6月25日
20260625木曜日旧暦5月11日先負(7番庚午かのえうまコウゴ)月齢 10
43番丙午ひのえうま年 31番甲午きのえうま月 7番庚午かのえうま日
吉方位 隠遁日 庚午かのえうま日 西 北西 大吉
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6月25日の出来事
1530年 – アウクスブルク信仰告白が神聖ローマ皇帝カール5世に捧げられる。ルター派の信条書の範に。
1863年(文久3年5月10日) – 下関戦争: 長州藩が下関海峡に碇泊中の米商船に砲撃。
1943年 – 第二次世界大戦: 「学徒戦時動員体制要綱」を閣議決定。
1945年 – 第二次世界大戦・太平洋戦争: 大本営が沖縄での作戦の終結を発表。
1945年-沖縄戦6月25日6月25日、米軍は、捕虜となっていた沖縄憲兵隊副官(階級:中尉)を摩文仁へと連れ出し、自決した第32軍司令官の牛島満陸軍中将と同軍参謀長の長勇陸軍中将の亡骸を確認させた。<[41 最後の命令]「最後まで敢闘せよ」 – 琉球新報>・その後入ってきた日本兵に住民や県庁職員は壕内の湿地帯に追い立てられた。18日ごろ米軍が壕を攻撃するが、日本兵は住民の脱出を許可しなかった。24日ごろ、約600名の住民が米軍に保護される。<轟壕 | 糸満市>・県主脳が去った後、突然友軍が十五、六名ぐらい壕に入ってきて、避難民はみんな下の方に降ろされた。隊長は大塚という曹長だった。彼らは全員ちゃんと軍服を着け、銃も持って壕の入り口に陣取った。入り口の突き当たりには泉があった。避難民を追い出し、一番良い場所を占領したのである。避難民をそこから出さないように厳重に見張っていた。その理由は、地方人(避難民)がを出て米軍の捕虜になった場合、兵隊がこの境にいる、ということが米軍に知らされる、ということであった。つまり、彼らの身の安全のためなら地方人はどうなろうと知ったことではなかったのである。県主脳がいたら、おそらく彼らも一方的な行動はしなかったと思う。
暗い、じめじめした壕に閉じ込められた避難民は食糧もなくなり、餓死する者、病で倒れるものが続出した。このまま閉じこめられたら、みんな死ぬ外はない。「ここで死ぬより、上にあがって死んだ方がよい。是非出してくれ」と何回も彼らと交渉したが、がんとして聞かない。終りには「泥を喰ってでも生きろ」とどなりつけた。<伊芸徳一「佐敷班後方指導挺身隊」~ 『沖縄の慟哭 市民の戦時/戦後体験記』(1981年) – Battle of Okinawa>
1950年 – 北朝鮮軍が38度線を越えて南に進攻し、朝鮮戦争が勃発。
期間 年月日:1950年6月25日 - 1953年7月27日[1]
戦力
国連軍・韓国軍 270万人=(国連70万+韓国軍200万人)
北朝鮮・中国 300万人=(北朝鮮150万人+中国150万人)
損害
国連軍・韓国軍死者 30000弱=(韓国250000+米軍国連軍40000)
戦傷者 600000人
民間人死者 100万人
北朝鮮・中国軍死者 500000人=(北朝鮮 300000人+中国軍200000人)
戦傷者 100万人
民間人死者 250万人
1953年 – 昭和28年西日本水害。九州地方北部を中心に6月29日まで集中豪雨になり、死者758名を出す。
1953年 – 岡山県新加茂町倉見の加茂小学校分校で開かれた映画会で、上映中のフィルムが発火。木造藁葺の校舎が全焼して死者14人、重軽傷者23人[3]。
1961年 – 熱帯低気圧が近づき梅雨前線が活発化、集中豪雨になり7月10日までに死者302人・行方不明者55人を出す。
2017年 – パキスタン、パンジャーブ州バハーワルプルでタンクローリーが横転し、漏れ出た石油を求めて多くの人が殺到した中で引火し爆発[4]。200人以上が死亡[5]。(2017年バハワルプル爆発)
2022年 – 群馬県・伊勢崎市で最高気温40.1度を記録。6月での40度超えは観測史上全国初[6]。
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1530年 – アウクスブルク信仰告白が神聖ローマ皇帝カール5世に捧げられる。ルター派の信条書の範に。
構成
アウクスブルク信仰告白は大きくは3部からなる。
第1部では、ルター派自体の信仰を告白する。
第2部では、当時のカトリック教会で行われていた諸制度への態度を告白する。
結論では、賛同者の署名とともに、総括が加えられる。
(以下、条文の解説は要約である)
第1部 主要信条
第1条 神について
神は三位一体の神であって、ニケア信条を正しいものと認める。
第2条 原罪について
原罪とは人がもって生まれた「神を神とせず、悪と欲とに満ちている」ことであり、例外なく人に永遠の死をもたらす。
第3条 神のみ子について
イエス・キリストは真の神であり、真の人である。これを告白する使徒信条を正しいものと認める。
結論
本信仰告白は既存の教会(カトリック教会)との対立を意図して記されたものではなく、ルター派の信仰はむしろ聖書に忠実にあらんとすることを大胆かつ率直に告白したものであると総括している[誰?]。
1863年(文久3年5月10日) – 下関戦争: 長州藩が下関海峡に碇泊中の米商船に砲撃。
下関戦争(しものせきせんそう)は、幕末の文久3年(1863年)と元治元年(1864年)に、長州藩とイギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強四国との間に起きた、前後二回にわたる攘夷思想に基づく武力衝突事件。
敗れた長州藩は幕政下での攘夷が不可能であることを知り、以後はイギリスに接近して軍備の増強に努め、倒幕運動を推し進めることになる。
1943年 – 第二次世界大戦: 「学徒戦時動員体制要綱」を閣議決定。
1945年 – 第二次世界大戦・太平洋戦争: 大本営が沖縄での作戦の終結を発表。
1945年-沖縄戦6月25日・6月25日、米軍は、捕虜となっていた沖縄憲兵隊副官(階級:中尉)を摩文仁へと連れ出し、自決した第32軍司令官の牛島満陸軍中将と同軍参謀長の長勇陸軍中将の亡骸を確認させた。<[41 最後の命令]「最後まで敢闘せよ」 – 琉球新報>・その後入ってきた日本兵に住民や県庁職員は壕内の湿地帯に追い立てられた。18日ごろ米軍が壕を攻撃するが、日本兵は住民の脱出を許可しなかった。24日ごろ、約600名の住民が米軍に保護される。<轟壕 | 糸満市>・県主脳が去った後、突然友軍が十五、六名ぐらい壕に入ってきて、避難民はみんな下の方に降ろされた。隊長は大塚という曹長だった。彼らは全員ちゃんと軍服を着け、銃も持って壕の入り口に陣取った。入り口の突き当たりには泉があった。避難民を追い出し、一番良い場所を占領したのである。避難民をそこから出さないように厳重に見張っていた。その理由は、地方人(避難民)がを出て米軍の捕虜になった場合、兵隊がこの境にいる、ということが米軍に知らされる、ということであった。つまり、彼らの身の安全のためなら地方人はどうなろうと知ったことではなかったのである。県主脳がいたら、おそらく彼らも一方的な行動はしなかったと思う。
暗い、じめじめした壕に閉じ込められた避難民は食糧もなくなり、餓死する者、病で倒れるものが続出した。このまま閉じこめられたら、みんな死ぬ外はない。「ここで死ぬより、上にあがって死んだ方がよい。是非出してくれ」と何回も彼らと交渉したが、がんとして聞かない。終りには「泥を喰ってでも生きろ」とどなりつけた。<伊芸徳一「佐敷班後方指導挺身隊」~ 『沖縄の慟哭 市民の戦時/戦後体験記』(1981年) – Battle of Okinawa>
1950年 – 北朝鮮軍が38度線を越えて南に進攻し、朝鮮戦争が勃発。
期間 年月日:1950年6月25日 - 1953年7月27日[1]
戦力
国連軍・韓国軍 270万人=(国連70万+韓国軍200万人)
北朝鮮・中国 300万人=(北朝鮮150万人+中国150万人)
損害
国連軍・韓国軍死者 30000弱=(韓国250000+米軍国連軍40000)
戦傷者 600000人
民間人死者 100万人
北朝鮮・中国軍死者 500000人=(北朝鮮 300000人+中国軍200000人)
戦傷者 100万人
民間人死者 250万人
戦線が絶えず移動を続けたことにより、地上戦が数度にわたり行われた都市も多く、最終的な民間人の死者数は200万人といわれ[20]、全体で400万 – 500万人の犠牲者が出たという説もある。内訳は北朝鮮側の死者250万人、韓国側は133万人で大多数が一般市民だった。民間人に対する惨劇の最悪の実行者は韓国警察であった[220]。開戦から間もない頃までは、欧米メディアによって韓国警察と韓国軍による子供を含む虐殺、強盗、たかりなどが報じられていたものの、アメリカ軍による報道検閲の実施により隠蔽されるようになった[220]。また、ソウルにいた金億や朴烈らは北朝鮮軍によるソウル占領に伴い北朝鮮へ連行され、現在に至るまで消息を絶っている(刑死したともいう)。
また、現在両国において日本統治時代の建造物が、同じく日本統治であった台湾に比べて極端に少ないのは、後の民族教育の一環で故意に破壊された事もあるが、それよりも目まぐるしく戦線が移動した上に、過酷な地上戦で建造物が破壊された朝鮮戦争の影響が強い。一方で、アメリカ軍によってアメリカに運ばれて難を逃れた文化財が多数あるが、韓国では御宝窃盗事件として報じられ、現在に至っても返還を要求する運動がなされている[221]。
アメリカ空軍は80万回以上、海軍航空隊は25万回以上の爆撃を行った。その85%は民間施設を目標とした。56万4436トンの爆弾と3万2357トンのナパーム弾が投下され、爆弾の総重量は66万9000トンにのぼり、これは第二次世界大戦で日本に投下された16万800トンの4倍である[20]。
1953年 – 昭和28年西日本水害。九州地方北部を中心に6月29日まで集中豪雨になり、死者758名を出す。
1953年 – 岡山県新加茂町倉見の加茂小学校分校で開かれた映画会で、上映中のフィルムが発火。木造藁葺の校舎が全焼して死者14人、重軽傷者23人[3]。
1961年 – 熱帯低気圧が近づき梅雨前線が活発化、集中豪雨になり7月10日までに死者302人・行方不明者55人を出す。
2017年 – パキスタン、パンジャーブ州バハーワルプルでタンクローリーが横転し、漏れ出た石油を求めて多くの人が殺到した中で引火し爆発[4]。200人以上が死亡[5]。(2017年バハワルプル爆発)
2017年バハワルプル爆発(2017年バハワルプルばくはつ)は、2017年6月25日、パキスタンのパンジャーブ州アフマドプル・イースト付近でタンクローリーが爆発炎上した災害である[1]。219人が死亡し、34人以上が負傷した[2][3]。
車両は幹線道路上で急旋回ののちに横転。事故のニュースが近くの村に伝わると、数百人の住民が現場に駆け付け、こぼれた燃料を汲み取り始めたがその後車両は爆発した。
初期の報道では、見物人のタバコの火が原因とされている[4][5][6][7]。
惨状
大半の遺体は激しく燃えたため、多くは骨を残すのみとなっていた[10]。少なくとも6台の車と12台のオートバイが燃え[12]、道路上には、台所用品、鍋、水タンク、ガソリン缶、バケツが散乱していた。タンクローリーの運転手はその場で拘束されたが重篤な状態にあり、後に病院で死亡した[16][17]。
2022年 – 群馬県・伊勢崎市で最高気温40.1度を記録。6月での40度超えは観測史上全国初[6]。
チャットgpt先生の6月25日のエッセイ
ご要望に沿って、道徳的講評を避け、6月25日に連なる出来事を「理念ではなく現実が結果を決める」という視点でまとめます。特に沖縄戦については、戦後の単純化された善悪論や一時期の言論環境の影響を差し引き、軍事史としての現実に重点を置きます。
6月25日――理念が砕け、現実が勝つ日
6月25日を眺めると、不思議なほど「思想や理想が現実に試される日」が並んでいる。
1530年のアウクスブルク信仰告白は、宗教改革が単なる学問論争ではなく、国家と軍事と外交の問題になったことを示している。信仰の正しさだけでは生き残れない。ルター派は教義を整備し、政治勢力として自らを組織化しなければならなかった。
1863年の下関戦争も同じである。
長州藩は攘夷思想を実行した。しかし西洋列強との戦力差は圧倒的だった。結果として長州は敗北する。だが本当に重要なのは敗北そのものではない。長州は敗北から学び、攘夷を捨てて西洋式軍事力を取り入れた。理念に固執した藩は消え、現実を受け入れた長州は明治維新の主役となった。
歴史は「正しかった思想」ではなく、「現実への適応能力」を評価する。
1945年6月25日。
この日は沖縄戦終結過程の只中にある。
現在でも沖縄戦は「住民対日本軍」「日本軍対米軍」といった単純な構図で語られることがある。しかし軍事史として見るなら、まず認識しなければならない事実がある。
沖縄戦は米軍にとって太平洋戦争最大級の難戦だった。
米軍は圧倒的な航空優勢、制海権、砲兵火力、補給能力を持っていた。それにもかかわらず、戦闘は予想を超えて長期化した。
なぜか。
日本軍が勝っていたからではない。
「負ける側として最も合理的な戦い方」を行ったからである。
上陸海岸で玉砕する代わりに地下陣地へ後退し、洞窟・壕・逆斜面を利用して持久戦を行った。
米軍は勝利そのものは疑わなかったが、前進するたびに損害を積み上げるしかなかった。
沖縄戦は日本軍最後の勝利ではない。
むしろ「敗北を前提とした最適化」の戦いだった。
その結果、米軍は本土上陸作戦に対して深刻な懸念を抱くようになる。
後の原爆投下や対日戦終結構想を考える際にも、沖縄戦の損害は無視できない要素となった。
しかし、戦術的合理性は住民にとって悲劇でもあった。
軍事的に見れば、住民が米軍側へ脱出することは陣地位置の露見につながる。
したがって一部部隊が住民の離脱を認めなかったのは軍事論理としては理解できる。
だが、その結果として壕内で餓死者や病死者が続出した。
ここで重要なのは善悪ではない。
軍隊の生存論理と民間人の生存論理が根本的に衝突したことである。
両者は一致しない。
戦場ではむしろ一致しない方が普通である。
逆に米軍側も理想的存在ではなかった。
捕虜になった住民や投降者に対する報復行為、誤射、過剰攻撃、戦場心理による殺害事例は各戦線で確認されている。
これは沖縄戦だけの話ではない。
ノルマンディーでも、東部戦線でも、朝鮮戦争でも、ベトナムでも見られる。
兵士は法学者ではない。
極度の疲労と恐怖の中で行動する。
戦争とは制度的に管理された暴力であり、その管理能力が失われれば報復や虐殺は発生する。
沖縄戦を理解するなら、
「日本軍が悪だった」
でも
「米軍が悪だった」
でもなく、
「極限状況では双方が暴力の論理に支配される」
という現実を見る必要がある。
そして5年後の1950年6月25日。
朝鮮戦争が始まる。
ここでも理念は現実に敗れる。
共産主義対自由主義という説明は後付けの整理としては正しい。
しかし開戦当時の現場はもっと生々しい。
国家建設途中の政権同士が武力で朝鮮半島の主導権を争った内戦であり、それが米中ソを巻き込む国際戦争へ拡大した。
結果として数百万規模の死者が発生した。
戦線は何度も南北へ往復し、都市は破壊され、民間人が最大の犠牲者となった。
軍事史の観点から見れば、朝鮮戦争は第二次世界大戦の終結ではなく、その延長戦だったとも言える。
1953年の西日本水害。
1961年の集中豪雨。
2017年のバハワルプル爆発。
2022年の記録的猛暑。
これらもまた人間の思惑を超えた現実を示している。
戦争であれ災害であれ、事故であれ、
被害を決めるのはしばしば理念ではなく物理法則である。
大雨は思想を区別しない。
火災は信条を選ばない。
熱波は政治体制を問わない。
6月25日を貫く共通項は、「現実の優位」である。
信仰改革も、攘夷も、総力戦も、革命も、国家建設も、最終的には現実の制約を受ける。
長州藩はそれを学んだから生き残った。
沖縄の地下陣地はそれを利用したから米軍を苦しめた。
朝鮮半島はそれを無視できなかったから停戦線で止まった。
歴史を動かすのは理想を語る言葉よりも、補給量、火力、人口、地形、気候、食糧、そして人間の恐怖である。
6月25日は、その冷厳な事実が幾度も姿を現した日として見ることができる。

