kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日6月14日 1940ドイツ軍パリ占領、ほか 写真wikipediaドイツ軍のパレード

6月14日

20260614日曜日旧暦4月29日友引(56番己未つちのとひつじキビ)月齢 28.2

43番丙午ひのえうま年 30番癸巳みずのとみ月 56番己未つちのとひつじ日

吉方位 陽遁日 己未つちのとひつじ日 北東 大吉 年末まであと200日

https://ja.wikipedia.org/wiki/6%E6%9C%8814%E6%97%A5

6月14日の出来事

1572年(元亀3年5月4日) – 木崎原の戦い。300人の島津義弘軍が3,000人の伊東祐安軍を破る。

戦争:戦国時代 (日本)

年月日:元亀3年5月4日(1572年6月14日)

場所:日向国真幸院木崎原

結果:島津軍の勝利

損害:伊東軍 3000人中 戦死810人 島津軍 300人中戦死257人

1645年 – イングランド内戦: ネイズビーの戦い。

戦争:第一次イングランド内戦

年月日:1645年6月14日

場所:ノーサンプトンシャー州マーケット・ハールバラ近郊ネイズビー(en)

結果:議会軍の決定的勝利

損害:議会軍 7100人中 戦死3500人  議会軍 14000人中 戦死400人

1800年 – フランス革命戦争: マレンゴの戦い。

戦争:第二次イタリア戦役

年月日:1800年6月14日

場所:イタリア北部ピエモンテ地方アレッサンドリア南東12kmのマレンゴ

結果:フランスの勝利

損害:フランス軍 28000人中 戦死傷5000人強 オーストリア軍 31000人中 戦死傷 14000人

1807年 – ナポレオン戦争: フリートラントの戦い。

戦争:ドイツ・ポーランド戦役(ナポレオン戦争)

年月日:1807年6月14日

場所:東プロイセン東部のフリートラント周辺地域

結果:フランス軍の勝利

ティルジットの和約

ロシアの反フランス感情の消失

ロシアの大陸封鎖の参加

第4次対仏大同盟の終焉

損害:フランス軍 80000人中 戦死傷10000人強 ロシア軍60000人中 戦死傷20000人

1920年 – 北海道の夕張炭鉱で爆発事故。死者209人[1]。

1940年 – 第二次世界大戦・ナチス・ドイツのフランス侵攻: ドイツ軍によってパリが占領される。

損害:ドイツ軍 戦死27074人 フランス軍 戦死傷360000人

1945年沖縄戦6月14日:米軍:・6月14日、午前3時を期してE中隊とG中隊は進撃を開始したが、2時間後には、先頭の小隊はそれぞれ位置を確保したが、夜明けごろになって、とつぜん猛烈な砲火がおそってきて、米軍は進撃することができなくなってしまった。いまや全員が、前面や左翼から小銃弾、迫撃砲弾、機関銃弾を浴びせるかと思えば、後方の素通りした日本軍陣地からは猛烈な小銃弾をうけるという有様であった。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 493-494頁より》・偵察任務はまだ続いていた。私は日本軍が残していったホタテの缶詰を味わいながら、国吉丘陵などという場所がこの世になかったらどんなにいいだろうと思った。だが、避けがたいその日がやってきた。「装備をととのえろ。また移動だ」と上官の声が響いた。南に進むうちに、晴れ間が広がり、暑くなってきた。戦場に近づくにつれて、銃声や砲声が大きくなってくる。大砲の地を揺るがす轟き、迫撃砲の重い響き、機関銃のたたみかける連射音、ライフルの鳴りやまない単発音。いつもながらの組み合わせだ。なじみのあの感覚がまたよみがえってきた。生き残れるだろうかという不安と恐怖。脳裏に焼きついた負傷者、死者、そして精神を狂わせた兵の、おぞましい姿。それは、いやでも刈り取らなければならない戦の産物だった。《「ペリリュー・沖縄戦記」(ユージン・B・スレッジ: 伊藤真/曽田和子 訳 /講談社学術文庫) 441-442頁より》:日本軍:・八原高級参謀の回想:

6月14日には、第24師団からも、「数百の敵が八重瀬岳に進入しつつある。何故混成旅団はこれを放置しているのか? … 」と木谷参謀長自ら電話に出て、その平素の悠容たる性格に似ず語気が荒い。これを聞いて私も憤慨した。通信連絡の関係上、混成旅団司令部を経ず、第24師団司令部経由で、軍司令官から直接独立歩兵第15大隊長に、「貴官は即刻八重瀬岳に向かい、攻撃前進すべし」との厳命が下達された。

後刻鈴木少将から、旅団を無視したとの抗議が出たが、私はこうしなければ、状況に合しないと信じたので、この非常処置は豪も差し支えないと考えた。後聞するに独立歩兵第15大隊長飯塚少佐は衰弱の極、歩行もかなわず、担架に乗り指揮していたとか。私は悪いことをしたと思ったが、我らは今や超人間となり、非情のことも強要しなければならぬのだ。《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 395-396頁より》・沖縄師範学校女子部、当時19歳の比嘉文子の証言

山城本部壕に艦砲の直撃弾が落ちたのは 6月14日でした。何十人も戦死者が出る惨憺たる状況でした。壕入口に出ていた病院長を始め歩哨兵や衛生兵が瞬時に吹き飛ばされましたが、その時伝令で来ていた糸洲第二外科壕からの宜保春子さん、第三外科壕からの安座間晶子さんが亡くなったのです。その時、私達は壕を下りた岩陰に板を敷いて足を下げおしゃべりをしていたのです。すぐ側で兵隊が炊事をしていました。突然パーンドーンと物凄い音がし曝風で足が顔の辺りまで吹き上げられたので足が吹っ飛んだのかと思うほどびっくりしたんです。隣の新垣昭子さんの顔を見てまたびっくり、顔に肉片がペタッとくっついています。

「貴方、顔をやられている!」と言ったら彼女は慌てて手でそれを払い除けたんです。肉片は炊事していた兵隊達のものでした。

「病院長がやられた。兵隊も学生もやられた」と言う声で西平先生の後を追い壕入口に出ました。安座間晶子さんはもう板の上に寝かされていました。手も指も切れお腹もやられ息をする度に腸がブクッブクッと飛び出すんです。包帯を巻き三角巾でくるんで「晶ちゃん 大丈夫だから 頑張ってよね」と言ったら指の切れた手で私の手を強く握るんです。悲しくなって胸をしめつけられる思いでした。

「お腹をやられたら死ぬと教えられたでしょう」と言って、どうせ駄目だから水を頂戴 と欲しがるんです。躊躇していたら次第に声も弱まり、かすかな声で水、水、と言うので、西平先生に上げていいか尋ねました。悲痛な顔でうなずいていました。脱脂綿に浸した水を少しずつ 吸っていた晶ちゃんは うわ言を言いながら息を引き取ったのです。宜保春子さんは 即死でした。解散命令は このような敵の包囲と猛攻撃に追い詰められた状況の仲で6月18日に出されたのです。《ひめゆり平和祈念資料館公式ガイドブック p. 88.》・まず、…糧秣倉庫を、昼夜24時間交代で見張りしていた3名の監視兵と乳牛が殺害され、糧秣に火が放たれた。…米軍がアブチラガマに迫ってきたとき、…住民の数はおよそ200名であった。…米兵に壕内から反撃があったので、米軍はこの壕を日本軍の巨大な洞窟陣地と思い込んだのか、さまざまな方法で壕内に攻撃を加えてきた。…米軍の攻撃開始は6月6日、8日には…黄燐弾攻撃、10日と11日にはガソリン攻撃、13日と14日は大砲攻撃をしてきた。(113-114頁)

黄燐弾は、爆発して飛び散った火薬が人体に触れただけで大火傷をしてしまう強烈な爆弾である。爆弾の破片をまともに受けたら、人体は青白い炎をあげて燃える。(116頁)

黄燐弾攻撃の被害をうけた男性の証言:

「…空気穴から投げ込まれた黄燐弾を身体にかぶり、手の甲も火傷して大変でした。壕内にひまし油があったから、服を全部脱いでそれを塗ってなんとか治したが、火傷痕がケロイド状になりましたよ」(116頁)

ガソリン攻撃を体験を体験した人たちの証言:

①「米軍は、糸数集落の家屋から茅を抜き取ってきて、この茅にガソリンを染み込ませ、それを空気穴から投げ入れて、同時にガソリンを流し込んで火をつけたのです。米軍は、パッと壕内部で勢い良く燃えることを期待していたはずだが、大量のガソリンは壕内の土砂に染み込んでいき、くすぶるような状態でした。それでガソリンの匂いかガスが発生したのか、身体の弱っている老人や子どもが一晩で4〜5名もなくなりました」(117-118頁)

② 「…壕内は湿っていたので火はつかなかったが、空気穴付近の地面は乾燥していたようで、その付近だけ一日中くすぶったので臭いが立ち込めて大変でした。元気な若い者もフラフラになり、これでみんな死ぬと思いました。これが原因で、数日後まであいついで死んでいきました。…」(118頁)《「沖縄の旅・アブチラガマと轟の壕 国内が戦場になったとき」(石原昌家/集英社新書) 113-114、116、117-118、118頁より》

1962年 – 徳島県阿南市長生町の明谷トンネルの建設現場で落盤。作業員16人が生き埋めとなり7人が死亡[3]。

1972年 – 日本航空471便DC-8-53型 (JA8012) が、ニューデリーのパラム空港への着陸進入中に空港手前のジャムナ河畔に墜落、搭乗員89名中86名と地上の工事作業員4名が死亡。(日本航空ニューデリー墜落事故)

1982年 – フォークランド紛争終結。

戦争:フォークランド紛争[1]

年月日:1982年4月2日 - 同年6月16日[1]

場所:フォークランド諸島[1]

結果:イギリスの勝利[1]。

損害:イギリス軍 14000人中 戦死255人 アルゼンチン軍 30000人中 戦死649人

2017年 – ロンドン西部にある公営住宅、グレンフェル・タワーで大規模火災”[4]。79人以上が死亡。(グレンフェル・タワー火災)

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1572年(元亀3年5月4日) – 木崎原の戦い。300人の島津義弘軍が3,000人の伊東祐安軍を破る。

戦争:戦国時代 (日本)

年月日:元亀3年5月4日(1572年6月14日)

場所:日向国真幸院木崎原

結果:島津軍の勝利

損害:伊東軍 3000人中 戦死810人 島津軍 300人中戦死257人

木崎原の戦い(きざきばるのたたかい)は、元亀3年(1572年)、日向国真幸院木崎原(現宮崎県えびの市)において伊東義祐と島津義弘の間でおこなわれた合戦である。大軍(3000人という説が有力)を擁していた伊東側が少数の兵力(300人程度)しか持っていなかった島津側に敗北を喫してしまったことから「九州の桶狭間」とも呼ばれる。但し桶狭間の戦いとは異なり、島津軍も兵力の85%以上が討死し、ほぼ全滅した。この戦いには相良義陽も伊東軍と連合する予定で出陣したが、義弘の謀略により撤退している。

1645年 – イングランド内戦: ネイズビーの戦い

戦争:第一次イングランド内戦

年月日:1645年6月14日

場所:ノーサンプトンシャー州マーケット・ハールバラ近郊ネイズビー(en)

結果:議会軍の決定的勝利

損害:議会軍 7100人中 戦死3500人  議会軍 14000人中 戦死400人

ネイズビーの戦い(ネイズビーのたたかい、英語: Battle of Naseby)は、1645年6月14日に発生した、清教徒革命(イングランド内戦)の帰趨を決定づけた王党派と議会派の戦闘である。この戦いによって形勢は議会派に大きく傾き、第一次イングランド内戦は議会派の優勢で終結に向かった。

1800年 – フランス革命戦争: マレンゴの戦い

戦争:第二次イタリア戦役

年月日:1800年6月14日

場所:イタリア北部ピエモンテ地方アレッサンドリア南東12kmのマレンゴ

結果:フランスの勝利

損害:フランス軍 28000人中 戦死傷5000人強 オーストリア軍 31000人中 戦死傷 14000人

マレンゴの戦い(マレンゴのたたかい、仏: Bataille de Marengo)は、第二次イタリア遠征において、1800年6月13・14日に行われた、ナポレオン率いるフランス軍とメラス(英語版)率いるオーストリア軍との戦闘[1]。現在のイタリア北部ピエモンテ州アレッサンドリア近郊の町マレンゴ(英語版)とその周辺で行われた。ナポレオンが敵情を誤認し作戦指揮を誤ったため劣勢に陥ったが[2]、ドゼー将軍の部隊が救援に駆け付け、フランス軍が辛くも勝利した[1]。しかし、ナポレオンは大勝利と喧伝し、マレンゴの名を愛馬に与えた[2]。

1807年 – ナポレオン戦争: フリートラントの戦い

戦争:ドイツ・ポーランド戦役(ナポレオン戦争)

年月日:1807年6月14日

場所:東プロイセン東部のフリートラント周辺地域

結果:フランス軍の勝利

ティルジットの和約

ロシアの反フランス感情の消失

ロシアの大陸封鎖の参加

第4次対仏大同盟の終焉

損害:フランス軍 80000人中 戦死傷10000人強 ロシア軍60000人中 戦死傷20000人

フリートラントの戦い(フリートラントのたたかい、英: Battle of Friedland, 仏: Bataille de Friedland)は、1807年6月14日におこなわれた、ナポレオン戦争の主要な戦闘の1つ。東プロイセン東部のフリートラント(現ロシア連邦カリーニングラード州プラヴディンスク)周辺地域で、皇帝ナポレオン1世率いるフランス軍が、ベニグセン率いるロシア軍を破った。ロシア軍は戦闘が終わった後、撤退時にウィナ川を渡って潰走した。

フリートラントの戦いは1807年の始めのアイラウの戦いでフランス、ロシア共に決定的な戦果が挙げられなかったことから発生した。フリートラントの街でランヌの軍団が一見孤立しているように見えることにベニグセンが気付いた時にこの戦いは始まった。ベニグセンはズナメンスクへ安全に北に行進することのみを計画しており、数的にまさるナポレオンの軍に敢えて戦いを挑もうとは考えていなかった。しかしベニグセンはこの時フランスの孤立した部隊を壊滅させる好機と考え、全軍をウィナ川を渡河させた[14]。ランヌはナポレオンの増援が到来するまで、ロシアの攻撃から陣地を防衛した。ベニグセンは50,000名から60,000名のロシア軍を呼び寄せて、ナポレオンの全軍が到着するまでに川を渡り撤退したが、自身の病状が悪化し、フリートラントに留まることを決意したが、彼の無防備で疲弊した軍を守るための方策を何も取らなかった[14]。夕方になるまでにフランスは戦場に80,000名の兵力を集結させた。数的優位に頼り、ナポレオンはロシアの左翼に対して攻撃を命じた。フランスの攻撃によってロシア軍は押し返され、川の方面に押し込まれた。フランスの攻勢に耐えかねて、ロシア軍は崩壊し、ウィナ川を渡って逃亡を開始したが、渡河の際に多くの兵士が溺れ死に、その数は正確に分かっていない[15]。ロシア軍はこの戦場で40%以上の兵を損失した[16]。

1920年 – 北海道の夕張炭鉱で爆発事故。死者209人[1]。

1940年 – 第二次世界大戦・ナチス・ドイツのフランス侵攻: ドイツ軍によってパリが占領される。

兵力 ドイツ335万人 対 フランス330万人

損害

ドイツ戦死2万7074人

戦傷11万人

行方不明者1万8384人

フランス 戦死戦傷36万人

1945年-沖縄戦6月14日:米軍:・6月14日、午前3時を期してE中隊とG中隊は進撃を開始したが、2時間後には、先頭の小隊はそれぞれ位置を確保したが、夜明けごろになって、とつぜん猛烈な砲火がおそってきて、米軍は進撃することができなくなってしまった。いまや全員が、前面や左翼から小銃弾、迫撃砲弾、機関銃弾を浴びせるかと思えば、後方の素通りした日本軍陣地からは猛烈な小銃弾をうけるという有様であった。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 493-494頁より》・偵察任務はまだ続いていた。私は日本軍が残していったホタテの缶詰を味わいながら、国吉丘陵などという場所がこの世になかったらどんなにいいだろうと思った。だが、避けがたいその日がやってきた。「装備をととのえろ。また移動だ」と上官の声が響いた。南に進むうちに、晴れ間が広がり、暑くなってきた。戦場に近づくにつれて、銃声や砲声が大きくなってくる。大砲の地を揺るがす轟き、迫撃砲の重い響き、機関銃のたたみかける連射音、ライフルの鳴りやまない単発音。いつもながらの組み合わせだ。なじみのあの感覚がまたよみがえってきた。生き残れるだろうかという不安と恐怖。脳裏に焼きついた負傷者、死者、そして精神を狂わせた兵の、おぞましい姿。それは、いやでも刈り取らなければならない戦の産物だった。《「ペリリュー・沖縄戦記」(ユージン・B・スレッジ: 伊藤真/曽田和子 訳 /講談社学術文庫) 441-442頁より》:日本軍:・八原高級参謀の回想:

6月14日には、第24師団からも、「数百の敵が八重瀬岳に進入しつつある。何故混成旅団はこれを放置しているのか? … 」と木谷参謀長自ら電話に出て、その平素の悠容たる性格に似ず語気が荒い。これを聞いて私も憤慨した。通信連絡の関係上、混成旅団司令部を経ず、第24師団司令部経由で、軍司令官から直接独立歩兵第15大隊長に、「貴官は即刻八重瀬岳に向かい、攻撃前進すべし」との厳命が下達された。

後刻鈴木少将から、旅団を無視したとの抗議が出たが、私はこうしなければ、状況に合しないと信じたので、この非常処置は豪も差し支えないと考えた。後聞するに独立歩兵第15大隊長飯塚少佐は衰弱の極、歩行もかなわず、担架に乗り指揮していたとか。私は悪いことをしたと思ったが、我らは今や超人間となり、非情のことも強要しなければならぬのだ。《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 395-396頁より》・沖縄師範学校女子部、当時19歳の比嘉文子の証言

山城本部壕に艦砲の直撃弾が落ちたのは 6月14日でした。何十人も戦死者が出る惨憺たる状況でした。壕入口に出ていた病院長を始め歩哨兵や衛生兵が瞬時に吹き飛ばされましたが、その時伝令で来ていた糸洲第二外科壕からの宜保春子さん、第三外科壕からの安座間晶子さんが亡くなったのです。その時、私達は壕を下りた岩陰に板を敷いて足を下げおしゃべりをしていたのです。すぐ側で兵隊が炊事をしていました。突然パーンドーンと物凄い音がし曝風で足が顔の辺りまで吹き上げられたので足が吹っ飛んだのかと思うほどびっくりしたんです。隣の新垣昭子さんの顔を見てまたびっくり、顔に肉片がペタッとくっついています。

「貴方、顔をやられている!」と言ったら彼女は慌てて手でそれを払い除けたんです。肉片は炊事していた兵隊達のものでした。

「病院長がやられた。兵隊も学生もやられた」と言う声で西平先生の後を追い壕入口に出ました。安座間晶子さんはもう板の上に寝かされていました。手も指も切れお腹もやられ息をする度に腸がブクッブクッと飛び出すんです。包帯を巻き三角巾でくるんで「晶ちゃん 大丈夫だから 頑張ってよね」と言ったら指の切れた手で私の手を強く握るんです。悲しくなって胸をしめつけられる思いでした。

「お腹をやられたら死ぬと教えられたでしょう」と言って、どうせ駄目だから水を頂戴 と欲しがるんです。躊躇していたら次第に声も弱まり、かすかな声で水、水、と言うので、西平先生に上げていいか尋ねました。悲痛な顔でうなずいていました。脱脂綿に浸した水を少しずつ 吸っていた晶ちゃんは うわ言を言いながら息を引き取ったのです。宜保春子さんは 即死でした。解散命令は このような敵の包囲と猛攻撃に追い詰められた状況の仲で6月18日に出されたのです。《ひめゆり平和祈念資料館公式ガイドブック p. 88.》・まず、…糧秣倉庫を、昼夜24時間交代で見張りしていた3名の監視兵と乳牛が殺害され、糧秣に火が放たれた。…米軍がアブチラガマに迫ってきたとき、…住民の数はおよそ200名であった。…米兵に壕内から反撃があったので、米軍はこの壕を日本軍の巨大な洞窟陣地と思い込んだのか、さまざまな方法で壕内に攻撃を加えてきた。…米軍の攻撃開始は6月6日、8日には…黄燐弾攻撃、10日と11日にはガソリン攻撃、13日と14日は大砲攻撃をしてきた。(113-114頁)

黄燐弾は、爆発して飛び散った火薬が人体に触れただけで大火傷をしてしまう強烈な爆弾である。爆弾の破片をまともに受けたら、人体は青白い炎をあげて燃える。(116頁)

黄燐弾攻撃の被害をうけた男性の証言:

「…空気穴から投げ込まれた黄燐弾を身体にかぶり、手の甲も火傷して大変でした。壕内にひまし油があったから、服を全部脱いでそれを塗ってなんとか治したが、火傷痕がケロイド状になりましたよ」(116頁)

ガソリン攻撃を体験を体験した人たちの証言:

①「米軍は、糸数集落の家屋から茅を抜き取ってきて、この茅にガソリンを染み込ませ、それを空気穴から投げ入れて、同時にガソリンを流し込んで火をつけたのです。米軍は、パッと壕内部で勢い良く燃えることを期待していたはずだが、大量のガソリンは壕内の土砂に染み込んでいき、くすぶるような状態でした。それでガソリンの匂いかガスが発生したのか、身体の弱っている老人や子どもが一晩で4〜5名もなくなりました」(117-118頁)

② 「…壕内は湿っていたので火はつかなかったが、空気穴付近の地面は乾燥していたようで、その付近だけ一日中くすぶったので臭いが立ち込めて大変でした。元気な若い者もフラフラになり、これでみんな死ぬと思いました。これが原因で、数日後まであいついで死んでいきました。…」(118頁)《「沖縄の旅・アブチラガマと轟の壕 国内が戦場になったとき」(石原昌家/集英社新書) 113-114、116、117-118、118頁より》

1962年 – 徳島県阿南市長生町の明谷トンネルの建設現場で落盤。作業員16人が生き埋めとなり7人が死亡[3]。

1972年 – 日本航空471便DC-8-53型 (JA8012) が、ニューデリーのパラム空港への着陸進入中に空港手前のジャムナ河畔に墜落、搭乗員89名中86名と地上の工事作業員4名が死亡。(日本航空ニューデリー墜落事故)

1982年 – フォークランド紛争終結。

戦争:フォークランド紛争[1]

年月日:1982年4月2日 - 同年6月16日[1]

場所:フォークランド諸島[1]

結果:イギリスの勝利[1]。

損害:イギリス軍 14000人中 戦死255人 アルゼンチン軍 30000人中 戦死649人

フォークランド紛争(フォークランドふんそう、英語: Falklands War、スペイン語: Guerra de las Malvinas)は、南大西洋のイギリス領フォークランド諸島(アルゼンチン名:マルビナス諸島)[注 1]の領有を巡って1982年に発生したイギリスとアルゼンチンの間の紛争である。

同年3月、アルゼンチン軍はフォークランド諸島・サウスジョージア侵攻を成功させたものの、これに対してイギリス軍は航空母艦や原子力潜水艦などを含む機動部隊を派遣して反攻に転じ、欧州共同体(EC)の協力も得て6月に勝利した。敗れたアルゼンチンではレオポルド・ガルチェリ政権が崩壊し、民政移管の引き金を引くこととなった。

冷戦下で近代化された西側諸国の軍隊同士による初めての紛争であり、「兵器の実験場」とも称された[2]。

2017年 – ロンドン西部にある公営住宅、グレンフェル・タワーで大規模火災”[4]。79人以上が死亡。(グレンフェル・タワー火災)

チャットgpt先生の6月14日のエッセイ


6月14日――勝利とは何を意味するのか

6月14日という日を眺めると、不思議な共通項が見えてくる。

1572年の木崎原。
1645年のネイズビー。
1800年のマレンゴ。
1807年のフリートラント。
1940年のパリ陥落。
1945年の沖縄戦。
1982年のフォークランド紛争終結。

いずれも「勝敗が歴史を動かした日」である。

しかし現実の戦争を見れば、勝利と敗北は教科書ほど単純ではない。

木崎原の戦いは「九州の桶狭間」と呼ばれる。

島津義弘軍約300が伊東軍約3000を破った。

だが数字だけ見れば、島津軍もほぼ壊滅している。

後世は勝者だけを記憶する。

しかし戦場にいた兵士から見れば、

「敵を倒した」

ことより、

「自分の仲間の大半が死んだ」

という事実の方が遥かに重い。

戦史は勝者の物語になりやすいが、戦場は生存者の墓標の上に成立している。

ネイズビーも同じである。

議会軍の決定的勝利として知られるが、本質は軍事組織の差だった。

勇気や精神力ではなく、補給と統制が王党派を上回った。

戦争の帰趨を決めるのは英雄より組織である。

これは近代戦の入口だった。

マレンゴではナポレオンが危うく敗北するところだった。

フリートラントではナポレオンがロシア軍を粉砕した。

しかし両者を並べると、戦争において「天才」と呼ばれる人間も決して万能ではないことが分かる。

マレンゴでは敵情判断を誤った。

フリートラントでは相手が判断を誤った。

戦争とは、優秀な者が勝つゲームではない。

より致命的な失敗をしなかった側が勝つゲームである。


1940年6月14日。

ドイツ軍はパリに入城する。

後世から見ると電撃戦の華々しい成功に見える。

だが実態は、第一次世界大戦の経験から生まれた軍事思想と組織改革の成果だった。

フランス軍にも兵力はあった。

戦車もあった。

航空機もあった。

不足していたのは運用思想だった。

兵器の性能ではなく、組織が兵器をどう使うか。

これもまた現実である。


そして1945年6月14日の沖縄。

ここで話は少し変わる。

沖縄戦はしばしば「悲劇」として語られる。

もちろん悲劇だった。

しかし戦史として見るなら、それだけでは全く足りない。

沖縄戦は太平洋戦争末期において米軍が経験した最も困難な地上戦の一つだった。

硫黄島も激戦だったが、沖縄は規模が違う。

投入兵力も期間も桁違いだった。

米軍は圧倒的物量を持っていた。

制空権も制海権も持っていた。

砲兵火力も補給能力も日本軍を遥かに上回っていた。

それにもかかわらず、進撃速度は極端に低下した。

理由は単純である。

日本軍が勝利を捨てていたからだ。

通常の軍隊は領土を守ろうとする。

陣地を維持しようとする。

しかし沖縄の日本軍は違った。

持久戦そのものが目的だった。

敵を止めることだけに集中した。

勝つためではなく、相手に損害を与えるために戦った。

その結果、米軍は圧倒的優位を持ちながら苦しんだ。

現代の軍事学で言えば典型的な消耗戦である。


この戦いを語る際、戦後日本では長らく二つの極端な見方があった。

一つは日本軍を英雄化する視点。

もう一つは無意味な抵抗だったと切り捨てる視点。

現実はその中間にある。

日本軍は軍事的には敗北した。

しかし戦術レベルでは極めて粘り強く戦った。

米軍も圧倒的優位を持ちながら多大な損害を受けた。

両方とも事実である。


また住民問題も単純ではない。

戦場では「誰が味方か」が最重要情報になる。

住民が米軍に投降した場合、日本軍の一部が報復した事例も存在する。

現代人の感覚では非道に映る。

実際に非道である。

しかし構造として見るなら、そこには軍事合理性も存在した。

ゲリラ戦や持久戦では住民の行動が軍事情報に直結する。

情報漏洩を恐れる軍隊が極端な措置に走ることは歴史上珍しくない。

ナチスだけでもない。

ソ連だけでもない。

連合軍だけでもない。

戦争そのものがそういう構造を持つ。

だからこそ戦争は恐ろしい。

善人が悪人になるからではない。

普通の人間が組織の論理に従うだけで残酷な行為に到達できるからである。


6月14日に残された沖縄戦の証言を読むと、そこに英雄はいない。

日本兵も疲弊している。

米兵も疲弊している。

学徒隊も疲弊している。

住民も疲弊している。

皆が限界を超えた状態で生き延びようとしている。

八原高級参謀の回想に見える冷徹さも、スレッジの恐怖も、ひめゆり学徒の証言も、本質的には同じ場所を見ている。

極限状態の人間である。


6月14日は勝利の日が多い。

木崎原も。
ネイズビーも。
マレンゴも。
フリートラントも。
パリ占領も。
フォークランドも。

だが戦史を追うほど分かる。

勝利そのものは歴史を動かす。

しかし歴史を本当に形作るのは、その勝利の裏側に積み上がった膨大な損耗である。

戦争の現実は英雄譚でも道徳劇でもない。

兵站、地形、情報、疲労、誤算、偶然。

それらの総和として勝敗が決まる。

6月14日という日は、その冷徹な事実を静かに示している。