kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日6月12日  1560年(永禄3年5月19日)桶狭間の戦い、ほか写真wikipedia合戦図歌川豊宣画

6月12日

20260612金曜日旧暦4月27日赤口(54番丁巳ひのとみテイシ)月齢 26.2

43番丙午ひのえうま年 30番癸巳みずのとみ月 54番丁巳ひのとみテイシ

吉方位 陽遁日 丁巳ひのとみ日 西 大吉 年末まであと202日

https://ja.wikipedia.org/wiki/6%E6%9C%8812%E6%97%A5

6月12日の出来事

1560年(永禄3年5月19日) – 桶狭間の戦い。織田信長が桶狭間山附近で今川義元を討ち取る[2]。織田2000対今川25000。

1583年(天正11年4月22日) – 賤ヶ岳の戦い: 柴田勝家側についていた前田利家が羽柴秀吉に降伏。

1592年(文禄元年5月3日) – 文禄の役: 朝鮮の首都・漢城(現在のソウル)が陥落し、小西行長・加藤清正が入城。

日本158700対 明朝鮮軍250000

損害

日本20000 対 明朝鮮 30000強

1864年 – 南北戦争: コールドハーバーの戦いが終結。

戦力

北軍 100000 対 南軍 60000

損害

北軍 13000  南軍 2500

1945年-沖縄戦6月12日:米軍:・6月12日、… C中隊とF中隊は、驚くべきほどの容易さをもって進撃できた。この分なら簡単に丘を占領できるだろうと思った。だが、この勝利の夢も明け方になるとはかなく消えた。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 491頁より》・米軍は煙幕を張って進撃したが、日本軍はこの煙幕のなかに機関銃弾を流し、米軍は、結局、2個中隊と、その支援戦車隊が撃退されて攻撃は失敗した。午後、C中隊とF中隊が、まだ救援を求めているとき、戦車数輌は、負傷者用のプラズマやそれに水、弾薬などを積んで国吉丘陵に到着し、重傷者を後方に運んできた。

大隊長らは、この戦車隊の成功に気をよくして、今度は各戦車に6人ずつの歩兵を積み、この長さ1キロの平地を横切る計画をたてた。こうして銃火の中を戦車隊が、行きに弾薬物資を運び、帰りに負傷者を運んでくるという方法は、案外うまくいき、日が暮れるまでに、その日だけでも22人の戦死傷者を、後方地区に運ぶことができ、国吉丘陵攻略戦では、ずっとこの方法が行われた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 491-492頁より》:日本軍:・米軍の砲爆撃は4、5月と続けられた。そのため5月末、海軍部隊は一時、南部に移動した。医務室壕は重症患者も多く、自力で動けない者は青酸カリで薬殺された。最初は食事に混入。頭をつきあわし、もがき苦しむ患者の中で、1人が食べて死ぬと、もう、食べる人はいない。すると次は注射。栄養注射といつわって打つ。死ぬ。それを見て他の患者があばれる。数人で押さえ込んで打つ。

 上里さんは自らの戦争体験の中で、最も恐ろしい体験を語る。「注射を打つと、あっという間です。『うーん』とうめき声を上げたと思ったら、両手が曲がり始め、このまま…」。重い口がさらに重くなる。戦後、何度もうなされた。夫が亡くなった時も、「そのせいで罰があたった」と一時期ノイローゼになったとも言う。

 南部から戻ってきた時のがけの壕は悪臭を放っていた。降り続く雨で死体の腐乱が早まり、じめじめとした壕の中は、ハエと悪臭で人が入ることを拒んだ。「死体の上にはしごを置き、その上を歩いた」ほど、どうしようもない光景だった。… ハエもたくさんいた。火を消すほどハエがいた。「あのころは油に芯(しん)を入れただけでの簡単な明かりでしたが、火をつけると、一瞬のうちに、数えきれないほどハエが飛んできて、その火を消すんです」。<琉球新報『戦禍を掘る』山根隊医務壕 – Battle of Okinawa>・12日午後、74高地の頂上は米軍に占領され、司令部壕の最後の時は迫った。…壕内に居た各部隊の生存者に最後の非常呼集が掛かったのは午後8時ごろだったと言う。司令室と幕僚室にはさまれた通路に整列したのは、血潮と硝煙にまみれた約270人にすぎなかった。大田司令官の他、幕僚は首席参謀の前川大佐、南西諸島空司令から連合艦隊兼沖根参謀に転じ、4月から司令部に詰めていた棚町大佐、護部隊司令・羽田大佐、21空廠小禄派遣隊の鈴木中佐、軍医長・小山少佐、機関参謀・山田少佐の6人が顔を揃えていた。司令官は普段と全く変わらぬ温泉顔で、歴戦の部下の顔を慈愛に満ちた眼差しで見回していたが、「敗軍の将、兵を語らず」故だろうか、伝達事項は山田参謀が声を張り上げた。大要次のような内容だったと言う。

「司令官及び幕僚は本日、自決される。これまで、諸官と共に随分、奮闘したが、遂に敗れた。しかし、友軍は必ず逆上陸して、沖縄島を奪回すると信じる。自力で行動出来る者は最後まで生き延び、地理に明るい諸官が逆上陸軍に協力してくれ。自力で行動出来ぬ者は、残念ながら自決してくれ。自力で行動出来る者は只今から自由行動を取れ」《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三 / 光人社NF文庫) 445-446頁》

・兵曹長の証言:「壕には他に、身動き出来ぬ傷病兵が約300人は居まして、その処置が早速、始まりました。軍医長は『自分は皆を殺すために軍医になったのではないが、事ここに至っては止むを得ない。どうか死んでくれーッ』と泣きながら、注射していきました。これらの人々も無念の涙にくれながら、次々に瞑目しました。ですが、中には手も足も動かせぬ兵隊で『軍医長、待ってくれーッ。このままでは、死んでも死に切れん。せめて手榴弾の一発でも、敵に投げさせてくれーッ』と絶叫する者も居まして、その悲壮な光景はとても言葉では表せません」《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三 / 光人社NF文庫) 446-467頁》・海軍壕の最期。大田實司令官の自決は翌日13日午前1時頃と言われている。

2016年 – オーランド銃乱射事件が発生。容疑者1人を含む50人が死亡、53人が負傷。米国で起きた銃乱射事件としては史上最悪のものとなった[9]。

2025年 – エア・インディア171便墜落事故。インド。241人死亡。1名生存。

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1560年(永禄3年5月19日) – 桶狭間の戦い。織田信長が桶狭間山附近で今川義元を討ち取る[2]。織田2000対今川25000。

桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)は、永禄3年5月19日(1560年6月12日)に尾張国知多郡桶狭間での織田信長軍と今川義元軍の合戦。2万5千人の大軍を率い尾張に侵攻した今川義元に対し、尾張の織田信長が本陣を奇襲、または正面から攻撃し[2]、今川義元を討ち取った。

戦後、東海地方を制圧していた今川家が没落する一方、織田信長は尾張を完全統一したうえ畿内制圧へと台頭するきっかけとなった。松平元康(徳川家康)は三河で独立を回復して信長と清洲同盟を締結し、これが戦国時代の転機となった。

1583年(天正11年4月22日) – 賤ヶ岳の戦い: 柴田勝家側についていた前田利家が羽柴秀吉に降伏。

賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)は、天正11年(1583年)4月、近江国伊香郡(現:滋賀県長浜市、旧:伊香郡木之本町)の賤ヶ岳付近で起きた羽柴秀吉と柴田勝家の戦いである。

この戦いは織田勢力を二分する激しいものとなり、勝利した秀吉は亡き織田信長が築き上げた権力と体制を継承し、天下人への第一歩がひらかれた。

1592年(文禄元年5月3日) – 文禄の役: 朝鮮の首都・漢城(現在のソウル)が陥落し、小西行長・加藤清正が入城。

日本158700対 明朝鮮軍250000

損害

日本20000 対 明朝鮮 30000強

文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)は、天正20年/万暦20年/宣祖25年[注 11](1592年)に始まって翌文禄2年(1593年)に休戦した文禄の役と、慶長2年(1597年)の講和交渉決裂によって再開されて慶長3年/万暦26年/宣祖31年[注 11](1598年)の太閤豊臣秀吉の死をもって日本軍の撤退で終結した慶長の役とを、合わせた戦役の総称である(他の名称については後節を参照)。全兵船の3分の1以上を動員して、対馬を侵略した朝鮮による応永の外寇以来の朝鮮半島国家との戦争であった[21]。

なお、文禄元年への改元は12月8日(グレゴリオ暦1593年1月10日)に行われたため、4月12日の釜山上陸で始まった戦役初年のほとんどの出来事は、厳密にいえば天正20年の出来事である。また特に注記のない文中の月日は全て和暦[注 12])で表記。( )の年は西暦である。

日本の天下統一を果たした豊臣秀吉は大明帝国の征服を目指し、配下の西国の諸大名を糾合して遠征軍を立ち上げた。秀吉は(明の)冊封国である朝鮮に服属を強要したが拒まれたため、この遠征軍をまず朝鮮に差し向けた。小西行長や加藤清正らの侵攻で混乱した首都・漢城を放棄した朝鮮国王宣祖は、明の援軍を仰いで連合軍でこれに抵抗しようとした。明は戦闘が遼東半島まで及ばぬよう日本軍を阻むために出兵を決断した。以後、戦線は膠着した。休戦と交渉を挟んで、朝鮮半島を舞台に戦われたこの国際戦争は、16世紀における世界最大規模の戦争であったともされる[22][注 13]。

未決着のまま終息したため、対馬藩は偽使を用いて独断で国交の修復を試み、江戸時代に柳川一件として暴露された。戦役の影響は、明と朝鮮には衰退の原因となる深刻な財政難を残した。豊臣家にも武断派と文治派に分かれた家臣団の内紛をもたらしたので、三者三様に被害を被ったが、西国大名の中には多数の奴婢を連れ帰るなどして代償を得た大名もあった。

1864年 – 南北戦争: コールドハーバーの戦いが終結。

戦力

北軍 100000 対 南軍 60000

損害

北軍 13000  南軍 2500

コールドハーバーの戦い(コールドハーバーのたたかい、英:Battle of Cold Harbor)は、南北戦争の中盤1864年5月31日から6月12日に行われた、北軍ユリシーズ・グラント中将が、南軍ロバート・E・リー将軍の北バージニア軍に対して起ち上げたオーバーランド方面作戦の最後の戦いである。この戦いはアメリカ史の中でも流血が多く、一方的な結果となったことで記憶されている。南軍の防御を施した部隊に対し北軍が絶望的な正面攻撃を敢行して、数千の兵士が倒れた。グラントはその自叙伝の中でこの戦闘のことを「私は常に、コールドハーバーでの最後の攻撃が行われたことを後悔してきた。同じような攻撃が1863年5月22日にビックスバーグでも行われたと言うことが出来る。コールドハーバーでは、我々の受けた大きな損失を償えるようなものは何も得られなかった。」と述懐した。

戦力

北軍 100000 対 南軍 60000

損害

北軍 13000  南軍 2500

1945年-沖縄戦6月12日:米軍:・6月12日、… C中隊とF中隊は、驚くべきほどの容易さをもって進撃できた。この分なら簡単に丘を占領できるだろうと思った。だが、この勝利の夢も明け方になるとはかなく消えた。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 491頁より》・米軍は煙幕を張って進撃したが、日本軍はこの煙幕のなかに機関銃弾を流し、米軍は、結局、2個中隊と、その支援戦車隊が撃退されて攻撃は失敗した。午後、C中隊とF中隊が、まだ救援を求めているとき、戦車数輌は、負傷者用のプラズマやそれに水、弾薬などを積んで国吉丘陵に到着し、重傷者を後方に運んできた。

大隊長らは、この戦車隊の成功に気をよくして、今度は各戦車に6人ずつの歩兵を積み、この長さ1キロの平地を横切る計画をたてた。こうして銃火の中を戦車隊が、行きに弾薬物資を運び、帰りに負傷者を運んでくるという方法は、案外うまくいき、日が暮れるまでに、その日だけでも22人の戦死傷者を、後方地区に運ぶことができ、国吉丘陵攻略戦では、ずっとこの方法が行われた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 491-492頁より》:日本軍:・米軍の砲爆撃は4、5月と続けられた。そのため5月末、海軍部隊は一時、南部に移動した。医務室壕は重症患者も多く、自力で動けない者は青酸カリで薬殺された。最初は食事に混入。頭をつきあわし、もがき苦しむ患者の中で、1人が食べて死ぬと、もう、食べる人はいない。すると次は注射。栄養注射といつわって打つ。死ぬ。それを見て他の患者があばれる。数人で押さえ込んで打つ。

 上里さんは自らの戦争体験の中で、最も恐ろしい体験を語る。「注射を打つと、あっという間です。『うーん』とうめき声を上げたと思ったら、両手が曲がり始め、このまま…」。重い口がさらに重くなる。戦後、何度もうなされた。夫が亡くなった時も、「そのせいで罰があたった」と一時期ノイローゼになったとも言う。

 南部から戻ってきた時のがけの壕は悪臭を放っていた。降り続く雨で死体の腐乱が早まり、じめじめとした壕の中は、ハエと悪臭で人が入ることを拒んだ。「死体の上にはしごを置き、その上を歩いた」ほど、どうしようもない光景だった。… ハエもたくさんいた。火を消すほどハエがいた。「あのころは油に芯(しん)を入れただけでの簡単な明かりでしたが、火をつけると、一瞬のうちに、数えきれないほどハエが飛んできて、その火を消すんです」。<琉球新報『戦禍を掘る』山根隊医務壕 – Battle of Okinawa>・12日午後、74高地の頂上は米軍に占領され、司令部壕の最後の時は迫った。…壕内に居た各部隊の生存者に最後の非常呼集が掛かったのは午後8時ごろだったと言う。司令室と幕僚室にはさまれた通路に整列したのは、血潮と硝煙にまみれた約270人にすぎなかった。大田司令官の他、幕僚は首席参謀の前川大佐、南西諸島空司令から連合艦隊兼沖根参謀に転じ、4月から司令部に詰めていた棚町大佐、護部隊司令・羽田大佐、21空廠小禄派遣隊の鈴木中佐、軍医長・小山少佐、機関参謀・山田少佐の6人が顔を揃えていた。司令官は普段と全く変わらぬ温泉顔で、歴戦の部下の顔を慈愛に満ちた眼差しで見回していたが、「敗軍の将、兵を語らず」故だろうか、伝達事項は山田参謀が声を張り上げた。大要次のような内容だったと言う。

「司令官及び幕僚は本日、自決される。これまで、諸官と共に随分、奮闘したが、遂に敗れた。しかし、友軍は必ず逆上陸して、沖縄島を奪回すると信じる。自力で行動出来る者は最後まで生き延び、地理に明るい諸官が逆上陸軍に協力してくれ。自力で行動出来ぬ者は、残念ながら自決してくれ。自力で行動出来る者は只今から自由行動を取れ」《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三 / 光人社NF文庫) 445-446頁》

・兵曹長の証言:「壕には他に、身動き出来ぬ傷病兵が約300人は居まして、その処置が早速、始まりました。軍医長は『自分は皆を殺すために軍医になったのではないが、事ここに至っては止むを得ない。どうか死んでくれーッ』と泣きながら、注射していきました。これらの人々も無念の涙にくれながら、次々に瞑目しました。ですが、中には手も足も動かせぬ兵隊で『軍医長、待ってくれーッ。このままでは、死んでも死に切れん。せめて手榴弾の一発でも、敵に投げさせてくれーッ』と絶叫する者も居まして、その悲壮な光景はとても言葉では表せません」《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三 / 光人社NF文庫) 446-467頁》・海軍壕の最期。大田實司令官の自決は翌日13日午前1時頃と言われている。

2016年 – オーランド銃乱射事件が発生。容疑者1人を含む50人が死亡、53人が負傷。米国で起きた銃乱射事件としては史上最悪のものとなった[9]。

オーランド銃乱射事件(オーランドじゅうらんしゃじけん)とは、2016年6月12日、オマール・マティーンにより引き起こされた、米国フロリダ州オーランドのナイトクラブ「パルス」で起きた銃乱射事件である。

概要

フロリダ州オーランドのゲイナイトクラブ「パルス」(Pulse)でクラブの客を標的に、マティーンがAR-15系の自動小銃を乱射した後、店内に立てこもった[1]。約3時間後にSWATが突入し、男は射殺された[2]。

マティーンは、ナイトクラブの客49人を射殺し、さらに53人を負傷させた後、SWATによって射殺された[3][4][5]。

この銃乱射事件は、被害としては2007年のバージニア工科大学銃乱射事件を超えてアメリカの犯罪史上最悪(当時)となった[3](2017年には犠牲者数60人のラスベガス・ストリップ銃乱射事件が発生している)。

2025年 – エア・インディア171便墜落事故。インド。241人死亡。1名生存。

エア・インディア171便墜落事故(エア・インディア171びんついらくじこ、グジャラート語: એર ઇન્ડિયા ફ્લાઇટ ૧૭૧)は、2025年6月12日にインドで発生した航空事故である。

ロンドン・ガトウィック行きのエア・インディア171便(ボーイング787-8/登録:VT-ANB)[4]がインド西部のアフマダーバード国際空港からの離陸直後に墜落[5][1]。この事故はボーイング787初の全損・死亡事故となった上、エア・インディアにとっては1985年に発生したエア・インディア182便爆破事件以来の機体全損となる。

チャットgpt先生の6月12日のエッセイ


6月12日 ――「勝利は能力ではなく条件で決まる」

6月12日を眺めると、一つの共通項が浮かぶ。

それは英雄でも正義でもなく、「条件差」である。

歴史はしばしば個人の才能や精神力によって動いたように語られる。しかし実際には、戦争も政治も社会も、多くの場合は条件が優勢な側が勝ち、条件を覆せた時だけ歴史に名が残る。

1560年の桶狭間はその典型だった。

今川義元は東海最強の大名であり、兵力も織田信長を圧倒していた。普通に考えれば勝敗は決まっていた。

しかし戦場では兵力そのものよりも、指揮系統の集中度、地形、警戒の緩み、偶然の気象条件が作用する。

信長は義元軍全体を倒したのではない。

巨大軍の「頭」を叩いた。

25000対2000という数字が有名だが、実際には信長が戦ったのは今川軍の全戦力ではない。だから勝てた。

リアリズムで見るなら、桶狭間は精神論の勝利ではなく、情報と機動の勝利である。


1583年の賤ヶ岳では別の現実が見える。

前田利家の離脱によって柴田勝家は敗れた。

戦国史では裏切りや義理が語られるが、実際には「勝てる側へ流れる」という現象が起きただけとも言える。

信長の死後、天下の空白を埋める競争で最も多くの資源を集められたのが羽柴秀吉だった。

戦争はしばしば戦場で決まるように見える。

だが実際には戦場に立つ前に決まっていることも多い。

賤ヶ岳はその典型だった。


1592年の文禄の役ではさらに巨大な構図が現れる。

日本軍は短期間で漢城を占領した。

当時の豊臣政権は東アジアでも有数の軍事国家だった。

しかし占領と支配は別である。

日本軍は勝てた。

だが維持できなかった。

明も朝鮮も大損害を受けた。

日本もまた膨大な人的・財政的負担を負った。

結局、この戦争の勝者は存在しない。

巨大戦争ではしばしばそうなる。

誰も負けを認めないまま全員が消耗する。

近代以前の総力戦とはそういうものだった。


1864年のコールドハーバーでは逆の例が見える。

北軍10万。

南軍6万。

兵力は北軍が優勢だった。

しかし損害は北軍13000、南軍2500。

攻撃側と防御側の差が極端に表れた戦闘である。

グラントは後に後悔を語った。

だがリアリズムで見れば、この失敗もまた合理的だった。

北軍は損害を補充できた。

南軍は補充できなかった。

戦術では負けても戦略では勝てる。

だから攻撃を続けられた。

兵士にとっては悲劇でも、国家レベルでは合理だった。

これが総力戦の冷酷さである。


そして1945年6月12日の沖縄戦。

ここではさらに極端な現実が見える。

戦後日本では長く「圧倒的物量の米軍に日本軍が蹂躙された」という図式で語られた。

もちろん物量差は存在した。

制空権も制海権も米軍が握っていた。

補給能力は比較にならない。

最終的勝敗は最初から決まっていた。

しかし戦術レベルでは話が違う。

沖縄戦は米軍にとって太平洋戦争最大級の消耗戦だった。

日本軍は勝つためではなく、損害を最大化するために戦った。

洞窟陣地。

逆斜面陣地。

地下司令部。

分散配置。

夜間浸透。

砲撃後の再占拠。

これらは極めて合理的だった。

サイパンや硫黄島で得た経験をさらに発展させた結果である。

米軍は圧倒的火力を持ちながら、地形と地下陣地によってその優位を削られた。

そのため国吉丘陵や八重瀬岳周辺では、歩兵が前進できず戦車による補給と負傷兵回収まで行う事態になった。

物量は万能ではなかった。

だから苦戦した。


一方で日本側もまた極限状態に陥る。

補給は消滅し、医薬品は尽き、壕内には重傷者が溢れた。

戦後の証言にある青酸カリ投与や負傷兵処置の問題も、善悪だけでは理解できない。

もちろん人道的には悲惨である。

しかし現場の論理は別だった。

移動不能者を抱えれば部隊全体が動けなくなる。

食糧も医薬品も不足する。

撤退もできない。

そこで極端な選択が発生する。

これは日本軍だけではない。

スターリングラードでもベルリンでも同様の事例は見られる。

総力戦とは国家が個人を消費する仕組みだからだ。


さらに住民問題も同じである。

例えば米軍捕虜になった住民への報復殺害。

現代人の感覚では残虐行為である。

だが軍事組織の論理では情報漏洩防止という目的が存在する。

もちろん正当化はできない。

しかし構造としては理解できる。

極限状況では組織の生存が個人の生命より優先される。

沖縄戦で起きた数々の悲劇の多くは、この構造から発生している。

善人が悪人になったのではない。

状況が人間を変えたのである。


そして1945年6月12日は、海軍司令官の
大田實
の最期が迫った日でもある。

この時点で軍事的勝利の可能性は存在しない。

それでも司令部は最後まで抵抗を続けた。

現代から見ると無意味に映る。

しかし彼らの認識では、本土決戦のために一日でも米軍を拘束することが任務だった。

つまり目的が「勝利」から「時間稼ぎ」へ変化していた。

負け戦の末期にしばしば見られる現象である。


2016年の
オーランド銃乱射事件
も、2025年の
エア・インディア171便墜落事故
も、別の形で同じことを示している。

巨大な社会システムは平時には安定して見える。

しかし一人の人間や一つの故障によって突然崩れる。

社会とは常に脆弱性を抱えている。


6月12日を貫くテーマを一言で表すなら、

「歴史は意思より条件によって動く。しかし時に条件を覆した者だけが歴史に名を残す」

ということだろう。

桶狭間の信長も、賤ヶ岳の秀吉も、沖縄戦の将兵も、それぞれ異なる立場にいた。

だが共通していたのは、理想ではなく現実の制約の中で行動していたことだった。

歴史の現場にいた人々は後世の評価を知らない。

彼らが見ていたのは、理念ではなく、目の前の地形、兵力、補給、時間、そして生存可能性だったのである。