度を力で動かそうとした。しかし結果は失敗する。理想や正義感だけでは武装した行政機構には勝てない。だが乱の後に米価が下がったという逸話が残るように、権力は必ずしも武力で倒されなくても圧力によって反応する。

19世紀後半になると、国家そのものが巨大化する。

1863年のゲティスバーグ。
1866年のケーニヒグレーツ。

両者は性質が違うようでいて共通している。どちらも近代国家が持つ総動員能力の実験場だった。

ゲティスバーグでは南北双方が数万人単位で死傷し、南北戦争の帰趨が決まった。ケーニヒグレーツではプロイセンの参謀本部制度、鉄道輸送、後装式ライフルがオーストリアを圧倒した。

ここで重要なのは英雄ではない。

兵站。
通信。
組織。

つまり「システム」が勝敗を決め始めたのである。

そして20世紀に入ると、そのシステムはさらに巨大になる。

1931年の朝鮮排華事件では、誤報と民族感情が結びつき集団暴力へ発展した。群衆は自分で考えるより先に空気に反応する。現代のSNS炎上にも通じる構造である。

1938年にはマラード号が蒸気機関車世界最高速度203km/hを記録した。同じ日付に、人間は憎悪で暴徒化し、一方では技術で記録を更新している。人類の進歩とは常にこういう二面性を持つ。

1945年の尖閣諸島近海での疎開船攻撃は、その二面性の極限だ。

航空機という最先端技術が、老人や女性や子供の乗る船に向けられる。

戦争の現実は善悪ではなく、敵味方識別と軍事目標認定の失敗、あるいは無視によって生じる。前線から遠い民間人ほど安全とは限らない。むしろ戦争末期には後方の一般人が最も脆弱になる。

戦後も構図は変わらない。

1970年のコメット墜落。
1971年のばんだい号墜落。
1988年のイラン航空655便撃墜。
2006年のバレンシア地下鉄脱線。

飛行機や鉄道は人類の技術的成功だが、一度失敗すると被害もまた巨大になる。

便利さは危険を減らす。
しかしシステムが巨大になるほど、一度の失敗で失われる人数は増える。

7月3日を振り返ると、宗教改革、民衆蜂起、国家総力戦、民族暴動、技術記録、戦争被害、交通事故が並んでいる。

一見ばらばらだが共通するのは「組織化された力」である。

寺院も国家も軍隊も鉄道も航空機も、すべて個人の能力を超える力を生み出した。その力は文明を前進させたが、同時に個人を容易に飲み込んだ。

歴史を動かしているのは英雄や悪人だけではない。

資格制度。
官僚機構。
兵站網。
報道。
交通網。
通信網。

そうした巨大な仕組みである。

7月3日は、人間の意志よりもシステムの力が前面に現れる日として眺めると興味深い。理想を掲げた僧侶も、飢民救済を目指した国学者も、数十万の兵士も、疎開船の家族も、旅客機の乗客も、それぞれ巨大な仕組みの中で運命を左右された。

歴史とは個人の物語であると同時に、個人を超えたシステムの履歴でもある。そのことを7月3日は静かに示している。