kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日6月17日 1945鹿児島大空襲ほか、写真wikipedia焼け野原の市街地

6月17日

20260617水曜日旧暦5月3日先勝(59番壬戌みずのえいぬジンジュツ)月齢 2

43番丙午ひのえうま年 31番甲午きのえうま月 59番壬戌みずのえいぬ日

吉方位 陽遁日 壬戌みずのえいぬ日 東 大吉 年末まであと197日

https://ja.wikipedia.org/wiki/6%E6%9C%8817%E6%97%A5

6月17日の出来事

362年 – ローマ皇帝ユリアヌスがキリスト教徒を教師・高官などの職から追放。

1565年(永禄8年5月19日) – 三好三人衆らが室町幕府13代将軍足利義輝を襲撃し殺害(永禄の変)。

1775年 – アメリカ独立戦争: バンカーヒルの戦い。

戦争:アメリカ独立戦争

年月日:1775年6月17日

場所:チャールズタウン

結果:イギリス軍のピュロスの勝利[1][2]

損害:大陸軍2400人中 戦死傷450人 イギリス軍3000人中 戦死傷1054人

1885年 – 自由の女神像がフランスからニューヨークに届く[1]。

1939年 – フランスでジュール=アンリ・デフルノーにより殺人犯オイゲン・ヴァイトマンのギロチンによる処刑が行われる。フランスで史上最後の公開処刑となる。

1940年 – 第二次世界大戦: エアリアル作戦に使用されていた客船「ランカストリア」がドイツ国防軍のJu 88爆撃機の攻撃を受け沈没。約4,000人が死亡。

1945年 – 第二次世界大戦: 日本本土空襲: 鹿児島大空襲。死者2,316人、負傷者3,500人

1945年-沖縄戦6月17日:米軍:・5月末までに、沖縄本島と伊江島に建設中の爆撃機用ならびに戦闘機用滑走路は、10本。このうち、完成の間近なのは、読谷と嘉手納飛行場、それに伊江島の、それぞれ1本ずつであった。沖縄でつくられた米軍最初の滑走路は、読谷にできた長さ2100メートルの中距離爆撃機用で、6月17日に完成された。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 446頁より》・標高900Mの山が連なる本島北部。沖縄戦ではこのやんばるの森に2,000人余りの日本兵と数万人の住民が身を潜めましたアメリカ軍は首里方面での戦いに精力を注ぐため北部の早期の制圧を目指していました。その時使われたのが日本兵や住民に投降を呼びかけるビラでした。航空機からビラを大量に撒いたのです。アメリカ軍は様々な種類のビラを用意していました。「米軍は皆さんの友達です。」「皆さんのために十分な食料を準備してあります。」4月10日までの4日間で37万5千枚ものビラが撒かれていたことがアメリカ軍の内部資料で分かっています。一方、日本軍の司令部が北部の部隊に送った文章にはビラに強い危機感が示されていました。ビラが繰り返し巻かれれば住民に影響を及ぼしかねないと指摘。これを防ぐためアメリカ軍に対する住民の敵意を高めるよう部隊に指示していたのです。<NHK ドキュメント沖縄戦 (8)北部と収容所>・…米軍は、6月13日から17日まで5日間も攻略戦を続行したが、それはあたかも狩にも似たようなものだった。戦車群はいつものように歩兵の先に進んで、砲弾と機関銃弾をたえまなく撃ち込み、弾丸に当たって砕けた岩石が、粉となって飛び散った。

戦場は火炎砲戦車隊があばれまわるには、あつらえむきにできていた。戦車隊は、洞窟、岩の裂け目、あるいは灌木の生い茂ったところを求めて、火炎を放射し、あるいは日本兵を見つけては、これを殺したり、または機関銃弾の河のなかに彼らを追いやった。5日間の戦闘で、第713火炎装甲車大隊は、3万7千ガロン以上の〝燃えるガソリン〟を日本軍陣地めがけて流し込んだ。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 497頁より》:日本軍:・八原高級参謀の回想:

6月17日、敵将シモン・バックナー中将からの牛島将軍宛ての降伏勧告文が、第1線の手を経て司令部に届いた。その文意は次の通りであった。

「歩兵戦術の大家である牛島将軍よ。予もまた歩兵出身の指揮官である。貴官が孤立無援のこの島で、劣勢な兵力を率いて、長期にわたり善戦されたことに対し、予始めわが軍将兵は称賛措くあたわざるものである。さりながら、今や戦勢は決定した。この上惨虐な戦闘を継続し、有為な多数の青年を犠牲にするのは、真に忍び得ないし、また無益である。人格高潔な将軍よ。速やかに戦いを止め、人命を救助せられよ。明12日摩文仁海岸沖の軍艦上に、当方の軍使を待機せしめむべきをもって貴軍においても軍使5名を選び、白旗を持たせ、同海岸に差し出されよ」

すでに期日の過ぎ去ってしまったバックナー将軍の提議である。もちろん、多年の伝統に培われた日本将兵である。誰も真面目にこの提案を考える者はない。牛島将軍は、「いつの間にか、俺も歩兵戦術の大家にされてしまったな」と破顔一笑されてしまった。《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 409頁より》・日本軍の勢力が、最初に弱くなったと思われだしたのは、16日、第7海兵連隊が全戦線でいくらか進撃できてからであった。第2大隊は、17日の未明に、第22海兵連隊と交替し、この比較的新鮮な第22連隊が、17日にはかなり進撃して、日本軍の抗戦力もほとんどなくなった。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 494頁より》・部隊としての独混第44旅団は、その本部のある具志頭の第115高地が、米軍に攻略されたとき逃れ得たもの、わずか数名という悲惨さであった。第62師団に編成された兵も、第89高地の師団本部を、まもりとおすことはできなかった。第24師団の兵員400人、これは第32連隊の生き残り全部であったが、国吉丘陵付近で、あちこちの洞窟に身をひそめ、戦場が南に移動してしまうまで、ずっとそこにいた。残りは153高地の南西1キロもはなれていない真栄平村落近くの本部に退いた。

153高地が、第17歩兵連隊の手におちて数時間後、牛島中将は文書による、つぎのような命令を出した。

「153高地は全軍の運命を託した重要な地点である。この高地が看過され、たびたび命令書をださねばならぬとは本軍司令官の誠に遺憾とするところである」

中将は、1大隊に同高地を朝までにふたたび確保せよと命令を下した。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 498頁より》・6月17日だったと思います。隊長が兵を集めて、『総斬り込みを行う』と告げましてね。… 決死の総斬り込みに向かう直前、洲本市出身の陸軍兵○○さんは隊長に呼び止められる。たばこを1本。そして特別な任務を命じられた。「全部、後始末しろ」

命令を言い渡した隊長は数十人の部隊を引き連れ、陣地を出て行った。残されたのは1班の4人。片山さんとフクダという初年兵、現地で召集された学生と防衛隊の隊員。階級は片山さんが一番上だった。すぐに「後始末」の意味を理解した。

「集落の外れに、負傷兵を集めた小屋があったんです。僕はそこへ行って、手りゅう弾を投げ込みました。小屋の中に何人おったか、生きとったか死んどったか、なんも分からんです。とにかくアメリカに捕まって、情報を流されたらあかん。そういうことです … けがをしたら治療はないんです。誰も助けてくれへん。ついて来れるならついて来い、ついて来れへんかったら、そこでおしまい。それが沖縄戦でした」<玉砕せよ~沖縄戦~ 具志頭でのできごと – Battle of Okinawa>

1945年(昭和20年) 6月17日、歩兵第22連隊 沖縄戦にて連隊長以下玉砕する。

6月17日、真栄里に、奇しくも同名の敵部隊、アメリカ海兵隊第22連隊が侵攻する。敵に包囲され絶体絶命の22連隊長吉田勝大佐から、最前線で戦闘する小城大尉への最後の命令は、『22連隊は最後まで戦う。小城大尉の幸運を祈る。』であった。真栄里73高地の22連隊本部洞窟陣地に爆薬が投げ込まれ、22連隊の本部全員が戦死した。また、与座岳に派遣されていた22連隊第3大隊と独立臼砲第1連隊も全滅したと推定される。同日、アメリカ軍沖縄攻略部隊司令官サイモン・B・バックナー中将は、第32軍司令官牛島満中将に降伏勧告を行った。

1981年 – 東京都江東区で覚醒剤を常用した男が主婦や幼児ら4人を殺害(深川通り魔殺人事件)。

2008年 – 東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の犯人、宮崎勤の死刑を執行[5] 。

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362年 – ローマ皇帝ユリアヌスがキリスト教徒を教師・高官などの職から追放。

1565年(永禄8年5月19日) – 三好三人衆らが室町幕府13代将軍足利義輝を襲撃し殺害(永禄の変)。

永禄の変(えいろくのへん)は、永禄8年5月19日(1565年6月17日)、室町幕府13代将軍足利義輝が、三好義継・松永久通らの軍勢によって京都二条御所に襲撃され、殺害された事件である。永禄の政変と呼称されることもある[注釈 1]。なお、松永久秀も事件の主導者の一人とする記述が従来多く見られるが、実際に事件に参加したのは息子の久通であり、事件当時、久秀は大和国にいたため、関与はしていない[4]。

戦力

三好勢 10000 対 幕府勢 数百

損害  

三好勢 微小    幕府勢 全滅    

1775年 – アメリカ独立戦争: バンカーヒルの戦い

戦争:アメリカ独立戦争

年月日:1775年6月17日

場所:チャールズタウン

結果:イギリス軍のピュロスの勝利[1][2]

損害:大陸軍2400人中 戦死傷450人 イギリス軍3000人中 戦死傷1054人

バンカーヒルの戦い(バンカーヒルのたたかい、英: Battle of Bunker Hill)は、アメリカ独立戦争初期、ボストン包囲戦中の1775年6月17日に起こった大陸軍とイギリス軍の戦闘である。大陸軍はイズラエル・パットナム将軍が、イギリス軍はウィリアム・ハウ将軍が指揮を執った。この戦いは両軍の当初の目標でチャールズタウンの近くにある「バンカーヒル」という名で知られているが、主戦場は隣の山で後にBreed’s Hillと呼ばれた場所である[7][8]。

1775年6月13日、ボストンを包囲していた大陸軍の指導者達は、イギリス軍がボストン市内から出撃し、市を取り囲んでいて当時占領されていない丘を占領して要塞化する作戦を立案中である、と言う情報を手に入れた。これらの丘を占領すると、ボストン港はイギリス軍の支配下に入ることになる。この情報に反応してウィリアム・プレスコットの指揮する1,200名の部隊が密かにバンカーヒルとブリーズヒルを占領した。その夜、プレスコットの部隊はブリーズヒルに土盛りの堡塁を造り、チャールズタウン半島の大半にわたる、軽く防御を施した前線を築き上げた[9]。

6月17日の黎明、イギリス軍は新しい陣地の出現を関知、攻撃した。大陸軍の前線に対する攻撃ははじめの2回が大きな損失を出して撃退されたが、3回目には堡塁の大陸軍の弾薬が尽きていたためその陣地を占領することができた。大陸軍はバンカーヒルを越えてケンブリッジまで撤退、半島の支配はイギリス軍に明け渡した[10]。

戦闘はイギリスの戦術的勝利に終わったが、それはピュロスの勝利だった。というのも、イギリス軍の損害は多くの士官を含む上に大陸軍より多く、また経験不足な民兵が戦闘で正規軍に渡り合えることが証明された。そのため、この戦闘以降はイギリス軍が守備の堅い防御線への攻撃を控えるようになった。大陸軍の損害はイギリス軍のそれよりはるかに少なかったが、ジョセフ・ウォーレン将軍と本戦闘における最後の死者であるアンドリュー・マクレアリ(英語版)が含まれている[11]。戦闘後、イギリス軍のヘンリー・クリントン将軍は、「このような勝利を繰り返していたら、イギリスのアメリカ支配は終わってしまう」と日記に記している。大陸軍のイズラエル・パットナム将軍か、彼の副官のウィリアム・プレスコットか、あるいは他の誰かが「敵の目の白い所が見えるまでは撃つな」と命令したというが、この命令を誰が発したかについて歴史家の中で結論が出ていない。

1885年 – 自由の女神像がフランスからニューヨークに届く[1]。

銅製だが、緑青のために緑色になっている。像の頭の部分までの高さは33.86メートル(111.1フィート)、台座からトーチ(たいまつ)までの高さは46.05メートル(151.1フィート)、台座の高さは47メートル(153フィート)、台座部分も含めると93メートル(305.1フィート)、総重量は225トンである。

右手には炎を純金張りで象られたたいまつを空高く掲げ、左手にはアメリカ合衆国の独立記念日である「1776年7月4日」とローマ数字で刻印された銘板を持っている。

足元には引きちぎられた鎖と足かせがあり、全ての弾圧、抑圧からの解放と、人類は皆自由で平等であることを象徴している。女神がかぶっている冠には七つの突起がある。これは、七つの大陸と七つの海に自由が広がるという意味である。

また「女神」である由来は、フランス語で「自由」を表す名詞 “la Liberté” が女性名詞であることにある[2]。

自由の女神像はフランス系フリーメイソンリーとアメリカ系フリーメイソンリーの間に交わされた贈り物であった。台座の記念盤には以下の文言が刻まれている[4][5]。

「            

AT THIS SITE ON AUGUST 5TH, 1884, THE CORNERSTONE OF THE PEDESTAL OF THE STATUE OF “LIBERTY ENLIGHTENING THE WORLD” WAS LAID WITH CEREMONY BY WILLIAM A. BRODIE, GRAND MASTER OF MASONS IN THE STATE OF NEW YORK. GRAND LODGE MEMBERS, REPRESENTATIVES OF THE UNITED STATES AND FRENCH GOVERNMENTS, ARMY AND NAVY OFFICERS, MEMBERS OF FOREIGN LEGATIONS, AND DISTINGUISHED CITIZENS WERE PRESENT. THIS PLAQUE IS DEDICATED BY THE MASONS OF NEW YORK IN COMMEMORATION OF THE 100TH ANNIVERSARY OF THAT HISTORIC EVENT.

仮訳:

(この地にて1884年8月5日、「世界を照らす自由の女神」の像の台座の礎石は、ニューヨーク州

メイソン団のグランド・マスター、ウィリアム・A・ブロディーによる式典とともに設置された。

グランド・ロッジの構成員ら、合衆国およびフランスの政府の代表ら、陸軍および

海軍の将校ら、諸外国の使節団の構成員ら、ならびに名高い市民らが参列した。この銘盤はかの

歴史的事件の第100周年を記念してニューヨークのメイソン団により捧げられる。)

1939年 – フランスでジュール=アンリ・デフルノーにより殺人犯オイゲン・ヴァイトマンのギロチンによる処刑が行われる。フランスで史上最後の公開処刑となる。

オイゲン・ヴァイトマン(Eugen Weidmann, 1908年2月5日 – 1939年6月17日)は、ドイツ生まれの連続殺人者。フランス本国における史上最後の公開処刑で、ギロチンにかけられた。

強盗殺人犯 被害者5人 31歳没

1940年 – 第二次世界大戦: エアリアル作戦に使用されていた客船「ランカストリア」がドイツ国防軍のJu 88爆撃機の攻撃を受け沈没。約4,000人が死亡。

1945年 – 第二次世界大戦: 日本本土空襲: 鹿児島大空襲。死者2,316人、負傷者3,500人

鹿児島大空襲(かごしまだいくうしゅう)は、第二次世界大戦末期にアメリカ軍によって行われた、鹿児島県鹿児島市と周辺に対して行われた都市無差別爆撃の総称。鹿児島市に対する空襲は1945年(昭和20年)の3月から8月にかけて8回行われており、合計で死者3,329人、負傷者4,633人の被害を出した[1]。

鹿児島市に対する空襲の中では同年6月17日に行われた空襲は鹿児島市内一辺に対して行われ死者2,316人、負傷者3,500人となり、最大の被害を与えた[1]。

1945年-沖縄戦6月17日:米軍:・5月末までに、沖縄本島と伊江島に建設中の爆撃機用ならびに戦闘機用滑走路は、10本。このうち、完成の間近なのは、読谷と嘉手納飛行場、それに伊江島の、それぞれ1本ずつであった。沖縄でつくられた米軍最初の滑走路は、読谷にできた長さ2100メートルの中距離爆撃機用で、6月17日に完成された。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 446頁より》・標高900Mの山が連なる本島北部。沖縄戦ではこのやんばるの森に2,000人余りの日本兵と数万人の住民が身を潜めましたアメリカ軍は首里方面での戦いに精力を注ぐため北部の早期の制圧を目指していました。その時使われたのが日本兵や住民に投降を呼びかけるビラでした。航空機からビラを大量に撒いたのです。アメリカ軍は様々な種類のビラを用意していました。「米軍は皆さんの友達です。」「皆さんのために十分な食料を準備してあります。」4月10日までの4日間で37万5千枚ものビラが撒かれていたことがアメリカ軍の内部資料で分かっています。一方、日本軍の司令部が北部の部隊に送った文章にはビラに強い危機感が示されていました。ビラが繰り返し巻かれれば住民に影響を及ぼしかねないと指摘。これを防ぐためアメリカ軍に対する住民の敵意を高めるよう部隊に指示していたのです。<NHK ドキュメント沖縄戦 (8)北部と収容所>・…米軍は、6月13日から17日まで5日間も攻略戦を続行したが、それはあたかも狩にも似たようなものだった。戦車群はいつものように歩兵の先に進んで、砲弾と機関銃弾をたえまなく撃ち込み、弾丸に当たって砕けた岩石が、粉となって飛び散った。

戦場は火炎砲戦車隊があばれまわるには、あつらえむきにできていた。戦車隊は、洞窟、岩の裂け目、あるいは灌木の生い茂ったところを求めて、火炎を放射し、あるいは日本兵を見つけては、これを殺したり、または機関銃弾の河のなかに彼らを追いやった。5日間の戦闘で、第713火炎装甲車大隊は、3万7千ガロン以上の〝燃えるガソリン〟を日本軍陣地めがけて流し込んだ。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 497頁より》:日本軍:・八原高級参謀の回想:

6月17日、敵将シモン・バックナー中将からの牛島将軍宛ての降伏勧告文が、第1線の手を経て司令部に届いた。その文意は次の通りであった。

「歩兵戦術の大家である牛島将軍よ。予もまた歩兵出身の指揮官である。貴官が孤立無援のこの島で、劣勢な兵力を率いて、長期にわたり善戦されたことに対し、予始めわが軍将兵は称賛措くあたわざるものである。さりながら、今や戦勢は決定した。この上惨虐な戦闘を継続し、有為な多数の青年を犠牲にするのは、真に忍び得ないし、また無益である。人格高潔な将軍よ。速やかに戦いを止め、人命を救助せられよ。明12日摩文仁海岸沖の軍艦上に、当方の軍使を待機せしめむべきをもって貴軍においても軍使5名を選び、白旗を持たせ、同海岸に差し出されよ」

すでに期日の過ぎ去ってしまったバックナー将軍の提議である。もちろん、多年の伝統に培われた日本将兵である。誰も真面目にこの提案を考える者はない。牛島将軍は、「いつの間にか、俺も歩兵戦術の大家にされてしまったな」と破顔一笑されてしまった。《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 409頁より》・日本軍の勢力が、最初に弱くなったと思われだしたのは、16日、第7海兵連隊が全戦線でいくらか進撃できてからであった。第2大隊は、17日の未明に、第22海兵連隊と交替し、この比較的新鮮な第22連隊が、17日にはかなり進撃して、日本軍の抗戦力もほとんどなくなった。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 494頁より》・部隊としての独混第44旅団は、その本部のある具志頭の第115高地が、米軍に攻略されたとき逃れ得たもの、わずか数名という悲惨さであった。第62師団に編成された兵も、第89高地の師団本部を、まもりとおすことはできなかった。第24師団の兵員400人、これは第32連隊の生き残り全部であったが、国吉丘陵付近で、あちこちの洞窟に身をひそめ、戦場が南に移動してしまうまで、ずっとそこにいた。残りは153高地の南西1キロもはなれていない真栄平村落近くの本部に退いた。

153高地が、第17歩兵連隊の手におちて数時間後、牛島中将は文書による、つぎのような命令を出した。

「153高地は全軍の運命を託した重要な地点である。この高地が看過され、たびたび命令書をださねばならぬとは本軍司令官の誠に遺憾とするところである」

中将は、1大隊に同高地を朝までにふたたび確保せよと命令を下した。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 498頁より》・6月17日だったと思います。隊長が兵を集めて、『総斬り込みを行う』と告げましてね。… 決死の総斬り込みに向かう直前、洲本市出身の陸軍兵○○さんは隊長に呼び止められる。たばこを1本。そして特別な任務を命じられた。「全部、後始末しろ」

命令を言い渡した隊長は数十人の部隊を引き連れ、陣地を出て行った。残されたのは1班の4人。片山さんとフクダという初年兵、現地で召集された学生と防衛隊の隊員。階級は片山さんが一番上だった。すぐに「後始末」の意味を理解した。

「集落の外れに、負傷兵を集めた小屋があったんです。僕はそこへ行って、手りゅう弾を投げ込みました。小屋の中に何人おったか、生きとったか死んどったか、なんも分からんです。とにかくアメリカに捕まって、情報を流されたらあかん。そういうことです … けがをしたら治療はないんです。誰も助けてくれへん。ついて来れるならついて来い、ついて来れへんかったら、そこでおしまい。それが沖縄戦でした」<玉砕せよ~沖縄戦~ 具志頭でのできごと – Battle of Okinawa>

1945年(昭和20年) 6月17日、歩兵第22連隊 沖縄戦にて連隊長以下玉砕する。

6月17日、真栄里に、奇しくも同名の敵部隊、アメリカ海兵隊第22連隊が侵攻する。敵に包囲され絶体絶命の22連隊長吉田勝大佐から、最前線で戦闘する小城大尉への最後の命令は、『22連隊は最後まで戦う。小城大尉の幸運を祈る。』であった。真栄里73高地の22連隊本部洞窟陣地に爆薬が投げ込まれ、22連隊の本部全員が戦死した。また、与座岳に派遣されていた22連隊第3大隊と独立臼砲第1連隊も全滅したと推定される。同日、アメリカ軍沖縄攻略部隊司令官サイモン・B・バックナー中将は、第32軍司令官牛島満中将に降伏勧告を行った。

1981年 – 東京都江東区で覚醒剤を常用した男が主婦や幼児ら4人を殺害(深川通り魔殺人事件)。

深川通り魔殺人事件(ふかがわとおりまさつじんじけん)とは、1981年(昭和56年)6月17日に東京都江東区森下二丁目(深川地域)の商店街路上で発生した通り魔殺人(無差別殺人)事件[4]。

覚醒剤を濫用していた元寿司店員の男が職に就けず、生活に行き詰まったことを「自分を解雇したり、採用を見送ったりする寿司店経営者たちのせいだ」と逆恨みし、商店街で通行人を無差別に襲撃[4]。包丁で路上を歩いていた通行人4人(主婦+幼子2人の母子3人を含む)を刺殺して主婦2人に重傷を負わせたほか、別の主婦1人(軽傷)を人質に取り、逮捕されるまで7時間にわたり近くの中華料理店に立てこもった[4]。

刑事裁判では、犯行時の被告人Kの精神状態(責任能力の有無・程度)が最大の争点となり、東京地裁は1982年(昭和57年)12月に「本来なら死刑に処すべき犯行だが、犯行時は心神耗弱状態だった」として、被告人Kに無期懲役判決を言い渡した[8]。被告人Kは控訴しなかったため、1983年(昭和58年)1月に無期懲役が確定した[8]。

2008年 – 東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の犯人、宮崎勤の死刑を執行[5] 。

宮﨑 勤(みやざき つとむ、1962年〈昭和37年〉8月21日 – 2008年〈平成20年〉6月17日)は、日本の連続殺人犯、元死刑確定者(死刑囚)。1988年(昭和63年)から1989年(平成元年)に東京都および埼玉県で計4人の幼女・女児が殺害された東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件(警察庁広域重要指定117号事件)の犯人である。

1989年8月以降、一連の事件の犯人として逮捕・起訴され、2006年(平成18年)2月2日に死刑判決が確定[4]。2008年6月17日に東京拘置所で死刑を執行された(45歳没)[5]。

家族

まれに見る凶行であったため、家族へ及んだ影響も大きかった。人々の宮﨑への憎悪はそのまま彼の家族・親族へと波及した。

宮﨑が逮捕されてから1か月後の1989年9月時点で、宮﨑の家族はDの遺体切断場所ともなった家を去っていた[56]。事件後に家は取り壊され、1996年10月時点では事件前に死去した祖父が住んでいた離れだけが残っていた[57]。2006年1月時点では同地は完全に更地となり、同月時点から遡って数年前から[58]、夏などに敷地裏を流れる秋川を訪れる家族連れらの駐車場として利用されており[59]、傍らには石仏が置かれていた[56]。2023年12月時点で、同地は売地となっているが買い手はつかず、宮崎家が管理している。[60]。

家族・親戚らの境遇

宮﨑は両親のほかに姉妹2人がいたが、彼らに対して「お前たちも死ね」「殺してやる」という旨の嫌がらせの手紙が殺到した[61]。長女は勤めていた会社を辞め、既に結婚間近だったが自ら婚約を破棄した。次女は在学していた看護学校にいられなくなり、自主退学に追い込まれた。事件後に宮崎の両親はいったん離婚し、母親の姓で再婚した[57][62]。

父親の弟2人も退職した上、長弟は持っていた会社を妻の名義に変更し、5つの会社役員を全て辞職。次弟には娘が2人おり、宮﨑姓を名乗ることの影響を考え、苦渋の決断の末に「巻き込むわけにいかないから」と妻を説得して離婚、娘たちは妻に引き取らせた[63]。母親の兄の2人の息子は警察官、高校教師であったが辞職した[64]。背景には週刊誌で暴露された影響があったと言われる[65]。

父親の自殺

家族は宮﨑の逮捕から1年後に引っ越した。宮﨑は父親に対して私選弁護人をつけてくれるよう要請したが父親はこれを拒絶。4年後の1994年に父親は自宅を売って、その代金を被害者の遺族に支払う段取りをつけると、東京都青梅市の多摩川にかかる神代橋 (水面までの高さ30m)から飛び降り自殺を遂げた。

作家の佐木隆三は父親の自殺を「現実逃避であり、被害者家族を顧みない行為である」と非難した。佐木はほかに私選弁護士をつけるよう要請してきた宮﨑を拒絶したことについても批判している[66]。私選弁護人を選定しなかったことで国選弁護人が選ばれ結果国費が使われるからというのがその論旨であった。宮﨑の父親には私選弁護人をつけるだけの経済力が十分あり、佐木は父親への批判として「家庭における父親の不在」というキーワードを挙げている。

父親とかねてから交流があり、事件後も父親とのコンタクトを定期的に続けた新聞記者は、「この事件を通して、加害者の家族は罪を犯した加害者以上の苦痛にさいなまれることを知った」「加害者家族が直面する現実を、初めて目の当たりにした」と語っている[67]。

宮﨑の父親は、自分が糾弾されるのは、息子が犯した罪を思えば当然だが、まったく関係のない自分の親族らにまで非難の矛先が向けられ、辞職したり、逼塞したりすることを余儀なくされていることに苦悩していると、インタビューで言及していた[68]。

チャットgpt先生の6月17日のエッセイ

6月17日 ― 消耗戦の現実が露出する日

6月17日という日を俯瞰すると、理想や理念よりも、組織と権力、そして戦争の冷徹な現実が表面化した出来事が目立つ。

1565年の永禄の変では、室町幕府13代将軍足利義輝が三好勢によって討たれた。将軍という権威そのものが軍事力の裏付けを失えば容易に崩壊することを示した事件であり、日本の戦国時代における「権威より実力」の流れを決定づけた出来事だった。

1775年のバンカーヒルの戦いもまた象徴的である。戦術的にはイギリス軍の勝利だったが、勝者の損害は敗者を大きく上回った。戦争において重要なのは占領した丘ではなく、どちらが継戦能力を失うかである。バンカーヒルは「勝利しても負ける」ことがあるという現実を示した戦いだった。

1885年には自由の女神像がアメリカへ到着した。自由の象徴として語られることが多いが、国家は理念だけで動くわけではない。19世紀後半のアメリカは急速な工業化と国力拡大の時代にあり、この巨大な記念碑は新興大国の自信と影響力を示す政治的シンボルでもあった。


1945年6月17日の沖縄戦は、戦争というものの本質が最もむき出しになった局面の一つである。

一般に沖縄戦は住民被害や悲劇性が強調される。しかし軍事史として見れば、この戦いは米軍が太平洋戦争全体を通じて経験した最も困難な地上戦の一つであり、物量優位にもかかわらず異常な人的損耗を強いられた戦役だった。

米軍は圧倒的な海空軍力を投入し、艦砲射撃、航空爆撃、火炎放射戦車、工兵部隊を総動員した。それでも日本軍は地下陣地網と洞窟陣地によって持久戦を展開し、米軍に逐次的な消耗を強制した。

6月17日の時点で、米軍は勝利を確信していた。しかしその「勝利」は容易なものではなかった。火炎放射戦車による洞窟掃討、砲撃による地形改変、歩兵による一つ一つの陣地の制圧という膨大な労力を必要としていた。米軍が投入した火炎剤の量は、その苦戦の度合いを物語っている。

一方、日本軍側もすでに組織としては崩壊段階に入っていた。補給は絶たれ、負傷兵の治療能力も失われ、部隊間通信も断続的になっていた。それでも戦闘が継続されたのは、戦術的合理性というより組織文化と軍事的慣性による部分が大きい。

この局面では、後年の善悪二元論では説明できない現象が数多く発生している。

たとえば捕虜化や投降に関する問題である。

日本軍は捕虜から情報が漏洩することを極度に警戒し、負傷兵の処置や後方に残された兵士への扱いにおいて極めて苛烈な行動を取った記録が残る。これは人道的観点では非難されるべき行為であるが、当事者たちは「軍事情報の遮断」という論理で行動していた。

同様に、米軍側にも捕虜や住民に対する報復的行為、過剰な武力行使、あるいは敵味方の識別が困難な状況下での射殺事例が存在した。

戦後の占領期にはGHQのプレスコードによって米軍に不利な情報の一部が抑制されたため、日本社会では長らく米軍側の負の側面が十分に共有されなかった。一方で近年では逆に日本軍の責任だけを強調する議論や、反対に米軍の残虐性だけを強調する議論も見られる。

しかし軍事史として見れば、沖縄戦はどちらか一方の残虐性ではなく、「極限状態に置かれた巨大組織が生存を優先した結果」である。

住民は宣伝戦の対象となり、捕虜は情報資産として扱われ、負傷兵は戦力として評価され、補給能力のない者は切り捨てられる。

そこには英雄譚も被害者論も存在するが、それ以上に巨大な消耗戦の論理が存在していた。

6月17日にバックナー中将は牛島満中将へ降伏勧告を送った。

しかし双方ともすでに戦争を止める能力を失いつつあった。

戦争は開始するよりも終了する方が難しい。

沖縄戦終盤はその事実を示している。


同じ1945年6月17日、鹿児島では大空襲によって二千人を超える住民が死亡した。

沖縄では洞窟戦、本土では都市爆撃。

アメリカ軍は二つの異なる手法で日本の抵抗能力を削ろうとしていた。

戦争末期になるほど、軍人と民間人の境界は曖昧になる。

国家総力戦とは、前線だけでなく都市そのものが戦場になる戦争形態である。


1981年の深川通り魔事件、2008年の宮崎勤死刑執行もまた、別の意味で国家の暴力と秩序維持を考えさせる出来事である。

国家は平時においても独占的な暴力装置を持つ。

警察、裁判、刑罰、そして死刑制度は、その延長線上に存在する。

戦争が国家間の暴力であるならば、刑罰は国家内部における暴力の管理である。

6月17日を振り返ると、権力、戦争、刑罰、そして組織の存続という共通したテーマが見えてくる。

理想は歴史を説明する。

しかし現実に歴史を動かすのは、多くの場合、権力・兵站・情報・暴力という要素である。

6月17日は、その事実を静かに物語る一日である。