kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日8月9日 1945長崎原爆投下、ほか写真wikipediaキノコ雲松田弘道氏撮影

8月9日

20260809日曜日旧暦6月27日友引(52番乙卯きのとうイツボウ)月齢 25.7

43番丙午ひのえうま年 32番乙未きのとひつじ月 52番乙卯きのとう日

吉方位 隠遁日 乙卯きのとう日 東 中吉 年末まであと144日

https://ja.wikipedia.org/wiki/8%E6%9C%889%E6%97%A5

8月9日の出来事

紀元前48年 – ローマ内戦: ファルサルスの会戦。カエサル派と元老院軍の内戦。

損害 死者 カエサル軍 1000人 元老院軍10000人。

378年 – ゴート戦争: ハドリアノポリスの戦い。ゴート族とローマ軍の戦い。

損害 死者 ゴート軍 僅少 ローマ軍20000(全軍30000兵力中)人。

1814年 – インディアン戦争・クリーク戦争: クリーク族がジャクソン砦条約(英語版)への調印を強要され、2,300万エーカーの土地をアメリカ合衆国に割譲させられる。

損害 死者 アメリカ+チェロキー連合軍 僅少 クリーク族 1900(全軍4000中)

1945年 – 第二次世界大戦・ソ連対日参戦:ソビエト連邦が1946年4月まで有効であった日ソ中立条約に違反し、満州、朝鮮、樺太の国境を突破して日本に対する侵略を開始する。

1945年 – 第二次世界大戦: アメリカ軍が長崎市への原子爆弾投下を実施。約7万4千人が死亡。

1945年-沖縄戦8月9日・8月9日の午前2時すぎ、原爆搭載機ボックスカー B29が、テニアン島のノース・フィールド飛行場を発進した。同機は北へ進路をとり硫黄島上空へ。硫黄島から進路を西にとり、屋久島上空へ到達した。そこで、気象観測機・撮影機と待ち合わせ、第一攻撃目標の北九州の小倉へ向けて九州の東海岸を進んだ。午前9時ごろ、上空を旋回したが雲におおわれて「目視攻撃」ができず、10時33分、第二攻撃目標に指定された長崎へ向かった。<読谷村史 「戦時記録」上巻 第一章 太平洋戦争>・広島原爆 8月6日: テニアン→硫黄島→広島→硫黄島→テニアン

長崎原爆 8月9日: テニアン→屋久島→小倉→長崎→沖縄→テニアン

<Manhattan Project: Flight paths for Hiroshima and Nagasaki missions>

・【訳】この爆弾は、製造が容易で爆発力がより強力な「改良型」と説明されている。それは長崎の工業地帯の真ん中に到着し、人ごみに混雑した街の内臓をえぐり出した。… 爆撃基地にいた物理学者らは、…「改良された」第二の原爆は、第一の原爆をすでに時代遅れにさせた、と冷酷な満足感をもって宣言した。<『ライフ』誌特集「核の時代 」1945年8月20日号 ~ ヒロシマ・ナガサキ – Battle of Okinawa>・原爆中心地は、ほとんど全滅の状態で、たまたま被爆地域外に旅行中の者、又は外出中の者あるいは横穴壕などに入っていたごく僅少の者が被害を受けなかった程度で、町内会長、隣組長等の町内の幹部も大部分死亡又は行方不明となったため、正確な死傷者を調査することは困難であった。 《長崎「原子爆弾の投下と被害状況」pdf 》・【訳】広島の任務がほぼ完璧だったのに対し、長崎の任務では様々な点で計画通りに進んだことはほとんどなかったと原子力歴史家は言う。<ボックスカーの「最初からひどい失敗」 ~『長崎原爆投下任務の悲惨な物語』 – Basically Okinawa>・『ライフ』紙は、慎重に言葉を選びながらも、米空軍が、原爆を使用する前から日本の大都市を組織的焼夷弾攻撃でほぼ破壊しつくし、原爆を使用する必要もなく、また上陸戦すらなくして日本を敗北に追い込むことができる考えていたことを紹介し、民間人の殺戮という点において、ドイツがユダヤ人に対して行ったホロコーストとアメリカが同地点に立っていると示唆している。<引用秋原文>

1945年 – 第二次世界大戦: 8月6日の広島に続く2度目の長崎への原爆投下と未明のソ連対日宣戦布告を受け、御前会議を開催。翌8月10日にポツダム宣言の受諾を決定。

1953年 – 神奈川県鎌倉市由比ガ浜の海岸に海上保安庁のヘリコプターが墜落。乗員と海水浴客2人が死亡、重軽傷13人[3]。

1961年 – 熊本県の新日本窒素水俣工場でタンクが爆発する事故。死者・行方不明者12人[4]。

1969年 – チャールズ・マンソンの信奉者がマンソンの命令により女優シャロン・テートら5人の無差別殺害を実行。

1989年 – 岩手県種市町妻子5人殺害事件。岩手県九戸郡種市町(現:洋野町種市)で元漁船員の男が妻子5人を殺害。事件後に自殺しようとしたが死にきれず、4日後(8月14日)に自首。

2009年 – 台風9号の影響により兵庫県佐用町の佐用川が氾濫。山崩れなどの被害を受け、死者行方不明者20人。

2018年 – アフガニスタンのガズニー市にて政府軍とターリバーンが大規模な交戦状態に突入。以後、数日間で310人以上が死亡する規模の戦闘となった[7]。

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紀元前48年 – ローマ内戦: ファルサルスの会戦。カエサル派と元老院軍の内戦。

損害 死者 カエサル軍 1000人 元老院軍10000人。

ファルサルスの戦い(ファルサルスのたたかい、英: Battle of Pharsalus、伊: Battaglia di Farsalo)は、紀元前48年8月9日に、グナエウス・ポンペイウスらの元老院派とガイウス・ユリウス・カエサル率いるカエサル派の間で行われた戦いである。なお、地名のラテン語表記(Pharsalus)、古代ギリシア語表記(Φάρσαλος)からパルサルスの戦い、ファルサロスの戦いとも呼ばれる。ローマ内戦中の最大の激戦となった戦闘であり、カエサル派が元老院派を破った結果、カエサルはローマの覇権確立へ大きく前進した。

378年 – ゴート戦争: ハドリアノポリスの戦い。ゴート族とローマ軍の戦い。

損害 死者 ゴート軍 僅少 ローマ軍20000(全軍30000兵力中)人。

ハドリアノポリスの戦い(ハドリアノポリスのたたかい、羅: Proelium Hadrianopolitanum)は、378年におこなわれた、ローマ帝国皇帝ウァレンス率いるローマ軍とゴート族との戦闘である。この戦いでローマ軍は敗退し、以後トラキア地方はゴート族に占領されることになった。英語表記でアドリアノープルの戦いとも称される。

日没前にローマ軍は高官2名、大隊長(500名‐800名を統率[1])35名が戦死し、全軍の3分の2を失う惨敗を喫した。またウァレンス自身も負傷し、臣下に支えられながら逃げ込んだ小屋の中で、皇帝が中にいるとは知らずに火をかけたゴート族によって焼き殺された。

影響

これにより、西ゴート族は武力を保持したままでローマ帝国内に居座ることになった。帝国中央部に侵入を許したため東西ローマの分裂は決定的となり、いよいよ以てローマ帝国の蛮族化が進むことになった。

この戦いでのローマ軍の敗北は文化人にも大きな衝撃を与えた。元ローマ軍人で歴史家のマルケリヌス・アンミアヌスもその一人である。彼はタキトゥス著作以降(ネルウァ帝以降)のローマ史を記述した『歴史』をウァレンス帝の戦死で終えることになる。

1814年 – インディアン戦争・クリーク戦争: クリーク族がジャクソン砦条約(英語版)への調印を強要され、2,300万エーカーの土地をアメリカ合衆国に割譲させられる。

損害 死者 アメリカ+チェロキー連合軍 僅少 クリーク族 1900(全軍4000中)

クリーク戦争(クリークせんそう、英:Creek War、またはレッド・スティック戦争(レッド・スティックせんそう、Red Stick War)またはクリーク族内戦(クリークぞくないせん、Creek Civil War)、1813年 – 1814年)は、アメリカ合衆国南部でのクリーク族インディアンの内戦に、アメリカ軍が介入した「インディアン戦争」である。結果的にはお定まりのインディアンの強制移住と、合衆国によるインディアンからの領土略奪という民族浄化となった。

インディアンをイギリス軍が支援していたので、米英戦争の一部と考えられることがある。この戦争でアメリカ軍を勝利に導いたアンドリュー・ジャクソンが、白人社会で一躍名声を上げることになった。

結果

ジャクソン砦条約によってアメリカが奪ったインディアンの領土

1814年8月9日、アンドリュー・ジャクソンはクリーク族にジャクソン砦条約(英語版)への調印を強制した。ジャクソンに協力して戦ったクリーク族の酋長たちは抗議したが、結果はアラバマ州の半分とジョージア州の南部にあたるクリーク族の土地93,000km2 をアメリカ合衆国政府に割譲させられることになった。クリーク戦争はクリーク族間の内戦でもあったが、ジャクソンは協力したクリーク族も反攻したレッド・スティックスも区別せず、両方から土地を奪った[24]。割譲された土地のうち、7,700 km2は戦争中アメリカ軍に協力したチェロキー族が要求した[25]。

レッド・スティックスの反乱を弾圧沈下し、どさくさにまぎれてクリーク族の領土をごっそり奪ったジャクソンは、メキシコ湾岸に力を集めることができた。ジャクソン自身の発案でスペイン領フロリダに侵略し、ペンサコーラからイギリス軍を追い出した[26]。続いて1815年1月8日、ニューオーリンズの戦いでイギリス軍を破った。ジャクソンはレッド・スティックスが逃げ込んでいたフロリダに再び侵攻して、第一次セミノール戦争を起こした。

インディアンに対する虐殺と領土強奪というこれらの「勝利」の結果として、ジャクソンは白人の間で国民的英雄となり、1829年に第7代アメリカ合衆国大統領に登り詰めた。アメリカ大統領となったジャクソンは「インディアンは白人と共生できない劣等民族である」とアメリカ合衆国議会で演説し、南東部のインディアンをミシシッピ川を越えて西部に移住させる、インディアン移住法を成立させ、大量虐殺と民族浄化を主導した。

1945年 – 第二次世界大戦・ソ連対日参戦:ソビエト連邦が1946年4月まで有効であった日ソ中立条約に違反し、満州、朝鮮、樺太の国境を突破して日本に対する侵略を開始する。

1945年 – 第二次世界大戦: アメリカ軍が長崎市への原子爆弾投下を実施。約7万4千人が死亡。

1945年-沖縄戦8月9日・8月9日の午前2時すぎ、原爆搭載機ボックスカー B29が、テニアン島のノース・フィールド飛行場を発進した。同機は北へ進路をとり硫黄島上空へ。硫黄島から進路を西にとり、屋久島上空へ到達した。そこで、気象観測機・撮影機と待ち合わせ、第一攻撃目標の北九州の小倉へ向けて九州の東海岸を進んだ。午前9時ごろ、上空を旋回したが雲におおわれて「目視攻撃」ができず、10時33分、第二攻撃目標に指定された長崎へ向かった。<読谷村史 「戦時記録」上巻 第一章 太平洋戦争>・広島原爆 8月6日: テニアン→硫黄島→広島→硫黄島→テニアン

長崎原爆 8月9日: テニアン→屋久島→小倉→長崎→沖縄→テニアン

<Manhattan Project: Flight paths for Hiroshima and Nagasaki missions>

・【訳】この爆弾は、製造が容易で爆発力がより強力な「改良型」と説明されている。それは長崎の工業地帯の真ん中に到着し、人ごみに混雑した街の内臓をえぐり出した。… 爆撃基地にいた物理学者らは、…「改良された」第二の原爆は、第一の原爆をすでに時代遅れにさせた、と冷酷な満足感をもって宣言した。<『ライフ』誌特集「核の時代 」1945年8月20日号 ~ ヒロシマ・ナガサキ – Battle of Okinawa>・原爆中心地は、ほとんど全滅の状態で、たまたま被爆地域外に旅行中の者、又は外出中の者あるいは横穴壕などに入っていたごく僅少の者が被害を受けなかった程度で、町内会長、隣組長等の町内の幹部も大部分死亡又は行方不明となったため、正確な死傷者を調査することは困難であった。 《長崎「原子爆弾の投下と被害状況」pdf 》・【訳】広島の任務がほぼ完璧だったのに対し、長崎の任務では様々な点で計画通りに進んだことはほとんどなかったと原子力歴史家は言う。<ボックスカーの「最初からひどい失敗」 ~『長崎原爆投下任務の悲惨な物語』 – Basically Okinawa>・『ライフ』紙は、慎重に言葉を選びながらも、米空軍が、原爆を使用する前から日本の大都市を組織的焼夷弾攻撃でほぼ破壊しつくし、原爆を使用する必要もなく、また上陸戦すらなくして日本を敗北に追い込むことができる考えていたことを紹介し、民間人の殺戮という点において、ドイツがユダヤ人に対して行ったホロコーストとアメリカが同地点に立っていると示唆している。<引用秋原文>

長崎市への原子爆弾投下(ながさきしへのげんしばくだんとうか)は[2]、第二次世界大戦(太平洋戦争)末期の1945年(昭和20年)8月9日(木曜日)に、連合国のアメリカ合衆国が枢軸国の日本の長崎に対して原子爆弾「ファットマン[注釈 2]」(以下原爆と記す)を投下し[注釈 3]、午前11時02分に炸裂[3]した出来事である[4]。 戦略爆撃機B-29「ボックスカー」により投下された原爆は[5]、広島へ原爆投下[6](リトルボーイ)に続き[7]、人類史上において実戦に使用された2回目の核兵器である[8]。2025年時点では最後の実戦使用例である。

長崎市への原爆投下は、日本本土の戦いにおける日本本土空襲の[9]、一局面であった[10][11][注釈 4]。 爆心地は長崎市松山町で[15]、現在は平和公園となった。当時の長崎市の人口24万人(推定)のうち約7万4千人が死亡[注釈 5]、建物は約36%が全焼または全半壊した[17][注釈 6]。同年9月中旬以降[18]、進駐してきた連合軍が被災後の長崎を撮影し、当時の惨状を記録した[19]。

長崎県、長崎市を指す「長崎」が「ナガサキ」と片仮名表記される場合は、長崎市への原子爆弾投下に関する言及である場合が多い。

1945年 – 第二次世界大戦: 8月6日の広島に続く2度目の長崎への原爆投下と未明のソ連対日宣戦布告を受け、御前会議を開催。翌8月10日にポツダム宣言の受諾を決定。

1953年 – 神奈川県鎌倉市由比ガ浜の海岸に海上保安庁のヘリコプターが墜落。乗員と海水浴客2人が死亡、重軽傷13人[3]。

1961年 – 熊本県の新日本窒素水俣工場でタンクが爆発する事故。死者・行方不明者12人[4]。

1969年 – チャールズ・マンソンの信奉者がマンソンの命令により女優シャロン・テートら5人の無差別殺害を実行。

シャロン・テート(Sharon Tate、本名:Sharon Marie Tate、1943年1月24日 – 1969年8月9日)は、アメリカ合衆国の女優。映画監督ロマン・ポランスキーの妻で妊娠中だったが、1969年に自宅で友人たちとともに狂信的なカルト信者らに刺され、26歳で母子ともに亡くなったことで知られる。代表作は『吸血鬼』[1]。

チャールズ・ミルズ・マンソン(Charles Milles Manson、1934年11月12日[注 1] – 2017年11月19日[1])は、アメリカ合衆国に存在したヒッピーのコミューンの指導者であり犯罪者。1960年代末から1970年代の初めにかけて、カリフォルニア州にて「ファミリー(マンソン・ファミリー)」の名で知られるコミューンを率いて集団生活をしていた[2][3][4]。1969年のテート・ラビアンカ殺人事件(英語版)で悪名高い。

人物概要

ファミリーができあがり始めた当時のマンソンは、さまざまな犯罪行為のために矯正施設でそれまでの人生の半分を過ごした。殺人を犯す前の時期の彼はミュージシャンを志しており、ザ・ビーチ・ボーイズのデニス・ウィルソンとは人を介してつながりがあった。マンソンによって書かれ演奏された曲が数曲レコーディングされており、ガンズ・アンド・ローゼズ、マリリン・マンソンを含む歌手たちが、数十年にわたって彼の歌をカバーしている。マリリン・マンソンのリードボーカリスト、ブライアン・ヒュー・ワーナーは、「マンソン」の名を「悪の象徴」として使用している。

マンソンの支持者らは、1969年の7月と8月に、4か所で9件の殺人を犯した。殺人の動機についてマンソンは異議を唱えたが、ロサンゼルス郡検察はマンソンが人種間戦争の勃発を企図したと結論づけた[5]。1971年に、第1級殺人罪と映画女優シャロン・テートを含む7人に対する殺人の共謀罪で有罪判決を受けた。検察の主張によると、マンソンは直接には殺人を指示しなかったが、マンソンの主義主張は共謀の明白な行為を構成するとされた[6]。

カリフォルニア州の最高裁判所にて、1972年にマンソンに対する死刑が決定したが、死刑制度が一時的に廃止されたことで、マンソンは自動的に終身刑に減刑された[7]。カリフォルニア州では、最高刑として死刑が復活したが、コーコラン刑務所(英語版)に服役中のマンソンには何ら影響を及ぼすことはなかった。

1989年 – 岩手県種市町妻子5人殺害事件。岩手県九戸郡種市町(現:洋野町種市)で元漁船員の男が妻子5人を殺害。事件後に自殺しようとしたが死にきれず、4日後(8月14日)に自首。

2009年 – 台風9号の影響により兵庫県佐用町の佐用川が氾濫。山崩れなどの被害を受け、死者行方不明者20人。

2018年 – アフガニスタンのガズニー市にて政府軍とターリバーンが大規模な交戦状態に突入。以後、数日間で310人以上が死亡する規模の戦闘となった[7]。

チャットgpt先生の8月9日のエッセイ

8月9日――勝者が秩序を書き換える日

8月9日の歴史を眺めると、一つの共通点が浮かぶ。それは「戦闘そのもの」ではなく、戦闘の結果として政治秩序が決定される日であるということだ。

紀元前48年のファルサルスでは、カエサルが元老院派を破った。この戦いは一会戦の勝敗以上の意味を持った。ローマ共和政という制度よりも、一人の軍事指導者が国家を左右する時代への転換点となった。戦場で失われた数千、数万の兵力より重要だったのは、「誰が命令する国家になるか」が決まったことである。

378年のハドリアノポリスでは逆の現象が起きた。巨大帝国ローマが、機動力に勝るゴート軍に壊滅的敗北を喫し、皇帝自身も戦死した。この一敗は単なる会戦の敗北ではなく、「ローマ軍は必ず勝つ」という前提そのものを崩した。国家は軍事的信用を失うと、その後の外交・内政・同盟関係まで連鎖的に変化する。

1814年のジャクソン砦条約も同じ構造である。戦場で勝敗が決まった後、条約によって広大な土地が移転した。戦争とは最終的には領域・人口・資源の配分を変更する制度であり、条約はその法的確認作業に過ぎない。武力が現実を作り、文書がそれを固定する。

1945年8月9日は、この構造が最も濃密に現れた一日だった。

未明にはソ連が対日参戦し、大陸の勢力図を書き換え始めた。同じ日の午前には長崎への原子爆弾投下が実施され、日本本土でも新たな軍事現実が作られた。そして政府首脳は戦争継続の前提条件そのものを再計算することになる。

ここで重要なのは、それぞれが独立した出来事ではなかったことである。ソ連参戦は戦後の東アジア秩序を左右し、原爆は日本本土への軍事的圧力を極限まで高めた。二つの出来事は異なる主体による軍事行動だったが、日本政府に与えた意思決定環境は一日で劇的に変化した。国家は理念ではなく、利用可能な選択肢によって意思決定を行う。その選択肢を減らすこと自体が軍事行動の目的となる。

興味深いのは、8月9日に記録される多くの事件が、「最初の一撃」ではなく「決定打」であることだ。

ファルサルスは長い内戦の決着だった。

ハドリアノポリスは帝国衰退を決定づけた敗北だった。

ジャクソン砦条約は戦争の終着点だった。

長崎への原爆投下とソ連参戦は、日本の終戦過程を最終段階へ押し進めた。

つまり8月9日は、歴史が始まる日ではなく、歴史の方向が固定される日として現れることが多い。

現代の事件にも同じ特徴が見える。1969年のマンソン事件はアメリカ社会における1960年代カウンターカルチャーの終焉を象徴する事件となり、2009年の佐用町水害は自然災害に対する治水と危機管理を再検討させ、2018年ガズニーの戦闘はアフガニスタン政府の統治能力を改めて試す局面となった。事件そのものより、その後の制度や社会認識を変える契機となった点に共通性がある。

歴史はしばしば英雄や悲劇で語られる。しかし国家の視点から見れば、重要なのは感情ではなく構造である。

軍事力は戦場だけでなく外交条件を変え、外交は国境を変え、条約はその結果を固定する。敗北は兵力だけでなく政治的選択肢を失わせ、勝利は領域だけでなく将来の交渉力を獲得する。

8月9日を通して見えてくるのは、この単純な現実である。

歴史を動かすのは、一つの戦闘でも、一つの兵器でも、一人の指導者でもない。複数の軍事・外交・政治要因が同じ時間軸で重なり、ある臨界点を超えた瞬間に秩序が更新される。その更新が後世には「歴史的な一日」として記憶されるのである。