kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日7月9日 1945和歌山大空襲、ほか写真wikipedia 空襲後の和歌山市街

7月9日

20260709木曜日旧暦5月25日大安(21番甲申きのえさるコウシン)月齢 24

43番丙午ひのえうま年 32番乙未きのとひつじ月 21番甲申きのえさる日

吉方位 隠遁日 甲申きのえさる日 南 南西 大吉 年末まであと175日

https://ja.wikipedia.org/wiki/7%E6%9C%889%E6%97%A5

7月9日の出来事

551年 – ベイルートで大地震が発生(ベイルート地震 (551年)(英語版))し、壊滅的な津波が発生してビザンチン・フェニキアの沿岸の町々を襲い、数千人の死者を出した。英語版wikipediaには死傷者数万人と記述ある。

869年 – マグニチュード8.4~9.0の三陸地震が日本本州北部の仙台市周辺を襲い、津波による浸水は数キロメートル内陸にまで及んだ。死傷者約1000人。

1401年 – ティムールがジャライル朝を攻撃し、バグダードを破壊。

1615年(慶長20年6月1日)- 江戸で晩雪。夏の雪に驚愕した人々は、本郷(東京都文京区)に富士神社を建立し、富士山の神を祀った[2]。

1755年 – フレンチ・インディアン戦争: モノンガヘラの戦い イギリス軍方面司令官ブラドッグ将軍戦士

約1,460名のうち、456名が戦死し、負傷者は421名 イギリス軍には小間使いや料理女として50名程の女性も従っていたが、約半数が捕虜になるなど帰還したのは4名に過ぎなかった。250名のフランス・カナダ兵は8名が戦死、4名が負傷、637名のインディアン戦士は15名が戦死、12名が負傷であった。

1821年 – ギリシャ独立戦争へのキプロス人の援助に対する報復として、キプリアノス大司教(英語版)を含む著名なキプロス人470人が処刑される。

1864年 – 南北戦争: ポートハドソンの包囲戦が終結。北軍が勝利し、ミシシッピ川を完全に支配。

時             1864年5月21日-7月9日

場所        ルイジアナ州イースト・バトンルージュ郡とイースト・フェリシアナ郡

結果        北軍の勝利

損害  北軍 4万人中 戦死傷10000人 南軍 7500人中 戦死傷1000人 捕虜6500人

1900年 – 華北の山西省の省長が、子供を含む45人の外国人キリスト教宣教師と地元の教会の信者の処刑を命じた(太原虐殺事件)。

1918年 – テネシー州ナッシュビルで、入線していた普通列車が出発していた急行列車と衝突し、101人が死亡、171人が負傷し、米国史上最悪の鉄道事故となった(1918年列車大事故)。

1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 和歌山大空襲。死者行方不明1400程度。

1945年-沖縄戦7月9日・7月9日、米軍の心理戦が効力を発していることを伝える米『ライフ』誌。【訳】日本兵の投降が増加 – 心理作戦が効力を証明する

ジャップの戦陣訓である武士道は降伏を許さない。ゆえに日本の兵士は死ぬまで戦わなければならない。太平洋で自爆的ジャップと戦ったアメリカ人は、武士道が絵空事ではないことを知っている。しかし、過去数週間で、米国の心理戦部隊の紙爆撃が効力を発揮し始めた。米国がその島を奪還してから10か月後のグアムでは、35人の日本人歩兵が壕から出て降伏した。沖縄のための血なまぐさい戦いの最後の日、日本兵はこの戦争で初めて大きな規模で降伏している。より勝る敵軍と闘ったことを考慮しても、沖縄での9,498人の日本兵の捕獲は、硫黄島(1,038人)、サイパン(2,161人)、グアム(524人)、またはタラワ(150人)での以前の戦闘よりも捕虜の著しい増加を示している。捕虜の数が急増しているのは、もう後戻りできないほど敗北が明らかであり、米軍に降伏したとしても殺されることはないということが証明されたことによるものだ。米国のプロパガンダはまた戦争が日本兵の祖国にもたらした酷い状況を強調しており、それ自体が降伏プロパガンダの目的である。

…  日本をプロパガンダのビラや放送で充満させることで、アメリカ人はこれらの妄信の核心を突き崩そうとしている。平均的な日本人の天皇への熱狂的献身を認識したうえで、プロパガンダは民間人と軍階級「グンバツ」との間のくさびを打ち込もうとするものだ。「グンバツ」が日本列島の現在の悲しい状態に主要な責任があることを示すビラ(下)は、日本の歴史の教訓である。それらは、いかに東条のような軍閥が政府のなかに入り込み、外交政策を乱用し、ついに国と皇帝を愚かで血なまぐさい絶望的な戦争へと追いやったかをしめしている。《『ライフ』1945年7月9日 67-68頁 》・米軍は、無数の対住民用のビラを使って心理作戦を行なったが、「住民に告ぐ」というビラでは、要旨、つぎのように述べている。

「アメリカ軍は、支那や日本の内地を攻めるためこの島を使いたいのです。それでアメリカ軍は、マキン、サイパン、パラオ等の島々を日本軍から取ったように軍艦、落下傘部隊、飛行機、戦車、重砲その外皆さんが聞いたこともないような新しい武器を澤山使ってこの島を占領します。アメリカ軍はこの様に恐ろしい武器を持っているばかりでなくまた戦いも非常に上手です(中略)この戦争に関係ない皆さんが無敵な米軍に反対するのは馬鹿らしくありませんか。それよりも早く安全な奥地へ行きなさい。米軍は皆さんとくに女の人や子供たちに日本兵のように無駄な死に方をさせたくない。この島を取りに来ている強い米軍の進む道から逃げなさい」。《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 182-183頁より》・久米島の鹿山隊の隊長は16歳の少女を連れまわし山に引きこもりながら次々と住民を虐殺。そんななか住民は、下山するな、と命じる鹿山隊と、里にもどって耕作せよという駐留米軍との板挟みに置かれた。<引用先原文>・渡久地昇永さん「ここで生きる生活ができるのかなと思ったんですよ。」沖縄戦の組織的戦闘が終わった6月23日以降も、およそ5か月間にわたり捕虜生活は続き、深刻な食糧不足と恐ろしい熱病マラリアに襲われ、1日4〜5人の死者を出すこともあったといいます。「死体をね、箱に入れるんでもないよ。山から竹を切ってきて、それを編んでこれの上に乗せて、4人でかついでいったんです。(土にそのまま)埋めるんですよ。」地上戦を生き抜いたにもかかわらず、大浦崎収容所で、無念にも命を奪われていった人たちの遺骨収集は未だ、行われていません。<戦後70年 遠ざかる記憶 近づく足音 辺野古大浦崎収容所で生まれた医師 – QAB NEWS>

2006年 – S7航空778便着陸失敗事故。現場                 ロシアの旗 ロシア・イルクーツク国際空港 死亡125人 生存78人。

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551年 – ベイルートで大地震が発生(ベイルート地震 (551年)(英語版))し、壊滅的な津波が発生してビザンチン・フェニキアの沿岸の町々を襲い、数千人の死者を出した。英語版wikipediaには死傷者数万人と記述ある。

869年 – マグニチュード8.4~9.0の三陸地震(貞観地震)が日本本州北部の仙台市周辺を襲い、津波による浸水は数キロメートル内陸にまで及んだ。死傷者約1000人。

1615年(慶長20年6月1日)- 江戸で晩雪。夏の雪に驚愕した人々は、本郷(東京都文京区)に富士神社を建立し、富士山の神を祀った[2]。

1755年 – フレンチ・インディアン戦争: モノンガヘラの戦い イギリス軍方面司令官ブラドッグ将軍戦士

約1,460名のうち、456名が戦死し、負傷者は421名 イギリス軍には小間使いや料理女として50名程の女性も従っていたが、約半数が捕虜になるなど帰還したのは4名に過ぎなかった。250名のフランス・カナダ兵は8名が戦死、4名が負傷、637名のインディアン戦士は15名が戦死、12名が負傷であった。

ベンジャミン・フランクリンは、ブラドック将軍の部隊のために荷馬車と輓馬を集めるのに協力を求める勧告文を書いた。しかし馭者が逃亡し兵士たちも馬を外して乗って逃げるなどしたため荷馬車は置き去りにされるか焼かれることになった。このためフランクリンは荷馬車の持ち主に責められかなりの賠償金を立て替えねならなくなった。彼はブラドックに狭い谷を抜けて行軍すると待ち伏せに遭う可能性があり危険だと警告したが正規兵の力に自信を持つ将軍からは相手にされなかった。

1821年 – ギリシャ独立戦争へのキプロス人の援助に対する報復として、キプリアノス大司教(英語版)を含む著名なキプロス人470人が処刑される。

1864年 – 南北戦争: ポートハドソンの包囲戦が終結。北軍が勝利し、ミシシッピ川を完全に支配。

時             1864年5月21日-7月9日

場所        ルイジアナ州イースト・バトンルージュ郡とイースト・フェリシアナ郡

結果        北軍の勝利

損害  北軍 4万人中 戦死傷10000人 南軍 7500人中 戦死傷1000人 捕虜6500人

ポートハドソンの包囲戦(ポートハドソンのほういせん、英:Siege of Port Hudson)は南北戦争の1863年5月21日から7月9日まで、ルイジアナ州のミシシッピ川の町ポートハドソンを北軍が襲い、包囲した戦闘である。

北軍ナサニエル・バンクスの軍隊は、ユリシーズ・グラント少将によるビックスバーグの包囲戦と協調して、ミシシッピ川のポートハドソンにある南軍の要塞に対して侵攻した。北軍は1863年5月27日の正面攻撃に失敗した後で、包囲戦を布き、48日間続いた。バンクスは6月14日にも再度攻撃したが守備隊に撃退された。7月9日、ビックスバーグ陥落の報に接した南軍守備隊はポートハドソンの降伏を飲み、ミシシッピ川はそのニューオーリンズの河口から北軍の航行が全て可能になった[2]。

1900年 – 華北の山西省の省長が、子供を含む45人の外国人キリスト教宣教師と地元の教会の信者の処刑を命じた(太原虐殺事件)。

1918年 – テネシー州ナッシュビルで、入線していた普通列車が出発していた急行列車と衝突し、101人が死亡、171人が負傷し、米国史上最悪の鉄道事故となった(1918年列車大事故)。

事故概要

ナッシュビル発メンフィス行き列車が、約30分遅れで走っていたメンフィス発の列車と単線区間(ダッチマンズ・カーブとして知られていた)で正面衝突し、101人が死亡、171人が負傷した。アメリカ最悪の鉄道事故とされているが、同年11月にニューヨーク市ブルックリン区で起きたマルボーン・ストリート鉄道事故の推定死亡者数(93~102人)と重なっている[1]。当時事故現場は市内のダウンタウン西部に属していたが、現在ベル・ミードに属している。

州際通商委員会 (以下、ICCと記す) は調査の結果、いくつかの要因に起因すると結論を出したが、特に第4列車の乗務員と信号扱い手が起こした重大なエラー(第1列車がどこにいるのか把握していなかった)によると推定した。また、ICCは列車の位置を正確に把握するシステムの欠如を指摘し、木造車が死者を大幅に増加させたと言及した。

1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 和歌山大空襲。死者行方不明1400程度。

和歌山大空襲(わかやまだいくうしゅう)は、第二次世界大戦中アメリカ軍により行われた和歌山に対する一連の空襲の通称。規模が最も大きい1945年7月9日深夜から7月10日未明にかけて行われた和歌山県和歌山市中心部への空襲(戦略爆撃)を指すことが多い。

市民は4,000坪の空き地になっていた旧和歌山県庁舎跡(現:汀公園)に避難していたが、そこを火災による熱風が襲ったため、そこだけで748人もの死者を出してしまった[2]。また城北橋や中橋の下にあたる、市堀川の水中に逃げ込んだ者もいたが、満潮時であり多数の死者を出した。

翌7月10日1時48分に爆撃は終了し、2時30分頃にはB-29は潮岬上空から南方洋上へ去っていった。3時25分に空襲警報は解除された。

戦後、汀公園と城北橋付近には供養塔が、中橋付近には地蔵尊が建立されている

被害

死者 – 1,208人

重傷者 – 1,560人

軽傷者 – 3,000人

行方不明者 – 216人

被災者 – 113,548人

焼失家屋 – 31,137戸

(7月16日の内務省警報局宛報告による)

アメリカ軍の記録には「和歌山市の建物密集地4平方マイルのうち52.5%を破壊。焼夷弾800.3トンを使用した」とあり、B-29搭乗員の記録にも「何回も大きな爆発と共に、いくつもの白い閃光が発生し、爆撃目標地点上空では乱気流が発生した。20,000フィートにも達する煙の柱をともなう猛烈な火災が全市で発生した」とあり、空襲の凄まじさが窺える。なお、死者数は1101人とする説[2]、1400人とする説もある[1]。

著名な被災者

ジャニー喜多川 – ジャニーズ事務所創業者・社長[3]

メリー喜多川 – ジャニーズ事務所名誉会長。

1945年-沖縄戦7月9日・7月9日、米軍の心理戦が効力を発していることを伝える米『ライフ』誌。【訳】日本兵の投降が増加 – 心理作戦が効力を証明する

ジャップの戦陣訓である武士道は降伏を許さない。ゆえに日本の兵士は死ぬまで戦わなければならない。太平洋で自爆的ジャップと戦ったアメリカ人は、武士道が絵空事ではないことを知っている。しかし、過去数週間で、米国の心理戦部隊の紙爆撃が効力を発揮し始めた。米国がその島を奪還してから10か月後のグアムでは、35人の日本人歩兵が壕から出て降伏した。沖縄のための血なまぐさい戦いの最後の日、日本兵はこの戦争で初めて大きな規模で降伏している。より勝る敵軍と闘ったことを考慮しても、沖縄での9,498人の日本兵の捕獲は、硫黄島(1,038人)、サイパン(2,161人)、グアム(524人)、またはタラワ(150人)での以前の戦闘よりも捕虜の著しい増加を示している。捕虜の数が急増しているのは、もう後戻りできないほど敗北が明らかであり、米軍に降伏したとしても殺されることはないということが証明されたことによるものだ。米国のプロパガンダはまた戦争が日本兵の祖国にもたらした酷い状況を強調しており、それ自体が降伏プロパガンダの目的である。

…  日本をプロパガンダのビラや放送で充満させることで、アメリカ人はこれらの妄信の核心を突き崩そうとしている。平均的な日本人の天皇への熱狂的献身を認識したうえで、プロパガンダは民間人と軍階級「グンバツ」との間のくさびを打ち込もうとするものだ。「グンバツ」が日本列島の現在の悲しい状態に主要な責任があることを示すビラ(下)は、日本の歴史の教訓である。それらは、いかに東条のような軍閥が政府のなかに入り込み、外交政策を乱用し、ついに国と皇帝を愚かで血なまぐさい絶望的な戦争へと追いやったかをしめしている。《『ライフ』1945年7月9日 67-68頁 》・米軍は、無数の対住民用のビラを使って心理作戦を行なったが、「住民に告ぐ」というビラでは、要旨、つぎのように述べている。

「アメリカ軍は、支那や日本の内地を攻めるためこの島を使いたいのです。それでアメリカ軍は、マキン、サイパン、パラオ等の島々を日本軍から取ったように軍艦、落下傘部隊、飛行機、戦車、重砲その外皆さんが聞いたこともないような新しい武器を澤山使ってこの島を占領します。アメリカ軍はこの様に恐ろしい武器を持っているばかりでなくまた戦いも非常に上手です(中略)この戦争に関係ない皆さんが無敵な米軍に反対するのは馬鹿らしくありませんか。それよりも早く安全な奥地へ行きなさい。米軍は皆さんとくに女の人や子供たちに日本兵のように無駄な死に方をさせたくない。この島を取りに来ている強い米軍の進む道から逃げなさい」。《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 182-183頁より》・久米島の鹿山隊の隊長は16歳の少女を連れまわし山に引きこもりながら次々と住民を虐殺。そんななか住民は、下山するな、と命じる鹿山隊と、里にもどって耕作せよという駐留米軍との板挟みに置かれた。<引用先原文>・渡久地昇永さん「ここで生きる生活ができるのかなと思ったんですよ。」沖縄戦の組織的戦闘が終わった6月23日以降も、およそ5か月間にわたり捕虜生活は続き、深刻な食糧不足と恐ろしい熱病マラリアに襲われ、1日4〜5人の死者を出すこともあったといいます。「死体をね、箱に入れるんでもないよ。山から竹を切ってきて、それを編んでこれの上に乗せて、4人でかついでいったんです。(土にそのまま)埋めるんですよ。」地上戦を生き抜いたにもかかわらず、大浦崎収容所で、無念にも命を奪われていった人たちの遺骨収集は未だ、行われていません。<戦後70年 遠ざかる記憶 近づく足音 辺野古大浦崎収容所で生まれた医師 – QAB NEWS>

2006年 – S7航空778便着陸失敗事故。現場                 ロシアの旗 ロシア・イルクーツク国際空港 死亡125人 生存78人。

チャットgpt先生の7月8日のエッセイ

7月9日――歴史は「勝敗」よりも「限界」を記録する

7月9日という日は、歴史を眺めると華々しい勝利の日というより、人間や国家が限界に直面した日として現れる。

551年のベイルート地震、869年の貞観地震は、文明がどれほど発達していても巨大自然災害の前では無力であることを示した。港町や都市は一瞬で壊滅し、津波は人々の予想をはるかに超えて内陸へ達した。現代人は科学技術を信頼しているが、歴史を振り返れば自然は何度もその過信を打ち砕いてきた。

1755年のモノンガヘラの戦いも興味深い。正規軍として世界屈指だったイギリス軍は、整然とした欧州式戦術を北米の森林へ持ち込んだ。しかし地形を熟知したフランス軍とインディアン部隊の待ち伏せにより壊滅的打撃を受ける。兵力や装備だけでは勝敗は決まらない。戦場は常に、その土地に適応した側へ味方するという現実を示した戦いだった。事前に危険を警告したベンジャミン・フランクリンの助言が退けられたことも、組織が成功体験に縛られる典型例である。

南北戦争のポートハドソン包囲戦では、北軍は最終的に勝利したものの、圧倒的兵力を投入しながら一か月半以上苦戦した。要塞戦では攻撃側が守備側より何倍もの犠牲を払うことは珍しくなく、物量がそのまま短期決着には結びつかないことを示している。勝利しても高い代償を払えば、それは必ずしも「楽な勝利」ではない。

1918年のナッシュビル列車衝突事故は、人間の判断ミスと情報伝達の欠陥が大惨事を生む典型だった。当時の調査でも、列車位置を正確に把握する仕組みの欠如が最大の問題とされた。巨大事故の原因は、劇的な故障よりも、小さな確認不足が積み重なって起きることが少なくない。

1945年7月9日の和歌山大空襲は、日本本土空襲の中でも極めて大規模な火災被害を生んだ。避難場所と考えられていた広場が火災旋風に襲われ、多数の市民が犠牲となった。都市爆撃は軍需施設だけでなく、市街地そのものを戦場へ変えてしまう。都市防空の限界が露わになった事例である。

同じ頃の沖縄戦では、米軍は島を占領したものの、その代償は極めて大きかった。物量では圧倒していたにもかかわらず、日本軍は地下陣地を主体とした持久戦へ移行し、従来の上陸作戦とは比較にならない損害を米軍へ与えた。米軍は艦砲射撃、航空攻撃、火炎放射器、戦車、工兵を総動員しても一つ一つの陣地を攻略するしかなく、「物量さえあれば容易に勝てる」という戦争観は沖縄では通用しなかった。

米軍の心理戦もこの時期に本格化した。ビラや放送によって日本兵や住民へ投降を呼びかけ、降伏しても殺害されないことを繰り返し伝えた。『ライフ』誌の記事は、その成果を積極的に紹介している。ただし、これは戦時下の米国メディアであり、心理戦の効果を強調する意図を含んでいたことも考慮する必要がある。一方で、日本側も戦陣訓や軍紀、情報統制の影響から降伏を極端に忌避する空気が存在していたことは、多くの史料が示している。

また、戦後長く続いた占領下では、GHQのプレスコードにより占領政策への批判や連合国に不都合な報道は制限された。そのため戦後の日本社会では、米軍の心理戦や情報戦、あるいは住民統治について語られにくかった側面もある。しかし逆に、すべてをプレスコードだけで説明することもできない。近年は日米双方の公文書や証言が公開され、軍命、住民避難、心理戦、捕虜政策などを多角的に検証できるようになっている。現実の沖縄戦は、「日本軍だけが悪かった」「米軍だけが悪かった」という単純な構図ではなく、総力戦という極限状態で双方が軍事合理性を追求し、その結果として住民が極めて大きな犠牲を負った戦場だった。

2006年のS7航空778便事故もまた、着陸後という「終わったはず」の段階で発生した惨事である。事故は離陸や空中だけで起きるわけではなく、最後まで緊張が続くことを示した。

7月9日の歴史を並べると、一つの共通点が見えてくる。それは、人間は勝利や技術を積み重ねても、自然、地形、情報、組織、そして戦争という複雑な現実の前では何度も想定外に直面してきたということである。

歴史は英雄譚よりも、過信が崩れた瞬間を数多く記録している。そして、その記録を冷静に読むことこそが、現実を理解するための最も確かな手掛かりになるのである。