kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日3月10日1793フランス革命裁判所設置、1905奉天会戦大勝利、1945東京大空襲、ほか写真wikipedia松坂屋から仲見世焼け跡を臨む

3月10日

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3月10日の出来事

1793年 – フランス革命: 国民公会が政治犯を審理するために革命裁判所をパリに設置。

1905年 – 日露戦争: 奉天会戦が日本軍の勝利で終結。1945までこの日が陸軍記念日。

1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 東京大空襲。

2008年 – チベット騒乱が始まる。

2019年 – エチオピア、ボレ国際空港発のエチオピア航空302便が墜落事故。乗客乗員157人全員が死亡(エチオピア航空302便墜落事故)[13]。

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1793年 – フランス革命: 国民公会が政治犯を審理するために革命裁判所をパリに設置。

1905年 – 日露戦争: 奉天会戦が日本軍の勝利で終結。1945までこの日が陸軍記念日。

1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 東京大空襲

東京大空襲(とうきょうだいくうしゅう)は、第二次世界大戦(太平洋戦争)末期にアメリカ合衆国により行われた、東京都区部に対するM69焼夷弾などの焼夷弾を用いた大規模な戦略爆撃の総称。日本各地に対する日本本土空襲、アメリカ軍による広島・長崎に対する原爆投下、沖縄戦と並んで、東京の都市部を標的とした無差別爆撃によって、市民に大きな被害を与えた。爆撃被災者は約310万人、死者は11万5千人以上[注 1][注 2]、負傷者は15万人以上、損害家屋は約85万戸以上の件数となった[4]。

M47焼夷爆弾(AN-M47A2)。100ポンド(45㎏)のナパーム弾(ゲル化ガソリン)でアメリカ軍最初の焼夷弾。鉄製の弾筒内にゼリー状に加工した油脂約18㎏を封入し、弾頭に火薬を装填した。屋根を突き破って屋内に入り爆発してナパーム剤を円錐状に飛散させた[16]

M50焼夷弾(AN-M50A2)。4ポンド(1.8㎏)のマグネシウム焼夷弾で、イギリス軍のM2焼夷弾をアメリカ陸軍が制式化したもので、アルミニウム粉末と酸化鉄を六角形の形をした筒状の金属製容器に充填している。直径5cm、長さ35cm、重量2㎏で小型の焼夷弾であり、34発が収束されていたが、一定の高度でバラバラになって落下した。元々はドイツのコンクリート建造物を破壊する目的で製造されたが、木造の家屋によく適していた[16][17]

M69焼夷弾(AN-M69)。6.2ポンド(2.7㎏)ナパーム弾。1942年に開発されたM56尾部点火式爆弾の改良型。直径8cm、長さ50㎝、でM50焼夷弾と同様に、六角形の金属製容器にゼリー状のナパーム剤とマグネシウムが充填されてあったが、通常38発が収束されてE46-500ポンド収束爆弾(クラスター爆弾)として投下された。一定の高度でバラバラになって落下したが、他の焼夷弾との相違点は水平安定板がなく、代わりに1.2mの「ストリーマー」と呼ばれる綿製のリボンが落下時に尾部から飛び出して、姿勢の安定と落下速度の調整を行った。日本家屋の瓦屋根を貫通させるためには激突時の速度をあまり早くする必要はなく、ストリーマーによる減速で M50焼夷弾の1/4の速度に抑えられた。このストリーマーに火がついて燃えながら落下してくることが多かったので、あたかも“火の雨”が降ってくるように見えたという。六角形の金属製容器が建物の屋根を突き破ると、導火線が作動し5秒以内にTNT火薬が炸裂、その後に混入されたマグネシウム粒子によって、布袋に入ったナパーム剤を点火し、その推力で六角形の金属製容器を30m飛ばして半径27mもの火の輪を作り周囲を焼き尽くした[18][17]。内部に詰められたゼリー状のナパーム剤から、この焼夷弾は「goop bomb」(ベトベト爆弾)と呼ばれていた[19]。

アメリカ軍はM69焼夷弾の開発にあたって、1943年3月にダグウェイ実験場(ユタ州)での実戦さながらの実験を行っている。その実験というのは演習場に日本式家屋が立ち並ぶ市街地を建設し、そこで焼夷弾の燃焼実験を行うといった大規模なものであったが、日本家屋の建築にあたっては、日系人の多いハワイからわざわざ資材を取り寄せ、日本に18年在住した建築家が設計するといった凝りようであり、こうして建てられた日本家屋群には日本村という名前が付けられた[20]。M69焼夷弾のナパーム剤で炎上した日本式家屋は、日本の消防隊を正確に再現した消防隊の装備では容易に消火できず、日本に最適の焼夷弾と認定された[19]。

3月10日の大規模空爆で使用されたナパーム弾は、ロッキーマウンテン兵器工場で製造された[21]。

空襲の経過

背景

フィリピン海(図中央)の東に位置するマリアナ諸島。南端はグアムで、北には小笠原諸島があり、伊豆・小笠原・マリアナ島弧を形成している。

「日本本土空襲」および「ドーリットル空襲」を参照

1942年4月18日に、アメリカ軍による初めての日本本土空襲となるドーリットル空襲が航空母艦からのB-25爆撃機で行われ、東京も初の空襲を受け、荒川区、王子区、小石川区、牛込区が罹災した[26][27]。死者は39人[28]。

「マリアナ・パラオ諸島の戦い」および「サイパンの戦い」を参照

1943年8月27日、アメリカ陸軍航空軍司令官ヘンリー・アーノルド大将は日本打倒の空戦計画を提出、日本都市産業地域への大規模で継続的な爆撃を主張、焼夷弾(ナパーム弾)の使用に関しても言及[29]。この時、アーノルドは科学研究開発局長官ヴァネヴァー・ブッシュから「焼夷攻撃の決定の人道的側面については高レベルで行われなければならない」と注意されていたが、アーノルドが上層部へ計画決定要請を行った記録はない[30]。

1944年からのマリアナ・パラオ諸島の戦いでマリアナ諸島に進出したアメリカ軍は、6月15日にサイパンの戦いでサイパン島に上陸したわずか6日後、まだ島内で激戦が戦われている最中に、日本軍が造成したアスリート飛行場を占領するや、砲爆撃で開いていた600個の弾着穴をわずか24時間で埋め立て、翌日にはP-47戦闘機部隊を進出させている。その後、飛行場の名称を上陸3日前にサイパンを爆撃任務中に日本軍に撃墜され戦死したロバート・H・イズリー中佐に因んでコンロイ・イズリー飛行場(現在サイパン国際空港)改名、飛行場の長さ・幅を大幅な拡張工事を行い新鋭爆撃機B-29の運用が可能な飛行場とし、10月13日に最初のB-29がイズリー飛行場に着陸した[31]。同様に、グアムでも8月10日にグアムの戦いでアメリカ軍が占領すると、日本軍が造成中であった滑走路を利用してアンダーセン空軍基地など3か所の飛行場が建設され、8月1日に占領したテニアン島にもハゴイ飛行場(現・ノースフィールド飛行場)とウエストフィールド飛行場(現在テニアン国際空港)が建設された。ドーリットル空襲後、東京への空襲は途絶えていたが、これらの巨大基地の建設によりB-29の攻撃圏内に東京を含む日本本土のほぼ全土が入るようになった[32]。日本ではマリアナ諸島陥落の責任を東条内閣に求め、1944年7月18日に内閣総辞職した[32]。

ルメイの叙勲について

NHK取材では戦争責任についての問いにルメイは勲章を示して見せた[174]。

爆撃直後にルメイは「近代航空戦史で画期的なできごととなった」と空襲の成果に胸をはったが、民間人の大量虐殺については、「幸せな気分になれなかった」としつつも、日本軍がフィリピンでアメリカ兵やフィリピンの民間人に対して行ったとされる残虐行為を引き合いに出して、「(大量虐殺が)私の決心を何ら鈍らせなかった」と回想したり[175]、「我々は軍事目標を狙っていた。単なる殺戮のために民間人を殺戮する目的などはなかった…我々が黒焦げにしたターゲットの一つに足を向けてみれば、どの家の残骸からもボール盤が突き出ているのが見えたはずだ。国民全員が戦争に従事し、飛行機や弾薬を造るために働いていたのだ…大勢の女性や子供を殺すことになるのはわかっていた、だが、我々はやらねばならなかった」と当時の日本工業生産の特徴でもあった家内工業のシステムの破壊が目的であり、仕方なかったとも述べている[176]。

また、ルメイは日本爆撃に道徳的な考慮は影響したかと質問され、「当時日本人を殺すことについてたいして悩みはしなかった。私が頭を悩ませていたのは戦争を終わらせることだった」「もし戦争に敗れていたら私は戦争犯罪人として裁かれていただろう。幸運なことにわれわれは勝者になった」「答えは“イエス”だ。軍人は誰でも自分の行為の道徳的側面を多少は考えるものだ。だが、戦争は全て道徳に反するものなのだ」と答えた[177]。ルメイは「我々は日本降伏を促す手段として火災しかなかったのだ」とも述懐している[97]。兵士に向けては「戦争とはどんなものか教えてやろう。君たちは人間を殺さなければならない。そして、できるだけ多く殺したときに、敵は戦いをやめるのだ」とも語っている[178]。

2008年 – チベット騒乱が始まる。

2008年のチベット騒乱(にせんはちねんのチベットそうらん)は、2008年3月10日に中華人民共和国チベット自治区ラサ市において、チベット独立を求めるデモをきっかけとして発生した暴動を指す。

ラサ市内の暴動は3月16日までに鎮圧されたが、チベット民族が居住する四川省・青海省・甘粛省などに暴動が飛び火し、欧米や日本、インド、ネパール等でもチベット難民とその支援者達による中国への抗議活動が繰り広げられた。

2019年 – エチオピア、ボレ国際空港発のエチオピア航空302便が墜落事故。乗客乗員157人全員が死亡(エチオピア航空302便墜落事故)[13]。

チャットgpt先生の3月10日のエッセイ

東京大空襲とチベット騒乱:過去と現在の暴力の影響

歴史は時折、我々にその残酷さと複雑さを思い知らせます。その中でも、3月10日に起こった出来事は、その残虐性と影響の大きさにおいて特筆されます。過去と現在、東京大空襲とチベット騒乱は、戦争や抑圧の犠牲者たちの物語を語り続けています。

まず、東京大空襲は第二次世界大戦の末期におけるアメリカによる戦略爆撃の一環でした。焼夷弾を用いたこの攻撃は、東京都区部に甚大な被害をもたらしました。市民たちは無差別な攻撃の犠牲となり、数多くの人々が命を落としました。この残忍な戦術は、戦争の終結を目指す一方で、多くの無辜の人々に苦しみをもたらしました。当時の指導者たちは、戦争という目的を達成するためには手段を選ばざるを得ないという苦渋の決断を下しましたが、その結果として多くの人々が犠牲になりました。

そして、チベット騒乱は2008年に発生しました。チベット独立を求めるデモがラサ市で始まり、その後四川省や青海省などでも広がりました。中国政府によるチベットに対する抑圧に対する怒りが爆発した結果であり、暴動は鎮圧されるまで数日間続きました。しかし、その影響は中国国外にも飛び火し、チベット難民や支援者たちによる抗議活動が世界中で行われました。この騒乱は、抑圧と反抗の永遠の対立を象徴しています。弱者が権力に対して立ち上がることは容易ではありませんが、その声は時に強力な影響を持ち、世界中で連帯を生み出します。

これらの出来事は、過去と現在の暴力と苦しみの現実を我々に突きつけます。戦争や政治的抑圧は、人々に多大な犠牲を強いるだけでなく、その影響は長期間にわたって広がり続けます。しかし、それでもなお、人々は希望を持ち続け、平和と正義を求めて闘い続けます。我々は過去の過ちから学び、未来の世代により良い世界を残すために努力を惜しむことはありません。東京大空襲とチベット騒乱は、その教訓を私たちに与える過去と現在の典型例です。