5月16日
20260516土曜日旧暦3月30日友引(27番庚寅かのえとらコウイン)月齢 28.6
43番丙午ひのえうま年 30番癸巳みずのとみ月 27番庚寅かのえとら日
吉方位 陽遁日 庚寅かのえとら日 北西 大吉 年末まではあと229日
https://ja.wikipedia.org/wiki/5%E6%9C%8816%E6%97%A5
5月16日の出来事
1532年 – イングランドのカトリック教徒の政治家トマス・モアが大法官を辞職。離婚問題を巡りヘンリー8世の不興を買い、1535年7月6日に斬首刑に処せられる。(1935年に列聖された。)
1770年 – 後にフランス国王ルイ16世となるルイ・オーギュストがマリー・アントワネットと結婚。
1811年 – スペイン独立戦争: アルブエラの戦い。時 1811年5月16日
場所 スペイン、バダホスの南、アルブエラ
結果 決着つかず[1][2][3][4]
損害 イギリス、スペイン、ポルトガル連合軍 35000強中 戦死傷7000人捕虜1000人
フランス軍 24000人強中 戦死傷7000人強。
1911年 – 北海道小樽市で大火。1316戸が焼失[3]。
1924年 – 青森県八戸町で大火。1223戸が焼失[5]。
1931年 – 島根県松江市内で大火。家屋672戸が全焼[6]
1945年 – 第二次世界大戦・ビルマの戦い: ペナン沖海戦が行われる。羽黒撃沈400名戦死。
1945年沖縄戦5月16日米軍総攻撃6日目:米軍:・高層住宅が次々に建設されるなど、急速に発展している那覇市の新都心地区、その街並みを一歩外れたところに、戦争遺跡「シュガーローフ」があります。 シュガーローフは、アメリカ軍が、攻撃目標としてつけた呼び名で、現在は給水タンクが目をひく、すり鉢の形をした丘で、標高は46メートルあります。… 小さな丘をめぐる戦闘は、昭和20年5月12日からおよそ1週間続きました。日本軍の犠牲者はわかりませんが、アメリカ軍だけで2600人あまりが戦死したり、けがをしたりしました。シュガーローフ一帯は、アメリカ軍に接収され、兵士やその家族の住宅となりました (ブログ註: 米軍基地「牧港住宅地区」)。全面返還されたのは、昭和62年 (1987年) になってからでした。頂上にある那覇市水道局の白い給水タンクが目印で、丘の上まで登ることができます。<沖縄県那覇市 シュガーローフ|NHK 戦争証言アーカイブス>・大きな地図や部隊の駒など司令部の空気とは無縁な海兵隊のシュガーローフ最前線の兵士たちは、何度も何度も際限なく繰り返される死の恐怖の渦に飲み込まれていた。消耗しきった兵士たちは、まるでロボットのようだった。…「俺はあの場所に、ただ存在しただけだった」…「まるで、沢山のブリキの兵隊みたいにね。…ただ、前進して、前進して、前進してただけだよ」(233-234頁)《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 》・戦闘特派員エルヴィス・レーンはシュガーローフでの大虐殺を見た。「灰色の泥だらけの風景に死体が散らばっている。切断された腕や足が多数あった。そして時々、頭も。私以外に死者を見ないようにしている人間が何人いるだろうか。死体の中にはニヤニヤしているように見える人もいる。頭蓋骨から肉が腐って歯がむき出しになっている。私が見つめていると、にやにや笑っている死者の一人が私にこう尋ねるのではないかと不安になった。「おまえも私たちの仲間ではないのか?」<Sugar Loaf Hill Survival: U.S. Marines in the Okinawa Campaign>・C中隊の攻撃には戦車隊も加わったが、日本軍との激しい砲弾戦で弾薬つきて後退し、C中隊の一小隊にはラブ高地をはじめコニカル・ヒル、オーボー高地、キング、チャーリーの各高地の50梃ほどの機関銃から撃ち出されるものすごい弾幕に、ほとんど全滅状態におちいってしまった。その夜、帰ってきた兵は6人、しかも彼らは全員負傷していた。残りの20人は目的地に向かったまま、ついに帰ってこなかった。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 386-387、391頁より》:日本軍:・16日も米軍は、2コ連隊の大兵力で強襲をしてきた。52高地をアリのように米兵が葡い上がってくる。頂上にたどりつくのを、姿を現した日本兵が、蹴落す。しかし、ついに頂上を占領された。すぐさま、日本軍は、猛然と立ち上がって白兵戦。米軍の手から頂上を奪い返す。
52高地を直接防備していたのは、小禄の海軍部隊から派遣された山口海軍大尉の指揮する大隊であった。巧妙に、陣地を丘の非敵側(敵に面しない側)につくってあるので、大砲や艦砲では攻撃できない。戦車が52高地の西に回り、そこから攻撃しようとしたが、日本軍の対戦車砲の集中射撃を受けるので近よれない。とうとう、2コ連隊が、全力を傾けながら、それ以上どうしようもないうちに損害続出し、敗退した。「16日の戦闘が、沖縄戦で一番苦しかった。どう手の打ちようもなかった」と、かれらはいう。しかし、日本軍も、惨たる被害をうけ、山口大尉以下ほとんど戦死してしまった。(残存者は負傷者の22名だけ)《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 261-262頁より》・両軍による攻防は、1945年5月12日から1週間続いた。丘の上に設置された説明板には、1日のうちに4回も頂上の攻守が入れ替わったことや、米軍だけで2662人が死傷し、1289人が精神を病んだと記されている。日本側の死傷者は記録がない。戦車を前面に進攻する米軍。旧日本軍は砲撃や手りゅう弾で応戦する。「武器が違う。食料も足りない。太刀打ちできなかったと兄は話していた」。行動を共にしていた兵士が死に、兄は戦場を離れることができたという。姉は解散命令が出るまで残った。「姉によると、撤退する際、衛生兵は負傷兵に『痛み止め』と言って青酸カリを配ったそうです。連れて行かないのかと尋ねたら『おまえが背負って行くか?』と」。姉は残された負傷兵の最期は見届けていないという。中村さんは「戦えない者は切り捨てる。捕虜になる前に口封じですよ」と語る。姉と兄は戦後、シュガーローフの話をすることを嫌がった。特に姉は「世話をした負傷兵の顔が浮かぶ。声が聞こえる、ってガタガタ震えていた」。
「『痛み止め』と言って青酸カリを…」沖縄戦で16歳の姉が見た惨状 (西日本新聞 2020/5/17) – Battle of Okinawa
1947年 – 北海道三笠町幾春別で大火。死者2人、負傷者2人、焼失家屋977戸[5]。
1966年 – 中国共産党が5・16通知を発表。「プロレタリア階級による文化大革命」の用語が初めて登場。
1968年 – 1968年十勝沖地震。52人死亡、330人重軽傷。
1995年 – オウム真理教元教祖である麻原彰晃が地下鉄サリン事件の殺人罪等の容疑で山梨県上九一色村のオウム真理教の施設内で逮捕される。
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1532年 – イングランドのカトリック教徒の政治家トマス・モアが大法官を辞職。離婚問題を巡りヘンリー8世の不興を買い、1535年7月6日に斬首刑に処せられる。(1935年に列聖された。)
ロンドンの法律家の家に生まれた。聖アントニー校で学んだ後、カンタベリー大司教・大法官のジョン・モートン(英語版)の家で従僕として教育を受け、1492年からオックスフォード大学で2年間ラテン語を学んだが中退し、1494年にニュー法学院へ入学、1496年からは、政界への近道であり人文主義教育の中心でもあったリンカーン法曹院で学び、1501年に法廷弁護士の資格を得る[1]。
1504年、下院議員選出。1510年にイタリアの人文主義者ピコ・デラ・ミランドラの伝記『ピコ伝』を、1516年には『ユートピア』を上梓するなど、著述活動も盛んになる[1]。1515年からイングランド王ヘンリー8世に仕え、ネーデルラント使節などを務めた。ヘンリー8世の信任は厚く、地位は次第に進み、1521年にはナイトの爵位を授けられ、1529年、官僚で最高位の大法官に就任した。
離婚問題を巡ってヘンリー8世がローマ教皇クレメンス7世と反目し、ヘンリー8世はモアに助言を求めた。3年間で6名の異端者を処刑するほどの熱心なカトリック信徒であるモアは王に対し、離婚を正当化するいかなる根拠も無いことを告げた。一方、カトリックによる支配からの離脱を求める王の主張は力を増し、1532年5月15日にはカンタベリーの宗教会議(英語版)でヘンリー8世を「唯一最高の首長」とすることを承認した。モアは翌日に大法官を辞職した。
やがてヘンリー8世によるモアへの復讐が始まった。ヘンリー8世の側近トマス・クロムウェルが主導した1534年の国王至上法(国王をイングランド国教会の首長とする)にカトリック信徒の立場から反対したことにより査問委員会にかけられ、反逆罪とされて同年4月17日にロンドン塔に幽閉され、翌1535年7月6日に斬首刑に処された。この処刑は「法の名のもとに行われたイギリス史上最も暗黒な犯罪」と言われている[2]。遺体の首はロンドン橋に晒された。
1770年 – 後にフランス国王ルイ16世となるルイ・オーギュストがマリー・アントワネットと結婚。
1811年 – スペイン独立戦争: アルブエラの戦い。時 1811年5月16日
場所 スペイン、バダホスの南、アルブエラ
結果 決着つかず[1][2][3][4]
損害 イギリス、スペイン、ポルトガル連合軍 35000強中 戦死傷7000人捕虜1000人
フランス軍 24000人強中 戦死傷7000人強。
アルブエラの戦い(アルブエラのたたかい、英: Battle of Albuera)は、1811年5月16日に行われた半島戦争における会戦である。イギリス、スペイン、ポルトガルの連合軍とフランス南方軍(英語版)が、スペインの城塞都市・バダホスの南約20kmにあるアルブエラという小さな村で戦った。
アルブエラの教会は負傷したフランス兵であふれ、戦場には戦死者が未だ放置されていた[103]。アルブエラの戦いは、参加兵力の割には、半島戦争の中で最も血が流れた戦いであった[105]。
両軍とも損害は甚大であり、スールトはバダホスの包囲を解くという狙いに失敗したが、どちらも決定的勝利と公表する意志を明らかにはしなかった[106]。連合軍の損害は5,916、うちイギリス軍4,159、ポルトガル軍389、スペイン軍1,368に達した[5]。スールトは1811年5月21日付の報告書で、イギリス軍の損害を800から1,000の捕虜を含め5,000、スペイン軍を捕虜1,100を含め2,000、ポルトガル軍を700から800と見積もっていた[107]。フランス軍の損害はより確認が難しかった。スールトは当初、ナポレオンへの報告書で2,800と記していたが、7月6日に作成された公式文書では5,936まで数字が引き上げられた。これについてイギリスの歴史家の間では、スールトの数字が士官の死傷者数を241としているのに対し連隊の報告では計362となっていることから議論がある[8]。チャールズ・オマーン(英語版)は、この数字からフランス軍の総損害を推計して約7,900としている。これに対し、フランスの歴史家ジャック・ヴィタル・ベルマ(Jacques Vital Belmas)とエドゥアール・ラペネ(Édouard Lapène)はスールトの損害を7,000としている[108]。イギリス軍戦死者のうち、ダニエル・ホートン少将を含めた数人はエルヴァス英軍墓地(英語版)に埋葬された[109]。
ウェリントンはベレスフォードの戦況報告を読むと、その意気消沈する内容を不満に思い、「これではダメだ。イギリス国民を発狂させてしまう。勝利と書き直せ。」と参謀に伝えた[110][111]。この報告は適切に書き直されたが、ウェリントン個人としては、こんな戦闘がもう一度あったら軍が壊滅すると認めていた[112]。スールトも、連合軍のほうが損害が大きかったとして「大勝利」と主張した[101]。彼は気前よく連合軍部隊の強靭さに敬意を表し、「あんな将軍連中にもかかわらず敵兵は無敵だ。常々彼らをダメな兵隊だと思っていたが、今それを確信した。私は彼らの右側に回り込み、中央を突破し、全ての場所で勝った-しかし彼らは逃げる方法を知らないのだ!」と記した[113]。
1911年 – 北海道小樽市で大火。1316戸が焼失[3]。
1924年 – 青森県八戸町で大火。1223戸が焼失[5]。
1931年 – 島根県松江市内で大火。家屋672戸が全焼[6]
1945年 – 第二次世界大戦・ビルマの戦い: ペナン沖海戦が行われる。羽黒撃沈400名戦死。
ペナン沖海戦[1](ペナンおきかいせん)は、第二次世界大戦中の1945年5月16日夜にマレー半島北西岸、マラッカ海峡内に位置するペナン島沖で起きた日本海軍とイギリス海軍との間の海戦(夜戦)。
16日、羽黒は派遣されたイギリス第26駆逐隊の駆逐艦「ヴィーナス」のレーダーに捕捉された。元良勇(「羽黒」通信長)によれば、月の明るい夜であった[2]。2時10分、「羽黒」もレーダーでイギリスの駆逐艦を発見し離脱を図った。しかし、「羽黒」はスクリューシャフトに損傷を抱えたまま作戦に投入されたため、全速が発揮できない状態だった。まだ2番主砲塔も破壊されたままで、修理されていなかった。その上、艦上に搭載した大量の物資が砲塔の旋回も妨げた[3]。駆逐艦「ヴィーナス」は魚雷を発射しようとしたが失敗した。続いて駆逐艦「ソーマレス」と「ヴェルラム」が「羽黒」と「神風」へ突進し、「ソーマレス」が4.7インチ砲と40mm機関砲で「神風」を損傷させた。一方で離脱を断念した「羽黒」は、スクリューシャフトからの振動で照準に支障をきたしたまま砲撃を行い、「ソーマレス」の機関部へ命中弾を与えた。逆に2隻のイギリス駆逐艦の放った魚雷のうち1本が「羽黒」前部に命中した。一方、「羽黒」は輸送任務のために魚雷を全て下ろしており、「神風」は魚雷発射管すら撤去していた[4]。「神風」は死者27名を出しつつ、「羽黒」の周囲を旋回しながら煙幕を展開、照明弾を発射して包囲をせばめるイギリス駆逐艦隊と交戦した[5]。橋本中将は「神風」に離脱を命じ、2時50分に「神風」はレーダーで捉えた陸地の方角へ急速離脱した[6]。残された「羽黒」は「ヴィジラント」、「ヴィーナス」、「ヴィラーゴ」を加えた第26駆逐隊5隻の集中攻撃を受け炎上。艦前部が沈下し、左舷に20度近く傾斜しながら1時間近く交戦したが、魚雷2本の命中が致命打となり、前部から沈没した。[3]司令官橋本信太郎中将、羽黒艦長杉浦嘉十少将、機関長堺谷友太郎大佐を含む400名以下が戦死した。「神風」はペナンに退避し、陸揚作業と燃料補給の後、戦場へ引き返して「羽黒」の生存者救助を実施し[7]、320名を救助。17日にシンガポールへ撤退した。
1945年沖縄戦5月16日米軍総攻撃6日目:米軍:・高層住宅が次々に建設されるなど、急速に発展している那覇市の新都心地区、その街並みを一歩外れたところに、戦争遺跡「シュガーローフ」があります。 シュガーローフは、アメリカ軍が、攻撃目標としてつけた呼び名で、現在は給水タンクが目をひく、すり鉢の形をした丘で、標高は46メートルあります。… 小さな丘をめぐる戦闘は、昭和20年5月12日からおよそ1週間続きました。日本軍の犠牲者はわかりませんが、アメリカ軍だけで2600人あまりが戦死したり、けがをしたりしました。シュガーローフ一帯は、アメリカ軍に接収され、兵士やその家族の住宅となりました (ブログ註: 米軍基地「牧港住宅地区」)。全面返還されたのは、昭和62年 (1987年) になってからでした。頂上にある那覇市水道局の白い給水タンクが目印で、丘の上まで登ることができます。<沖縄県那覇市 シュガーローフ|NHK 戦争証言アーカイブス>・大きな地図や部隊の駒など司令部の空気とは無縁な海兵隊のシュガーローフ最前線の兵士たちは、何度も何度も際限なく繰り返される死の恐怖の渦に飲み込まれていた。消耗しきった兵士たちは、まるでロボットのようだった。…「俺はあの場所に、ただ存在しただけだった」…「まるで、沢山のブリキの兵隊みたいにね。…ただ、前進して、前進して、前進してただけだよ」(233-234頁)《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 》・戦闘特派員エルヴィス・レーンはシュガーローフでの大虐殺を見た。「灰色の泥だらけの風景に死体が散らばっている。切断された腕や足が多数あった。そして時々、頭も。私以外に死者を見ないようにしている人間が何人いるだろうか。死体の中にはニヤニヤしているように見える人もいる。頭蓋骨から肉が腐って歯がむき出しになっている。私が見つめていると、にやにや笑っている死者の一人が私にこう尋ねるのではないかと不安になった。「おまえも私たちの仲間ではないのか?」<Sugar Loaf Hill Survival: U.S. Marines in the Okinawa Campaign>・C中隊の攻撃には戦車隊も加わったが、日本軍との激しい砲弾戦で弾薬つきて後退し、C中隊の一小隊にはラブ高地をはじめコニカル・ヒル、オーボー高地、キング、チャーリーの各高地の50梃ほどの機関銃から撃ち出されるものすごい弾幕に、ほとんど全滅状態におちいってしまった。その夜、帰ってきた兵は6人、しかも彼らは全員負傷していた。残りの20人は目的地に向かったまま、ついに帰ってこなかった。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 386-387、391頁より》:日本軍:・16日も米軍は、2コ連隊の大兵力で強襲をしてきた。52高地をアリのように米兵が葡い上がってくる。頂上にたどりつくのを、姿を現した日本兵が、蹴落す。しかし、ついに頂上を占領された。すぐさま、日本軍は、猛然と立ち上がって白兵戦。米軍の手から頂上を奪い返す。
52高地を直接防備していたのは、小禄の海軍部隊から派遣された山口海軍大尉の指揮する大隊であった。巧妙に、陣地を丘の非敵側(敵に面しない側)につくってあるので、大砲や艦砲では攻撃できない。戦車が52高地の西に回り、そこから攻撃しようとしたが、日本軍の対戦車砲の集中射撃を受けるので近よれない。とうとう、2コ連隊が、全力を傾けながら、それ以上どうしようもないうちに損害続出し、敗退した。「16日の戦闘が、沖縄戦で一番苦しかった。どう手の打ちようもなかった」と、かれらはいう。しかし、日本軍も、惨たる被害をうけ、山口大尉以下ほとんど戦死してしまった。(残存者は負傷者の22名だけ)《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 261-262頁より》・両軍による攻防は、1945年5月12日から1週間続いた。丘の上に設置された説明板には、1日のうちに4回も頂上の攻守が入れ替わったことや、米軍だけで2662人が死傷し、1289人が精神を病んだと記されている。日本側の死傷者は記録がない。戦車を前面に進攻する米軍。旧日本軍は砲撃や手りゅう弾で応戦する。「武器が違う。食料も足りない。太刀打ちできなかったと兄は話していた」。行動を共にしていた兵士が死に、兄は戦場を離れることができたという。姉は解散命令が出るまで残った。「姉によると、撤退する際、衛生兵は負傷兵に『痛み止め』と言って青酸カリを配ったそうです。連れて行かないのかと尋ねたら『おまえが背負って行くか?』と」。姉は残された負傷兵の最期は見届けていないという。中村さんは「戦えない者は切り捨てる。捕虜になる前に口封じですよ」と語る。姉と兄は戦後、シュガーローフの話をすることを嫌がった。特に姉は「世話をした負傷兵の顔が浮かぶ。声が聞こえる、ってガタガタ震えていた」。
「『痛み止め』と言って青酸カリを…」沖縄戦で16歳の姉が見た惨状 (西日本新聞 2020/5/17) – Battle of Okinawa
1947年 – 北海道三笠町幾春別で大火。死者2人、負傷者2人、焼失家屋977戸[5]。
1966年 – 中国共産党が5・16通知を発表。「プロレタリア階級による文化大革命」の用語が初めて登場。文化大革命 1966年5月 – 1976年10月終結 死者数 中国政府発表 170万人 後世の研究では死者770万人説もある。間接的死者総計は2000万人とも。
文化大革命(ぶんかだいかくめい)は、中華人民共和国で1966年[3]から1976年まで続き、1977年に終結宣言がなされた、中国最高指導者兼中国共産党主席毛沢東主導による「文化改革運動」を装った劉少奇からの奪権運動、政治闘争。全称は無産階級文化大革命(簡体字: 无产阶级文化大革命、繁体字: 無產階級文化大革命、プロレタリア文化大革命)、略称は文革(ぶんかく)[3]。「造反有理」(謀反には道理がある)を叫ぶ紅衛兵に始まり、中国共産党指導層の相次ぐ失脚、毛沢東絶対化という一連の流れによって、中国社会は激しく荒れ乱れ、現代中国の政治・社会に大きな禍根を残して挫折した[3]。
名目は「封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しよう」という文化の改革運動だったが、実際は大躍進政策の失敗のために国家主席の地位を劉少奇党副主席に譲った毛沢東共産党主席が自身の復権を画策し、紅衛兵と呼ばれた学生運動や大衆を扇動して政敵を攻撃させ、失脚に追い込むための官製暴動であり、中国共産党内部での権力闘争だった。
文化大革命での推定死者数は間接も含めると、合計約2000万人に及ぶ[3][4][5][6][7][8]。文化大革命の最中には、北京の「赤い八月」(教職に対する大規模虐殺・略奪)、広西虐殺(カニバリズム)と内モンゴル人民革命党粛清事件といった大量虐殺と共食いも発生した[9][10][11][12][13][14][15]。
1968年 – 1968年十勝沖地震。52人死亡、330人重軽傷。
1995年 – オウム真理教元教祖である麻原彰晃が地下鉄サリン事件の殺人罪等の容疑で山梨県上九一色村のオウム真理教の施設内で逮捕される。
チャットgpt先生の5月16日のエッセイ
5月16日 ― 「勝者ですら消耗し尽くした日」の記録
5月16日という日は、表向きには王侯貴族の婚姻や政治事件、あるいは歴史年表の一行として並ぶ。しかし実際には、「国家が理性よりも制度維持を優先した瞬間」が異様に多い日でもある。
トマス・モアの辞職は、その典型だった。
彼は理想主義者として語られることが多いが、現実には極めて制度的人間だった。王権と教会秩序が衝突したとき、彼は王に逆らったというより、「法体系の一貫性」を守ろうとした。だが16世紀国家は、論理より君主の後継問題を優先した。結果、ヘンリー8世は宗教そのものを書き換え、モアは処刑された。
理想より制度、制度より権力。
この順番は、以後の近代史で何度も繰り返される。
1770年、後のルイ16世とマリー・アントワネットの結婚も、本質は恋愛ではなく財政と外交だった。
オーストリアとフランスは敵対をやめ、「王家の婚姻」でヨーロッパ秩序を固定しようとした。しかし、その体制は二十年後に崩壊する。革命とは、理念の爆発というより、国家財政が破綻したときに起きる。
ナポレオン戦争期のアルブエラの戦いも同じだ。
この戦いが異様なのは、「勝者」が存在しない点にある。イギリス・スペイン・ポルトガル連合軍もフランス軍も、互いに壊滅寸前まで殴り合いながら決定打を欠いた。戦術的には典型的な消耗戦だが、精神的には第一次世界大戦の前触れに近い。
ウェリントンが「勝利と書き直せ」と命じたのは象徴的だった。近代国家は、たとえ実態が流血と膠着であっても、「勝利」という言葉で国民を維持しなければならない。
戦争は戦場だけでなく、報告書の文章でも行われる。
そして1945年5月16日。
この日を語るなら、沖縄戦、とりわけシュガーローフの戦いを避けて通れない。
戦後日本では長く、「米軍=圧倒的物量で容易に勝利した」という単純化が流布された。これは事実の一部ではあるが、全部ではない。GHQプレスコード下では、日本側の抗戦能力や米軍の苦戦はかなり削られた。
実際のシュガーローフは、米海兵隊にとって太平洋戦争屈指の悪夢だった。
たった標高46メートルの丘。
だが日本軍は“逆斜面防御”を徹底していた。艦砲射撃も航空爆撃も効きにくい。米軍は丘を制圧したと思った瞬間、地下壕や死角から反撃を受ける。1日に4回も頂上の支配権が変わったという記録は、戦況の異常さを示している。
米軍は硫黄島でも激戦を経験していたが、沖縄南部はそれ以上に「終わらない消耗戦」だった。
理由は単純で、日本軍が“勝利”を目的としていなかったからだ。
彼らは時間を稼ぐために戦っていた。本土決戦準備のため、米軍を一日でも多く拘束する。それが第32軍の基本構想だった。つまり戦術目標が「敵撃滅」ではなく「敵消耗」だったため、通常の制圧理論が通じにくかった。
米軍側資料でも、シュガーローフ周辺は精神崩壊者が大量発生した地域として知られる。
海兵隊は前進しても前進しても、丘の裏から機関銃と迫撃砲が再出現する。砲撃で地形は泥と死体の混合物になり、部隊は損耗で形を失う。補充兵は数時間で消えた。
太平洋戦争末期の米軍は、工業力・航空優勢・海上支配を完全に握っていた。それでもなお、「人間が丘一つを奪う」という行為の原始性から逃げられなかった。
これは重要な点だ。
現代戦はハイテク化しても、最後は歩兵が地面を占領しなければ終わらない。
シュガーローフは、その現実を極限まで露出させた戦場だった。
一方、日本軍側も英雄的というより、むしろ崩壊寸前だった。弾薬不足、食糧不足、衛生崩壊、撤退不能。負傷兵置き去り、青酸カリ配布の証言も、極限状況では十分あり得る。軍紀や精神論では埋められない段階に入っていた。
つまり沖縄戦後半は、「勇敢な防衛戦」というより、国家機能が壊れた末期戦だった。
米軍は勝ったが、精神的代償は極めて重かった。
日本軍は敗れたが、局地的には米軍を何度も止めた。
この両方を同時に見なければ、沖縄戦の実像には届かない。
同じ5月16日には、文化大革命開始を告げる「5・16通知」も出ている。
ここでも構図は似ている。
理念を掲げながら、実態は権力闘争だった。
毛沢東は「革命純化」を唱えたが、現場では暴力・密告・私刑・集団ヒステリーが連鎖した。大衆運動が制御不能になると、国家はしばしば宗教化する。
紅衛兵は近代的官僚制への反乱であると同時に、毛沢東個人への信仰共同体でもあった。
結果、中国社会は十年単位で麻痺した。
1995年の麻原彰晃逮捕も、また別種の「終末思想」の帰結だった。
国家、革命、宗教。
規模は違っても、極限状態では人間集団はしばしば「現実」より「物語」を優先する。
そして物語が現実処理能力を超えた瞬間、破局が始まる。
5月16日を通して見えるのは、「人類は進歩しても、集団心理の構造はあまり変わらない」という事実かもしれない。
王権も、
革命も、
総力戦も、
カルトも、
結局は「この犠牲には意味がある」と信じ続けることで維持される。
だが現場に残るのは、多くの場合、
泥、
火災、
飢餓、
死体、
そして生き残った者の沈黙である。
歴史は英雄譚より、むしろ「どこまで壊れても組織は動き続けるか」の記録に近い。

