kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日7月10日 1940バトルオヴブリテン開始、ほか写真wikipedia撃墜された独爆撃機残骸

7月10日

20260710金曜日旧暦5月26日赤口(22番乙酉きのととりイツユウ)月齢 25

43番丙午ひのえうま年 32番乙未きのとひつじ月 22番乙酉きのととり日

吉方位 隠遁日 乙酉きのととり日 北 北東 大吉 

https://ja.wikipedia.org/wiki/7%E6%9C%8810%E6%97%A5

7月10日の出来事

紀元前48年 – ローマ内戦: デュッラキウムの戦い

戦争:ローマ内戦

年月日:紀元前48年7月10日

場所:デュッラキウム(現:ドゥラス)

結果:元老院派の勝利

損害:カエサル派 15000人中 戦死1000人 元老院派45000人中 僅少

645年(皇極天皇4年6月12日) – 乙巳の変で蘇我入鹿が暗殺される。

1205年(元久2年6月22日) – 畠山重忠の乱: 北条時政が武蔵・二俣川で畠山重忠一族を討つ。

戦争:鎌倉幕府の内乱

年月日:元久2年6月22日(1205年7月10日)

場所:武蔵国二俣川(現神奈川県横浜市旭区)

結果:北条氏の勝利

損害:北条軍 数千騎 戦死 僅少 畠山軍134騎 壊滅

1460年 – 薔薇戦争: ノーサンプトンの戦い。

戦争:薔薇戦争

年月日:1460年7月10日

場所:イングランド ノーサンプトンシャーのノーサンプトン

北緯52度14分12秒 西経0度53分36.8秒

結果:ヨーク派の勝利

損害:ヨーク家 30000人 戦死 僅少 ランカスター家 15000人 戦死300人

1553年 – ノーサンバランド公ジョン・ダドリーがジェーン・グレイのイングランド女王即位を宣言。後に、19日に即位を宣言したメアリー1世により逮捕・処刑される。

1939年 – イェドヴァブネ事件。ポーランド・イェドヴァブネで非ユダヤ系住人がユダヤ人を虐殺。340人以上のユダヤ人が殺害される。

1940年 – 第二次世界大戦: バトル・オブ・ブリテンが始まる。

戦争:第二次世界大戦(西部戦線)

年月日:1940年7月〜1941年5月

場所:イギリス上空

結果:イギリス空軍の勝利

損害:ドイツ軍 戦死2662人 イギリス軍 戦死449人 民間死亡43000人

1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 仙台空襲。死者1064名以上。

1945年-沖縄戦7月10日・中南部全域が基地化され、生き残った住民は民間人収容所へと排除された。<引用先原文>・戦場に送り出された生徒は、生き残っても身内のいる民間人収容所に入ることはできなかった。兵士として捕虜収容所に収容され、屋嘉捕虜収容所からハワイやアメリカ本土にまで移送されたが、まれに厳しい尋問をかいくぐって民間人収容所に入ることができた学徒もいた。<引用先原文>・一中では、動員された学徒273人のうち、153人が犠牲となっている。

癒されない心の傷

… もうおれたち同級生は、みんなそうだけどね。酒飲むとね、みんな泣いちゃってね。気持ちが荒れちゃって。戦争の被害というのが。ちょうど、ベトナム戦争のときは米軍がそうだった。おれたちがそうだった。だから、それ治るまでは20年以上かかったね。つい最近まで、何かのときはもう思い出して。だから、家族が大変なんだよ。どう慰めていいか、どう処理していいか、わかんない。… 2人とも友達で、酒一緒に飲むんだけどね。ほとんど戦争の話、何も触れない。何ていうのかなあ。あの気持ちだけは本当に、あんた、今、質問された、何か自分でも解きたいとは思うけどね、どうだろう。<一中学徒・宮城真一さんの証言 (NHKドキュメンタリー (戦場の少年たち」) – Battle of Okinawa>・名護市・屋我地島北部、済井出地区のハンセン病療養所「沖縄愛楽園」は、国の隔離政策にもとづいて、昭和13年につくられました。那覇市から北に60キ口のこの施設も、戦時中アメリカ軍の攻撃対象になりました。今も施設には、戦争の傷あとが残されているといいます。

昭和19年10月10日、のべ1000機のアメリカ軍機が沖縄本島各地を襲いました。その一部は愛楽園を攻撃し、施設の90%が破壊されました。愛楽園は、整然と並んだ病棟が日本軍の兵舎に間違われ、その後も繰り返し攻撃を受けました。水タンクが破壊され、十分な治療ができなくなった愛楽園では、元患者のおよそ30%、289人が亡くなりました。<名護市 愛楽園と戦争【放送日 2008.9.17】|NHK 戦争証言アーカイブス>

1986年 – 集中豪雨(昭和61年7月豪雨)により、鹿児島県鹿児島市でがけ崩れが発生し、18人が死亡。

1997年 – 鹿児島県出水市境町針原地区で、7日から降り続いた雨により土石流が発生。死者21人。

2003年 – 香港の高速道路・屯門公路からバスが転落。死者22人、負傷者20人の大惨事に(屯門公路2階建てバス転落事故)。

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紀元前48年 – ローマ内戦: デュッラキウムの戦い

戦争:ローマ内戦

年月日:紀元前48年7月10日

場所:デュッラキウム(現:ドゥラス)

結果:元老院派の勝利

損害:カエサル派 15000人中 戦死1000人 元老院派45000人中 僅少

カエサルはテッサリアへ撤退していった。ポンペイウスは追跡に慎重であったがルキウス・ドミティウス・アヘノバルブスやルキウス・アフラニウスら、功を焦った強硬なカエサルの政敵たちによる突き上げによりカエサルを追跡したことで、古代ローマ最大の激戦とも称されるファルサルスの戦いが行われることになる。

645年(皇極天皇4年6月12日) – 乙巳の変で蘇我入鹿が暗殺される。

乙巳の変(いっしのへん)は、飛鳥時代645年(乙巳の年)に中大兄皇子・中臣鎌足らが蘇我入鹿を宮中にて暗殺して蘇我氏(蘇我宗家)を滅ぼした政変。その後、中大兄皇子は体制を刷新し大化の改新と呼ばれる改革を断行した。蘇我入鹿が殺された事件を「大化の改新」と言うことがあるが、厳密には乙巳の変に始まる一連の政治制度改革を大化の改新と言い、乙巳の変は大化の改新の第一段階を言う[1]。

1205年(元久2年6月22日) – 畠山重忠の乱: 北条時政が武蔵・二俣川で畠山重忠一族を討つ。

戦争:鎌倉幕府の内乱

年月日:元久2年6月22日(1205年7月10日)

場所:武蔵国二俣川(現神奈川県横浜市旭区)

結果:北条氏の勝利

損害:北条軍 数千騎 戦死 僅少 畠山軍134騎 壊滅

畠山重忠の乱(はたけやましげただのらん)は、鎌倉時代初期の元久2年6月22日(1205年7月10日)、武蔵国二俣川(現・神奈川県横浜市旭区)において、武蔵国の有力御家人・畠山重忠が武蔵掌握を図る北条時政の策謀により、北条義時率いる大軍に攻められて滅ぼされた事件。鎌倉幕府内部の政争で北条氏による有力御家人粛清の一つ。

二俣川の戦い

重忠は鎌倉に騒ぎがあると聞き、6月19日に菅谷館を出発しており、22日午後、二俣川で討伐軍に遭遇した。重忠の弟長野重清は信濃国、重宗は奥州へ行っており、重忠が率いていたのは二男の重秀、郎従本田近常、乳母父の榛澤成清以下134騎に過ぎなかった。その朝、重保が殺されたこと、自分に追討軍が差し向けられたことを二俣川で初めて知った重忠は、館へ退くことはせず潔く戦うことが武士の本懐であるとして、大軍を迎え撃つ決断を下す。そこへかつての旧友安達景盛と主従7騎が先陣を切って突入し、義時の大軍と少数の兵で応戦する重忠主従との激戦が4時間あまり繰り広げられたのち、重忠は愛甲季隆の放った矢に討たれ、首級を取られた。『愚管抄』では重忠に組み付いてくる者がいなかったため自害したと記されている(享年42)。重忠の死を知った重秀以下は自害した(重秀・享年23)。

23日午後2時頃、軍勢を鎌倉へ引き上げた義時は、合戦の様子を聞いた時政に対し、重忠の一族は出払っていて小勢であり、謀反の企ては虚報で、重忠は無実であった、その首を見ると涙を禁じ得ず、大変気の毒なことをした、と述べた。時政は黙って引き下がった。この日の夕方、鎌倉内で重忠の同族であり討伐軍に加わっていた稲毛重成・小沢重政父子、重成の弟榛谷重朝・重季・秀重父子が、重忠を陥れた首謀者として三浦義村らによって殺害された。これについては時政を非難した北条政子・義時姉弟によるものとする説[3]と、窮地に陥った時政によるトカゲの尻尾切りとする説[4]とがある。

7月8日、少年の将軍実朝に代わり、尼御台政子の命により畠山氏の所領は勲功として重忠を討った武士たちに与えられ、同20日にも政子の女房たちに重忠の遺領が与えられている。閏7月19日、この事件をきっかけに時政は失脚し、牧の方とともに子の政子・義時姉弟によって鎌倉を追放され、同26日、京にいた平賀朝雅は義時の命によって誅殺された(牧氏事件)。残された重忠の所領は、時政の前妻の娘である重忠の妻に安堵され、妻は足利義純に再嫁して義純が畠山氏の名跡を継いだことにより、平姓秩父氏の畠山氏は滅亡した。

1460年 – 薔薇戦争: ノーサンプトンの戦い

戦争:薔薇戦争

年月日:1460年7月10日

場所:イングランド ノーサンプトンシャーのノーサンプトン

北緯52度14分12秒 西経0度53分36.8秒

結果:ヨーク派の勝利

損害:ヨーク家 30000人 戦死 僅少 ランカスター家 15000人 戦死300人

戦闘の経過

先に戦場に到着していた国王軍はノーサンプトンにネーネー川を背にして防御的な陣を敷いた。これは戦術的に危険だったが、塹壕を掘り杭や大量の野戦砲も配備して防御を固め、10,000~15,000の強兵を揃えていた。一方、ヨーク派は豪雨の中の行軍で兵士が疲弊していた。

接近する間に、ウォリック伯は自分の代理としてヘンリー6世と交渉するために使者を送った。だがランカスター派指揮官のバッキンガム公ハンフリー・スタッフォードは「ウォリック伯は国王の面前には出て来る事はない。来ようとすれば、彼が死ぬだけだ」と答えた。ウォリック伯はノーサンプトンへの前進の間、2度も国王への取次ぎを拒否されている。一度など「2時には私は、国王と話をしているか死んでいるかだ」とも取れるメッセージを送っている。

2時、ヨーク派は進軍を開始した。左翼をフォーコンバーグ卿、右翼をマーチ伯、中央をウォリック伯が率いて縦列で進軍したが、打ち付ける激しい雨のため、思うように進軍できなかった。ランカスター派に接近した時、ウォリック伯に激しい矢の雨が降り注いだ。運の良いことに、ランカスター派の大砲は雨で役に立たなくなっていたのだった。

ウォリック伯がランカスター派の右翼側面に着いたとき、グレイ卿の指揮する部隊がヨーク派に寝返った。グレイ卿の軍は武器を放棄し、ヨーク派を本陣まで導いた。それはランカスター派にとっては、致命的ともいえる一撃であった。この後、戦いは30分ほど続いたが、陣を守る事も出来なくなったランカスター派の防衛軍は、ヨーク派の攻撃に撹乱されて隊列も維持できない状態で戦場から離脱した。

バッキンガム公、シュルーズベリー伯ジョン・タルボット、イグレモント卿、ボーモン卿らはヘンリー6世をヨーク派から守るため、王のテントをかばって戦死した。この戦いで約300人のランカスター兵が殺されヘンリー6世は捕らえられ、再びヨーク派の操り人形となった。ロンドン塔に残った守備隊も降伏、スケールズは逃亡に失敗して群衆に殺害され、ヨーク派が優位に立った。しかし、マーガレット王妃は戦場から離脱してウェールズに逃れ、そこで抵抗を続けた上、10月に議会でヨーク公が王位を要求したが受け入れられず、完全な決着がつかないまま両派の戦闘は継続していった[1][5]。

1553年 – ノーサンバランド公ジョン・ダドリーがジェーン・グレイのイングランド女王即位を宣言。後に、19日に即位を宣言したメアリー1世により逮捕・処刑される。

ジェーン・グレイ(英: Jane Grey、1537年10月12日? – 1554年2月12日)は、16世紀中頃のイングランドの女王(在位:1553年7月10日[注釈 1] – 19日)。異名に、九日間の女王(ここのかかんのじょおう、Nine-Day Queen)がある。

数奇な縁でイングランド史上初の女王として即位したが、在位わずか9日間でメアリー1世により廃位され、その7か月後に大逆罪で斬首刑に処された。そうした経緯から、イギリスでは古来彼女のことを「クイーン・ジェーン」(Queen Jane、ジェーン女王)とは呼ばずにレディー・ジェーン・グレイ(Lady Jane Grey、ジェーン・グレイ令嬢)と呼んできた。ジェーンを正統なイングランド君主とはみなさない史家や学者も少なくないが、イギリス王室はジェーンをテューダー朝第4代として公式に歴代君主の一人に数えている[1]。

1939年 – イェドヴァブネ事件。ポーランド・イェドヴァブネで非ユダヤ系住人がユダヤ人を虐殺。340人以上のユダヤ人が殺害される。

イェドヴァブネ事件(ポーランド語: Pogrom w Jedwabnem / mord w Jedwabnem)とは、第二次世界大戦中の1941年7月10日、ナチス・ドイツ占領下のポーランド北東部の町イェドヴァブネ(ポーランド語版、英語版)で起きたユダヤ人の虐殺事件(ポグロム)である。

この町およびその周辺のユダヤ人住民が、隣人であったポーランド人によって暴行され、納屋に集められ生きたまま焼き殺された[2][3]。犠牲者の数は少なくとも340人[1][3]、町にいたユダヤ人のほぼ全員が殺されたと仮定すれば900人から1,600人との推定もある。

1940年 – 第二次世界大戦: バトル・オブ・ブリテンが始まる。

戦争:第二次世界大戦(西部戦線)

年月日:1940年7月〜1941年5月

場所:イギリス上空

結果:イギリス空軍の勝利

損害:ドイツ軍 戦死2662人 イギリス軍 戦死449人 民間死亡43000人

全般経過

前哨戦で独空軍はドーバー海峡付近の輸送船や沿岸の港湾を攻撃した。対する英国は、軍民一体となって空軍を支援した。イギリスは近代的なレーダー網を活用して「世界で最も洗練された」防空網を構築しており[20]、またイギリス連邦諸国から人的支援、中立国(当時)アメリカ合衆国からは経済支援を得ることができた。

ドイツ空軍は7月中旬から内陸部の飛行場を狙った空襲を繰り返してイギリス空軍に打撃を与えた。しかし、目標選定の失敗や必要な軍用機の整備不足、途中で主要な空襲目標をロンドンに変えたことなどにより、ドイツ空軍も大きな被害を受けた。8月下旬から9月中旬にかけ、独空軍は大規模な攻勢(鷲攻撃)を行った。9月17日、英国はドイツの英本土上陸作戦を断念させることに成功した。その意味でバトル・オブ・ブリテンの結果は第二次世界大戦の重大な転機となった。独空軍の夜間爆撃は、独ソ戦直前の、翌1941年4月頃まで続いた[21]。

意義、評価

マーレー(初版1985年)は、本航空戦での教訓を航空機生産体制強化に活かさなかったこと[22]や、本航空戦以降の独軍パイロットの平均技量低下による機材損耗の増大[23]等から、本航空戦における敗北が、第二次世界大戦におけるドイツ敗北を決したとまで論じている[24]。

一方、英国の大きな勝因は「ダウディング・システム」[注釈 4]と通称される、優れた統合防空システムを有した点にあった[13]。

航空戦・エアパワーの研究においては、独空軍による「鷲攻撃」は、攻勢側が作戦最初期にレーダーを破壊することの重要性を広く認識させ、「統合防空システムに対する航空作戦のパターンを確立した」と評される[25]。また本航空戦により、防勢の航空作戦の持つ、政治的・戦略的効果が明らかにされた[26]。

1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 仙台空襲。死者1064名以上。

仙台空襲(せんだいくうしゅう)は、第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)7月10日にアメリカ軍によって行われた宮城県仙台市への空襲(戦略爆撃)。この空襲によって仙台の中心部は焼け野原になった。死者1064名以上。

1986年 – 集中豪雨(昭和61年7月豪雨)により、鹿児島県鹿児島市でがけ崩れが発生し、18人が死亡。

1997年 – 鹿児島県出水市境町針原地区で、7日から降り続いた雨により土石流が発生。死者21人。

2003年 – 香港の高速道路・屯門公路からバスが転落。死者22人、負傷者20人の大惨事に(屯門公路2階建てバス転落事故)。

チャットgpt先生の7月10日のエッセイ

7月10日――勝者も敗者も、代償だけは平等だった

7月10日という日を並べてみると、そこには英雄譚よりも、権力と戦争が現実をどのように動かすかという冷たい法則が見えてくる。

紀元前48年のデュッラキウムでは、カエサルは敗北した。しかし、この敗北が終わりではなかった。軍を維持して撤退できたからこそ、後のファルサルスで逆転する。歴史は一つの戦いで決まるのではなく、「負けても軍隊を残した側」が最終的に勝つことを、この戦いは示している。

1205年、畠山重忠はわずか百数十騎で数千騎を迎え撃った。武士としての名誉は後世に残ったが、政治という視点では完全な敗北だった。鎌倉幕府内部では正義より勢力均衡が優先され、重忠が無実であったことを義時自身が認めても、一度失われた命は戻らない。戦場では勇気が勝敗を左右することもあるが、政争では勇気だけでは生き残れない。

1460年のノーサンプトンでも同じ構図が見える。堅固な陣地も、大砲も、兵数も整っていた。しかし裏切り一つで防御は崩壊した。戦争は兵器だけではなく、人間の意思で決着することを改めて示している。

1553年、ジェーン・グレイは王冠を戴いた。しかし、その王冠は軍隊も行政も伴わない名目だけの権威だった。在位九日という数字は象徴的である。国家において権力とは法律や称号ではなく、それを実際に支える軍事・財政・支持基盤であることを物語っている。

20世紀に入ると、戦争はさらに巨大化する。

1940年に始まるバトル・オブ・ブリテンは、近代国家同士の総力戦だった。レーダー、航空管制、生産力、整備能力、民間防空。戦闘機同士の空戦だけではなく、国家システム全体の勝負になっていた。戦術よりも「壊れても補充できる国」が勝つ時代に入ったのである。

そして1945年7月10日。

仙台空襲では千人を超える市民が死亡し、市街地は焼失した。本土空襲の終盤、日本側には迎撃能力も消火能力もほとんど残されていなかった。制空権を完全に失った国家が都市を守ることは極めて困難であることを示している。

一方、この日の沖縄では、地上戦は終結していたが、戦争そのものは終わっていなかった。

沖縄戦は「住民が巻き込まれた悲劇」とだけ語るには、軍事的現実があまりにも重い。

アメリカ軍は圧倒的な物量を投入したにもかかわらず、日本軍に対して太平洋戦争で最大級の損害を受けた。兵力、火砲、艦砲射撃、航空支援、補給能力、そのすべてで優位に立ちながら、約三か月に及ぶ戦闘で甚大な死傷者を出した。日本軍は制空権も制海権も失っていたが、地下陣地と縦深防御によって、アメリカ軍の火力優位を可能な限り相殺した。これは精神論ではなく、防御陣地構築と地形利用という軍事技術の成果でもあった。

そのため、アメリカ軍は予定を大幅に超える人的損害を受け、本土決戦や本土上陸作戦に対する見積もりを修正していく。後の原子爆弾投下や対日戦略にも、この沖縄戦の消耗は無関係ではないと考えられている。

しかし、日本軍が善戦した事実と、住民が極限状態へ追い込まれた事実は両立する。

軍は住民を陣地構築や補給、看護へ動員し、住民もまた戦場の一部となった。一方で、米軍も「捕虜になった住民が日本軍へ情報を流す可能性」や「日本軍への協力」を警戒し、現場では報復的な射殺や虐待が発生している。戦後長く語られなかった事例も存在し、占領直後の言論統制の影響によって十分に公にならなかった記録も少なくない。

もちろん、すべての米兵がそのような行動を取ったわけではない。同時に、住民保護に努めた部隊も存在した。しかし、最前線では恐怖、疲労、復讐心、誤認が積み重なり、軍紀だけでは抑え切れない暴力が発生したこともまた歴史の一部である。

勝者にも敗者にも都合の悪い事実が存在する。それを切り分けてしまうと、戦争の実像は見えなくなる。

学徒兵の証言が示すように、戦争は終わっても記憶は終わらない。何十年経っても酒を飲めば涙が出る。家族にも説明できない感情だけが残る。それは英雄でも被害者でもなく、一人の人間として戦場を生き延びた者の現実だった。

さらに同じ7月10日には、イェドヴァブネで隣人同士が虐殺し合い、戦後には豪雨や土石流、交通事故によって多くの命が失われている。

歴史を見渡せば、人は敵より自然に殺されることもあり、自然より人間自身に殺されることもある。

7月10日は、そのどちらも並んで存在する日である。

勝者は歴史を書くことができる。しかし、失われた命の数は書き換えられない。

歴史を冷静に眺めるならば、称賛や断罪より先に確認すべきことがある。

人間は制度を作り、軍隊を整備し、最新兵器を開発してきた。それでも最後に戦場を支配するのは、恐怖、疲労、補給、地形、偶然、そして生存本能という、何千年変わらない現実なのである。