kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日8月18日 1945占守島シムシュの戦い、ほか写真wikipedia進軍する士魂戦車隊

8月18日

20260818火曜日旧暦6月29日仏滅(1番甲子きのえねコウシ)月齢 27.7

43番丙午ひのえうま年 32番乙未きのとひつじ月 1番甲子きのえね日

吉方位 隠遁日 南東 南西 大吉 年末まであと135日

https://ja.wikipedia.org/wiki/8%E6%9C%8818%E6%97%A5

8月18日の出来事

110年(景行天皇40年7月16日) – 景行天皇が日本武尊に東夷討伐を命じる。

1928年 – 三井財閥の大番頭・中上川彦次郎の娘・あきがテノール歌手・藤原義江を追って2児を残してミラノへ出発[3]。「世紀の恋」と話題になる。

1930年 – 細君譲渡事件。谷崎潤一郎と妻・千代子が離婚し谷崎の友人・佐藤春夫が千代子と再婚することを3人連名で発表。

1945年 – 第二次世界大戦・ソ連対日参戦: 占守島シムシュの戦い。占守島に赤軍が侵攻し日本軍と戦闘。

戦力 日本8400 対 ソ連8800

損害死傷 日本1000(ソ連推計)600(日本発表)ソ連1500(ソ連発表)3000(日本推計)

1945年-沖縄戦8月18日・米軍にとって日本軍にとらわれた連合軍捕虜の救出は緊急の最優先事項であった*1。<引用先原文>・「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」ー 日本軍は、自国の兵士や住民にも「捕虜」になる前に「自決」「玉砕」、あるいは負傷兵の「後始末」を求めた*2。このような国で「敵」側の捕虜はどのように扱われたのだろうか。数字として確認できているかぎり、太平洋戦争では、合わせて約13万人以上の米兵が日本の捕虜となっていた。<引用先原文>

1968年 – 飛騨川バス転落事故。岐阜県白川町で集中豪雨が起こり、土砂崩れにより観光バス2台が飛騨川に転落し104人死亡。

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110年(景行天皇40年7月16日) – 景行天皇が日本武尊に東夷討伐を命じる。

1928年 – 三井財閥の大番頭・中上川彦次郎の娘・あきがテノール歌手・藤原義江を追って2児を残してミラノへ出発[3]。「世紀の恋」と話題になる。

藤原あき

生年月日                 1897年8月10日

出生地    東京府

没年月日                 1967年8月8日(69歳没)

出身校    女子学習院

所属政党                 自由民主党

称号        正五位

勲三等瑞宝章

配偶者    宮下左右輔(1913年 – 1928年)

藤原義江(1930年 – 1957年)

親族        いとこ・藤山愛一郎

1930年 – 細君譲渡事件。谷崎潤一郎と妻・千代子が離婚し谷崎の友人・佐藤春夫が千代子と再婚することを3人連名で発表。

女性関係

1915年(大正4年)、谷崎は石川千代子と結婚したが、1921年(大正10年)頃谷崎は千代子の妹・せい子(『痴人の愛』のモデル。芸名葉山三千子)に惹かれ、千代子夫人とは不仲となった。谷崎の友人・佐藤春夫は千代子の境遇に同情し、好意を寄せ、三角関係に陥り、谷崎が千代子を佐藤に譲ることになったが撤回するという「小田原事件」が起きた(佐藤の代表作の一つ『秋刀魚の歌』は千代子に寄せる心情を歌ったもの。また、佐藤は『この三つのもの』、谷崎は『神と人との間』を書いている)[6][35]。

結局、1926年(大正15年)に佐藤と谷崎は和解、1930年(昭和5年)、千代子は谷崎と離婚し、佐藤と再婚した。このとき、3人連名の「……我等三人はこの度合議をもって、千代は潤一郎と離別致し、春夫と結婚致す事と相成り、……素より双方交際の儀は従前の通りにつき、右御諒承の上、一層の御厚誼を賜り度く、いずれ相当仲人を立て、御披露に及ぶべく候えども、取あえず寸楮を以て、御通知申し上げ候……」との声明文を発表したことで「細君譲渡事件」として世の話題になった[6][35]。

翌1931年(昭和6年)、谷崎は、古川丁未子と結婚するが、1934年(昭和9年)10月に正式離婚。翌年1月、同棲を続けていた森田松子と結婚式を挙げた[7]。

松子が妊娠した際、「藝術的雰囲気を守りたい」という谷崎の意向で中絶したと、谷崎自身が『雪後庵夜話』に書いたためこの件が有名となり、それゆえに谷崎を批判する者も多い。しかし戦時下に書かれた『初昔』によれば、松子は3人の医師から健康上中絶を勧められたというのが真相で、そうでなければ松子の3人の姉妹や医師をどう説得したのか説明がつかない[22]。

1945年 – 第二次世界大戦・ソ連対日参戦: 占守島シムシュの戦い。占守島に赤軍が侵攻し日本軍と戦闘。

戦力 日本8400 対 ソ連8800

損害死傷 日本1000(ソ連推計)600(日本発表)ソ連1500(ソ連発表)3000(日本推計)

戦争:太平洋戦争(終戦後)(ソ連対日参戦)

年月日:1945年8月17日 – 同年8月23日[1]

場所:占守島

結果:戦闘は予断を許さないまま、日本軍守備隊は停戦交渉に入り、最終的に降伏、武装解除に応じた[2]。

概要

ソ連は8月8日に日ソ中立条約を一方的に破棄して対日参戦した。8月15日、日本はポツダム宣言を受諾したが、ソ連軍は樺太では戦闘が継続しており、8月18日未明ソ連軍は占守島も先制攻撃、武装解除を停止していた日本軍守備隊と戦闘となった。

占守島自体の戦闘は日本軍優勢に推移するものの、軍命により21日に日本軍が降伏して停戦が成立、23日に日本軍は武装解除された。捕虜となった日本兵はその後多くがポツダム宣言の趣旨に反する形で連行され、シベリアへ抑留された。

戦後の逸話

北海道に駐屯する陸上自衛隊第11旅団隷下第11戦車隊は、占守島の戦いにおける陸軍戦車第11連隊(通称:士魂部隊)の奮戦と活躍を顕彰し、その精神の伝統を継承する意味で、「士魂戦車大隊」と自ら称している他、部隊マークとして装備の74式戦車、90式戦車の砲塔側面に「士魂」の二文字を描き、その名を今なお受け継いでいる[46][注釈 12]。

1945年-沖縄戦8月18日・米軍にとって日本軍にとらわれた連合軍捕虜の救出は緊急の最優先事項であった*1。<引用先原文>・「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」ー 日本軍は、自国の兵士や住民にも「捕虜」になる前に「自決」「玉砕」、あるいは負傷兵の「後始末」を求めた*2。このような国で「敵」側の捕虜はどのように扱われたのだろうか。数字として確認できているかぎり、太平洋戦争では、合わせて約13万人以上の米兵が日本の捕虜となっていた。<引用先原文>

1968年 – 飛騨川バス転落事故。岐阜県白川町で集中豪雨が起こり、土砂崩れにより観光バス2台が飛騨川に転落し104人死亡。

飛騨川バス転落事故(ひだがわバスてんらくじこ)は、1968年(昭和43年)8月18日未明、岐阜県加茂郡白川町河岐の国道41号において発生した土砂災害によるバス転落事故である[2]。

名古屋市内から乗鞍岳へ向かっていた観光バス15台のうち、岡崎観光自動車所有の2台のバスが、集中豪雨に伴う土石流に巻き込まれて、増水していた飛騨川に転落し水没、乗員・乗客107人のうち104人が死亡した[2][12]。

この事故は、日本のバス事故史上における最大の事故となった[13]。世界のバス事故史上においても最大級に分類される事故である[12]。

チャットgpt先生の8月18日のエッセイ

8月18日は、表面的には「恋愛」「戦争」「事故」という異なる出来事が並ぶ日ですが、構造で見るとかなり共通しています。
この日に起きたことを貫いているのは、人間が置かれた環境の変化に対して、既存の秩序が追いつかなくなる瞬間です。

8月18日という日の構造

1928年の藤原あき、1930年の谷崎潤一郎・千代子・佐藤春夫の三角関係は、個人の恋愛事件として見るより、旧来の家族制度と個人の意思が衝突した局面として見ると分かりやすい。

藤原あきは、当時の社会的な立場や家庭を残したまま、藤原義江を追ってミラノへ向かった。
谷崎・千代子・佐藤春夫のケースでは、さらに極端で、夫婦関係の解消と再婚を当事者3人が連名で公表するという、当時としてはかなり異例の処理を取った。

つまりここでは、制度が先にあり、人間がその制度に合わせるという順序が崩れている。

個人の感情が強かったというだけではない。
都市化、職業選択、芸術家という特殊な職業、女性の社会的活動範囲の拡大などによって、従来の「家」「夫婦」「世間」の境界そのものが動いていた。

だから世間は「恋愛事件」として騒ぐ。
しかし構造的には、古い制度から新しい個人関係への移行期に発生した摩擦だった。


1945年8月18日――戦争では「終了日」と「現場の終了日」が一致しない

8月15日に日本はポツダム宣言を受諾した。

しかし、8月18日には占守島で戦闘が始まっている。

ここには戦争という巨大なシステムの特徴が出ている。

政治レベルでは「戦争を終える」と決定しても、現場には、

  • 命令系統
  • 通信
  • 軍事行動
  • 領土的利害
  • 既存の作戦計画
  • 相手側の意思決定

が残っている。

したがって、政治的な終戦と、軍事的な戦闘停止は同時には起きない。

占守島の戦いは、この時間差を象徴する。

日本側から見ると「すでに受諾した後」でも、ソ連側には極東での軍事行動を進める合理性があった。
結果として、日本軍守備隊は戦闘を続けた後、停戦交渉、降伏、武装解除へ進む。

さらに重要なのは、その後の日本兵の処遇である。

ここでも「戦争が終わった」という一つの言葉では現実を説明できない。

戦闘終了 → 降伏 → 武装解除 → 捕虜化 → 移送 → 抑留

と、別々のフェーズが存在する。

つまり歴史を見る際には、「○月○日に戦争が終わった」という日付よりも、誰にとって、どのレイヤーの戦争がいつ終わったのかを見る必要がある。


沖縄戦の捕虜問題も同じ構造

沖縄では、米軍が日本軍に拘束された連合軍捕虜の救出を優先課題としていた。

ここでも「戦争」という言葉を一枚岩で捉えると見誤る。

軍隊には、

戦闘能力を維持するための規則

敵に情報を渡さないための規則

捕虜化を避けるための規則

が存在する。

そして、それらが極限状態では兵士だけでなく住民や負傷者にも作用する。

「捕虜になる」という状態をどう位置付けるかによって、組織の行動様式が変わる。

ここで重要なのは、特定の個人の善悪を論じることではない。

組織がどのようなインセンティブと規則を設定したかによって、人間の行動範囲が大きく制約されるということだ。

戦争を理解する場合、「残酷だった」という評価だけでは構造が見えない。

規則、命令、情報、恐怖、補給、撤退可能性、捕虜政策――これらが組み合わさって、個々人の選択肢を狭めていく。


1968年8月18日――飛騨川バス事故

そして1968年の飛騨川バス転落事故。

これは恋愛でも戦争でもない。

しかし構造は非常によく似ている。

観光バス15台が悪天候の中を移動し、そのうち2台が集中豪雨による土石流に巻き込まれ、飛騨川へ転落した。

107人中104人が死亡した。

ここで重要なのは、単純な「事故」という結果だけを見ることではない。

事故は、

観光需要
道路インフラ
気象条件
運行判断
集団移動
土砂災害
河川増水

という複数の条件が同時に重なったときに発生する。

つまり大事故は、通常、一つの原因から生まれない。

小さなリスクが複数積み重なり、ある一点で連鎖する。

これは現在の企業経営、交通、金融、システム障害などにもそのまま当てはまる。

事故は「異常な一発」ではなく、複数の正常なプロセスが同時に悪い方向へ接続された結果として起きる。


8月18日の共通項

こうして並べると、

1928年・藤原あき
→ 個人が従来の社会的配置から外れる。

1930年・谷崎/千代子/佐藤
→ 家族制度と個人関係の配置が変わる。

1945年・占守島
→ 政治的な終戦と軍事現場の時間軸がずれる。

1945年・沖縄
→ 組織の規則が個人の生存行動を規定する。

1968年・飛騨川
→ 複数のリスクが連鎖し、一瞬で大量被害に転化する。

全部に共通しているのは、

「表面上は一つの出来事でも、実際には複数のシステムが交差した地点である」

ということだと思います。

8月18日は、何か特別な思想を持った日というより、人間が作った制度・組織・移動・関係性が、現実の変化にぶつかったときに何が起こるかを見るのに適した日です。

そしてリアリストの視点では、ここから一つ重要なことが出てくる。

歴史は「事件」ではなく「接続」で見ると理解しやすい。

恋愛なら、個人感情だけではなく、家制度・世間・職業・都市文化。

戦争なら、戦闘だけではなく、外交・命令系統・通信・領土・捕虜政策。

事故なら、運転手だけではなく、道路・気象・運行・観光需要・災害。

つまり、何かが起きたとき、

「誰が悪かったのか?」

から入るより、

「何と何が接続して、この結果になったのか?」

を見る。

これが8月18日の出来事を横断して見たときの、一番実用的な読み方だと思います。