5月10日
20260510日曜日旧暦3月24日友引(21番甲申きのえさるコウシン)月齢 22.6
43番丙午ひのえうま年 30番癸巳みずのとみ月 21番甲申きのえさる日
吉方位 陽遁日 甲申きのえさる日 北 北東 大吉 年末まではあと235日
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5月10日の出来事
1575年(天正3年4月2日) – 石山合戦: 石山本願寺の顕如が織田信長に反抗して再挙兵。石山合戦 年月日:元亀元年9月12日(1570年10月11日) – 天正8年8月2日(1580年9月10日) 場所:摂津国石山(大阪市中央区) 結果:石山本願寺と織田信長との講和 損害:石山本願寺軍 15000人強 2700人以上戦死 織田+九鬼軍 10000人中 僅少。
1611年(慶長16年3月28日) – 豊臣秀頼が徳川家康の招きで上洛。二条城で会見する。
1773年 – ボストン茶会事件: イギリスで茶法が成立。
1857年 – インドでインド大反乱(セポイの乱)が起こる。時 1857年5月10日 – 1859年11月1日 場所 インド(cf. 1857)[1] 発端 東インド会社による様々な行動がインド兵(セポイ)の反乱を招き、それに東インド会社による統治に不満を持っていた民衆が合流 結果 イギリスの勝利、ムガル帝国の滅亡、東インド会社による統治の終焉、英王室の直接統治によるイギリス領インド帝国成立 領土の変化 東インド会社が消滅し、イギリス領インド帝国が成立損害 :インド側(兵士+民間人) 10万〜80万人 イギリス側(兵士+民間人) 約1万〜1.5万人
1871年 – フランスとプロイセン王国の間で「フランクフルト講和条約」調印。普仏戦争が終結。普仏戦争:戦争:普仏戦争
年月日:1870年7月19日 – 1871年5月10日
場所:フランス、ドイツ、カリブ海
結果:プロイセン側の勝利、フランクフルト講和条約の締結 フランス第二帝政の崩壊
フランス第三共和政の成立 プロイセン王国(北ドイツ連邦)へのフランス領アルザス=ロレーヌの割譲 ドイツ統一が起こる。ドイツ帝国の成立
損害:フランス軍 90万人中 戦死28万人 捕虜47万人 ドイツ軍120万人中 戦死13万人強。
1877年 – イキケ地震: Mw 8.7、死者2,400人 チリ北部で発生した巨大地震。
1945年沖縄戦5月10日-:米軍:総攻撃前夜・バックナー中将は、5月10日、今度の攻撃では、特別に変わった戦闘はない、と語って、さらにつぎのようにつけ加えた。
「今度の攻撃もこれまでの続行にすぎない。もし、ただちに占領できない陣地があれば、いつまでもそれに固執せず、幾分弱体化させてからとし、攻略は予備軍にまかせよ。弾薬は十分あり、新鋭部隊も十分で、1個師団はたえず休養をとれるぐらいいる」
攻撃命令では、地上軍が戦闘にはいるまえに、30分間にわたる予備砲撃を行うことになった。この命令はこれまでのとは違って、「敵の砲台や要塞で、それとわかっているものは、最大限の破壊をすべし」というものだった。命令がこのように変わったのは、4月19日の予備砲撃作戦で失敗したからで、全戦線に沿って地下陣地網をはりめぐらしてある日本軍にたいしては、洞窟ひとつひとつの入口は的確に攻撃することが必要であったからだ。
《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 335-336頁より》:日本軍:・… 小禄陣地にいるからこそ、20センチ砲5、15センチ砲9、12センチ砲11、25ミリ機砲64、12ミリ機銃100、7.7ミリ機銃124の銃砲弾を敵に浴びせることができるが、そこを出たら、随身兵器を持たないので、7.7ミリ機銃(小銃と同じ大きさ)を外して抱えていくだけ。おどろいたことに、スコップもないので、第一線に就いても、陣地もタコツボも掘ることができない。野戦の経験もない。そして、この主力部隊が出払うと、あと小禄に残るのは、据えつけた大砲を撃つこともできず、武器といっては即製の手槍だけの設営隊員しかいなくなる。《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 254-255頁より》・第32軍は5月6日に神(じん)直道航空参謀を東京に派遣することを決定した。沖縄への航空支援要請のためとされる。事後報告をうけた八原作戦参謀は戸惑う*1 。八原はあくまで沖縄戦は「本土決戦」を遅滞させる地帯作戦であり、捨て石に「本土」から援軍を期待するのは適当ではない、あるいは不可能と考えていた。・「政府に対する連絡
二、沖縄県人は支那人に似る、精神的中核なし、かつ無気力、神社仏閣極少 *2
三 軍隊に対する態度 消極的に協力
(一)軍隊が来たから我々が戦闘の渦中に入りたりとするもの、すこぶる多し
(二)学徒(防召)は駄目なり 召集しても皆自家に逃げ帰り 召集解除のやむなきに至る*3
(三)本県人のスパイ 甚だしきは落下傘にて潜入(本県人)を目撃 追跡せることあり 電話線の故意切断*4
(四)弾丸の中でも金をやらねば物資を分けてくれぬ 何を考えているか分からぬ*5
<「神日誌」第32軍参謀 陸軍中佐 神直道 (2-4 pp. 337-336)>
1952年 – 荒川放水路バラバラ殺人事件: 西新井橋から約1.7km上流、荒川放水路支流の入り江で、胴だけの男性の遺体を発見。被害者は警察官で、同年5月16日に妻が逮捕された[3]。
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1575年(天正3年4月2日) – 石山合戦: 石山本願寺の顕如が織田信長に反抗して再挙兵。石山合戦 年月日:元亀元年9月12日(1570年10月11日) – 天正8年8月2日(1580年9月10日) 場所:摂津国石山(大阪市中央区) 結果:石山本願寺と織田信長との講和 損害:石山本願寺軍 15000人強 2700人以上戦死 織田+九鬼軍 10000人中 僅少。
石山合戦(いしやまかっせん)は、元亀元年9月12日(1570年10月11日)から天正8年8月2日(1580年9月10日)にかけて行われた、浄土真宗本願寺勢力と織田信長との戦い。本願寺法主の顕如が石山本願寺に篭って戦った。
1611年(慶長16年3月28日) – 豊臣秀頼が徳川家康の招きで上洛。二条城で会見する。
1773年 – ボストン茶会事件: イギリスで茶法が成立。
1857年 – インドでインド大反乱(セポイの乱)が起こる。時 1857年5月10日 – 1859年11月1日 場所 インド(cf. 1857)[1] 発端 東インド会社による様々な行動がインド兵(セポイ)の反乱を招き、それに東インド会社による統治に不満を持っていた民衆が合流 結果 イギリスの勝利、ムガル帝国の滅亡、東インド会社による統治の終焉、英王室の直接統治によるイギリス領インド帝国成立 領土の変化 東インド会社が消滅し、イギリス領インド帝国が成立損害 :インド側(兵士+民間人) 10万〜80万人 イギリス側(兵士+民間人) 約1万〜1.5万人
インド大反乱(インドだいはんらん、英: Indian Rebellion、Sepoy Mutiny)は、1857年から1858年の間にインドで起きたイギリスの植民地支配に対する反乱、民族的抵抗運動のことである。かつては「シパーヒーの乱」、「セポイの反乱」、「セポイの乱」と呼ばれたが、反乱参加者の出身・身分が多岐にわたり、インド社会全体に広がっていた事から、最近では「インド大反乱」と呼ばれる様になっている。
これらはいずれもイギリス側の呼称であり、独立したインド側からは「第一次インド独立戦争」(India’s First War of Independence)と呼ばれている
1871年 – フランスとプロイセン王国の間で「フランクフルト講和条約」調印。普仏戦争が終結。普仏戦争:戦争:普仏戦争
年月日:1870年7月19日 – 1871年5月10日
場所:フランス、ドイツ、カリブ海
結果:プロイセン側の勝利、フランクフルト講和条約の締結 フランス第二帝政の崩壊
フランス第三共和政の成立 プロイセン王国(北ドイツ連邦)へのフランス領アルザス=ロレーヌの割譲 ドイツ統一が起こる。ドイツ帝国の成立
損害:フランス軍 90万人中 戦死28万人 捕虜47万人 ドイツ軍120万人中 戦死13万人強。
普仏戦争(ふふつせんそう、独: Deutsch-Französischer Krieg、仏: Guerre franco-allemande de 1870)は、フランス第二帝政期の1870年7月19日に起こり、1871年5月10日まで続いたフランス帝国とプロイセン王国の間で行われた戦争である。
プロイセンは北ドイツ連邦のみならず、南ドイツのバーデン大公国・ヴュルテンベルク王国・バイエルン王国と同盟を結び、フランスに圧勝した[1]。この戦争を契機に、すでに旧ドイツ連邦の解体で除外が濃厚となっていた議長国オーストリア帝国を除いたドイツ統一が達成され、フランス第二帝政は崩壊した。
1877年 – イキケ地震: Mw 8.7、死者2,400人 チリ北部で発生した巨大地震。
1945年沖縄戦5月10日-:米軍:総攻撃前夜・バックナー中将は、5月10日、今度の攻撃では、特別に変わった戦闘はない、と語って、さらにつぎのようにつけ加えた。
「今度の攻撃もこれまでの続行にすぎない。もし、ただちに占領できない陣地があれば、いつまでもそれに固執せず、幾分弱体化させてからとし、攻略は予備軍にまかせよ。弾薬は十分あり、新鋭部隊も十分で、1個師団はたえず休養をとれるぐらいいる」
攻撃命令では、地上軍が戦闘にはいるまえに、30分間にわたる予備砲撃を行うことになった。この命令はこれまでのとは違って、「敵の砲台や要塞で、それとわかっているものは、最大限の破壊をすべし」というものだった。命令がこのように変わったのは、4月19日の予備砲撃作戦で失敗したからで、全戦線に沿って地下陣地網をはりめぐらしてある日本軍にたいしては、洞窟ひとつひとつの入口は的確に攻撃することが必要であったからだ。
《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 335-336頁より》:日本軍:・… 小禄陣地にいるからこそ、20センチ砲5、15センチ砲9、12センチ砲11、25ミリ機砲64、12ミリ機銃100、7.7ミリ機銃124の銃砲弾を敵に浴びせることができるが、そこを出たら、随身兵器を持たないので、7.7ミリ機銃(小銃と同じ大きさ)を外して抱えていくだけ。おどろいたことに、スコップもないので、第一線に就いても、陣地もタコツボも掘ることができない。野戦の経験もない。そして、この主力部隊が出払うと、あと小禄に残るのは、据えつけた大砲を撃つこともできず、武器といっては即製の手槍だけの設営隊員しかいなくなる。《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 254-255頁より》・第32軍は5月6日に神(じん)直道航空参謀を東京に派遣することを決定した。沖縄への航空支援要請のためとされる。事後報告をうけた八原作戦参謀は戸惑う*1 。八原はあくまで沖縄戦は「本土決戦」を遅滞させる地帯作戦であり、捨て石に「本土」から援軍を期待するのは適当ではない、あるいは不可能と考えていた。・「政府に対する連絡
二、沖縄県人は支那人に似る、精神的中核なし、かつ無気力、神社仏閣極少 *2
三 軍隊に対する態度 消極的に協力
(一)軍隊が来たから我々が戦闘の渦中に入りたりとするもの、すこぶる多し
(二)学徒(防召)は駄目なり 召集しても皆自家に逃げ帰り 召集解除のやむなきに至る*3
(三)本県人のスパイ 甚だしきは落下傘にて潜入(本県人)を目撃 追跡せることあり 電話線の故意切断*4
(四)弾丸の中でも金をやらねば物資を分けてくれぬ 何を考えているか分からぬ*5
<「神日誌」第32軍参謀 陸軍中佐 神直道 (2-4 pp. 337-336)>
1952年 – 荒川放水路バラバラ殺人事件: 西新井橋から約1.7km上流、荒川放水路支流の入り江で、胴だけの男性の遺体を発見。被害者は警察官で、同年5月16日に妻が逮捕された[3]。
概要
1952年5月10日、東京都足立区にある荒川放水路(通称:日の丸プール)で、新聞紙にくるまれた胴体だけの男性遺体が浮かんでいるのを、近くで遊んでいた少女が発見。5日後には同じ放水路で頭部が、その翌日には両腕が発見された。
発見された頭部からモンタージュ写真が作成されると、被害者と思われる警察官の男性が捜査線上に浮上。そして、しばらく前に行方不明となっていた板橋警察署の巡査(当時28歳)とわかった。
5月17日、捜査により小学校教諭である被害者の妻(当時26歳)が事情聴取され、犯行を認めたため逮捕。妻の母親(当時51歳)も死体損壊に関わったとして逮捕された。
供述によると、酒好きで乱暴者の夫(多額の借金に加えて暴力団との交友関係があり、上司が素行を監視していたという)に常日頃から加害者である妻は暴力を振るわれており、犯行当夜も泥酔して帰宅した夫に意見したところ暴力を振るわれ、前途を悲観した妻は夫が寝入ったところを紐で絞殺。目を覚ました母親と共に遺体をバラバラにして荒川放水路に遺棄した。バラバラにしたのは遺体の処理を容易にするため。
10月(12月とする資料あり)、東京地裁において妻に懲役12年、妻の母親に懲役1年6月(4年とする資料あり)の判決が下された。ともに栃木刑務所に収監された。妻の母親は翌1953年病気のため獄死。
チャットgpt先生の5月10日のエッセイ
5月10日という日は、歴史の断面を無造作に切り取ったような一日だ。そこには一貫したテーマなどない。ただ、権力・暴力・交渉・誤算が、それぞれの時代の文脈で露出している。
戦国期の石山合戦における再挙兵は、宗教勢力と中央集権化を進める武力政権の衝突という、当時としては避けがたい構図の延長線にある。織田信長は軍事合理性を優先し、顕如は宗教共同体の存続を優先した。どちらも理念ではなく、生存戦略として動いている。講和に至ったのも、勝敗というより「持久コストの限界」が双方に来たからだ。
同じく権力の均衡をめぐる出来事として、豊臣秀頼と徳川家康の二条城会見がある。形式上は融和だが、実態は力関係の確認作業だ。ここで決定的な衝突は回避されたが、均衡はすでに崩れており、後の大坂の陣に向けた「静かな前哨戦」と見る方が現実に近い。
帝国と反乱の関係で言えば、インド大反乱は、統治コストと現地社会の摩擦が臨界点を超えた典型例だ。宗教的要因が引き金とされがちだが、実際には給与体系、昇進、文化摩擦など複合的な不満が蓄積していた。鎮圧後にイギリス東インド会社が消滅し、王室直轄に移行したのは、「企業統治では制御不能」という現実的判断だった。
欧州ではフランクフルト講和条約が結ばれ、普仏戦争が終結する。ここでも理想より計算が優先される。ドイツ統一は理念の勝利というより、軍事・外交・産業の総合力が臨界に達した結果であり、アルザス=ロレーヌの割譲は次の戦争の種を残した「未精算コスト」だった。
自然災害としてのイキケ地震は、人間の計算の外側にある出来事だが、その後の復旧や統治のあり方にはやはり政治と経済の現実が絡む。災害そのものより、対応能力の差が社会の明暗を分ける。
そして1945年の沖縄戦。ここは他と少し性質が違う。単なる「激戦」という言葉では足りない。米軍は圧倒的な物量、制空権、補給能力を持ちながら、それでも想定以上に足止めされた。理由は単純で、日本軍が戦略目標を「勝利」ではなく「時間稼ぎ」に完全に切り替えていたからだ。
地下陣地網、洞窟、分散配置、そして局地的な火力集中。これらは近代戦のセオリーから見れば非効率に見えるが、「相手の優位を相殺する」という一点では合理的だった。米軍側もこれに適応し、個別洞窟の破壊、火炎放射器、徹底した砲撃という形で戦術を修正していく。つまりここでは、両者ともに合理的に行動しているが、合理性の方向が異なるため、戦闘が長期化し、消耗が極端に増大した。
一般に語られる「物量差=短期決着」という図式が崩れた点で、この戦闘は特異だ。米軍にとっては「勝てるが、速くは勝てない」戦いであり、日本軍にとっては「負けるが、遅らせることはできる」戦いだった。結果として、戦場は兵士だけでなく住民をも巻き込んだ消耗の場となる。ここに善悪の単純な図式を当てはめると、実態を見誤る。
戦争とは、理想でも狂気でもなく、制約条件の中での意思決定の連鎖だという現実が露出している。
最後に1952年の荒川放水路バラバラ殺人事件。国家や軍ではなく、個人のレベルでも同じ構造が見える。暴力、借金、関係の破綻という条件が積み重なり、最終的に不可逆な行動に至る。ここにも「突発的狂気」ではなく、蓄積された現実の帰結がある。
5月10日を並べてみると、共通しているのは「理想より制約が勝つ瞬間」だ。宗教も国家も軍隊も個人も、それぞれの制約条件の中で最適化を試み、その結果が衝突や破局として表面化する。歴史はドラマとして語られるが、実態はむしろ計算と限界の記録に近い。

