kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日5月28日 2019登戸通り魔殺人事件、ほか写真wikipedia事件現場、ほか

5月28日

20260528木曜日旧暦4月12日先負(39番壬寅みずのえとらジンイン)月齢 11.2

43番丙午ひのえうま年 30番癸巳みずのとみ月 39番壬寅みずのえとら日

吉方位 陽遁日 壬寅みずのえとら日 北 大吉 年末まではあと217日

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5月28日の出来事

1830年 – アンドリュー・ジャクソン米大統領がインディアン移住法に署名。涙の道として知られる地域で、数千人のアメリカ先住民の強制移住が始まった[1]。8000人死亡。

1945年沖縄戦5月28日:米軍:・5月28日の夜明けには雨も上がり、われわれは午前中の出撃に備えて待機した。10時15分ごろ、長距離迫撃砲や機関銃によるまばらな反撃をついて南へと進撃を開始。本格的な抵抗もなく、好天にも恵まれ、われわれは意気揚々と歩を進めた。実際、その日は数百メートルも前進できた。この区域としてはたいへんな成果だった。

泥のなかの行軍は依然として困難だったが、ハーフムーン周辺の悪臭漂う、水のたまったごみ穴のような壕を去ることができて、われわれは大喜びだった。夜には、翌日も首里高地へとまっしぐらに進んで正面突破を狙うことを知らされた。《「ペリリュー・沖縄戦記」(ユージン・B・スレッジ: 伊藤真/曽田和子 訳 /講談社学術文庫) 415頁より》:日本軍:・一度南部に後退した海軍部隊を小禄地区に再び戻すことは混乱も予想されたが、南部戦線全体が総くずれになるのを恐れて軍司令部は28日再復帰の命令をだした。

大田司令官は軍命令に接して、海軍部隊が命令を誤解して後退したことを知り、28日夜直ちに大田司令官以下の主力は、ふたたび雨と泥と砲弾のなかを死傷者を出しながら、小禄地区に復帰した。将兵の中には「どうせ死ぬなら自分らが築城した陣地がある小禄で死ぬのが本望だ」という安堵の顔も見られた。《「沖縄 旧海軍司令部壕の軌跡」(宮里一夫著/ニライ社) 90-91、91頁より》

1961年 – 岩手県新里村の山林から出火。フェーン現象による強風に煽られ田老町、宮古市、岩泉町、普代村、久慈市にいたる40万ha以上に延焼する大規模火災(山火事)となった。死者5人、負傷119人、全焼住宅1235棟[6]。

2007年 – 農林水産大臣の松岡利勝が自殺。現職大臣の自殺は阿南惟幾(陸軍大臣、1945年8月15日死亡)以来で、現憲法下では初。

2019年 – 川崎市登戸通り魔事件が発生する[13]。

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1830年 – アンドリュー・ジャクソン米大統領がインディアン移住法に署名。涙の道として知られる地域で、数千人のアメリカ先住民の強制移住が始まった[1]。8000人死亡。

涙の道(なみだのみち、英:Trail of Tears)は、1838年にアメリカ合衆国のチェロキー族インディアンを、後にオクラホマ州となる地域のインディアン居留地に強制移動(Population transfer)させたときのことをいう。このとき、15,000名いたチェロキー族のうちおよそ4,000人から5,000人が途上で亡くなった[1][2]。

チェロキー族の「涙の道」は、1830年の「インディアン移住法」の規定に基づいて署名されたニュー・エコタ条約(英語版)の実践として起こった。条約は東部のインディアンの土地とミシシッピ川以西の土地との交換を取り決めたものであったが、インディアンの選ばれた指導者達にもチェロキー族の大多数の人々にも受け入れられてはいなかった。それにもかかわらず、条約は時のアメリカ合衆国大統領アンドリュー・ジャクソンによって実行に移され、西部に出発する前に合衆国軍が17,000名のチェロキー族インディアンを宿営地にかり集めた。死者の多くはこの宿営地での病気で倒れた。最初の集合の後は、合衆国軍の役目は限られたものになり、チェロキー族が移動の大半の監督を担当した。

1945年沖縄戦5月28日:米軍:・5月28日の夜明けには雨も上がり、われわれは午前中の出撃に備えて待機した。10時15分ごろ、長距離迫撃砲や機関銃によるまばらな反撃をついて南へと進撃を開始。本格的な抵抗もなく、好天にも恵まれ、われわれは意気揚々と歩を進めた。実際、その日は数百メートルも前進できた。この区域としてはたいへんな成果だった。

泥のなかの行軍は依然として困難だったが、ハーフムーン周辺の悪臭漂う、水のたまったごみ穴のような壕を去ることができて、われわれは大喜びだった。夜には、翌日も首里高地へとまっしぐらに進んで正面突破を狙うことを知らされた。《「ペリリュー・沖縄戦記」(ユージン・B・スレッジ: 伊藤真/曽田和子 訳 /講談社学術文庫) 415頁より》:日本軍:・一度南部に後退した海軍部隊を小禄地区に再び戻すことは混乱も予想されたが、南部戦線全体が総くずれになるのを恐れて軍司令部は28日再復帰の命令をだした。

大田司令官は軍命令に接して、海軍部隊が命令を誤解して後退したことを知り、28日夜直ちに大田司令官以下の主力は、ふたたび雨と泥と砲弾のなかを死傷者を出しながら、小禄地区に復帰した。将兵の中には「どうせ死ぬなら自分らが築城した陣地がある小禄で死ぬのが本望だ」という安堵の顔も見られた。《「沖縄 旧海軍司令部壕の軌跡」(宮里一夫著/ニライ社) 90-91、91頁より》

1961年 – 岩手県新里村の山林から出火。フェーン現象による強風に煽られ田老町、宮古市、岩泉町、普代村、久慈市にいたる40万ha以上に延焼する大規模火災(山火事)となった。死者5人、負傷119人、全焼住宅1235棟[6]。

2007年 – 農林水産大臣の松岡利勝が自殺。現職大臣の自殺は阿南惟幾(陸軍大臣、1945年8月15日死亡)以来で、現憲法下では初。

2019年 – 川崎市登戸通り魔事件が発生する[13]。

川崎市登戸通り魔事件(かわさきし のぼりと とおりまじけん)は、2019年(令和元年)5月28日に神奈川県川崎市多摩区登戸新町で発生した通り魔殺傷事件[5][リンク切れ]。結果として被害者のうち2人が死亡し、18人が負傷した[2]。犯行の直後、被疑者は自ら首を刺し、その後死亡した。

川崎通り魔事件[6]とも呼ばれていたが、同市宮前区梶が谷で発生した別の通り魔殺人事件[7]などと区別するために川崎登戸通り魔事件または登戸通り魔事件[8][リンク切れ]と呼ばれている。

経歴・人物像

加害者Xは1967年(昭和42年)12月生まれで、犯行当時51歳。4歳か5歳の時に両親が離婚しており、父親が親権を持つ。以降、祖父母、伯父夫婦、その実子である従姉兄と暮らすことになるが、程なくして実父は蒸発する[61][リンク切れ]。当時からX宅の近所に住む住民によると、Xは幼少期にこの家で差別を受けていたのではないかと証言しており、それを表すものとして、Xが通っていたのは地元の公立小学校であったのに対し、従姉兄が入学したのは本件で犠牲者の出たカリタス小学校であった[61][リンク切れ]。こうした経緯から、一部のマスメディアは犯行の動機には伯父一家での扱いに対する積年の恨みがあったのではないかとの憶測を立てた。一方、別の近隣住民は「分け隔てなく育てていたようだ」との印象を持っている[61][リンク切れ]。

地元の公立中学校卒業後は、横浜市内の職業訓練校の機械科に進学する。2年間学んだ後に同校が紹介した企業に就職するものの、その頃から町田駅そばの雀荘に入り浸るようになり、そのうち同店で従業員として働き始め、近所に部屋を借りて生活するようにもなった[62][リンク切れ]。同店のオーナーだった人物の証言によると、麻雀はかなりの腕前で、自身の金を用いて客と麻雀を打つ“本走”も行い、よく勝っていたという。また仕事に対する責任感も強く、夜中から翌朝10時までの夜番の主任を任されており、営業後はXの部屋に同僚が集まることもあった[62][リンク切れ]。この他、複数の工場で働いたとみられるものの、事件当時に働いていた形跡はなく[63]、少なくとも10年以上前から仕事に就いていなかったとみられる[64]。

平成2年に祖父を、同9年には祖母をそれぞれ亡くす。Xが幼少期に暮らした伯父夫婦の家に戻ったのはその後とみられ、従姉兄は既に自立し家を出ており、ここからXと伯父夫婦との3人暮らしが始まったとされる。少なくとも平成10年前後から引きこもりの状態になっていったとみられ、近隣住民が時折外出する姿を見かけた程度であった[65][リンク切れ]。

直近1年の動き

事件直後に行われた川崎市の記者会見によれば、2017年11月、伯父夫婦は市の精神保健福祉センターに「(自身らが)高齢のため訪問介護を受けたいが、家に引きこもり傾向の、直接の会話がほとんどない状態の親族が同居している。そこに介護スタッフを入れても大丈夫だろうか?」という内容の電話相談をしており、これ以降も、2019年の1月までに電話で6回、面談で8回のやり取りを行ったことを明らかにした。しかし、伯父夫婦が「Xを刺激したくない」との意向を伝えていたため、センター側はその時点でXに直接会う考えはなかったとしている[65][リンク切れ]。

2018年に伯父夫婦宅への訪問介護サービスが開始。彼らは近い将来、介護施設へ移ることを念頭に置いていたため、その候補先の見学も行っていた。2019年1月、伯父夫婦は精神保健福祉センターの提案を受けて、Xの部屋の前に「今後自分はどうしたいのか」という趣旨の意思を問いただす手紙を置いたが、それを読んだとみられるXが伯父夫婦の前に姿を見せ、そこで「食事や洗濯、自分のことは自分でちゃんとやっている。それなのに“引きこもり”とはなんだ!」と強い調子で反論したという。これを受けて、伯父夫婦はセンター担当者に「本人の気持ちを聞くことができたので良かった。しばらく様子をみたい」と報告。センター側もそれ以上の働きかけは行わなかった。事件前に伯父夫婦と顔を合わせたのはこれが最後であった[65][リンク切れ]。

事件の前年の夏、Xは近隣の40代女性と小さなトラブルを起こしている。この女性によると、ある日の早朝、何度もインターフォンが鳴らされたため、夫が応対すると、Xから突然「お宅の庭から木が道路にはみ出していて、それが目に入った」という趣旨のクレームをつけられたことで口論に発展した。また、犯行当日の朝にこの女性はXと出くわしており、ゴミ出しをしている女性に、Xの方から「おはようございます」と挨拶をし、そのまま立ち去っている。女性はXが挨拶をしてきたことは初めてだったので妙に思ったと証言している[66][リンク切れ]。

事件後の捜査・刑事処分など

事件翌日、神奈川県警察はX宅を殺人容疑で捜索した。物は少なく整然としており、置かれていたのはテレビと家庭用ゲーム機、そのゲームソフトである『バイオハザード』や『ドラゴンクエスト』など。この他、20年以上前に刊行された雑誌『週刊マーダー・ケースブック』のシャロン・テート殺人事件やパリ人肉事件などを特集した号が捜索の末に見つかったと報じられた。また、飲食店のポイントカードやレンタルビデオ店などの会員証もなく、病院の診察券も20年前に作られたもので、運転免許も未取得であった[67][リンク切れ]。更には、スマートフォンやパソコンなどの電子通信機器を所持しておらず、自宅及び自室にはインターネットに接続する環境自体が無かったことも判明しており、これが動機の解明をより困難なものとした[64]。

2019年9月2日、捜査本部による捜査の結果、被疑者死亡のまま横浜地方検察庁に対して殺人罪・殺人未遂罪・銃砲刀剣類所持等取締法違反容疑により書類送検した[68][リンク切れ]。これにより捜査は終了することとなった。同年11月8日、横浜地方検察庁は被疑者死亡のまま本件を不起訴とする刑事処分を決定した[4]。

チャットgpt先生の5月28日のエッセイ

5月28日 ― 「後退戦の現実」が露出する日

5月28日という日は、理想や理念よりも、「撤退」「移送」「押し流される人間」という現実がむき出しになる日だ。

1830年、インディアン移住法にアンドリュー・ジャクソンが署名した。
アメリカ史では民主主義の拡張者として扱われることもある人物だが、国家運営のリアリズムという観点では、彼は「国家膨張の障害物を物理的に除去した」政治家だった。

後年「涙の道」と呼ばれる強制移送は、感情的には悲劇だが、構造的には19世紀国家形成そのものでもある。
近代国家は土地と人口を管理単位に変換する。そこで共同体は「文化」ではなく「配置問題」になる。

重要なのは、虐殺そのものより「行政処理として遂行された」点だ。

チェロキー族の移送は、激情的な暴徒による破壊ではない。
条約、法令、輸送、宿営、兵站、疾病管理失敗。つまり近代国家機構の通常運転の延長にある。
近代国家はしばしば「秩序」を名目に、人口移送を淡々と実施する。

これは20世紀の総力戦にも直結する。


1945年5月28日の沖縄戦は、まさに「国家総力戦が末期化したとき何が起きるか」を示している。

戦後日本では長くGHQプレスコードの影響が残った。
そのため沖縄戦はしばしば、

  • 日本軍の狂気
  • 住民虐待
  • 玉砕思想

を中心に語られた。

もちろんそれ自体は事実の一部だ。
だが、それだけでは戦場の実相を取り逃がす。

現実には、沖縄戦は米軍にとっても異常な消耗戦だった。

硫黄島と並び、米軍が「物量があれば簡単に突破できる」という近代戦の常識を疑い始めた戦場である。
特に南部戦線以降、日本軍は“勝利”ではなく「進撃速度の破壊」に徹していた。

洞窟陣地、逆斜面、防御縦深、迫撃砲、夜間浸透。
首里防衛線は、制空権も制海権も失った軍隊が、それでもなお近代軍として組織抵抗できることを証明した。

米軍側回想録に頻出するのは、「前進した距離」が数百メートル単位で記録される異様さだ。

これは第一次世界大戦的である。

太平洋戦争の多くは機動戦だったが、沖縄だけは泥濘と砲撃と壕戦による“静的消耗戦”へ変質した。
だから米軍兵士の精神摩耗が極端だった。

米軍は圧倒的物量を持ちながら苦戦した。
ただし、それは「日本軍が強かった」だけではない。

むしろ、

  • 地形
  • 気候
  • 陣地構築
  • 補給軽視を前提にした日本軍戦術
  • 民間人混在
  • 後退しながら戦線維持する防御思想

これらが噛み合った結果だった。

日本軍は兵站崩壊後の戦い方だけは異常に発達していた。

これは日露戦争以後の「精神主義」の副産物でもある。
補給欠如を根性で埋める軍隊は、本来なら即崩壊する局面でも局地抵抗を続ける。

だから沖縄戦では、「勝敗」より「どれだけ相手を消耗させられるか」が戦争目的に変化していた。


一方で、日本軍の住民統制も冷徹に見る必要がある。

特に「米軍に投降した住民」に対する報復殺害は、感情論でなく構造で理解すべきだ。

これは単純な残虐性ではない。

日本軍にとって住民は、

  • 情報源
  • 労働力
  • 陣地維持要員
  • 地形案内
  • 軍民一体イデオロギーの構成要素

だった。

つまり住民離脱は、単なる避難ではなく「戦線崩壊」に直結した。

しかも沖縄戦後期、日本軍は既に通信能力も統制能力も崩壊しかけている。
その状態では、「投降住民」が米軍に情報提供する可能性への恐怖が極端に増幅される。

だから疑心暗鬼が暴走した。

末期戦では、敵より「離脱者」のほうが危険視される。
これは古今東西の内戦・包囲戦で繰り返される構造だ。

逆に米軍もまた、住民を純粋な“保護対象”として扱っていたわけではない。

住民収容は人道だけでなく、

  • 後方安全化
  • 日本軍遮断
  • 情報取得
  • 疫病管理

を兼ねていた。

総力戦では、民間人は常に軍事体系へ組み込まれる。

沖縄戦の本質はここにある。
軍民境界が完全に崩壊した戦場だった。


1961年の三陸大火も同じ構造を持つ。

フェーン現象による大火災は、自然災害というより「乾燥・強風・木造密集」という条件が重なったシステム災害だった。

巨大災害は、単独原因では起きない。

沖縄戦も同じで、

  • 国家総力戦
  • 島嶼地形
  • 補給崩壊
  • 民間人混在
  • 指揮系統断裂

が重なった結果、あの地獄が生まれた。


2019年の川崎登戸通り魔事件もまた、別種の「社会からの離脱」の果てだった。

犯人像を善悪で処理すると見誤る。

長期引きこもり、親族依存、高齢化、社会接続喪失。
これは日本社会が長く抱えてきた「静かな孤立」の極端例である。

興味深いのは、彼が完全な社会断絶者ではなかったことだ。

若い頃には仕事もあり、麻雀店で機能していた。
つまり「最初から壊れていた人間」ではない。

だが長期の未接続状態は、人間内部の時間感覚を腐食させる。

社会的役割を失った人間は、年齢だけ進み、心理的時間が停止する。
そして現実世界との摩擦が再開した瞬間、蓄積された怨念が一気に噴出する。

現代社会では、この種の「静かな崩壊」は可視化されにくい。

戦場のように爆発音はしない。
しかし内部では長年かけて圧力が蓄積している。


5月28日は、「前進」の記念日ではない。

むしろ、

  • 強制移送
  • 後退戦
  • 社会的孤立
  • 消耗
  • 崩壊しかけた統制

そうした、人間社会の“後ろ向きの力学”が露出する日である。

国家も軍隊も共同体も、平時には秩序を語る。
だが限界状況では、本音が出る。

何を切り捨てるか。
誰を維持コストとみなすか。
どこまで人間を「配置可能な資源」と扱うか。

5月28日の記録群は、その冷酷な現実をかなり剥き出しのまま残している。