kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日4月24日 1915青年トルコ革命、ほか 写真wikipediaミドハト憲法復活の図

4月24日

20240424水曜日赤口旧暦3月16日戊午つちのえうまボゴ 月齢 15.4 満月(9時)

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4月24日の出来事

1771年(明和8年3月10日) – 八重山地震発生。津波により死者・行方不明者112,000人。

1915年 – 青年トルコ革命: イスタンブールで250人のアルメニア人独立活動家が殺害される。アルメニア人虐殺の始まり。

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1771年(明和8年3月10日) – 八重山地震発生。津波により死者・行方不明者112,000人。

八重山地震(やえやまじしん)は、1771年4月24日(明和8年3月10日)午前8時頃に八重山列島近海を震源として発生した地震である。

被害

地震動

石垣島における震度は4程度と推定され、地震動による大きな被害はなかったとされていたが、2018年の報告によれば1771年の津波堆積物の下の層から地割れなどの痕跡が発見された[18][23]。地震動の記録としては『琉球旧海主日記』に「本国及久米、慶良間島地震アリ、宮古島及八重山島ニテ又地震アリテ、海浪騰湧シ、土地人民ニ損害多シ」とあり、石垣島の状況を記した岩崎卓爾著『ひるぎの一葉』には「朝五ツ時頃、地ヤヤ強ク震フヤ海潮遠ク退キ」とある[24]。

津波

震害はなかったが、地震により最大遡上高30メートル程度[26]の大津波が発生し、宮古・八重山両列島で死者・行方不明者約11,000人・家屋流失約2,000戸という惨事になった。石垣島では潮が引いて青、緑、紅、紫熱帯色の色彩眩き大小の魚がサンゴ礁の根株の下に跳躍し、婦女、小児がこれを捕えているところに、しばらくして東方洋中に二条の暗雲が垂れ込め、砕けて激しき暴潮漲溢が弃馬の如く狂い、繰り返し襲って来た(『ひるぎの一葉』[27])[28][3]。

八重山諸島では死者約9,200人[29]、生存者約19,000人で、14の村が流され、津波の直接の被害として死者・行方不明者は住民の約3分の1にのぼった[30][3]。耕作可能地の多くが塩害の影響を受け、農作物の生産が低迷し、社会基盤が破壊された。津波発生の翌年6月頃より、疫癘の流行が白保村から始まり、環境衛生が極度に悪化して伝染病が流行したと推定され、古老らによって「イキリ」と伝承されているが、これは疫痢のこととされる(『奇妙変異記』)。強制移住や翌年の飢饉と疫病の流行によって、八重山で死者約5,000人を出した。その後の1776年、1802年、1838年、1852年と飢饉や疫病が続き、約100年後の明治時代初頭の八重山諸島の人口は、地震前の4割から3割程度にまで減少した[31][28][3]。

伝説

石垣島では、この大地震に関する伝説がある。ある日「野原(ぬばれ)村」(現在はない)の漁師達が漁で人魚を捕獲してしまい、その人魚を放すお礼に人魚から大津波が来ることを教えられた。野原村の村人はその言葉を信じ山に逃げ、津波の事を隣村の白保村に伝えるために伝達を出した。知らされた白保村では人魚の話など馬鹿げた話だと信じてもらえず、結局信じる人々のみが於茂登岳に避難した。そして津波は起こり、島は津波に飲み込まれてしまう。「大波之時各村之形行書」(おおなみのときかくむらのなりゆきしょ)に記録されたデータでは、この津波による野原村の遡上高は46.7メートルで死者(行方不明者)は2名だけであったが、白保村での遡上高は60メートルに及び、死者(行方不明者)は全村民1,574名中の1,546名で、98.2%が死亡した。

宮古列島下地島の通り池にもこの大地震に関するともされる伝説が残っている。

「通り池#伝説」も参照

島が一つ津波に飲み込まれて消えたという伝承があるが、真偽は不明である。

1915年 – 青年トルコ革命: イスタンブールで250人のアルメニア人独立活動家が殺害される。アルメニア人虐殺の始まり。

青年トルコ人革命(せいねんトルコじんかくめい)は、1908年にオスマン帝国で起こった政変。「統一と進歩委員会」メンバーの士官が中心となってマケドニアに駐留するオスマン帝国軍の部隊がスルタン・アブデュルハミト2世への反乱を起こし、スルタンに専制政治を放棄させた。1878年にアブデュルハミト2世によって停止されたオスマン帝国憲法(ミドハト憲法)の復活を目指す青年トルコ人運動の結実として起こったことからこの名がある。

狭義の「青年トルコ人革命」は1909年7月に起こった軍人の蜂起とそれをきっかけにした憲政の復活のことを指すが、1909年4月に「3月31日事件」と呼ばれる反革命のクーデターが鎮圧され、アブデュルハミト2世が廃位されるところまでを含めることもある。

アルメニア人虐殺は、1915年から1916年にかけて統一と進歩委員会(青年トルコ党)政権によって行われた、伝統的なアルメニア人居住地(いわゆる大アルメニア)の南西部にあたるオスマン帝国領のアナトリア東部(いわゆる西アルメニア)からのアルメニア人強制移住であり、これに伴って数多くのアルメニア人が犠牲になった。オスマン帝国に居住するアルメニア人が政府の命令により意図的に殺害されたとして、この虐殺事件を近代初のジェノサイド(虐殺)の一つであると見なす者は少なくない[3][4][5][6]。アルメニア人社会では「虐殺がナチス・ドイツによるユダヤ人に対するホロコーストのように組織的に行われた」と考えられており、またオスマン帝国からトルコに至る「トルコ国家」が一貫した責任を有するとする。特に4月24日は「ジェノサイド追悼記念日」とされており、毎年トルコを非難する国際的なキャンペーンが行われている。

アルメニア人の死者数は、一般的に100万から150万人の間であると考えられている[7][8][9][10]。トルコ共和国の元国民教育相ユースフ・ヒクメト・バユルは、トルコ歴史協会から出版された、その著書『トルコ革命史』で、1928年にニハト中佐により翻訳されトルコ参謀本部により出版された『世界大戦におけるトルコの戦争』のなかから「東部諸県のムスリムのうち、戦争のため、または避難のため、50万が失われた。80万のアルメニア人と20万人のルム (ギリシャ本土以外に住むギリシャ系住民のトルコでの呼称)は、虐殺と追放のため、また、労働大隊において死亡した」という部分と、「我々の記録に拠っても、事実と看做す必要がある」とのニハト中佐の脚注を引用している[11]。

チャットgpt先生の4月24日のエッセイ

4月24日は、歴史上重要な出来事が複数起こった日です。まず、1771年には八重山地震が発生し、大きな津波が宮古・八重山両列島を襲いました。この地震と津波により、約11,000人の死者と行方不明者が出るなど、甚大な被害が生じました。津波の影響で多くの家屋が流失し、農作物の生産が低迷するなど、地域全体が深刻な打撃を受けました。その後も飢饉や疫病の流行が続き、地域の人口が大きく減少するなど、長期にわたる影響が残りました。

また、1915年には青年トルコ革命の中で、イスタンブールでアルメニア人独立活動家が殺害される事件が発生しました。これはアルメニア人虐殺の始まりとなり、数多くのアルメニア人が強制移住や殺害される惨事が起こりました。この虐殺事件は、後にジェノサイドと見なされるようになり、国際的な非難を浴びることとなりました。

これらの出来事は、人間の歴史において悲劇的な側面を示すものです。自然災害や人為的な紛争によって、多くの命が奪われ、地域社会が破壊されることを思い起こさせます。しかし、これらの出来事から学ぶべき教訓も多くあります。過去の過ちや悲劇を繰り返さないために、国際社会全体が協力し、平和と安全を確保する努力を続ける必要があります。