kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日4月15日  第六潜水艇事故、ほか写真wikipedia在りし日の第六潜水艇

4月15日

20260415水曜日旧暦2月28日大安(56番己未つちのとひつじキビ)月齢 27

43番丙午ひのえうま年 29番壬辰みずのえたつ月 56番己未つちのとひつじ日

吉方位 陽遁日 己未つちのとひつじ日 北東 大吉 年末まではあと260日

https://ja.wikipedia.org/wiki/4%E6%9C%8815%E6%97%A5

4月15日の出来事
1450年 – 百年戦争: フォルミニーの戦い。フランスが勝利し、イングランドはノルマンディーから撤退。年月日:1450年4月15日 場所:ノルマンディー州カランタン市近郊 結果:決定的なフランスの勝利 損害:イングランド軍7000人中戦死4000人 フランス軍4500人中戦死600人。
1865年 前日襲撃されたエイブラハム・リンカーンが死亡。副大統領だった アンドリュー・ジョンソンが大統領に昇格した。
1910年 – 日本海軍の第六潜水艇が広島湾でガソリン潜航の訓練中に遭難。乗組員14名全員が死亡。破損の修理をしていた2人を除く全員が配置についたまま殉職したことが世界に感銘を与える。
1936年 – 福岡県穂波町の住友忠隈炭鉱で、人車が坑底に転落する事故。死者50人[1]。
1939年 – 長野県長野市の論電ヶ谷池が決壊。住民ら19人が死亡[2]。
1941年 – 北海道三笠市の弥生炭鉱でガス爆発事故が発生。死者39人[3]。
1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 米軍機が東京南部・川崎を無差別爆撃。死者841名。

1945年- 沖縄戦4月15日・北:八重岳の攻防 15日には、米軍 第305、第902、第306の各野砲大隊が、水納島に陣地を敷く(16日攻撃の為)・32軍:宇土部隊長はついに八重岳を放棄し、4月15日の夜、山本中尉、態田(正行)副官などを率いて多野岳へ後退した。…宇土隊長の一行は、激しい砲撃下を暗夜をついて嵐山稜線を越え、翌16日の午前3時ごろ、羽地村我部祖河の武田薬草園(負傷兵手当の為のコカイン栽培園東京ドーム10個分の広さ 県立三中生徒も動員)近くまできた。ここで宇土部隊ほぼ全滅す。・渡嘉敷の赤松隊 集団自決生き延びた16歳2人少年スパイとして処刑。・石垣島事件 3名米軍捕虜虐殺。
1989年 – ヒルズボロの悲劇。イングランドサッカー史上最悪の事故。死者96人、重軽傷者766人

2002年 – 中国国際航空129便墜落事故。北京発釜山行きの中国国際航空129便ボーイング767型機が金海国際空港への着陸進入中に墜落、乗員乗客128名が死亡。

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1450年 – 百年戦争: フォルミニーの戦い。フランスが勝利し、イングランドはノルマンディーから撤退。年月日:1450年4月15日 場所:ノルマンディー州カランタン市近郊 結果:決定的なフランスの勝利 損害:イングランド軍7000人中戦死4000人 フランス軍4500人中戦死600人。

フォルミニーの戦い(仏: Bataille de Formigny、英: Battle of Formigny)は、1450年4月15日にフランス北部ノルマンディー地方で行われた百年戦争後期の戦闘。イングランド軍が大敗しノルマンディーを完全に失い、百年戦争の帰趨を実質的に決定した。この3年後のフランス南西部で行われたカスティヨンの戦いでイングランド側はギュイエンヌを失い、百年戦争は終結した。

1865年 前日襲撃されたエイブラハム・リンカーンが死亡。副大統領だった アンドリュー・ジョンソンが大統領に昇格した。
1910年 – 日本海軍の第六潜水艇が広島湾でガソリン潜航の訓練中に遭難。乗組員14名全員が死亡。破損の修理をしていた2人を除く全員が配置についたまま殉職したことが世界に感銘を与える。

第六潜水艇の遭難
事故概要
1910年(明治43年)4月15日、「第六潜水艇」は安全上の配慮から禁止されていたガソリン潜航実験の訓練などを行うため岩国を出航し、広島湾へ向かった。この訓練は、ガソリンエンジンの煙突を海面上に突き出して潜航運転するもので、原理としては現代のシュノーケルと同様であった。

午前10時ごろから訓練を開始、10時45分ごろ、何らかの理由で煙突の長さ以上に艇体が潜航したために浸水が発生したが、閉鎖機構が故障しており、手動で閉鎖する間に17メートルの海底に着底した。佐久間大尉は母船「歴山丸」との申し合わせを無視しがちで、第六潜水艇は日ごろから申し合わせよりも長時間の潜航訓練を行っていたため、当初は浮上してこないことも異常と思われなかった。また、母艦の見張り員は、異常と報告して実際に異常がなかった場合、潜水艇長の佐久間大尉の怒りを買うのが怖くて報告しなかった、とも述べており、調査委員会はこの見張り員の責任を認めつつも、同情すべき点が多いとして処分していない。

異常に気がついた後、歴山丸は呉在泊の艦船に遭難を報告。救難作業の結果、16日(17日)に引き揚げられ、内部調査が行われた。潜水隊母船「豊橋」(潜水隊の旗艦機能を持つ船)の艦長は、安全面の不安からガソリン潜航をはっきりと禁止しており、また佐久間大尉もガソリン潜航の実施を歴山丸に連絡していなかった[2]。「豊橋」の平岡艦長は、事故調査委員会において、佐久間大尉が過度に煙突の自動閉鎖機構を信頼していたことと、禁令無視が事故を招いたのだと述べている。また、潜航深度10フィートと言う、シュノーケルの長さよりも深い潜航深度の命令によって浸水が起きたとしている。この件については、記録上のミスとする者もするが、この命令が二回にわたって注記されていること、他の項目には一切誤りが無かったことから、この記録は正しい物と認められ、この操艦ミスが事故原因とされた。佐久間大尉の遺書にある「不注意」とはこのことを指すという見解もある。

この事故より先にイタリア海軍で似たような事故があった際、仲間を見捨てて自分だけは生き残ろうとする乗員たちによる乱闘が発生し、大量の死体がハッチに折り重なって発見されるということがあった。そのため、第六潜水艇の調査を担当した帝国海軍の関係者たちは、乗員たちがこのような帝国軍人の恥さらしともいえる行為をしているのではないかと恐れていた。ところが、ハッチを開けた関係者は中の光景を見ると「よろしい」と言って号泣した。14人の乗組員のうち12人は正規の配置についたまま死亡しており、残りの2人は欠損部位の修理をしている最中に死亡していたのである。また、佐久間艇長は事故の原因を記し、潜水艦を沈没させることと部下の命を失わせたことを謝罪し、部下の遺族へ格段の配慮を明治天皇に具申する遺書を書き残していた。最後まで職務を全うして殉職した佐久間艇長および乗組員たちは賞賛を浴び、これが「潜水艦乗組員かくあるべし」「沈勇」ということで、修身の教科書や軍歌として広く取り上げられたのみならず、海外などでも大いに評価された。ただし、事故原因が判明する前に美談が広まったため、佐久間の操艦ミスは周知されなかった。

アメリカ合衆国議会議事堂には佐久間艇長の遺書の写しが陳列されたほか、感動したセオドア・ルーズベルト大統領によって国立図書館の前に遺言を刻んだ銅板が設置され、日米開戦後も撤去されなかった[3]。イギリスの王室海軍潜水史料館には佐久間と第六潜水艇の説明があり、第二次世界大戦の後も展示され続けている[4]。ある駐日英国大使館付海軍武官は、戦前から戦後まで英国軍人に尊敬されている日本人として佐久間を挙げ[5]、戦後の日本人は「佐久間精神を忘れている」と1986年の岩国追悼式でスピーチした[6]。

呉市にある鯛乃宮神社には第六潜水艇殉難者之碑が、岩国市の岩国市立装港小学校裏手には第六潜水艇殉難者記念碑[7]があり、毎年、事故のあった4月15日に追悼式が行われている。

1936年 – 福岡県穂波町の住友忠隈炭鉱で、人車が坑底に転落する事故。死者50人[1]。
1939年 – 長野県長野市の論電ヶ谷池が決壊。住民ら19人が死亡[2]。
1941年 – 北海道三笠市の弥生炭鉱でガス爆発事故が発生。死者39人[3]。
1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 米軍機が東京南部・川崎を無差別爆撃。死者841名。

1945年- 沖縄戦4月15日・北:八重岳の攻防 15日には、米軍 第305、第902、第306の各野砲大隊が、水納島に陣地を敷く(16日攻撃の為)・32軍:宇土部隊長はついに八重岳を放棄し、4月15日の夜、山本中尉、態田(正行)副官などを率いて多野岳へ後退した。…宇土隊長の一行は、激しい砲撃下を暗夜をついて嵐山稜線を越え、翌16日の午前3時ごろ、羽地村我部祖河の武田薬草園(負傷兵手当の為のコカイン栽培園東京ドーム10個分の広さ 県立三中生徒も動員)近くまできた。ここで宇土部隊ほぼ全滅す。・渡嘉敷の赤松隊 集団自決生き延びた16歳2人少年スパイとして処刑。・石垣島事件 3名米軍捕虜虐殺。

*あとでやはり投降勧告に来た二人の渡嘉敷の少年のうち、一人は、私、よく知っていました。彼等が歩哨線で捕まった時、私が出かけると、彼らは渡嘉敷の人といっしょにいたいという。そこで ”あんたらは米軍の捕虜になってしまったんだ。日本人なんだから捕虜として、自ら処置しなさい。それができなければ帰りなさい” といいました。そしたら自分たちで首をつって死んだんです。

週刊新潮 1968年4月8日号 「戦記に告発された赤松大尉 ~沖縄渡嘉敷島処刑23年目の真相~」

*昭和20年4月15日の朝、石垣島の飛行場爆撃のため飛来した米軍機からV・L・テボ中尉、R・タグル兵曹、W・H・ロイド兵曹の3飛行士が、同島南岸に降下した。石垣島海軍警備隊司令、井上乙彦大佐は、すぐに3飛行士を逮捕させ、同島南部のバンナ岳麓にあった警備隊本部に連行、壕に監禁して取り調べたあげく、同日夜半にバンナ岳近くの刑場で処刑した。処刑は、上級機関の指示も得ず、軍法会議の審議もへずに警備隊の数名の将校の話し合いだけで決定されたという。後に戦犯に問われた法廷で井上司令は、処刑の理由として、1.捕虜を台湾か沖縄に送致するにも船便はなく、飛行機もなかった 2.人手不足、食糧不足で、長期にわたる捕虜収容はできかねた、と述べている。

こうした理由で、3名の捕虜のうち2名は斬首にされ、1名は銃剣で刺殺された。死後も柱にくくりつけた捕虜の死体をおよそ50名の兵士たちが半時間にわたって刺突しつづけたほど処刑は、残虐のかぎりを尽した。

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 235-238頁より》

(*1945以後GHQプレスコードが空気の世相において日本軍の「残虐さ」という点を報道する反対圧力は「まったく」ない。という点は考慮する。我らとしては 表面記述の水面下を「観たい」。)

1989年 – ヒルズボロの悲劇。イングランドサッカー史上最悪の事故。死者96人、重軽傷者766人
2002年 – 中国国際航空129便墜落事故。北京発釜山行きの中国国際航空129便ボーイング767型機が金海国際空港への着陸進入中に墜落、乗員乗客128名が死亡。

チャットgpt先生の4月15日のエッセイ

4月15日という日は、記録を並べてみると「人間の現実」がむき出しになる日だと感じる。

たとえばフォルミニーの戦い。これは英雄譚ではなく、数千人単位で命が消え、戦局が一気に傾いた「効率のいい勝利」だった。戦争は理念ではなく、補給・兵力・判断の積み重ねで決まる。その結果として「歴史的転換点」と呼ばれるだけで、現場にいた人間にとっては単なる敗走か、あるいは生還できたかどうかの違いでしかない。

同じ構図は、19世紀のエイブラハム・リンカーンの死にも見える。理想や国家の統合を象徴する人物であっても、最期は一発の銃弾で終わる。後を継いだアンドリュー・ジョンソンの評価が示すように、「誰が死ぬか」よりも「その後どうなるか」が現実の政治を決めていく。歴史は感情よりも連続性で動く。

日本の事例も同様だ。第六潜水艇遭難事故は美談として語られることが多いが、冷静に見れば、禁令無視と判断ミス、そして組織内の報告忌避が重なった典型的な事故だ。乗員の規律や覚悟は確かに特異だが、それと事故の原因は別問題である。人は美しい物語を作るが、事故はたいてい「よくあるミス」の連鎖で起きる。

1945年の出来事群――沖縄戦や本土空襲――に至ると、その現実はさらに露骨になる。補給不足、情報の欠如、組織の硬直。極限状態では、合理性よりもその場しのぎや恐怖が意思決定を支配する。捕虜の扱い一つとっても、制度や理屈ではなく「余裕があるかどうか」で結論が変わる。そこに善悪を単純に当てはめても、実態はこぼれ落ちる。

そして時代が下っても構造は変わらない。ヒルズボロの悲劇も、中国国際航空129便墜落事故も、特別な悪意ではなく、管理・判断・環境の複合的なミスが大事故に転化した例だ。人間のシステムは、技術が進んでも完全にはならない。

こうして見ると、4月15日は「悲劇の日」というより、「人間は同じ構造の中で失敗し続ける」という事実を突きつける日だと言える。
英雄も、規律も、制度も、一定の意味はある。しかし決定的なのは、現場の判断、情報の質、そして“無理が積み上がっていないか”という一点に尽きる。

歴史は繰り返す、というより、人間の限界が繰り返し露呈するだけなのだろう。