6月10日
20260610水曜日旧暦4月25日仏滅(52番乙卯きのとうイツボウ)月齢 24.2
43番丙午ひのえうま年 30番癸巳みずのとみ月 52番乙卯きのとう日
吉方位 陽遁日 乙卯きのとう日 西 中吉 年末まであと204日
https://ja.wikipedia.org/wiki/6%E6%9C%8810%E6%97%A5
6月10日の出来事
716年(霊亀2年5月16日) – 高句麗の遺民1,799名を武蔵国に移し高麗郡を設置[要出典]。
1221年(承久3年5月19日) – 承久の乱: 北条義時追討を命ずる後鳥羽上皇の院宣を受けて北条政子が鎌倉武士団に団結を訴える演説を行う。
1786年 – 10日前の地震で中国四川省の大渡河にできた天然ダムが崩壊。10万人が死亡。
1886年 – ニュージーランドのタラウェラ山が大噴火。飛び散った噴石により153人が死亡。
1900年 – 義和団の乱鎮圧のため、日米英独仏伊墺露の8か国連合軍が北京へ侵攻開始。(列国第2次出兵)
戦争:義和団の乱
年月日:1900年6月20日 – 1901年9月7日
場所:清の旗 清、華北、満洲
結果:八カ国連合軍の勝利
損害:八か国連合軍 7万人強中 死傷757人 義和団 20万人強中 死傷数万人。
1942年 – 第二次世界大戦: ナチス・ドイツがラインハルト・ハイドリヒ暗殺の報復としてチェコのリディツェで住民を虐殺。 500~1300人以上。
1944年 – 第二次世界大戦: ナチス・ドイツの武装親衛隊がフランスのオラドゥール=シュル=グラヌで住民642人を虐殺。
1944年 – 第二次世界大戦: ディストモの大虐殺。ナチス・ドイツのSS警察部隊がギリシャのディストモで住民218人を殺害。
1945年-沖縄戦6月10日:米軍:・戦車隊は6月10日の朝6時、ほそい道路上を砂塵をたてて前線に邁進した。…
沖縄戦の様相は一変した。そして、戦闘の終了まで、戦車は自由奔放に十分に活躍した。天候にも恵まれ、地形も良かったので米軍火炎砲戦車は、日本軍の壕陣地をつぎつぎと壊滅し、そのたびに砲火の量は、しだいに減っていった。
この戦闘でもっとも重要なことは、戦闘を通じて歩兵も戦車隊も経験を積み、ほとんど完璧に近い戦車–歩兵のチームプレーができたことである。
沖縄南端の戦闘は、オレンジ色の火の玉と、銃砲弾、爆弾、ロケットなどの入り乱れた百雷のような大音響の連続であった。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 474頁より》・米陸軍公刊戦史より
3月26日 (硫黄島の戦い終結) の時点で海兵隊が捕虜にしたのはわずか216人で、そのうち55人が朝鮮人軍夫だった。… また4月半ば、陸軍部隊は硫黄島東部の地下100フィートに位置する第2混成旅団の野戦病院を偶然発見した。… 語学将兵は日本人に出てくるよう訴え、長い議論の後、上級軍医将校の Masaru Inoaka 少佐が投票を呼びかけた。投票結果は降伏賛成69、反対3であった。反対3名のうち、Kyutaro Kojima 伍長は即刻自殺した。残りの者たちは、さらに2人の医官、野口巌大尉と太田英雄中尉を含めて出てきた。野口大尉は、多くの人が亡くなる中、自分は生きてきたという自責の念に苛まれ、日本での生活を受け入れられず、後にブラジル※に移住した。<Western Pacific Operations [Chapter VI-11] p. 710.>:日本軍:・6月10日、米軍は四方から攻勢をかけてきた。この日、沖縄方面根拠地隊の司令部のある74高地も焦点になった。海軍部隊の戦線は逐次縮小されつつあった。10日の戦況は次のとおりである。(1) 平良、宇栄田、伊良波方面、および高安、宜保、地覇方面の敵兵は次第に増加して74高地に近接、午後より銃砲撃戦を展開する。…
同10日、牛島司令官は大田司令官に対し、真情を述べた電報(原文不明)を送った。これに対し、大田司令官は次のような返電を送った。
「小禄地区に敵をむかえて一週目になる時、御懇電に接して感激にたえない。海軍部隊が陸軍部隊と合流できなかったのは、真にやむを得ない状況に基くもので、もとより小官の本意ではない。したがって、南北に相分れるといえども陸海軍協力一体の実情においては、いささかも微動するものではない。今後は貴電にしたがって、ますます柔軟な持久戦を行い敵に大出血を強要する。なお、戦果については、つとめて正確をきし確認したもののみを御報告する」《「沖縄 旧海軍司令部壕の軌跡」(宮里一夫著/ニライ社) 111-114頁より》・小禄村のある少年の証言:
6月10日ごろ、海軍下士官の双眼鏡をのぞかせてもらうと、国場川の向こう、那覇市壺川あたりを上半身はだかの米兵が銃をさげて動いているのが見えました。友軍がいっせいに射撃をすると米兵がバタバタ倒れる。大型戦車が走る。その砲身が動く。砲身の下から火焔放射器が火を噴く。アゴがガクガク鳴る。あわてて海軍の壕にかけ込みました」
「敵の砲撃で壕は地震のようにゆれました。その壕の中で従軍看護婦の姉…と1ヵ月ぶりに会いました。彼女は10キロの急造爆雷を背負い、肩から導火線をたらし、腰に手榴弾を3発ぶらさげ、手にヤリを持っていました。かっこいいんだなあ。『ぼくも斬込隊になりたい』とさわいで兵隊にたしなめられました。姉は攻撃のために壕を出て行きました。出て間もなく、胸部貫通銃創で即死しました。私は様子を見に行くとがんばりましたが、おじが『お前は見るな。おじさんがちゃんと見ておく』といって私には姉の最期を見せてくれませんでした」《「沖縄・八十四日の戦い」(榊原昭二/新潮社版) 170-171頁より》
1945年 – 米軍が君原村・阿見町・土浦市一帯の海軍航空隊施設などを爆撃、軍民合せて300人以上が死亡。
1967年 – 第三次中東戦争(6月5日 – )が終結。空軍による6日間の電撃作戦でイスラエルの占領地域は戦前の4倍以上に拡大し、現在まで中東の地政学に影響している。
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716年(霊亀2年5月16日) – 高句麗の遺民1,799名を武蔵国に移し高麗郡を設置[要出典]。
現在の行政区画では概ね以下の区域に相当する。
日高市(全域)
鶴ヶ島市(全域)
川越市(入間川以西)
狭山市(同上)
入間市(大字野田、仏子、新光)
飯能市(大字坂石、坂石町分、南、南川、北川、高山、坂元、上名栗、下名栗を除く全域)
翌年の2017年(平成29年)9月20日には、明仁天皇、美智子皇后が、私的旅行として高麗神社を参拝した。天皇の参拝は創建以来初めてである。ほかに高麗家住宅・巾着田を視察した[8]。
1221年(承久3年5月19日) – 承久の乱: 北条義時追討を命ずる後鳥羽上皇の院宣を受けて北条政子が鎌倉武士団に団結を訴える演説を行う。
1786年 – 10日前の地震で中国四川省の大渡河にできた天然ダムが崩壊。10万人が死亡。
延長 1,155 km
水源 青海省
河口・合流先 岷江
流域 中国
1886年 – ニュージーランドのタラウェラ山が大噴火。飛び散った噴石により153人が死亡。
タラウェラ山(タラウェラさん、英語: Mt. Tarawera)は、ニュージーランドの北島ロトルア湖南東に位置する火山である。1886年の大噴火が著名。標高は1,111m。
1886年6月10日、大噴火。午前2時頃から火山性地震が多くなり、爆発音が数回鳴った。そして午前2時30分頃に噴煙が噴出し、噴火が確認された。噴煙はその後も噴出し、午前3時30分頃に噴石が火口から飛び散った。これにより、約150名の死者が出た。
1900年 – 義和団の乱鎮圧のため、日米英独仏伊墺露の8か国連合軍が北京へ侵攻開始。(列国第2次出兵)
戦争:義和団の乱
年月日:1900年6月20日 – 1901年9月7日
場所:清の旗 清、華北、満洲
結果:八カ国連合軍の勝利
損害:八か国連合軍 7万人強中 死傷757人 義和団 20万人強中 死傷数万人。
1942年 – 第二次世界大戦: ナチス・ドイツがラインハルト・ハイドリヒ暗殺の報復としてチェコのリディツェで住民を虐殺。 500~1300人以上。
1942年5月27日 、ハイドリヒはいつものようにプラハ郊外の宿舎から、執務室がある市内のプラハ城に専用車で出勤した。朝10時半頃、車がホレショヴィチェ通り(Holešovice)にさしかかった時、待ち伏せしていたガプチークとクビシュは爆弾を投げつけた(詳しくはエンスラポイド作戦)。ハイドリヒの乗車は破壊され、重傷を負ったハイドリヒは病院に搬送された。ガプチークとクビシュは現場から逃亡した[2]。
証拠はなかったが、クラドノの保安警察及びSD指揮官ホルスト・ベーメ[3]は、リディツェの住民がこの襲撃事件の犯人を隠匿していたと考えた。襲撃の翌日の5月28日にゲシュタポがリディツェ在住の2家族(男性8人、女性7人)を逮捕した。住民たちはこれで終わったと思いこんでいた[4]が、ベーメとベーメン・メーレン保護領の親衛隊及び警察指導者カール・ヘルマン・フランクは、リディツェの完全な破壊をアドルフ・ヒトラーに上申していた。
6月4日、ハイドリヒは感染症で死亡した[5]。ヒトラーは怒り、6月9日に上申されたリディツェの掃討を実行する総統命令を出した[6]。
旧リディツェの跡地(現在は追悼碑となっている)
翌日の6月10日、保安警察部隊が再びリディツェにやってきた。前回とは異なり、約500人[4]いたリディツェの住民全員が一箇所に集められ、15歳以上の男性約200人は納屋に押し込まれたのち、10人ずつ引き出されては銃殺された[4]。なおこの際の処刑の様子は保安警察が映像に収めており、後にニュルンベルク裁判で証拠として使用された[4]。
女性約180人は、ラーフェンスブリュック強制収容所に送られた[7]。四分の一がチフスと過労により死亡した。
約100人の子供は、ウッチ(Łódź, 現在のポーランドに存在)のグナイゼナウ通り(Gneisenaustraße)の強制収容所に送られ、人種的に分類された。そこでアーリア化に適していると判断された8名の子供のみがドイツに送られ(戦後に発見され、チェコスロヴァキアに送還された)、残りの子供はヘウムノ強制収容所に送られた[8]。
チェコ政府はヘウムノの収容所で死亡したと思われた乳児の一人で1941年生まれのマルタ・フロニコヴァ(Marta Hroníkova)が生存していることを2005年に発表した。この追跡はドイツ人記者ケルスティン・シヒャ(Kerstin Schicha)とドイツ人弁護士フランク・メッツィング(Frank Metzing)により行われた。
暗殺作戦を担当したガブツィクらはプラハ市内の教会に隠れていたが、6月18日に発見され、銃撃戦で死亡した。6月24日には隣接するレジャーキがリディツェと同様に破壊された[9]。ハイドリヒ暗殺事件に関連して殺害された者は約1300人に上った[10] 。
ナチスはヨーロッパ占領地域で行なった住民の虐殺を秘匿することが多かったが、リディツェの事件は大きく宣伝した。
1944年 – 第二次世界大戦: ナチス・ドイツの武装親衛隊がフランスのオラドゥール=シュル=グラヌで住民642人を虐殺
オラドゥール=シュル=グラヌ(フランス語: Oradour-sur-Glane)とは、フランス・ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏オート=ヴィエンヌ県の村である。1944年6月10日、ドイツの占領下であったこの村でナチスの武装親衛隊による大規模な虐殺が行われた。当時村にいた村民のほぼ全員が殺されゴーストタウンと化した。
抑圧
燃やされた乗用車
ドイツはレジスタンス運動のメンバーをテロリストと見なしていた。制服を着るわけでもなく非武装のドイツ占領要員への攻撃をためらわず、一般民衆に紛れて活動する「顔の見えない」彼らを非常に大きな脅威と捉えていた。オラドゥールにおける虐殺は突発的なものではなく、慎重に練られたレジスタンス一掃政策の一部だった。しかしながら、このような虐殺や何千人にもおよぶ一般市民の死にもかかわらずフランスにおけるレジスタンス運動は様々な形態を取りながら終戦まで続けられた。
ドイツによるこのような集団報復が行われたのは、オラドゥールだけではなかった。ソ連(現・ウクライナ)のコーテリシー、チェコのリディツェ村、オランダのプッテン、イタリアのマルツァボットなどでも同様の虐殺が行われている。さらにドイツ兵はフランス各地で無作為またはレジスタンス疑惑のある集団の中から人質をとった。これは、自身に加えて他者の命まで危険にさらすのをためらったレジスタンスが攻撃を控えることを狙ったものであった。
1944年 – 第二次世界大戦: ディストモの大虐殺。ナチス・ドイツのSS警察部隊がギリシャのディストモで住民218人を殺害。
ディストモの大虐殺(英: Distomo massacre; ギリシア語: Η σφαγή του Διστόμου; 独: Massaker von Distomo あるいは Distomo-Massaker)は、第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの武装親衛隊により占領下ギリシャのディストモ村で行われた戦争犯罪である。
大虐殺
1944年6月10日、親衛隊大尉フリッツ・ラウテンバッハ(Fritz Lautenbach) に率いられた第4SS警察装甲擲弾兵師団所属の部隊が、パルチザンから攻撃を受けたことの「報復」と称して、2時間以上にわたり各戸をまわってギリシャ民間人を大量虐殺した。デルフォイ近くの小さなディストモ村の[1]成人男女と子供合計214人が殺害された[2]。複数の生存者によると、ドイツ親衛隊の部隊は「ベビーベッドの中の赤ん坊を銃剣で突き、妊婦を突き刺し、村の神父を斬首した」[1]。
大虐殺の後、ドイツ軍部隊に同行していたある秘密野戦警察隊員は当局に対し、ラウテンバッハの公式報告とは逆に、ドイツ軍が攻撃を受けたのはディストモ村から数マイルの地点で、「ディストモ村の方角から迫撃砲、マシンガン、ライフル」による攻撃を受けたのではないと報告した。審理が行われ、ラウテンバッハは服務規定を犯したことを認めたが、法廷は、ラウデンバッハの動機は怠慢や無知ではなく部下に対する責任感であったとして、ラウデンバッハを支持した[3]。
1945年 – 米軍が君原村・阿見町・土浦市一帯の海軍航空隊施設などを爆撃、軍民合せて300人以上が死亡。
1945年-沖縄戦6月10日:米軍:・戦車隊は6月10日の朝6時、ほそい道路上を砂塵をたてて前線に邁進した。…
沖縄戦の様相は一変した。そして、戦闘の終了まで、戦車は自由奔放に十分に活躍した。天候にも恵まれ、地形も良かったので米軍火炎砲戦車は、日本軍の壕陣地をつぎつぎと壊滅し、そのたびに砲火の量は、しだいに減っていった。
この戦闘でもっとも重要なことは、戦闘を通じて歩兵も戦車隊も経験を積み、ほとんど完璧に近い戦車–歩兵のチームプレーができたことである。
沖縄南端の戦闘は、オレンジ色の火の玉と、銃砲弾、爆弾、ロケットなどの入り乱れた百雷のような大音響の連続であった。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 474頁より》・米陸軍公刊戦史より
3月26日 (硫黄島の戦い終結) の時点で海兵隊が捕虜にしたのはわずか216人で、そのうち55人が朝鮮人軍夫だった。… また4月半ば、陸軍部隊は硫黄島東部の地下100フィートに位置する第2混成旅団の野戦病院を偶然発見した。… 語学将兵は日本人に出てくるよう訴え、長い議論の後、上級軍医将校の Masaru Inoaka 少佐が投票を呼びかけた。投票結果は降伏賛成69、反対3であった。反対3名のうち、Kyutaro Kojima 伍長は即刻自殺した。残りの者たちは、さらに2人の医官、野口巌大尉と太田英雄中尉を含めて出てきた。野口大尉は、多くの人が亡くなる中、自分は生きてきたという自責の念に苛まれ、日本での生活を受け入れられず、後にブラジル※に移住した。<Western Pacific Operations [Chapter VI-11] p. 710.>:日本軍:・6月10日、米軍は四方から攻勢をかけてきた。この日、沖縄方面根拠地隊の司令部のある74高地も焦点になった。海軍部隊の戦線は逐次縮小されつつあった。10日の戦況は次のとおりである。(1) 平良、宇栄田、伊良波方面、および高安、宜保、地覇方面の敵兵は次第に増加して74高地に近接、午後より銃砲撃戦を展開する。…
同10日、牛島司令官は大田司令官に対し、真情を述べた電報(原文不明)を送った。これに対し、大田司令官は次のような返電を送った。
「小禄地区に敵をむかえて一週目になる時、御懇電に接して感激にたえない。海軍部隊が陸軍部隊と合流できなかったのは、真にやむを得ない状況に基くもので、もとより小官の本意ではない。したがって、南北に相分れるといえども陸海軍協力一体の実情においては、いささかも微動するものではない。今後は貴電にしたがって、ますます柔軟な持久戦を行い敵に大出血を強要する。なお、戦果については、つとめて正確をきし確認したもののみを御報告する」《「沖縄 旧海軍司令部壕の軌跡」(宮里一夫著/ニライ社) 111-114頁より》・小禄村のある少年の証言:
6月10日ごろ、海軍下士官の双眼鏡をのぞかせてもらうと、国場川の向こう、那覇市壺川あたりを上半身はだかの米兵が銃をさげて動いているのが見えました。友軍がいっせいに射撃をすると米兵がバタバタ倒れる。大型戦車が走る。その砲身が動く。砲身の下から火焔放射器が火を噴く。アゴがガクガク鳴る。あわてて海軍の壕にかけ込みました」
「敵の砲撃で壕は地震のようにゆれました。その壕の中で従軍看護婦の姉…と1ヵ月ぶりに会いました。彼女は10キロの急造爆雷を背負い、肩から導火線をたらし、腰に手榴弾を3発ぶらさげ、手にヤリを持っていました。かっこいいんだなあ。『ぼくも斬込隊になりたい』とさわいで兵隊にたしなめられました。姉は攻撃のために壕を出て行きました。出て間もなく、胸部貫通銃創で即死しました。私は様子を見に行くとがんばりましたが、おじが『お前は見るな。おじさんがちゃんと見ておく』といって私には姉の最期を見せてくれませんでした」《「沖縄・八十四日の戦い」(榊原昭二/新潮社版) 170-171頁より》
・八原高級参謀の回想:
後方整理にあたって最も苦慮したのは、傷者の処置であった。首里戦線2か月のわが死傷は約3万5000である。古来戦場における死傷の比は1対3が普通であるが、わが沖縄戦においては、これが反対になった。その原因としては、戦況上、傷者の収容治療が至難で、当然助かるべき者が死んだこと、包囲馬乗り攻撃を受けても、さらに敢闘を続けて全滅するか、あるいは重囲を脱し退却する際、歩行に耐えぬ重傷者はその場で自決したこと、軽傷者は負傷者として数えなかったことを挙げることができる。
かくして5月末、首里、津嘉山付近はもちろん全戦線にあった負傷者の総数は1万に達したであろう。多少でも歩行し得るものはよい。そうでない重傷者を、いかにして新陣地に後送するかは重大問題である。輸送力が極めて少ない。時日にも制限がある。そして新陣地に後送しても、これを収容するに足る洞窟がない。
もちろん軍としては、全力を尽くして傷つける戦友を後送し、1名といえども敵手に委しては相成らぬ。だが実情は遺憾ながら相当数の重傷者は収容不能である。
この不幸な人々をいかに処置すべきであろうか? 現代日本陸軍の理想精神よりすれば、答解はすこぶる簡単明瞭で、自決!の一語あるのみだ。しかし私情において我々は自決を強要するに忍びない。列強文明国の軍隊においては、負傷して戦闘能力を失い、敵手にはいることは、別に恥辱とも考えられないし、またしかるべき治療待遇を受けることになっている。本問題に関する軍参謀長の指示は、「各々日本軍人として辱しからざる如く善処すべし」であったように記憶する。事実、大多数の傷者は、平素教えられた如く—軍参謀長の指示を俟つまでもなく、「天皇陛下万歳」を三唱し、手榴弾、急造爆雷、あるいは青酸加里の如き薬品をもって自決した。また軍医が、そっと薬品注射を行い、自決を補助した部隊も少なくはなかったろう。軍司令部においても、片岡獣医大尉の如きは、病衰の極、戦友の手足纏になるのを喜ばず、独り津嘉山洞窟に残り最期を遂げた。
しかし、皆があっさり自決したわけではなく、精神力旺盛な者は、驚嘆すべき力を発揮し、自力で新陣地に後退した者も少なくはなかった。ある傷者の如きは、両脚の重傷に屈せず、十余キロの泥濘の道を座行しながら所属部隊に合し、生存戦友を感動させた者もある。
《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 375-376頁より》
1967年 – 第三次中東戦争(6月5日 – )が終結。空軍による6日間の電撃作戦でイスラエルの占領地域は戦前の4倍以上に拡大し、現在まで中東の地政学に影響している。
チャットgpt先生の6月10日のエッセイ
6月10日を眺めると、この日は「国家や組織が追い詰められた時、何をするか」が異様なほど凝縮して現れている日である。
716年の高麗郡設置から始まる。一般には渡来人受け入れの歴史として語られるが、当時の朝廷にとっては人道や文化交流が第一ではない。人口・技術・軍事力を管理可能な地域へ再配置する国家運営である。滅亡した高句麗の遺民も、朝廷も、それぞれ生存戦略として動いていた。国家とはしばしば文化より先に人口を数える。
1221年の承久の乱も同じ構図だ。後鳥羽上皇の権威よりも、北条政子の演説によって鎌倉武士団が動いた。ここで勝敗を決めたのは理念ではなく、誰が武力と利益配分を掌握していたかである。歴史上しばしば見られるように、正統性は軍事力を生み出すのではなく、軍事力が正統性を作る。
1786年の四川省大渡河天然ダム決壊は自然災害でありながら、人間社会の脆弱性を示している。地震そのものではなく、その後に形成された天然ダムの崩壊によって10万人規模が死亡した。危機とは一度で終わらない。一次災害の後に二次災害が本命になることは現代でも変わらない。
1900年の義和団戦争では列強八か国が共同で北京へ進軍した。欧州列強同士は普段競争相手だが、利益が一致すると協力する。国際政治に永遠の友人も敵もないという言葉は陳腐だが、義和団戦争はその典型である。理念より秩序維持と権益保護が優先された。
そして6月10日を特徴づけるのは1940年代の一連の虐殺である。
リディツェ虐殺
オラドゥール=シュル=グラヌ虐殺
ディストモの大虐殺
これらを道徳的非難だけで理解すると本質を見失う。
ナチスが行ったのは「恐怖の経済学」である。レジスタンス1人を殺すためではなく、住民全体に「抵抗すると村ごと消える」という期待値を植え付けるための見せしめだった。結果として戦略的には失敗した。フランスでもギリシャでもチェコでも抵抗運動は継続した。しかし実施した側は合理的だと信じていたのである。
冷徹に言えば、国家や軍隊は追い詰められるほど個人ではなく集団を対象にし始める。
この構造は沖縄戦でも見える。
沖縄戦
現在の日本では沖縄戦は「圧倒的物量で米軍が一方的に蹂躙した戦い」として語られることが多い。しかしGHQのプレスコードや戦後の政治的文脈を一度横に置くと、軍事史としてはもっと複雑である。
米軍は勝利した。
しかし「楽勝」ではなかった。
むしろ米軍にとって太平洋戦争最大級の苦戦の一つだった。
米軍は制空権・制海権・補給力・砲兵力・工業力のすべてで圧倒していた。それにもかかわらず首里戦線では何週間も進撃が停滞した。
理由は日本軍が優秀だったからという単純な話ではない。
日本軍が勝てないことを前提に、防御戦だけに特化したからである。
八原博通参謀らが構築した持久戦構想は、敵を海岸で撃退するのではなく、上陸後に洞窟陣地へ誘い込み、砲兵・迫撃砲・地下陣地で消耗させるというものだった。
結果として米軍は膨大な火力を投入しても決定打を与えられず、歩兵が前進して初めて陣地を一つずつ潰すしかなかった。
6月10日に記録された火炎放射戦車と歩兵の連携が象徴的である。
米軍は戦闘を通じて学習し、戦車・工兵・歩兵・航空支援を統合していった。
沖縄後半戦は米軍が強かったというより、「米軍が学習能力を発揮した戦い」と見る方が正確かもしれない。
同時に日本軍もまた異常な持久力を見せた。
傷病兵の自決、地下壕での戦闘継続、補給の崩壊後も続く抵抗。
これは美談ではない。
組織が崩壊しても戦闘だけは継続するという極限状態である。
そして捕虜や住民への報復も、この極限状態の延長線上にある。
住民が米軍に保護された場合、それを「敵への協力」とみなして処刑する事例は沖縄でも各地で発生した。
これも感情論ではなく構造として見る必要がある。
ゲリラ戦や包囲戦では、軍隊は住民を独立した民間人ではなく情報資源として扱う。
敵側に渡った住民は情報漏洩のリスクになる。
だから報復が起きる。
もちろん国際法的にも倫理的にも正当化できない。
しかし軍事組織が追い詰められた時に繰り返し現れる現象ではある。
リディツェも、ディストモも、沖縄の住民虐殺も、構造としては遠く離れていない。
そして1967年。
第三次中東戦争
イスラエルはわずか6日で戦略環境を一変させた。
ここでも見えるのは道徳ではなく現実である。
生存が脅かされると認識した国家は、しばしば外交より先に先制攻撃を選ぶ。
その結果として占領地が拡大し、半世紀以上続く新たな問題が生まれた。
戦争は解決ではなく、次の問題の出発点になる。
6月10日を通して見えるのは、人類の進歩でも退歩でもない。
国家も軍隊も、危機の中では驚くほど似た行動を取る。
人口を移住させる。
反乱を鎮圧する。
見せしめを行う。
防御陣地に籠る。
先制攻撃を仕掛ける。
そして生き残った側が秩序を書き換える。
6月10日は、その冷たい現実が古代から現代まで一本の線でつながって見える日である。歴史の主役は理想ではなく、生存と権力の計算であり、その計算が成功した者の上に次の時代が築かれていく。

