8月8日
20260808金曜日旧暦6月26日先勝(51番甲寅きのえとらコウイン)月齢 24.7
43番丙午ひのえうま年 32番乙未きのとひつじ月 51番甲寅きのえとら日
吉方位 隠遁日 甲寅きのえとら日 北 中吉 年末まではあと145日
https://ja.wikipedia.org/wiki/8%E6%9C%888%E6%97%A5
8月8日の出来事
1220年 – リフラの戦い : スウェーデン王国が北方十字軍遠征の際に獲得したエストニア・レーネ地方の守備を任されていたスウェーデン貴族カール・ドーヴが、現地部族の連合軍に敗北。これによりスウェーデンはエストニア地方への進出を断念した。戦死500人余り。
1588年 – スペイン無敵艦隊がアルマダの海戦でイングランド艦隊に敗北。
1864年(元治元年7月7日)- 天狗党の乱: 江戸幕府・諸藩の軍勢と天狗党が戦闘状態に入る。最終的に天狗党352人斬首。
1911年 – 稗田山崩れ。長野県小谷村の稗田山が大崩壊[1]。日本三大崩れに挙げられる20世紀最大級の土砂災害になった。26人死亡。
1921年 – 広島県広島市比治山の陸軍第5倉庫で火災が発生、無数の小銃弾が飛散する事故となった。死者7人、重軽傷者21人[2]。
1942年 – 第二次世界大戦・ソロモン諸島の戦い: 第一次ソロモン海戦。翌日、日本の勝利で終結。損害 日本戦死58人、米国戦死1023人
1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 福山大空襲。354人死亡。
1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 筑紫駅列車空襲事件。64名死亡(100名以上ともされる)
1945年 – 第二次世界大戦・ソ連対日参戦:ソビエト連邦が1946年4月まで有効であった日ソ中立条約に違反し、日本に宣戦布告する。宣戦から数十分が経過した8月9日未明に満州、朝鮮、樺太でソビエト赤軍が一斉に日ソ国境を突破する。
損害 戦死 日本兵士33000人強 ソ連兵士22000人強
死亡 日本民間130000人+シベリア抑留死70000人=200000人
合計日本人死者23万3千人強。
1945年-沖縄戦8月8日・ポツダム会談でソ連は東アジアのことに何も介入してこなかったから、ソ連は今後も東アジアに関しては連合国と距離を置くだろう。軍部がこんな楽観的な報告をまとめていた、まさにその日だった。
8月8日午後5時(日本時間午後11時)、モスクワ。日本の佐藤尚武・駐ソ大使は、ソ連のモロトフ外相と向き合っていた。和平仲介の申し入れの返事をもらうべく、佐藤から長いこと申し入れていた会談だった。モロトフはその場で、佐藤に文書を手渡した。
「日本武装兵力の無条件降伏を要求した今年7月26日の3国すなわちアメリカ合衆国、英国並に支那の要求は日本の拒否するところとなった。従って極東戦争に対する調停に関するソヴエート連邦に宛てられた日本政府の提案は一切の基礎を失った(中略)… 以上に鑑みソヴエート政府は明日即ち8月9日よりソヴエート連邦が日本と戦争状態に入る旨宣言する」
日本への宣戦布告だった。<【戦後70年】まだソ連に望みを託す日本 1945年8月8日はこんな日だった>・1945年8月8日頃に本土で撒かれたと思われるリーフレット。広島原爆とソ連宣戦布告を伝え、次の原子爆弾投下を予告、「ただちに武力抵抗を中止すべき」「即刻都市より退避せよ」と警告している。<引用先原文>・民間人収容所で二度の強姦の現場を目撃した女性の証言
終わってから、捕虜になってから (羽地で) イモを採りに行って、イモ採って中休みですよね、途中で休んでいるときに、アメリカ(兵)が来たもんですからみんなびっくりして逃げたんですよ。… そして一人は強姦する。そして、立ってるあれ (米兵) が、拳銃上に向けてパチパチと。怖かったですね。(逃げるのが)いちばん最後だから怖かったんですよ。みんなもういくらバンバンしても、助けようとする人いないんですよ。みんな逃げて。… ちゃんと軍の帽子かぶって、緑と黄色と混ざったカーキ服ですね。あれをちゃんときちっとしめて、拳銃して2人きたんですよ。あのときはアメリカ(兵)見たら皆逃げますからね。バーと逃げたんですよ。そのときにすぐ2人は捕まえられて。みんな逃げたもんだから、私もあわてて、川の石に(つまずいて)、イモを落としてしまってね。落とさなかったら見なかったと思います。私のイモを落とさなかったら。これを取って水浸しになっているイモを持って、上へ上げて頭に乗せようとして見たんですから。強姦とか殺されるとか、いろんなのがありましたから。倒されてね、この軍の靴で、両方の靴で。そこ見た。足くびを軍の靴で踏んでいるのを見たんですよ。…
(二度目は) 捕虜になって石川に収容所に来てから、東恩納で。あれはですね、私たちはこの山で、親子はこの山ですね、…お母さんが、「助けてくれ、助けてくれ」って言ってるわけよ。娘がやられてるもんで。そのときは、薪を放ってすぐに逃げましたね。その場面までは見ません。倒されていたのは見たけれども、その場面は見ません。ただ、親が助けてくれって大きな声で言うもんだから、見たら、娘が黒人に倒されているわけよ。あっちは黒人でしたね、東恩納は。<長浜キクさん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス>・本部町から大浦崎収容所に送られた22歳女性の証言
私たちは山から下りると、今帰仁から久志へひっぱられて行った。主人は戦地へ行っていたし、三歳の娘と母と私の三人だけだったので、本部へ食棍を取りに帰ることもできなかった。一度だけ、母が帰ったことがあったけれど、途中で黒人兵に追いまわされてひどい目に会ったこともあって、暴行はされなかったけれど、それ以来どうしても帰そうとしなかった。時には実家の父が訪ねて来て、少しずつ分けてくれたけれど、久志にいた数か月の間、殆んど配給だけで過ごさなくてはならなかった。
当時は女性にとっては死よりも強姦の方がこわかった。男は睾丸を切って戦車でひき殺し、女性は強姦されるという宣伝が流されていたし、事実、ここでも親の目の前でやられた人もいたので、若い女性はとくに注意せねばならなかったのである。たとえ奪い去られても、目の前で襲われようとも、なにしろ男たちは近寄ることもできなかったし、見て見ぬふりをするよりしかたがなかった。
女性を追っかける米兵たち
久志から帰って来たものの、家は全部焼かれて何も残っていなかった。この一帯はたくさんテント小屋が並んでいたが、そこヘアメリカーが突然現われたりすると、みんなでドラム缶などをガンガン叩いて追っ払ったものであった。
ある日、私たちは女だけで数人一緒にここから谷茶 (本部町) へ出掛けた。途中で四人の米兵が私たちに近づいて来て、いきなり、前後から私たちを挟み、私たちのなかの一番若い娘を逃れ去ろうとした。そこで私の母が、言葉は分らないながらも、大きな声で「渡久地、渡具知」と叫びながら、渡久地へ行くのだといって指さした。ところがその方向にたまたま私がいるので、米兵たちは、その娘はまだ若いからこっちにしなさいとでも勘違いしたらしく、こんどは私をつかまえて山の中にひきずり込もうとした。私は大きなザルを頭に乗せていたが、米兵たちが乱暴をしようとしたので、私の母や一緒に来た人たちが全員で私にすがりついて来た。
私はもうその時は死ぬのもこわいとは思わなくなっていた。そこで「私一人死んだらいいんだから何も騒ぐことはない。騒いだら全部やられるから」とみんなに言った。そして、どうせ死ぬぐらいならきれいに死のうと着物をなおしていると、私の母が「この娘をどうするつもりなのだ」と大声で泣きわめきながら、米兵たちにすがりついて行った。すると、さすがの米兵たちも気を呑まれて、私をつかんでいた手を離したので、いったんは死を覚悟した私であったが、頭に乗せていたザルをおもいきり放り投げて、後も見ずに一目散に逃げ、どうやら難をのがれることができた。<沖縄戦証言 本部半島 (1) – Battle of Okinawa>・2000年6月1日のニューヨーク・タイムスの記事
【訳】50年間、その事件は忘れられていた。それから1998年に、地元(名護)の警察は、情報提供によって、このリゾートタウンのすぐ北の洞窟で3人の遺骨を発見し、それが海兵隊員のものであることが証明された。長い調査ののち、遺体は今年初め (2000年) に埋葬のために米国の親戚に送られた。…
遺骨が発見された場所の近くで育った沖縄の高齢者の幾人かは、今、長く隠された一つの秘密を語ろうとしている。つまり村人たちの一団が3人の海兵隊員を、彼らが毎回繰り返し村の女性たちを強姦しに村にやってきている三人の黒人の海兵隊員だと考え、待ち伏せし殺害したというものである。<勝山事件について ~ 米軍内のレイシズムとセクシズム – Battle of Okinawa>
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1220年 – リフラの戦い : スウェーデン王国が北方十字軍遠征の際に獲得したエストニア・レーネ地方の守備を任されていたスウェーデン貴族カール・ドーヴが、現地部族の連合軍に敗北。これによりスウェーデンはエストニア地方への進出を断念した。戦死500人余り。
8月8日早朝、サーレマー人とレーネ人の連合軍がリフラ城を包囲した。激しい戦闘のうちに城砦は炎上し、スウェーデン軍は脱出を試みたが、僅かな戦士がデンマーク領だったタリンへ逃れたのを除きほぼ全滅した。カール・ドーヴ、カール・マグヌソンをはじめ500人が戦死し、スウェーデンはエストニアにおける勢力圏を全て失った。
スウェーデンのエストニア進出の試みは、13世紀初頭のデンマーク人やドイツ人らによる北方十字軍の急速な勢力拡大に触発されたものだった。リフラの戦いでの敗北の後、エストニアはドイツ人の聖職者やリヴォニア帯剣騎士団、デンマークによって分割された。スウェーデンが再びエストニアに進出するのは16世紀後半のリヴォニア戦争以降となる。それまでの間、スウェーデンは東方のフィンランドやノヴゴロドへの進出に方針を切り替えた。
1588年 – スペイン無敵艦隊がアルマダの海戦でイングランド艦隊に敗北。
1864年(元治元年7月7日)- 天狗党の乱: 江戸幕府・諸藩の軍勢と天狗党が戦闘状態に入る。最終的に天狗党352人斬首。
1911年 – 稗田山崩れ。長野県小谷村の稗田山が大崩壊[1]。日本三大崩れに挙げられる20世紀最大級の土砂災害になった。26人死亡。
1921年 – 広島県広島市比治山の陸軍第5倉庫で火災が発生、無数の小銃弾が飛散する事故となった。死者7人、重軽傷者21人[2]。
1942年 – 第二次世界大戦・ソロモン諸島の戦い: 第一次ソロモン海戦。翌日、日本の勝利で終結。損害 日本戦死58人、米国戦死1023人
1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 福山大空襲。354人死亡。
1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 筑紫駅列車空襲事件。64名死亡(100名以上ともされる)
1945年 – 第二次世界大戦・ソ連対日参戦:ソビエト連邦が1946年4月まで有効であった日ソ中立条約に違反し、日本に宣戦布告する。宣戦から数十分が経過した8月9日未明に満州、朝鮮、樺太でソビエト赤軍が一斉に日ソ国境を突破する。
損害 戦死 日本兵士33000人強 ソ連兵士22000人強
死亡 日本民間130000人+シベリア抑留死70000人=200000人
合計日本人死者23万3千人強。
通化事件、千山事件、葛根廟事件、敦化事件、牡丹江事件、麻山事件など日本人虐殺事件あり。しかし、これらはある意味生き残りがいた稀有の事例であるともいえる。基本は死人に口なし。
1945年-沖縄戦8月8日・ポツダム会談でソ連は東アジアのことに何も介入してこなかったから、ソ連は今後も東アジアに関しては連合国と距離を置くだろう。軍部がこんな楽観的な報告をまとめていた、まさにその日だった。
8月8日午後5時(日本時間午後11時)、モスクワ。日本の佐藤尚武・駐ソ大使は、ソ連のモロトフ外相と向き合っていた。和平仲介の申し入れの返事をもらうべく、佐藤から長いこと申し入れていた会談だった。モロトフはその場で、佐藤に文書を手渡した。
「日本武装兵力の無条件降伏を要求した今年7月26日の3国すなわちアメリカ合衆国、英国並に支那の要求は日本の拒否するところとなった。従って極東戦争に対する調停に関するソヴエート連邦に宛てられた日本政府の提案は一切の基礎を失った(中略)… 以上に鑑みソヴエート政府は明日即ち8月9日よりソヴエート連邦が日本と戦争状態に入る旨宣言する」
日本への宣戦布告だった。<【戦後70年】まだソ連に望みを託す日本 1945年8月8日はこんな日だった>・1945年8月8日頃に本土で撒かれたと思われるリーフレット。広島原爆とソ連宣戦布告を伝え、次の原子爆弾投下を予告、「ただちに武力抵抗を中止すべき」「即刻都市より退避せよ」と警告している。<引用先原文>・民間人収容所で二度の強姦の現場を目撃した女性の証言
終わってから、捕虜になってから (羽地で) イモを採りに行って、イモ採って中休みですよね、途中で休んでいるときに、アメリカ(兵)が来たもんですからみんなびっくりして逃げたんですよ。… そして一人は強姦する。そして、立ってるあれ (米兵) が、拳銃上に向けてパチパチと。怖かったですね。(逃げるのが)いちばん最後だから怖かったんですよ。みんなもういくらバンバンしても、助けようとする人いないんですよ。みんな逃げて。… ちゃんと軍の帽子かぶって、緑と黄色と混ざったカーキ服ですね。あれをちゃんときちっとしめて、拳銃して2人きたんですよ。あのときはアメリカ(兵)見たら皆逃げますからね。バーと逃げたんですよ。そのときにすぐ2人は捕まえられて。みんな逃げたもんだから、私もあわてて、川の石に(つまずいて)、イモを落としてしまってね。落とさなかったら見なかったと思います。私のイモを落とさなかったら。これを取って水浸しになっているイモを持って、上へ上げて頭に乗せようとして見たんですから。強姦とか殺されるとか、いろんなのがありましたから。倒されてね、この軍の靴で、両方の靴で。そこ見た。足くびを軍の靴で踏んでいるのを見たんですよ。…
(二度目は) 捕虜になって石川に収容所に来てから、東恩納で。あれはですね、私たちはこの山で、親子はこの山ですね、…お母さんが、「助けてくれ、助けてくれ」って言ってるわけよ。娘がやられてるもんで。そのときは、薪を放ってすぐに逃げましたね。その場面までは見ません。倒されていたのは見たけれども、その場面は見ません。ただ、親が助けてくれって大きな声で言うもんだから、見たら、娘が黒人に倒されているわけよ。あっちは黒人でしたね、東恩納は。<長浜キクさん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス>・本部町から大浦崎収容所に送られた22歳女性の証言
私たちは山から下りると、今帰仁から久志へひっぱられて行った。主人は戦地へ行っていたし、三歳の娘と母と私の三人だけだったので、本部へ食棍を取りに帰ることもできなかった。一度だけ、母が帰ったことがあったけれど、途中で黒人兵に追いまわされてひどい目に会ったこともあって、暴行はされなかったけれど、それ以来どうしても帰そうとしなかった。時には実家の父が訪ねて来て、少しずつ分けてくれたけれど、久志にいた数か月の間、殆んど配給だけで過ごさなくてはならなかった。
当時は女性にとっては死よりも強姦の方がこわかった。男は睾丸を切って戦車でひき殺し、女性は強姦されるという宣伝が流されていたし、事実、ここでも親の目の前でやられた人もいたので、若い女性はとくに注意せねばならなかったのである。たとえ奪い去られても、目の前で襲われようとも、なにしろ男たちは近寄ることもできなかったし、見て見ぬふりをするよりしかたがなかった。
女性を追っかける米兵たち
久志から帰って来たものの、家は全部焼かれて何も残っていなかった。この一帯はたくさんテント小屋が並んでいたが、そこヘアメリカーが突然現われたりすると、みんなでドラム缶などをガンガン叩いて追っ払ったものであった。
ある日、私たちは女だけで数人一緒にここから谷茶 (本部町) へ出掛けた。途中で四人の米兵が私たちに近づいて来て、いきなり、前後から私たちを挟み、私たちのなかの一番若い娘を逃れ去ろうとした。そこで私の母が、言葉は分らないながらも、大きな声で「渡久地、渡具知」と叫びながら、渡久地へ行くのだといって指さした。ところがその方向にたまたま私がいるので、米兵たちは、その娘はまだ若いからこっちにしなさいとでも勘違いしたらしく、こんどは私をつかまえて山の中にひきずり込もうとした。私は大きなザルを頭に乗せていたが、米兵たちが乱暴をしようとしたので、私の母や一緒に来た人たちが全員で私にすがりついて来た。
私はもうその時は死ぬのもこわいとは思わなくなっていた。そこで「私一人死んだらいいんだから何も騒ぐことはない。騒いだら全部やられるから」とみんなに言った。そして、どうせ死ぬぐらいならきれいに死のうと着物をなおしていると、私の母が「この娘をどうするつもりなのだ」と大声で泣きわめきながら、米兵たちにすがりついて行った。すると、さすがの米兵たちも気を呑まれて、私をつかんでいた手を離したので、いったんは死を覚悟した私であったが、頭に乗せていたザルをおもいきり放り投げて、後も見ずに一目散に逃げ、どうやら難をのがれることができた。<沖縄戦証言 本部半島 (1) – Battle of Okinawa>・2000年6月1日のニューヨーク・タイムスの記事
【訳】50年間、その事件は忘れられていた。それから1998年に、地元(名護)の警察は、情報提供によって、このリゾートタウンのすぐ北の洞窟で3人の遺骨を発見し、それが海兵隊員のものであることが証明された。長い調査ののち、遺体は今年初め (2000年) に埋葬のために米国の親戚に送られた。…
遺骨が発見された場所の近くで育った沖縄の高齢者の幾人かは、今、長く隠された一つの秘密を語ろうとしている。つまり村人たちの一団が3人の海兵隊員を、彼らが毎回繰り返し村の女性たちを強姦しに村にやってきている三人の黒人の海兵隊員だと考え、待ち伏せし殺害したというものである。<勝山事件について ~ 米軍内のレイシズムとセクシズム – Battle of Okinawa>
チャットgpt先生の8月8日のエッセイ
こちらは文明論に寄せた視点です。
8月8日――文明は「力」ではなく「秩序」で決まる
歴史を軍事史として読むと、8月8日は戦争や災害が並ぶ日になる。
しかし文明論として読むと、見えてくるものは違う。
文明とは、都市や科学や文化そのものではない。人間集団が長期間にわたって秩序を維持できる仕組みである。
その秩序は軍隊だけで支えられているわけではない。
外交、物流、食料、生産、金融、法律、情報伝達、人々の心理――それらが複雑に結び付いて初めて文明は安定する。
8月8日に起きた出来事は、その「秩序」が壊れる瞬間を数多く示している。
1220年のリフラの戦いで失われたのは城ではない。スウェーデンはエストニア進出という文明圏拡大の構想そのものを失った。以後数百年間、戦略の方向そのものが変わる。
1588年のアルマダ海戦で沈んだのも艦船だけではない。海上覇権という秩序が書き換えられ、大西洋世界の主導権はゆっくりとスペインからイングランドへ移っていく。
つまり文明とは、一回の勝敗ではなく、「誰が秩序を供給できるか」の競争なのである。
1945年8月8日は、その意味で二十世紀最大級の文明転換点だった。
ソ連の対日参戦は、単に日本への攻撃ではない。
ヤルタ体制という新しい世界秩序が、軍事力によって実装され始めた瞬間だった。
その翌日から満州の秩序は崩れ、朝鮮半島は分断への道を進み、中国東北部の勢力図も大きく変わる。
国家が崩れるとは、役所がなくなることではない。
警察が消え、裁判所が止まり、貨幣が信用を失い、鉄道が止まり、食料供給が途絶え、人々が自衛を始める状態である。
文明の崩壊とは、この秩序供給能力の喪失である。
そのとき現れるのは、人間の善悪ではない。
空白である。
その空白へ最初に入るものが、新しい秩序になる。
軍隊かもしれない。
武装集団かもしれない。
地方行政かもしれない。
市場かもしれない。
あるいは単なる暴力かもしれない。
沖縄戦後や満州で語り継がれる多くの証言には、その空白が映っている。
国家の保護が消えた数日間、人々は法ではなく、その場に存在する実力によって生存条件が決まる世界へ置かれた。
文明論では、この現象を例外とは考えない。
国家が崩れると必ず起きる現象として理解する。
古代ローマ帝国の辺境でも、西ローマ帝国滅亡後のヨーロッパでも、モンゴル帝国崩壊後でも、近代植民地帝国の解体でも、共通する構造が見られる。
秩序が失われた場所では、まず暴力市場が成立する。
その後、税を集める者が現れ、最後に法を作る者が現れる。
文明とは、この順番を逆転させた状態なのである。
だから文明は建物ではない。
人々が安心して明日を予測できる能力である。
歴史は戦争を英雄で語りたがる。
しかし文明論で重要なのは、英雄ではない。
秩序を維持する制度である。
制度が機能している間、人は国家の存在を意識しない。
制度が壊れた瞬間、人は初めて文明とは何だったのかを知る。
8月8日は、そのことを繰り返し示してきた日である。
歴史は「誰が勝ったか」を記録する。
文明論は「誰が秩序を維持できたか」を問う。
両者は似ているようで、実はまったく異なる問いなのである。
この視点では、8月8日は「戦争の日」ではなく、「文明を支える秩序が断絶する日」として読むことができます。勝敗ではなく、秩序の供給能力が歴史を動かすという見方です。

