kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日9月18日 1931満州事変勃発、ほか写真wikipedia柳条湖爆発現場

9月18日

20260918金曜日旧暦8月8日先負(32番乙未きのとひつじイツビ)月齢 6.9

43番丙午ひのえうま年 34番丁酉ひのととり月 32番乙未きのとひつじ日

吉方位 隠遁日 乙未きのとひつじ日 西南 西 大吉 年末まであと104日

https://ja.wikipedia.org/wiki/9%E6%9C%8818%E6%97%A5

9月18日の出来事

14年 – ティベリウスがローマ皇帝に即位。

96年 – 元老院の指名によりネルウァがローマ皇帝に即位。

324年 – クリュソポリスの戦い(英語版)。ローマ帝国の西の正帝コンスタンティヌス1世が東の正帝リキニウスを破り、帝国全土の単独皇帝となる。

日付        324年9月18日[1]

場所       

カルケドン

(現在のトルコ)の近くのクリソポリス)

結果       

コンスタンティヌスの勝利 コンスタンティヌスが権力を固める

テトラルキー(二皇帝の分割統治)の最終的な崩壊

損害  コンスタンティヌス軍 10万5千人中 戦死不明だが僅少 リキニウス軍 12万人中 戦死 25,000〜30,000人が殺され、さらに数万人が捕虜。

1180年 – フィリップ2世(尊厳王アウグスッスフランス国王で最初の実験を持った王)がフランス国王に即位。

1828年(文政11年8月10日) – シーボルト事件:シーボルトが、幕府禁制品の日本地図などを持ち出そうとしたことが、船の座礁により発覚。出国停止、および1年の取調べの後追放処分。

1863年 – 南北戦争:チカマウガの戦い開始。西部戦線での北軍最大の敗北戦。    1863年9月18日-20日[1]。損害 北軍5万6千人中 戦死傷16170人 南軍7万人中 戦死傷18454人。

1931年 – 満洲事変:奉天付近の南満洲鉄道線路上で爆発事件。(柳条湖事件)年月日:1931年9月18日 – 1932年2月18日 損害 日本 6万6千人中 24人 中華民国 16万人中340人。

1944年 – 第二次世界大戦: 日本の貨物船順陽丸がインドネシアの沖合でイギリス海軍の潜水艦の雷撃を受け撃沈。5,620人が死亡。

1958年 – 昭和33年台風第21号が伊豆半島の南端に上陸。その後、房総半島を経て太平洋を北上し、北海道根室市に再上陸した。32都道府県で死者・行方不明者85人。流失家屋143戸、床上浸水1万2271戸、床下浸水3万9766戸[2]。

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14年 – ティベリウスがローマ皇帝に即位。

評価

タキトゥスは元首政を盤石にした一方[5]、元首就任までは公私共に優れた人物であったが、元首となってからは次第に悪徳をさらけ出して自堕落に陥ったと評し[6]、スエトニウスも民衆がその死を喝采する様子を伝えて「暴君」と記述する等、現存する古代の史料では晩年の恐怖政治への否定的な評価が強調されているが[7]、一方でアレクサンドリアのフィロンのような「思慮のある人物」という評価も存在し[8]、現代の研究では古代の否定的な評価には誇張が含まれていると見なされ、恐怖政治や親衛隊の重用等への否定的な評価と共に、官僚機構の整備や属州の安定等国内外の問題に積極的に取り組み元首政の基礎を固めたとの評価も存在する[9][10]。

96年 – 元老院の指名によりネルウァがローマ皇帝に即位。

現在、ネルウァの皇帝即位と治世はフラウィウス朝断絶後の混乱において、新しい王朝に移行するまでの中継ぎ役であったという評価に収まっている[18]。彼が建設した唯一の公共事業である「ネルウァのフォルム」が「フォールム・トランシトリウム」(Forum Transitorium、通過するフォールム)と呼ばれたのは、彼の治世を踏まえれば歴史の皮肉(アイロニー)であろう[58]。とはいえ、トラヤヌスの治世を開く契機を与えた人物としてネルウァの名声は残り、諸説ある出身地の一つであるナルニにはネルウァの銅像が掲げられている[59][60]。

324年 – クリュソポリスの戦い(英語版)。ローマ帝国の西の正帝コンスタンティヌス1世が東の正帝リキニウスを破り、帝国全土の単独皇帝となる。

日付        324年9月18日[1]

場所       

カルケドン

(現在のトルコ)の近くのクリソポリス)

結果       

コンスタンティヌスの勝利 コンスタンティヌスが権力を固める

テトラルキー(二皇帝の分割統治)の最終的な崩壊

損害  コンスタンティヌス軍 10万5千人中 戦死不明だが僅少 リキニウス軍 12万人中 戦死 25,000〜30,000人が殺され、さらに数万人が捕虜。

クリソポリスの戦いは、324年9月18日にカルケドン(現在のカドゥキョイ)近くのクリソポリス(現在のユスキュダル)で、2人のローマ皇帝コンスタンティヌス1世とリキニウスの間で戦われました。この戦いは、両皇帝の最後の出会いでした。ヘレスポント海戦で海軍が敗北した後、リキニウスはビザンチウム市からボスポラス海峡を渡ってビティニアのカルケドンまで軍隊を撤退させた。コンスタンティヌスもそれに続き、その後の戦いに勝利した。これによりコンスタンティヌスが唯一の皇帝となり、テトラルキー(分割統治)の時代は終わりました。

1180年 – フィリップ2世(尊厳王アウグスッスフランス国王で最初の実験を持った王)がフランス国王に即位。

フィリップ2世(Philippe II, 1165年8月21日 – 1223年7月14日)は、フランス・カペー朝第7代の王(在位:1180年 – 1223年)。ルイ7世と妃でシャンパーニュ伯兼ブロワ伯ティボー4世の娘アデルの子。フランス最初の偉大な王と評価され、尊厳王(オーギュスト、Auguste)と呼ばれた。

父王の崩御により15歳で即位し、当初は舅であるエノー伯ボードゥアン5世の摂政下にあったが、間もなく親政を始めた。エノー伯やシャンパーニュ伯などの強力な北部諸侯を抑え、婚姻政策によりヴァロワなどを得た。さらに、イングランド王家で欠地王ジョンのフランス南部に広大な領地を有するプランタジネット家との抗争に勝利し、その大陸領土の大部分をフランス王領に併合した他、アルビジョア十字軍を利用して、王権をトゥールーズ、オーヴェルニュ、プロヴァンスといったフランス南東部から神聖ローマ帝国領にまで及ぼした。この結果、フランス王権は大いに強まり、フランスはヨーロッパ一の強国となった。

1828年(文政11年8月10日) – シーボルト事件:シーボルトが、幕府禁制品の日本地図などを持ち出そうとしたことが、船の座礁により発覚。出国停止、および1年の取調べの後追放処分。

シーボルト事件(シーボルトじけん)は、江戸時代後期の1828年(文政11年)に、ドイツ人医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが、国防上の理由から日本国外への持ち出しが禁止されていた「大日本沿海輿地全図」(「伊能図」)などを持ち出そうとして発覚し、国外追放処分を受けた事件である。シーボルトに地図を贈った幕府の書物奉行兼天文方筆頭高橋景保をはじめとする多数の関係者、蘭学者が幕府によって処罰されたことから、この事件は蛮社の獄に先立つ蘭学者弾圧事件となった。

日本側関係者の処分は多岐にわたった。シーボルトに地図を贈った書物奉行兼天文方筆頭の高橋景保は獄死したが、その死体は塩蔵され、のちに改めて死罪判決が下されたうえで斬首された。また、景保の子らも遠島となった[6]。ベラドンナ(実際にはその代用品であるハシリドコロ)を用いた開瞳術を教わる見返りとして将軍から拝領した三つ葉葵の紋服を贈った眼科奥医師土生玄碩は改易のうえ終身禁固となった(のち赦免)。そのほか、オランダ商館長が江戸に参府する際の定宿を提供していた長崎屋源右衛門、シーボルトの門人二宮敬作、高良斎、出島絵師川原登与助(川原慶賀)、通詞の馬場為八郎、吉雄忠次郎、稲部市五郎、堀儀左衛門、末永甚左衛門、岩瀬弥右衛門、同弥七郎、さらに召し使いにいたるまで五十数人が処罰された。

1863年 – 南北戦争:チカマウガの戦い開始。西部戦線での北軍最大の敗北戦。    1863年9月18日-20日[1]。損害 北軍5万6千人中 戦死傷16170人 南軍7万人中 戦死傷18454人。

チカマウガの戦い(チカマウガのたたかい、英:Battle of Chickamauga)は、南北戦争の西部戦線における、テネシー州中南部とジョージア州北西部で1863年9月18日から20日に行われた戦闘である。チカマウガ方面作戦と呼ばれる北軍攻勢の最後の戦闘だったが、北軍は西部戦線では最大の敗北を喫した。

対戦したのは北軍 ウィリアム・ローズクランズ 少将指揮するカンバーランド軍と南軍ブラクストン・ブラッグ将軍指揮するテネシー軍であり、戦闘名はチャタヌーガ中心部の北東約3.5マイル (5.6 km)でテネシー川に注ぐチカマウガ・クリークから採られた。

1931年 – 満洲事変:奉天付近の南満洲鉄道線路上で爆発事件。(柳条湖事件)年月日:1931年9月18日 – 1932年2月18日 損害 日本 6万6千人中 24人 中華民国 16万人中340人。

柳条湖事件

詳細は「柳条湖事件」を参照

事件直後の柳条湖の爆破現場

1931年(昭和6年)9月18日午後10時20分頃、瀋陽郊外の柳条湖付近の南満洲鉄道線路上で爆発が起きた。現場は、3年前の張作霖爆殺事件の現場から、わずか数キロの地点である。爆発自体は小規模で、爆破直後に現場を急行列車が何事もなく通過している[注釈 9]。関東軍はこれを張学良の東北軍による破壊工作と発表し、直ちに軍事行動に移った。これがいわゆる柳条湖(溝)事件[注釈 10]である。

戦後のGHQの調査などにより、本事件は河本大佐の後任の関東軍高級参謀板垣征四郎大佐と、関東軍作戦参謀石原莞爾中佐が首謀し、軍事行動の口火とするため自ら行った自作自演の陰謀であったことが判明している[注釈 11]。奉天特務機関補佐官花谷正少佐、張学良軍事顧問補佐官今田新太郎大尉らが爆破工作を指揮し、関東軍の虎石台独立守備隊の河本末守中尉指揮の一小隊が爆破を実行した。

1944年 – 第二次世界大戦: 日本の貨物船順陽丸がインドネシアの沖合でイギリス海軍の潜水艦の雷撃を受け撃沈。5,620人が死亡。

9月16日、「順陽丸」はペカンバル-ムアロ間のスマトラ横断鉄道の建設に投入される1,377名のオランダ人捕虜と64名のイギリス人(オーストラリア人含む)捕虜、8名のアメリカ人捕虜と4,200名あまりのジャワ人労務者を乗せて、ジャワ島バタヴィアのタンジョンプリオクを出港。18日、南緯02度53分 東経101度11分のパダン南南東225km地点にさしかかったところでイギリス潜水艦「トレードウィンド」(HMS Tradewind)の雷撃で沈没した。これは5,620名が死亡する当時世界最大規模の海難事故となった。680人ほどの生き残った捕虜はスマトラ横断鉄道の現場に送られたが、終戦まで生き延び、救出されたのはわずか100人たらずだった[6]。

1958年 – 昭和33年台風第21号が伊豆半島の南端に上陸。その後、房総半島を経て太平洋を北上し、北海道根室市に再上陸した。32都道府県で死者・行方不明者85人。流失家屋143戸、床上浸水1万2271戸、床下浸水3万9766戸[2]。

チャットgpt先生の9月18日のエッセイ

9月18日という日付を、個々の事件の善悪ではなく、権力が移動し、制度が組み替えられ、局地的な出来事が大きな構造変化の入口になる日として読むと、かなり一貫した輪郭が見えてきます。

9月18日――権力が動く日は、最初は小さく見える

9月18日の歴史を並べてみると、奇妙な共通項が浮かび上がる。

14年、ティベリウスがローマ皇帝となった。
96年にはネルウァが元老院の指名によって皇帝となった。
324年にはクリュソポリスの戦いでコンスタンティヌス1世がリキニウスを破り、ローマ帝国の単独皇帝となった。
1180年にはフィリップ2世がフランス王位についた。

時代も地域も違う。しかし、構造だけを見るなら同じ現象が繰り返されている。

権力の中心が移る。

そして、その移動は必ずしも一つの劇的な瞬間として現れるわけではない。

皇帝が交代する。
内戦の勝敗が確定する。
王が即位する。
既存の支配者が退き、新しい統治方式が組み上がる。

歴史を後から見ると「政権交代」と一行で書けるが、その時点に生きている人間にとっては、行政、人事、軍事、財政、土地、外交、法制度など、社会を構成する複数の回路が順番に切り替わっていく過程だったはずだ。

ローマ史は、この構造を特に分かりやすく示している。

ティベリウスの場合、重要なのは本人の人格評価だけではない。アウグストゥスの後継として、共和政の形式を残しながら実質的な皇帝権力を継承するという、極めて特殊な制度を引き受けたことである。

ネルウァも同じだ。

彼の治世だけを取り出せば短い。しかし、歴史的な意味は、その短さそのものにある。フラウィウス朝から次の体制へ移る際の接続点となり、その後のトラヤヌス時代につながった。

つまり歴史において重要なのは、必ずしも「長く支配した人物」ではない。

次の時代へ接続する人物も、構造上は非常に重要である。

324年のクリュソポリスの戦いになると、その構造はさらに明確になる。

二人の皇帝が並立していた状態が、軍事的勝敗によって一人に収束する。

ここでは戦闘そのものよりも、戦闘が何を確定させたかを見る必要がある。

コンスタンティヌスが勝った。

その結果として、複数の皇帝による分割統治という政治構造が崩れ、帝国の権力が一つに集中する。

つまり戦争とは、単に軍隊同士が衝突する現象ではない。

戦争は、複数存在している権力の選択肢を削る装置にもなる。

戦場で勝った側が、行政制度、人事、徴税、軍事指揮権、外交政策を再編できるようになる。

歴史の表面では「戦いに勝った」と書かれる。

しかし構造としては、

軍事的勝利

権力の集中

制度の再編

新しい秩序の固定

という流れである。

1180年のフィリップ2世も、その後の展開を見ると同じ系統に置ける。

王位についた時点では15歳だった。しかし、その後、諸侯との関係を整理し、婚姻政策を使い、イングランド王家との抗争を利用し、王領を拡大していく。

ここで重要なのは、「偉大な王だった」という人物評価よりも、中央権力が周辺勢力に対して持つ実効支配力が増加したという事実である。

国家は、国王が強いと言うだけでは強くならない。

誰が土地を持っているのか。
誰が税を徴収するのか。
誰が軍を動かせるのか。
誰の命令が地方で実行されるのか。

こうした具体的な回路を押さえたとき、初めて王権は強くなる。

9月18日の歴史には、この「権力の集中」という線が何度も現れる。

ところが1828年になると、舞台は日本へ移る。

シーボルト事件である。

ここでも、単純に「外国人が地図を持ち出そうとした事件」と見ると、本質を取り逃がす。

問題になったのは地図だった。

しかし地図そのもの以上に重要なのは、国家が自国の地理情報を戦略資産として扱っていたということである。

誰が日本列島を測量したのか。
誰がその情報を保有するのか。
誰が外国へ持ち出せるのか。

情報は、それを持っているだけでは単なる記録だが、軍事・外交・統治に接続した瞬間に資源になる。

だから国家は情報の流通を管理する。

シーボルト事件は、江戸後期の日本が「情報」というものをどの程度国家的な問題として扱っていたのかを示す一例でもある。

しかも、その情報を渡した側にも処分が及んだ。

ここにもう一つの構造が見える。

国家機密は、情報そのものだけでは成立しない。情報の流れを管理する人間関係まで含めて成立する。

誰から誰へ渡ったのか。

誰が仲介したのか。

誰が見逃したのか。

国家が管理するのは、物だけではない。

人間のネットワークでもある。

そして1931年9月18日。

柳条湖事件である。

ここでは、さらに現代的な構造が見える。

小規模な爆発が起きる。

しかし重要なのは爆発の物理的規模ではない。

その出来事が「何として説明されたか」である。

線路上の爆発という局地的な事件が、軍事行動を正当化する説明へ接続され、その後の軍事的拡大へつながっていく。

ここで歴史を動かすのは、事件そのものだけではない。

事件に与えられた意味と、その意味を利用できる組織の存在である。

これは非常に重要なポイントだ。

小さな事件が大きな歴史を生むのではない。

正確には、

小さな事件

それを利用できる組織

既に存在している軍事・政治的条件

事後的な既成事実化

によって、局地的な事件が巨大な政治過程へ変換される。

歴史上、大きな変化の起点は、必ずしも巨大な出来事ではない。

むしろ最初は小さい。

重要なのは、その小さな出来事を「次の行動」に変換できる構造がすでに存在しているかどうかである。

そして1944年9月18日。

順陽丸が沈没する。

ここでは逆に、巨大な戦争構造の中で、一隻の船に何千人もの人間が集中している。

戦争は国家間の大きな地図で語られやすい。

しかし、実際に戦争が人間へ作用するとき、その単位は船であり、列車であり、港であり、収容所であり、工事現場である。

国家規模の戦争が、最後には非常に小さな輸送単位へ圧縮される。

数千人が一隻の船に乗る。

そして、その船が沈めば、一つの数字として大量の死者が発生する。

ここでも構造が見える。

巨大な制度は、最終的には具体的な物流によって実行される。

軍隊は兵站によって動く。

捕虜は輸送される。

労働力は配置される。

物資は船で運ばれる。

鉄道が軍事と経済を結びつける。

戦争を理解するには、政治指導者や戦場だけを見るのでは足りない。

「誰が、どこから、どこへ、何を運んでいたのか」を見る必要がある。

そして1958年9月18日には、台風が来る。

ここまでの事件とは性質が違う。

だが、国家や社会の構造を見るという点では共通している。

自然現象そのものは人間の政治とは無関係に発生する。

しかし被害は均一ではない。

どこに家があるのか。

河川や海岸との位置関係はどうか。

住宅の構造はどうか。

堤防や排水設備はどうか。

交通網はどうか。

行政はどれだけ早く対応できるか。

同じ台風でも、社会の構造によって結果が変わる。

つまり災害もまた、単なる自然現象ではない。

自然現象が社会構造に接触したとき、被害という形で結果が現れる。

9月18日の歴史を一本につなぐなら、私は「善悪」ではなく「変換」という言葉を置きたい。

権力の交代が制度の変化へ変換される。

軍事的勝利が政治的統一へ変換される。

王位継承が王権強化へ変換される。

地図という情報が国家安全保障の問題へ変換される。

小さな爆発が軍事行動の起点へ変換される。

戦争という巨大な政治構造が、一隻の船の沈没へ変換される。

台風という自然現象が、都市・住宅・交通・行政の脆弱性を露呈させる。

だから歴史を見るとき、出来事だけを覚えてもあまり意味がない。

見るべきなのは、

「その出来事を、次の何に変換できる構造があったのか」

という一点である。

政治家は事件を政策に変える。

軍は事件を作戦に変える。

国家は情報を統治資源に変える。

企業や行政は物流を経済活動に変える。

制度は個人の行動を集団的な結果に変える。

そして、いったん変換された結果は、次の条件を作り出す。

その結果がまた次の出来事を生む。

歴史は一直線に進むというより、こうした変換の連鎖として進んでいく。

9月18日は、そのことをかなり露骨に見せてくれる日である。

皇帝が代わる。

皇帝が一人になる。

王権が強くなる。

情報の流れが問題になる。

局地的な事件が軍事行動へ接続される。

戦争が輸送船の沈没として現れる。

自然現象が社会インフラの弱点を露呈させる。

表面的にはまったく違う事件だ。

しかし深いところでは、どれも同じ問いに戻ってくる。

誰が何を動かせるのか。

そして、

一つの出来事を、次の現実へ変換できるのは誰なのか。

歴史の本当の分岐点は、事件が起きた瞬間ではない。

事件の後に、誰が主導権を握り、どの制度を動かし、どの説明を採用し、どの既成事実を積み上げたか。

そこにある。

9月18日は、そういう意味で「事件の日」というより、出来事が構造へ変わる日として読むことができる。