kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日6月20日 1789球戯場の誓い、ほかwikipediaダヴィッド画

6月20日

20260620土曜日旧暦5月6日仏滅(2番乙丑きのとうしイッチュウ)月齢 5

43番丙午ひのえうま年 31番甲午きのえうま月 2番乙丑きのとうし日

吉方位 陽遁日 乙丑きのとうし日 北東 大吉 年末まであと194日

https://ja.wikipedia.org/wiki/6%E6%9C%8820%E6%97%A5

6月20日の出来事

451年 – カタラウヌムの戦い。アッティラ率いるフン族と西欧諸民族連合軍の会戦[要出典]。 戦力損害不明 フン族の西ヨーロッパ侵入の端緒。

1180年(治承4年5月26日) – 以仁王の挙兵: 宇治平等院の戦いで源頼政と以仁王が敗死。

1333年(元弘3年/正慶2年5月8日) – 新田義貞が上野国で北条氏討伐の旗揚げ。

1789年 – 球戯場の誓い(テニスコートの誓い)。フランスで、第三身分議員らが議事堂内のテニスコートで憲法制定までの不解散を誓う。

1791年 – フランス革命: ルイ16世一家がオーストリアへの逃亡を企てる。(ヴァレンヌ事件)

1810年 – スウェーデン貴族で、マリー・アントワネットの愛人であったフェルセンが民衆により惨殺される。

1900年 – 義和団の乱発生。

戦力

義和団 200000以上  連合軍 70000強

損害 

義和団 数万人    連合軍 757人(カトリック聖職者等)

1945年-沖縄戦6月20日:米軍:・沖縄を焦土と化す勢いで降り注いだ艦砲射撃。記録では砲弾の数は16万発にのぼる。しかし6月20日を境に、その攻撃はぴたりと止んだ。アメリカ軍が南部をほぼ制圧したのだ。最後の掃討戦が始まり、もはや住民たちの逃げ場は海岸線しか残されていなかった。海を前に、追い込まれた人たちが自ら命をたつ、いわゆる「集団自決」が相次いでいた。<NHK ドキュメンタリー沖縄戦 ~ 出口なき戦場 – Battle of Okinawa>・6月20日の午後、第32歩兵連隊は(摩文仁岳)の東端を占領した。そして977人の兵を捕虜にしたが、これは太平洋戦争で、いまだかつて例を見ない数であった。

日本軍は組織を破壊され、絶望のどん底にあった。だが、こういう兵隊たちも、3分の1近くは、死を選ぶよりは降服することを選んだのである。さらに捕虜の話によると、ほかにも多数の兵隊が降服したがっていたが、ついにその機会を得なかったという。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 507頁より》・6月20日の夜、われわれは海を見下ろす高台に防衛線を張った。私は珊瑚砂の道路近くに迫撃砲の壕を掘り、一帯を照らす照明弾や榴弾を打ち上げた。ほかの班は、中隊の海寄りの区域を受け持った。夜になると、あちこちに出没する日本兵との銃撃戦が延々と繰り返された。<ペリリュー・沖縄戦記」(ユージン・B・スレッジ: 伊藤真/曽田和子 訳 /講談社学術文庫) 453-454頁>・アメリカ兵の多くが、条約の要求をはるかに超えて人間的行動をしたことも、くりかえしいう価値がある。民間人に対する自発的な慈善行為や親切な行為の中には、個々の戦闘員が自分の背嚢を空にして子供たちに食べさせたり、部隊で少年を養子にして軍医部のマスコットとして可愛がったり、日本人の負傷者を助けた同じ軍医たちが、きわめて困難な状態のもとで沖縄の数人の赤ん坊の分娩を助けたことなどがあった。兵がキャンディ・バーや煙草や食糧の缶詰を渡している写真は、嘘ではなかった。アメリカの国民は男たちの寛大さを信じて間違いなかったのだ。避けられる時に民間人を撃つなどもってのほかで、たいていのアメリカ人は自分の本能に従い、ありのままに寛大であった。

… しかし、残虐行為を完全に無視することは、実質的にすべての戦史はそうしているようだが、戦争を評価しすぎており、まやかしの話になってしまう。(324頁)

… 強姦は残虐行為の資格充分であり、多くの事例があった。民間人の婦人を犯すことは、多くの部隊は認めなかったが、もっとも頻繁に起こる犯罪に含まれていた。ある兵は、「沖縄の婦人に触れた者はその場で処刑する」という将校の警告を充分に承知していたし、そういう脅しを必要としなかった。しかし、その他の個人、グループには違った行動をする者もいた。また、アメリカの戦史は、彼らの犯罪を無視している。《「天王山  沖縄戦と原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 323頁》:日本軍:・歩兵第32連隊第1大隊(大隊長・伊東孝一大尉)

ここ数日の混戦・乱戦のうちに麾下の諸隊とは全く連絡が途絶え、… 聯隊本部に出した伝令も1人として帰って来る者はいなかった。… 後方には第62師団がいる。あと1日、もう1日と思っているうちに、2日間が過ぎた。このたった2日の間に、米軍の主力は南下していき、国吉台への攻撃の手を弛めていた。

20日には、まず独立速射砲大隊と連絡が取れた。そして夜を迎えるたびに、諸隊との連絡が回復した。機関銃中隊と大隊砲小隊を合わせて約40名が、かつての前進陣地だった照屋陣地に集結し、機関銃中隊の一部約10名が依然として国吉台で頑張り、配属の第2大隊約30名も生存していた。しかし兵器は破壊され、わずかな小銃を残すのみで、傷病者だけとなっていた。ちょうどその頃、他部隊の沖縄出身の兵1名が紛れ込んできて言った。

「自分は最南端の山城から昨日逃げてきました。敵はそこにもやって来ています」

伊東は耳を疑った。(そんなバカなことが・・・)

一昨日まで、多くの敵が国吉台の周辺にいたのだ。南方には第62師団がいる。何を言うかと取り合わなかった。しかし実際は、軍の右翼を防御していた混成第44旅団は6月10日頃から崩れ出し、第62師団が救援に赴いていて山城にはさしたる兵力がなかった。米軍は伊東たち歩兵第32聯隊が守る陣地を突破してからは、ほとんど抵抗を受けずに一路南下していったのだった。《「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸枝/Gakken) 249-250頁より》・七歳で家族全員が殺され戦場でうずくまっていた少女が米軍に救出される

一人ぼっちになった私は、身も心も尽き果てて死体にうずもれ、遠のく意識の中で「今度は私が死ぬ番。これでみんなに会える」と思いました。どれほどの時間がたったのでしょう。目をさました時には、学校で「鬼畜」と教わったアメリカ兵に抱かれていました。助かったのです。<沖縄タイムス「沖縄戦 7歳一人ぼっち 戦災孤児の戦後70年」2015年 – Battle of Okinawa>

2003年 – 福岡一家4人殺害事件発生。中国人3人らによる犯行。

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451年 – カタラウヌムの戦い。アッティラ率いるフン族と西欧諸民族連合軍の会戦[要出典]。 戦力損害不明 フン族の西ヨーロッパ侵入の端緒。

1180年(治承4年5月26日) – 以仁王の挙兵: 宇治平等院の戦いで源頼政と以仁王が敗死。

1333年(元弘3年/正慶2年5月8日) – 新田義貞が上野国で北条氏討伐の旗揚げ。

1789年 – 球戯場の誓い(テニスコートの誓い)。フランスで、第三身分議員らが議事堂内のテニスコートで憲法制定までの不解散を誓う。

1791年 – フランス革命: ルイ16世一家がオーストリアへの逃亡を企てる。(ヴァレンヌ事件)

1810年 – スウェーデン貴族で、マリー・アントワネットの愛人であったフェルセンが民衆により惨殺される。

ハンス・アクセル・フォン・フェルセン[注釈 1](Hans Axel von Fersen [hɑːns ˈaksɛl fɔn ˈfæʂɛn], 1755年9月4日 – 1810年6月20日)伯爵は、政治家、軍人。スウェーデンの名門貴族で王室顧問であるフレドリク・アクセル・フォン・フェルセン侯爵の子。スウェーデン国王グスタフ3世の寵臣。また、マリー・アントワネットとルイ16世から深く信頼され、特にマリー・アントワネットとの交流が有名[1]。フランス革命において、国王夫妻の助命に奔走した。国王夫妻の没後1794年10月にスウェーデンに帰国し、グスタフ4世に仕えたが、1809年3月にグスタフ4世が退位。1810年6月20日、王太子カール・アウグストの遺体を護衛中、暴徒に襲われ死去[2]。54歳没。

フェルセンの最期

国王との対立により、グスタフ4世が廃位された1809年クーデター(英語版)では中立の立場をとった[4][6]。そのため、革命後は地位を保ち、大将に昇進したが、保守派としてグスタフ4世の息子で王太子だったグスタフを擁立しようとした[4][6]。国王に即位したカール13世は王太子にアウグステンブルク家のクリスチャン・アウグストを指名したが、クリスチャン・アウグストは1810年5月にスコーネで急死した[4]。

クリスチャン・アウグストの死後、フェルセンとその妹ソフィー・ピーペル(英語版)がクリスチャン・アウグストを毒殺したという噂が流れた[4]。『ブリタニカ百科事典第11版』はこの噂を誹謗であるとし、その出所も不明としたが、反グスタフ派はこの噂を利用した[4]。

1810年6月20日にクリスチャン・アウグストの遺体がストックホルムに運ばれると、フェルセンは宮内相としてそれを迎えた[4]。やがて群衆が暴動を起こし、「殺人者」と叫びながら投石しはじめた[4]。士官2人がフェルセンを国会議事堂に護送し、そこに軟禁する形で群衆の怒りを鎮めようとしたが、フェルセンは議事堂前の階段でリンチされて死亡した[4]。暴動は1時間以上続いたが、現場にいた近衛連隊は暴動を制止しなかったという[4]。

グスタフ派に属するグスタフ・マウリッツ・アルムフェルトは暴動の責を群衆に帰すべきではなく、「こんな事件が正規軍のいる場で白昼堂々と起こった」と疑問を呈し、『ブリタニカ百科事典第11版』はカール13世政権がグスタフ派の勢力を弱体化させようとして、アルムフェルトが逃げたためフェルセンが被害を受けたと評している[4]。

1810年12月、裁判所がカール・アウグストは病死であるとの判断を下し、フェルセンは汚名をそそがれ、高官としての葬儀を許された[8]。

1900年 – 義和団の乱発生。

戦力

義和団 200000以上  連合軍 70000強

損害 

義和団 数万人    連合軍 757人(カトリック聖職者等)

「扶清滅洋」を叫ぶ宗教的秘密結社義和拳教による排外主義の運動が展開された[4] が、1900年(光緒26年)に清国の西太后がこの叛乱を支持して6月21日に欧米列国に宣戦布告したため国家間戦争となった[5]。だが、宣戦布告後2カ月も経たないうちに、北京の公使館員や居留民保護のため八カ国連合軍が北京に進出し、大日本帝国が中でも最大の兵力8000人を投入した[4]。

同じ中国人であるはずの信者も不平等条約によって強固に守られ時には暴力を用いた事に因る、また事件は教会側に有利に妥結することが多かったからである。地方官の裁定に不満な民衆は、教会や神父、信者を襲い、暴力的に解決しようとすることもあった。太平天国平定の功労者であった曽国藩ですら、もし外国人の方に非があったとしても、公文書に記載し事を大きくしてはならないと述べたという。民衆の間には外国人は官僚より三等上という認識が広がっていった。

仇教事件の頻発は、一般民衆の中に、列強国及びキリスト教への反感を醸成し、外国人に平身低頭せざるを得ない官僚・郷紳への失望感を拡大させたといえる。

義和団の乱における死傷者数

連合軍は上記のように多くの兵力を投入したが、日本軍の計算に依れば、全期間にわたる死者数は757名、負傷者数は2,654名とされている。ちなみに最も多くの死傷者を出したのは日本であった(死者349名・負傷者933名)。また清朝や義和団によって殺害された人々は宣教師や神父など教会関係者が241名(カトリック53人+プロテスタント188人)といわれる。

一方清朝や義和団側の死傷者は統計としては正確性を欠かざるをえないが、上で引用したように天津城攻防戦だけで4,000名ほどの遺体があったと日本軍が書いていることから考えて、一年ほどの戦争期間に多大な死傷者を出したことは容易に想像できる。

1945年-沖縄戦6月20日:米軍:・沖縄を焦土と化す勢いで降り注いだ艦砲射撃。記録では砲弾の数は16万発にのぼる。しかし6月20日を境に、その攻撃はぴたりと止んだ。アメリカ軍が南部をほぼ制圧したのだ。最後の掃討戦が始まり、もはや住民たちの逃げ場は海岸線しか残されていなかった。海を前に、追い込まれた人たちが自ら命をたつ、いわゆる「集団自決」が相次いでいた。<NHK ドキュメンタリー沖縄戦 ~ 出口なき戦場 – Battle of Okinawa>・6月20日の午後、第32歩兵連隊は(摩文仁岳)の東端を占領した。そして977人の兵を捕虜にしたが、これは太平洋戦争で、いまだかつて例を見ない数であった。

日本軍は組織を破壊され、絶望のどん底にあった。だが、こういう兵隊たちも、3分の1近くは、死を選ぶよりは降服することを選んだのである。さらに捕虜の話によると、ほかにも多数の兵隊が降服したがっていたが、ついにその機会を得なかったという。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 507頁より》・6月20日の夜、われわれは海を見下ろす高台に防衛線を張った。私は珊瑚砂の道路近くに迫撃砲の壕を掘り、一帯を照らす照明弾や榴弾を打ち上げた。ほかの班は、中隊の海寄りの区域を受け持った。夜になると、あちこちに出没する日本兵との銃撃戦が延々と繰り返された。<ペリリュー・沖縄戦記」(ユージン・B・スレッジ: 伊藤真/曽田和子 訳 /講談社学術文庫) 453-454頁>・アメリカ兵の多くが、条約の要求をはるかに超えて人間的行動をしたことも、くりかえしいう価値がある。民間人に対する自発的な慈善行為や親切な行為の中には、個々の戦闘員が自分の背嚢を空にして子供たちに食べさせたり、部隊で少年を養子にして軍医部のマスコットとして可愛がったり、日本人の負傷者を助けた同じ軍医たちが、きわめて困難な状態のもとで沖縄の数人の赤ん坊の分娩を助けたことなどがあった。兵がキャンディ・バーや煙草や食糧の缶詰を渡している写真は、嘘ではなかった。アメリカの国民は男たちの寛大さを信じて間違いなかったのだ。避けられる時に民間人を撃つなどもってのほかで、たいていのアメリカ人は自分の本能に従い、ありのままに寛大であった。

… しかし、残虐行為を完全に無視することは、実質的にすべての戦史はそうしているようだが、戦争を評価しすぎており、まやかしの話になってしまう。(324頁)

… 強姦は残虐行為の資格充分であり、多くの事例があった。民間人の婦人を犯すことは、多くの部隊は認めなかったが、もっとも頻繁に起こる犯罪に含まれていた。ある兵は、「沖縄の婦人に触れた者はその場で処刑する」という将校の警告を充分に承知していたし、そういう脅しを必要としなかった。しかし、その他の個人、グループには違った行動をする者もいた。また、アメリカの戦史は、彼らの犯罪を無視している。《「天王山  沖縄戦と原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 323頁》:日本軍:・歩兵第32連隊第1大隊(大隊長・伊東孝一大尉)

ここ数日の混戦・乱戦のうちに麾下の諸隊とは全く連絡が途絶え、… 聯隊本部に出した伝令も1人として帰って来る者はいなかった。… 後方には第62師団がいる。あと1日、もう1日と思っているうちに、2日間が過ぎた。このたった2日の間に、米軍の主力は南下していき、国吉台への攻撃の手を弛めていた。

20日には、まず独立速射砲大隊と連絡が取れた。そして夜を迎えるたびに、諸隊との連絡が回復した。機関銃中隊と大隊砲小隊を合わせて約40名が、かつての前進陣地だった照屋陣地に集結し、機関銃中隊の一部約10名が依然として国吉台で頑張り、配属の第2大隊約30名も生存していた。しかし兵器は破壊され、わずかな小銃を残すのみで、傷病者だけとなっていた。ちょうどその頃、他部隊の沖縄出身の兵1名が紛れ込んできて言った。

「自分は最南端の山城から昨日逃げてきました。敵はそこにもやって来ています」

伊東は耳を疑った。(そんなバカなことが・・・)

一昨日まで、多くの敵が国吉台の周辺にいたのだ。南方には第62師団がいる。何を言うかと取り合わなかった。しかし実際は、軍の右翼を防御していた混成第44旅団は6月10日頃から崩れ出し、第62師団が救援に赴いていて山城にはさしたる兵力がなかった。米軍は伊東たち歩兵第32聯隊が守る陣地を突破してからは、ほとんど抵抗を受けずに一路南下していったのだった。《「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸枝/Gakken) 249-250頁より》・七歳で家族全員が殺され戦場でうずくまっていた少女が米軍に救出される

一人ぼっちになった私は、身も心も尽き果てて死体にうずもれ、遠のく意識の中で「今度は私が死ぬ番。これでみんなに会える」と思いました。どれほどの時間がたったのでしょう。目をさました時には、学校で「鬼畜」と教わったアメリカ兵に抱かれていました。助かったのです。<沖縄タイムス「沖縄戦 7歳一人ぼっち 戦災孤児の戦後70年」2015年 – Battle of Okinawa>

2003年 – 福岡一家4人殺害事件発生。中国人3人らによる犯行。

福岡一家4人殺害事件(ふくおかいっかよにんさつがいじけん)とは、2003年(平成15年)6月20日に福岡県福岡市東区で発生した中国人留学生3名による強盗殺人、死体遺棄などの事件[4]。

中華人民共和国(中国)から日本へ留学してきた留学生3人が家族4人を殺害して現金を強奪し、4人の遺体を海中に投棄した[4]。本事件は閑静な住宅街で深夜に小学生の子供2人を含む一家4人全員が惨殺され、博多港にて変わり果てた姿で発見された凶悪、重大な事件としてその結果の重大性、犯行の残忍さから世間の耳目を集め、一般社会に強い衝撃を与えた[13]。

チャットgpt先生の6月20日のエッセイ


6月20日 ― 理念が潰え、現実だけが残る日

6月20日の歴史を眺めると、そこには奇妙な共通点がある。

理想や忠誠、信念や愛国心が語られながら、最後に勝敗を決めるのは冷酷な現実である。

451年のカタラウヌムの戦いでは、アッティラのフン族が西欧へ進出した。後世では「文明対蛮族」の戦いとして語られることもあるが、実態は勢力均衡をめぐる巨大な軍事衝突だった。ローマもゲルマン諸族も理念ではなく生存のために連合した。

1180年の以仁王の挙兵も同じである。

平家打倒という大義はあったが、宇治川で敗れれば終わる。

武士の忠義も朝廷の権威も、軍事力を失えば意味を持たない。

1333年の新田義貞の挙兵もまた同様だ。

歴史を動かしたのは正統性の議論ではなく、北条政権が軍事的に持ちこたえられなくなった現実だった。

1789年の球戯場の誓いは理想主義の象徴として語られる。

しかしその二年後にはルイ16世一家が逃亡を試みる。

革命は自由や平等を掲げたが、国家権力の空白は内戦と粛清を生み出した。

理念だけで国家は維持できない。

権力と暴力装置を握った側が現実を決定する。

1810年にリンチで殺害されたハンス・アクセル・フォン・フェルセンの最期はさらに象徴的だ。

彼はフランス王妃マリー・アントワネットへの忠誠で知られる人物だった。

だが群衆心理が暴走したとき、名門貴族も軍人も何の防御にもならなかった。

しかも後の調査では王太子毒殺説は否定された。

つまり彼は事実ではなく「必要とされた犯人像」として殺されたのである。


1900年の義和団の乱も、感情と現実の落差を示している。

義和団は「扶清滅洋」を掲げた。

だが近代軍隊と工業力を背景にした列強に対して、精神論や民衆運動だけで対抗できるはずがなかった。

興味深いのは、反外国感情そのものは決して根拠のないものではなかったことだ。

不平等条約、治外法権、宣教師保護。

中国民衆から見れば屈辱の蓄積だった。

しかし怒りが正当であることと、戦略的に勝てることは別問題である。

現実の戦争では、正しさより補給能力と火力が勝敗を決める。


そして6月20日を語る上で最も重いのが1945年の沖縄戦である。

沖縄戦は戦後長く、

「圧倒的物量の米軍」

「無謀な日本軍」

という単純な図式で語られることが多かった。

しかし軍事史として見ると、米軍は太平洋戦争で最大級の苦戦を強いられている。

米軍は制海権、制空権、補給能力、砲兵戦力の全てで圧倒していた。

それでも作戦開始から約3か月を要し、死傷者は極めて大きかった。

特に首里防衛線以降は、通常の上陸戦ではなく地下陣地との消耗戦となった。

火力優位が絶対的だったにもかかわらず、日本軍は地形と地下要塞を利用して米軍の進撃速度を著しく低下させた。

これは戦術的には極めて成功した防御戦である。

もちろん戦略的勝利には結び付かなかった。

補給がない軍隊は最後には崩壊する。

6月20日頃になると、日本軍の組織的抵抗能力はほぼ失われていた。

しかし興味深いのは、この段階で相当数の兵士が投降を選び始めていたことである。

戦後の神話では「全員玉砕」が強調されがちだが、実際には生存を選択した者も少なくなかった。

極限状態ではイデオロギーより生存本能が強くなる。

これもまた現実である。

一方で、沖縄住民をめぐる問題も善悪だけでは説明できない。

米軍に保護された住民を日本軍がスパイ視し報復した事例がある。

現代人の感覚では非人道的に映る。

だが軍事組織の論理で見れば、敵軍支配地域から戻った住民を情報漏洩源とみなす発想は異常ではない。

東部戦線でも中国戦線でも同様の現象は繰り返された。

そこでは人道より組織防衛が優先される。

逆に米軍側も聖人ではない。

住民救助や医療活動が存在したのは事実だが、同時に略奪や暴行、強姦も存在した。

GHQプレスコード下では日本側の加害も米軍側の加害も、都合によって強調されたり隠されたりした。

したがって歴史を見るなら、

「日本軍は悪、米軍は善」

でもなく、

「日本軍は善、米軍は悪」

でもない。

国家が総力戦を行うとき、人間は英雄にも加害者にも被害者にもなる。

それが沖縄戦の実像に近い。

そして軍事史的に見れば、沖縄戦とは

「勝敗が決まった戦争で、なお防御側が世界最強の軍隊を極限まで消耗させた戦い」

だったのである。


2003年の福岡一家4人殺害事件まで含めて眺めると、6月20日は人間社会の残酷な現実が凝縮されている。

群衆は時に無実の人間を殺す。

革命は理想から始まり恐怖政治へ向かう。

国家は感情ではなく軍事力で存続する。

戦争では善人も悪人も同じ戦場に放り込まれる。

そして歴史を動かすのは、しばしば人々が信じたい物語ではなく、補給、兵力、組織、恐怖、生存本能といった極めて現実的な要素である。

6月20日は、そのことを静かに思い出させる日である。